石橋湛山『満鮮産業の印象』(東洋経済新報社、1941年)

  • 概要
  • 旅行範囲
    • 東満及び南満。虎林、佳木斯、哈爾濱、新京、奉天、及び大連を繋ぐ線から以北、以西にはではなかった。
  • 論調
    • 一見すると満洲開発批判をしているように思われるが、満洲開発そのもの自体は肯定した上で、開発を成功させるには熱に浮かされ短慮に走るのではなく、デメリットをきちんと考慮することが重要であることが説かれている。
      • (湛山の意見は満洲開発を成功させるためには妥当であり正論だが、当時の日本がこれらの政策を行うことは到底不可能であり、婉曲的に批判しているとも考えられる?)

1940年の石橋湛山満洲旅行ルート・日程

  • 4/29 東京発
  • 5/1 関釜連絡船に乗船
  • 5/3 朝鮮経済倶楽部の発会式に望む。昼、朝鮮の農家の状態の視察。
  • 5/4 京城発 夜12時過ぎ 興南へ。
  • 5/5~6 興南・長津江:興南の日本窒素の分身である朝鮮窒素の工場、長津江水電の水源地葛田。
  • 5/6 夜に城津へ。
  • 5/7 城津:日本マグネサイト化学工業株式会社、高周波重工業株式会社を見学
  • 5/8 午前3時城津を立つ。国境の南陽で汽車を乗り換え。満洲国へ入る。夜11時頃新京に着く。
  • 5/9 新京滞在
  • 5/10 吉林市と同市附近の松花江の水電工事を見学。
  • 5/11~14 新京を立ち、その後、ハルピン、牡丹江を経て佳木斯へ(南の弥栄及び千振を回る)
  • 5/14 弥栄の永豊鎮に宿泊
  • 5/15 朝早く弥栄の新潟屯を訪問。屯長の布施四郎の家で話を聞く。
  • 5/16 移民村千振訪問
  • 5/17 龍爪の開拓団本部に立ち寄る。
  • 5/18 ソ満国境の虎頭に行く 晩には東安に宿泊
  • 5/19 東安省長の御影池辰雄氏、同次長岐部與平氏等と会見。終日東安で過ごす。
  • 5/20 牡丹江に立ち寄りハルピンへ(この旅2回目)。
  • 5/21 王家屯の白系露人の集団部落を見学
  • 5/22 天理村訪問
  • 5/23 新京に戻る
  • 5/24 安東視察。 鴨緑江下流の大都市。対岸は朝鮮の新義州
  • 5/25 午前中;黒田土木庁長の案内で大東港の建設工事を見学、午後:鴨緑江の鉄橋を越え、水豊発電所の工事場を見学
  • 5/26 本渓湖:本渓湖煤鉄公司
  • 5/27 奉天鉄西区及び市中の見学、満洲証券取引所公開講座
  • 5/28 撫順:石炭の露天掘、龍鳳の大竪穴、オイルシェール工場、石炭液化工場、製鉄試験工場、満洲軽金属製造株式会社の撫順工場
  • 5/29 昼まで撫順見学、湯崗子温泉宿泊 
  • 5/30 鞍山見学:昭和製鋼所、湯崗子温泉宿泊
  • 5/31~6/4 大連:満洲化学工業、満洲石油、満洲資源館、満鉄中央試験所等の見学、旅順の戦跡廻り、果樹園見学
  • 6/4 「あじあ」で新京へ三訪
  • 6/7 朝鮮の清津へ移動
  • 6/8 三菱精錬所、朝鮮油脂工場、大日本紡工場等を見学。清津商工会議所と大日本紡で講演。
  • 6/9 朱乙温泉。
  • 6/10 茂山
  • 6/11 鉄山見学後、再び清津
  • 6/12 早朝、清津から乗船。羅津を経て日本海を渡る。
  • 6/14 朝、新潟着。

序文

  • 石橋湛山満洲旅行を通して満洲国産業に興味を抱いたようです。(しかし開発には並々ならぬ苦心を要すると評価)
    • 満洲国の産業が、農、鉱、工を通じて、斯くまで興味があるものとは、実は現地を視察するまでは、思いませんでした。特に『興味がある』と申す言葉を使つた理由は、単純に有望であると云ふたのでは、実感が現せないからであります。」(序文-2頁)
    • 満洲の産業は、想像以上に有望です。資源は確かに豊富です。併し同時に其の開発には、技術的にも、経済的にも、亦想像以上の困難が伴ふことを知りました。従つて之れが開発には、並々ならぬ苦心を要します。若し此の苦心に成功すれば、満洲は東亜の大宝庫たるを疑ひません。併し此の大宝庫は、謂はば謎を解くに等しく、工夫無しには開けません。満洲の産業の開発は、それだけに亦働き甲斐のある仕事です。私は茲に深甚の興味を感じました。」(序文-2頁)
  • 満洲に土地なし」の弁明
    • 「〔……〕折角の御注意ながら、それを其の儘受け容れるわけには参らぬ事項も幾つかありました。私の見解に依れば、それは却つて注意者の誤りであり、或は私の報告を読み違えた為めであると考へられたからであります。殊に私が『満洲に土地なし』と申したことには、沢山のお小言がありました。又中には私の報告を以て、満洲に対する悲観論を述べたものと見られた方もあります。併し此等はいづれも此の報告を善く御読み下さらなかつたからだと存じます。〔……〕私は実は、北海道農法の移入で、果して満洲の農業は充分満足し得べきものなりや否やに、未だ疑問を抱く者であります。又私が満洲に土地無しと申すのは、必ずしも満洲に地面無しと云ふのではなく、も少し含蓄のある気持ちです。」(序論4-6頁)
  • 島木健作満洲紀行』について
    • 「私の満洲旅行中、恰度其の頃出版された島木健作氏の『満洲紀行』が諸所で問題になり、非難されてゐるのを聞きました。それで私も新京で其の一冊を買い求めて読みました。然るに私の読んだ所では、島木氏の此の著は、満洲の農業に絶大の同情を寄せ、其の立場から其の欠点を指摘し、改良案を示唆してゐる通り、昨年以来北海道農法を移入し、茲に満洲の新農業を造り上げんと努力してゐるのであります。然るに其の著が、何うして、あんなに評判が悪かつたか。多分其等の満洲の読者は、此の書が従来の満洲農業の欠点を赤裸々に指摘した点だけに目をつけて、静かに著述全体の趣旨を玩味する余裕を持たなかつたからでありませう。」(序文-5頁)

本編

碧蹄面官山里より満蘇国境虎頭まで

  • 満洲国入国 北東朝鮮ルート
    • 「〔……〕愈よ8日(引用者註-5月8日)の午前3時すぎ、城津を立つて国境の南陽で、汽車を乗り換え、満洲国に入りました。新京に着いたのは夜の11時頃でありました。」(28頁)
  • 間島省朝鮮人の入植
    • 「〔……〕汽車が国境を越え、間島省に入りますと、様子が著しく変わります。間島省は、人口の8割までが朝鮮人と言はれてをります。殆ど朝鮮人が占領して居ると申して善いでありませう。水田が盛に耕されて居るのをみました。」(30-31頁)
  • 満洲に土地無し
    • 「成る程満洲と云ふ所は、まだまだ容易に耕地を開く余地が幾らでもあるなと感じました。併し之れは少しく早呑み込みに過ぎました。満洲には実は左様の土地はありませぬ。苟も耕作に適す所は、山のてっ辺まで耕して居ると云ふのが、満洲の実情のようであります。我々が見て、沢山の土地が残つてゐると思う処は、大抵は湿地です。或はアルカリ地帯です。其の儘では耕作が出来ない場所です。後で申上げますが、日本の開拓民も、大部分は既に満人が耕作してゐた土地を買つて、入植したもののようであります。さう云ふ訳で、満洲の土地に幾らでもまだ余りがあると思つたのは、満洲を知らないからの誤でありました。満人及び朝鮮人の農夫が土地に入り込む力は素晴らしいもので、先程申しましたような匪賊根絶の為に清掃伐採をやつた跡、或は日本の開拓民のために特に開いたような場所でも、苟も耕し得る場所には、直ぐに入り込んで来るさうであります。而して一度入り込んだら、なかなか追い出すことは出来ないと云つて、当局者がこぼしているのを聞きました。従つて満洲には、日本開拓民が入植して、直ちに農業に従事し得る如き未耕地は案外乏しい。少なくも交通の便の存する場所には、先づ殆ど無いのであります。此の事は、尚ほ後に至つて、詳しく述べようと思ひます。が、私は実は新京に行つて、開拓庁の当局から此の事実を聞かされて驚いたのであります。」(32-33頁)
  • 石橋湛山満洲国に対する肯定的な評価
    • 「早くから開けて、治安も固まつてゐる地方は、元来土地も良いのでありませうが、又治安の良いことが、生産力を高め、住民の生活を豊かにしたものと存じます。此の意味に於て、満洲国が成立し、治安が著しく善くなつたことは、それだけでも、住民に大いなる幸を与えることだと考へます。」(34頁)
  • 市と満洲国の吉林市産業政策の矛盾~吉林市は観光産業、満洲国は吉林を電力開発~
    • 「〔……〕吉林の市と講演等をちよつと見物致しましたが、之れは満洲でも最も古く開けた都会の一つで、周囲の風光は日本に近く、松花江では鵜飼の遊びも出来ます。市の当局者は大に宣伝して、満洲の観光都市にしたい、何うか日本から多くの人に来て貰ひたいと希望して居りました。併し此の市には、松花江の電力が完成しますと大きな工業地帯が出来るわけで、大体満洲国の計画では、此処に化学工業を持つて来る考へと聞きました。後で申します鴨緑江の水電では、之れに対して大体機械工業、金属工業を起こす計画のようであります。」(36頁)
  • 観光資源化される弥栄と千振
    • 「弥栄は、以前は永豊鎮と云ふ小さな支那部落でありましたが。そこに日本の第一次開拓団が、昭和8年の2月から3月に掛けて入植し、現在に至つたのであります。千振は第二次開拓民でありまして、弥栄よりも稍や遅れて、8年の7月に入植したのであります。〔……〕現在我が満洲開拓民は第9次まで入植してをりますが、此の二つは、其のパイオニヤーでありますので、多くの人が見にも行き、日本開拓民と云へば、先づ弥栄、千振を問題にするわけであります。」(37-38頁)
  • 弥栄村新潟屯の開拓民:布施さんの事例
    • 「以上の人数(※引用者註-布施家:主人、細君、4歳と2歳の子ども、16歳の姪、定雇の満人2名)で、仕事と云へば、水田を2町5段作つて居る。畑は作つて居りません。弥栄では、開拓民1戸当り大体10町歩の土地が割り当てられてをりますが、布施さんの家では其の内2町半だけで自分で水田を耕作し、残りの畑は満人に小作させてゐるのであります。小作料は1町歩1年35円乃至40円だと申します。」(39頁) 
    • 「併し布施さんは、実は行つて見るまでは、私の全く思い設けなかつた仕事を、其の外にしてをられました。それは弥栄正宗といふ酒を醸造してゐることであります。之れは同じ新潟屯に居る友人の吉原と云ふ人と共同経営だそうで、造石高は只今百石だと申されました。翌日千振へ行きますと、茲でも新潟屯で、千振正宗と云ふのを造つてゐると聞きました。併し之れは個人経営でなく、屯営だとの話でありました。此の辺に弥栄と千振との相違が一寸窺はれるようにも思ひましたが、兎に角此の布施さんのやり振りは、日本で考へるような単純な農家でなく、頗る企業的だと申せませう。而して之れが弥栄や千振で、現在成功してゐる人たちの大体の傾向ではないかと考へます。」(39-40頁) 
  • 満洲在来農法の模倣
    • 満拓総裁は日本の農法で満洲農業は成り立つと言った。
      • 「いつか坪上満拓総裁が、東京の経済倶楽部で講演をせられた時に、私は疑問を出したことを記憶して居ります。日本の農民を満洲に植付けると云はれるが、私には、日本の農家が従来営んでゐるままの農業を持つて行つて、満洲で成功し得るとは思へない。そこを当局者は何う考へてをるかと云ふ訳であります。これに対して坪上さんは、大体日本の在来農のままで宜しいように言はれてゐたかと記憶致します。今度満洲に私が行つて見たいと思ひました一つの問題は之れであります。」(40頁)
    • 開拓民は満洲在来農法の模倣をしていたに過ぎなかった。
      • 「ところが実際に見た結果は全く意外でありました。日本の農民は、日本の農業をやつて居りません。それなら何うしてゐるかと申しますと、満洲在来の農業を其の儘に真似て居るのであります。即ち在来満人の使つてゐた儘の農具を用ひ、満人がやつて居た儘に馬を使ひ、満人通りの農業を営んでゐるのであります。之れでは、折角満洲に日本開拓民が入りましても、少なくも農業上には余り寄与する所がないように思はれます。のみならず恐らく日本人の方が、満人よりも能率が低いでせう。」(41頁)
    • 満洲在来農法を行えば日本人の方が満人よりも能率が低いことは開拓庁も認めている。
      • 「新京の開拓庁で聞いた所に依りますと、日本人は、今のやり方では大体1件の農家で3町位ゐしか耕作が出来ない、満人は5町位ゐとのことでありました。農家1軒と云ふても、家族の多少や、雇人をするかしないか等で違ひますから、ハツキリ致しませんが、兎に角日本人の方が能率が低いと云ふことは、開拓庁でも認めてゐるのであります。ある本に依りますと、満人の農業者は一人大体2町8段耕すのが1人前だとなつてゐるが、日本人は1人で5段しか耕せない、ともあります。之れは男1人で、満洲馬を2頭使うとしての勘定だと云ふことであります。数字的に確かな事はわかりませぬが、兎に角今まで満洲人がやつて居た儘の農業をやつてゐて、彼等以上の能率をあげられさうのないことは、想像に余りがあります。」(42頁)
  • 開拓民の寄生地主
    • 「そこで一番安全なのは、自作は余り多く雇人をせずに済む程度に止め、残りの土地は小作に出すことです。小作料は1町歩1年35円か40円で、僅かではありますが、併し確実に入つて来る。けれどもそれでは一家の生計を支へ、且つ入植の為めに借りた資金を返済すると云ふわけには行きません。」(44頁)
    • 「そこで前に申した如く、醸造業を兼営すると云ふような工夫が必要になります。又弥栄の如きには、村の所有地の中に大森林があるさうで、冬期には農馬を利用して此の材木を運搬する。それで費用を除き1戸3、4百円の収入があるとも云ひます。甚だしいのは、耕地は全部小作に出し、自分は駅付近に住まつて、大工とか佐官とか或は村の吏員とか云ふ全く他の職業に従事してゐる人もあると聞きました。併し斯んなのは、無論開拓農民の趣旨に反するもので、政府当局者としては何とかして自家営力で、割当てられた耕地が全部自作出来るように指導したいと、只今頻りに努力してゐる様子でありました。」(44頁)
  • 北海道農法の移入
    • 「〔……〕何と云ふても、一番大切な事は、日本農業者の満洲に於ける農業方法を確立することであります。第一次開拓民が入植して、既に10年近くにならうとしてゐるのでありますが、今日未だ此の方法が出来てをりません。〔……〕満人の農業を真似てゐるようなことでは到底駄目だと考へます。そこで開拓庁でも、此の事を考へて、近頃北海道の農業の研究を始めました。私共は見ませんでしたが、弥栄の附近には、十勝から或篤農家を招いて、昨年から試験的な農場を開きました。其の他全満に亙つて、同じ様に北海道農業の試験場が10箇所、即ち全て合せて11箇所出来ました。〔……〕併し私共が満洲に参りました5月頃には、降雨の関係等から考へて、果して北海道農法が満洲に適すか何うかは、まだ疑問で、専門家の中には反対な議論もあると申してをりました。〔……〕満洲の開拓には、日本の多くの専門家が、始めから関与し、開拓農民の移植も行つたのであります。然るに何うして今頃になつて、漸く北海道農法を移入するなどと云ふ間誤つきかたをしたのでありませう。私達素人から見ると甚だ解し難く感じます。そこには何か思想的にも根本的な考へ誤りがあつたのではないかと存じます。」(49-51頁)
  • 満洲の日本開拓民の2種類
    • 「元来満洲の日本開拓農民には、集団開拓農民と集合開拓農民との2種があります。集団開拓農民と云ふのは、日本政府及び満洲国政府の一定の計画に従いまして、政府の任命した団長の下に、日本の各道府県から募集した農民を一団に組織し、政府の定めた土地に入植する者であります。集合の方は、満洲に移住する希望を有する者が、其の発意に依りて自由に集り、自分で団長を作り、土地も亦政府の許可を得て、好きな場所を選択して入植する者であります。一団の人数も、此の方は少くても差支へありません。其の代り集団開拓民には、政府の保護が手厚いが、集合開拓民にはそれが薄いのであります。併し補助は矢張出しています。」(57頁)
    • 「斯う云ふわけで、集合開拓民の方は、自分の好きな団長の下に、好きな人たちと共に、好きな土地を選んで行けると云ふので、近来は之れの希望者が頗る多いと云ふことであります。満洲国としてはどちらでも宜いから、多くの人に来て欲しい。昨年の如きは、集合開拓農民の方は、7千人の応募者があつた。所が拓務省は何う云ふ訳か、それを3千人に減らしてしまつて、許可をしないと云ふので、満洲国側では、不服のように聞きました。」(58頁)
    • 「〔……〕弥栄、千振、龍爪等は、いづれも集団開拓農民に属すのであります。然るに天理村は、私共の見た中の唯一の集合開拓農民でありまして、而かも天理教団の事業として、天理教徒を以て一村を組織し経営してゐる所に、一の大なる特色があります。」(58頁)
  • 企業的な集合開拓民「天理村」
    • 「天理村は〔……〕集合開拓民として、昭和9年に此処に入植を致した。〔……〕其の経営は非常に企業的であります。哈爾濱の直ぐ隣に三裸樹と云ふ駅がありますが、そこから天理村まで15.4キロの軽便鉄道があります。天理軽便鉄道と云ふのでありまして、資本金20万円。天理村の為に、天理教団が経営しているのであります。〔……〕此処の特色は、種々なる蔬菜を出してゐることであります。〔……〕ハルピンと云ふ大都市を附近に控へてをりますので、蔬菜や西瓜に成功したものと存じます。天理西瓜と云ふと、ハルピンの名物です。」(59-61頁)。
  • 王家屯の露人集団部落
    • 「〔……〕ハルピンの郊外で、王家屯と云ふ処に或る白系露人の集団部落を見ました。之れは満鉄が東支鉄道を引継いだ白系露人の従業員を保護し、且つその特技である家畜の飼養をさせる目的で作つた露人副業組合の仕事の一つであります。」(62-63頁)。
  • 他の民族の農家と比較した際の日本農家の生活水準の低さ
    • 「〔……〕我が農家の生活ぶりは余り善くありません。例へば、幾ら満洲は道路が悪いに致しましても、自分の家の周囲位ゐは、少しく注意すれば、雨が降つてもぬからぬだけの整理は出来ます。併し之れもやつてゐない家が多いように思へます。室の中の整頓も悪い。装飾の如きは殆ど無い。一言にして無趣味であり、乱雑であります。此の点では、前に申した朝鮮の農家にさへ遥に劣ると思はれます。これは日本内地の農家が既に左様でありますから、それが其の儘満洲に移されてゐるわけと思ひます。併し他人のゐない内地なら兎に角、多数の異民族の中に於て、而かも其のリーダーたるべき責任を有する場合には、大いに反省する問題だと存じます。」(65-67頁)
  • 満ソ国境見学 虎頭からソ連のイマンを見る
    • 「〔……〕東部満ソ国境に沿うた鉄道は、現在は此の地が終点であります。即ち鉄道で行ける限りの、之れが満洲の東部の端であります。我々は茲で満ソ国境の状況を見ようと云ふのであります。」(72頁)
    • 「虎頭は、興凱湖から流れ出すウスリー江に臨む満人町で、人口は2千5、6百程度のものでありませう。河幅は見た所幾らもない。それでも、2、3百メートルはあるのだと云ふことですが、兎に角、其の河一筋を隔てて向側はソ連なのであります。ウスリー江の支流のイマン江が、恰度虎頭の目の前で、ソ連の方から出て来て合流してをります。」(72頁)
  • 虎頭の満人はイマンを見てソ連の優位性を信じているため北満の開発が急がれる。
    • 「〔……〕此の虎頭の住民は、勿論大部分が満人であります。彼等は、以前は自由にウスリー江を渡り、イマンの町にも行つたものである。従つてソ連側の様子を善く知つてゐる。遥にこちら側から眺めても、イマンは相当整つた町らしいが、それを満人等は行つて見てゐる。又夜になると、イマンの町には、あかあかと電気がつく。それが当方から善く見えます。虎頭の方は満洲国になつてから、まだ数年にしかならない。汽車こそ漸く昭和12年末に通じたが、都市の設備の如きは、勿論イマンには及ばない。〔……〕兎に角全ての施設が、満人の目には向ふの方が良いように見える。そこで彼等の頭には、何うもまだ満洲国の力を信ぜず、ソ連の方が偉いのではないかと云ふ観念が抜け切らないようだと云ふことでありました。之れは、成程、さうありそうな話です。〔……〕斯う云ふ満人の感じも、決して無視してはならないと存じます。従来全く文化的に放擲さられてゐた北満方面は、容易ならぬ仕事でありますが、此の際急速に開発し、ソ連などに劣らぬだけの施設を整へぬと、民心安定の上にも工合が悪いと考えます。」(74-75頁)

魔都ハルピンより新興大東港まで

  • 堕落したハルピンの日本人
    • 「〔……〕ハルピンが、世界的に有名なのは、茲が亦東洋に於ける国際的歓楽都市の一つだと云ふことであります。案内書には、ハルピンは東洋の巴里と称されると記してあるのもあります。〔……〕今日でも、茲は相当の歓楽都市たる面目を備へてゐるように見受けました。私共も、夜稍やおそくファンターヂヤと云ふ大きなキャバレーに案内されましたが成る程盛んなものであります。併し昔のハルピンを知つてゐる人は異口同音に、近年日本人が多数に入り込んでから、此の方面のハルピンは全く台無しだと申します。哈爾濱興信所が出してゐる『北満事情』の中の哈爾濱観光案内を見ると「何もかもが、一時は国際都市とか北の魔都とか云はれたハルピンが、薄つぺらなアメリカニズムの不消化そのものみたいな日本色に、夜のハルピンをも包みつつあるのが現実の姿である。」と、慨歎口調で記してあります。これが、多くのハルピン愛好者が、一様に抱く感想のようです。」(88頁)
    • 「例えば右のファンターヂヤにしても、以前は全く紳士淑女の遊楽場で、上品だつた。演ぜられる音楽にしても、舞踏にしても、一流のものだつた。ところが、此の頃は、其等の高級な音楽や舞妓は皆上海あたりに逃げてしまつて、後には以前裸踊りをしてゐたような連中が舞台に立つてゐる。全く下品になつたと云ふのであります。〔……〕成る程言はれて見れば、茲は決して上等のキャバレーだとは思へませんでした。〔……〕今日の此の有様が、日本人の文化と教養との高いことを示すものではないことも明かです。ハルピン人から見たら、確かに一の堕落と思はれませう。」(88-89頁)
  • 海外に根付かせるためには贅沢な暮らしを支えることが重要
    • 「日本に来てゐる外国人を見ても、多くは其のようですが、海外に出ている彼等は一般に贅沢な暮らしを致してゐます。それでなければ、長く外国にはゐられないでありませう。私は満洲に於ても、日本人を茲に居付かせ、根を張らせようと思ふなら、此の点に大いに注意を払わねばならぬと思ひます。之れが、我が国民を海外に発展せしめる一要諦だと考へます。此の頃の我が国には、何でも精神主義が尊まれますが、之れは頗る結構な事です。併し真の精神主義は、決して狭量な禁欲主義と混同してはなりません。」(96頁)
  • 満洲土地問題
    • 土地バブル
      • 「〔……〕近年の満洲には随分激しい土地熱が起こつてゐるようです。熱病患者は無論日本人でありまして、彼等は満洲大いに有望なりと見て、至る処に土地を買つてゐるのです。これは必ずしも見当違いの考ではありません。併し後に申さうと思ひますが、、それは非常に長い目で見ての話しです。決してここ1年や2年で何うにもなるものではありません。のみならず満洲で、若し事業を起こさうとするなら、技術の上にも、経営の上にも、十分の研究を要し、且つ相当大きな資本を固定する覚悟が無ければなりますまい。然るに我が国人中には、そんな用意も無く、兎に角満洲はこれから発展するのだと云ふので、思惑的に土地を買ひに行つてゐる者も少なくないように思ひます。」(101頁)
    • 土地転売
      • 「〔……〕折角骨を折つて都市を造つても、其の土地が段々満人の手に移る傾向が現れてきた〔……〕初めは全て日本人が買ふのですが、それが追々転売されて、遂に満人の所有に帰すものがあるのです。之れは曾つて大連でも起こつた事でありました。要するに日本人は真当の覚悟が無くして、唯だ飛び付いて行くものですから、長く持ち切れずに、斯う云ふ結果を来すのであります。」(102頁)
    • 開拓民の農地が小作に出されているのも根本は同じ問題。
      • 「私は、此の現象は、都市に於てばかりでなく、若し売買が自由なら、農業地に於ても起こり得る事と存じます。現に開拓民は、前に申した如く、少なからぬ土地を自分では耕しきれずに、満人に小作に出してをります。これは既に耕作権の移転であります。或は又自分で耕作してゐる者でも、其の経営が長く思はしくない時は、結局耕作を続け得ないことになりませう。満洲国政府は、茲に見る所があつてでせう。開拓民に土地の割当ては致しますが、其の所有権を認めてをりません。従つて開拓民は、自由に土地を譲渡することは出来ません。けれども、斯ふ云ふ制度は、果して長く維持し得るでありませうか。開拓民は、土地の所有権も無い有様では、気持が落ちつかないと云ふてをります。実際彼等としては、さうであらうと察します。けれども所有権を与えたら、土地が何うなるかわからない。此の矛盾を如何にして解きますか。これが、都会に於ても農村の於ても、共通の問題だと考へます。」(102-103頁)
  • 満人商人に駆逐される日本人商人
    • 「〔……〕それにしても日本人さへ、満人の商人を便利とし、そこに集まつて行く傾向の強いことがわかります。之れは鞍山ばかりでありません。至る処で、満人の商売上手の話を聞かされました。日露戦後我が国は南満に大なる特権を獲たのですが、経済的には満鉄関係の事業の外は、余り発展しませんでした。一時は商人も相当進出したようでしたが、それも次第に今日の満人、当時の支那商人の為めに駆逐せられました。然るにそれと同様の傾向が、早くも再び、新たな満洲国に起こり始めてゐるのであります。之れは何う云ふわけですか。深く我々の考へねばならぬ問題だと存じます。」(105頁)
満鮮国境、満洲国-関東州国境、内鮮国境
  • 満鮮国境問題① 鴨緑江における国境線の衝突
    • 「我々に関係ある国境問題と云へば、満洲ソ連との間のそれの外には無いものと考へてをりました。然るに今度の旅行で、鮮満の間にも国境問題がある、而かもそれが相当激烈な争ひになつてゐることを知つて驚きました。安東で聞いた所に依りますと、鴨緑江は、日露戦後の取り極めで、河の全部が朝鮮即ち日本に属すことになつてゐるのださうです。普通に河を国境とする場合は、其の中流が境になるもののようですが、鴨緑江は少し違ひます。河の中の島は勿論、水面は総て朝鮮の物ださうです。ですから今日、新たな満洲国が出来てからでも、満洲側の者は鴨緑江で漁業を営むことは出来ない。又目下工事中の大東港の前には、前に掲げた地図にも見える如く、島があります。之は勿論朝鮮ですから、満洲国としては、此の島に手を付け得ません。併し此の島の大東港に面する岸には、造れば港が出来るわけです。実際問題として、大東港としては此の所に施設がしたいのだそうです。さうしなければ不便である。のみならず、それが鴨緑江を全体として、最も善く利用する道だと云ふのです。然るに朝鮮では、それを許さない。更に甚だしい事には、水は朝鮮の物であるから、大東港には流してやらないなどと云ふ問題さへも起こつた。為に朝鮮と、大東港の建設当局者との間には、面白からぬ衝突が屡々あつた。そして問題はまだ真当に解決せられてをらない。斯様に安東市の或有力者は私共に話して呉れました。」(115-116頁)
  • 満鮮国境問題② 満洲から朝鮮の新義州に至る鴨緑江鉄橋での税関調査
    • 「鮮満の国境に於て、誰でも感ずる厄介な問題の一つは、税関でありませう。〔……〕我々は水豊ダムを見る為に、自動車で鴨緑江の橋を渡り、朝鮮側の新義州に出たのですが、その橋の袂に税関がございます。私共は、此の税関で煙草を調べられました。私の煙草のケースには、たまたま煙草が13本入って居りましたが、其の中3本は取上げられました。要するに1人につき、10本以上は国境を越えて煙草を持ち込むことは許されないのです。〔……〕後で聞きますと、此の橋は長さが幾らもなく、徒歩で容易に往来が出来ますので朝鮮人なり満人なりは、1日に幾回でも渡つて煙草の密輸をやる。そこで斯様に、税関が厳重なのだと云ふことでした。当局者の立場からすれば、勿論理由のあることだらうと存じます。併し左様な悪意の無い我々には、甚だ厄介な事だと感じました。」(117-119頁)
  • 関東州は満洲国ではない(満洲国からの日本の租借地)
    • 満洲国の切手が使えなかった件
      • 「〔……〕大連に参りまして〔……〕満洲国の切手を張つて、郵便を出したのです。然るに大連は満洲国ではない。日本の郵便切手でなければ郵便を出してはならぬと知つて、驚いたのであります。我々は今日、内地から大連に手紙を出すのに、何うかすれば満洲国大連市と書きかねないほど、関東州と満洲国とを一つのものに考へてをります。迂闊と云へば迂闊です。併し茲に来て、郵便切手が相互に融通しないなどとは、如何にも不自然に感じました。」(121頁)
    • 関東州は密貿易の根拠地
      • 「関東州が、依然として日本の租借地であり、満洲国として分立してゐることが、如何に満洲国に取つて不自然で、不便であるかと云ふことは、私共が新京に着くなり、或座談会で直ちに聞かされた苦情でありました。極論する人は、関東州は密貿易の根拠地で、満洲国の経済統制を破壊する元凶茲に在りと云ふほどに言ふてをりしました。関東州と満洲国とは、相互に相当善く行政上の打合せも行はれ、連絡決して不円滑なりとは申せぬように聞きます。併し何と申しても、二つの国であつて、別々の組織の下に政治が行はれてゐるのですから、其の間に種々なる行き違ひや不便の生ずるのも亦免れ難い数でありませう。関東州と満洲国との関係を、いつまでも現在の形に残して置くか何うかは、簡単に今論じかねる問題でありますが、我が大陸政策の上から申しても、今後の最も大なる案件の一だらうと存じます。」(121-122頁)
  • 日本海ルート批判 ~関釜連絡船に比べて厳しい税関~
    • 「〔……〕北鮮に出て、清津、茂山等を見学し、6月12日の早朝清津から乗船し、羅津を経て、日本海を渡り、6月14日の朝新潟港に着いたのであります。ところが此の羅津には、税関がありまして、其の官吏が船に乗ります。又新潟県の警察からの人ださうですが、警官も3人ばかり乗って居ります。税関の官吏は、羅津から乗つて新潟まで行き、更に船が新潟を立つて羅津に戻る時、其の船に乗つて帰るのです。警官も新潟朝鮮間を往復するのです。そして航海中、税官吏は乗客の荷物を、警官は乗客の身分やら、旅行の目的やらを調べます。我々も勿論其の調べを受けました。警官の方は、東海道線に乗つても、折々移動警察の人に出会ひますので寧ろ驚きませんでしたが、税関の方は一寸意外に感じました。我々は、往復ともに満鮮国境の図們で税関の調べを受けました。税官吏が汽車中に入つて来て、一々我々の荷物を開き、通関の判を捺して呉れるのです。私共は、それでもう税関の御厄介になることはないと思つてゐたのです。と云ふわけは、関釜連絡船で、朝鮮に往復する場合には、さうした税関の調べがあるように思へないからであります。2年ばかり前に、飛行機で、京城まで往復した際には、京城と福岡との飛行場に税関がありました。併し之れも朝鮮内地間の旅客に対する調べは、殆ど無いのに等しいものでした。」(123-124頁)
    • 「〔……〕朝鮮と内地との間に税関があるのは、当然でありまして、之れに驚くのは、驚く者の迂闊です。併し実際に旅客の受ける感じは何うかと申しますと、以上にも述べた如く、関釜連絡船で往復する場合には、全く税関の存在を意識致しません。〔……〕朝鮮と内地との交通路は、関釜連絡船でのコースを仮に表玄関とするならば、清津、羅津、新潟コースは裏玄関とも申せませう。朝鮮の工業地帯たる北鮮と内地との交通路としては、寧ろ此の日本海ルートの方が表と云はねばなりますまい。少くも東京地方と北鮮との関係では左様になります。然れば此の2つの通路とも、同様の取扱いを致してゐるのならば、まだ筋が立ちますが、関釜連絡の方では、勿論、旅客の書類を一々調べるなど云ふことはありません。日本海を渡る者だけ、何うして斯うも厳重にしなければならないのか、我々には全く理解出来ないことに思ひます。」(125-126頁)

再び旅行の順路に戻つて 本渓湖・奉天・撫順・処々

  • 石橋湛山漱石の「満韓ところどころ」を面白くないとコメント
    • 「湯崗子は満洲には稀な温泉地の一つで、撫順から大連に向かつて行くと、鞍山を通り過ぎた一つ隣の駅で、駅から真つ直ぐに楊柳の並木の道がある。其の突当りに温泉ホテルがあります。歩いて4、5分の道のりです。茲には明治42年夏目漱石も来たことがある。其の折の紀行が、彼の「満韓ところどころ」の中にあると、湯崗子で聞きまして、帰ってきて早速読んで見ましたが、これは一向面白くありませんでした。併し当時の湯崗子が非常に寂しい処で、風呂まで行くのに、一町も原の中を歩かねばならなかつたことがことがわかりました。今日の湯崗子は、無論そんな事はなく、ホテルもなかなか立派であります。風呂は無論ホテルの中にあります。併し決して、賑かではありません。駅からホテルの間は、一寸公園風に出来てをりまして、池があり、樹木が茂り、其の間に、元は矢張り此のホテルの一部だつたとか聞きますが、陸軍の病院があります。其の外に一寸古雅な支那風の建物があります。之れもホテルだとか申しました。蛙が盛んに鳴いてをりました。至つて静かな、気持ちの好い処でありました。」
  • 満洲に未利用耕地など無い
    • 「〔……〕満洲にも耕地は意外に有りません。有りませんと申して、勿論満洲の面積が狭い筈はないのですが、併し前にも申した如く、現状に於て苟も耕作に適する場所は、今までに殆ど開かれてしまつて、既に残りが少ないと云ふことです。之れは多くの人の、恐らく信じ得ない所でありませう。私も実は満洲に行つて見て、開拓総局等で実情を聞くまでは、さうは想像してゐなかつたのであります。ですから満洲に居住してゐる人でも、往々にして土地は幾らでもあるように思つてゐる人があります。〔……〕新京の開拓総局で聞いた所に依りますと、今後特別の土地改良を要せずして、直ちに日本人が入植し得る未耕地は、まとまつたものとしては百万町歩程度の見込みだと云ふことでありました。仮りに百万町歩だとすれば、一戸平均10町歩を割当てるとして、10万戸分しかありません。満洲としては、余り広いものだとは云へぬでせう。満洲国の出来た頃には、日本人が簡単に入植し得る未耕地が、少くも5百万町歩あると考へられてゐたのださうですが、それは調査のなかつた為めの誤算だつたようであります。而かも私の察する所では、斯様な残存地は、果して此の通りの面積はあるとしても、条件は決して良い所ではありますまい。あの満人と朝鮮人の農業者が、さもなければ今日まで之れを棄てて置く筈はないからであります。」(177-179頁)
  • 満洲農業の稚拙さ 肥料が要る!
    • 「〔……〕満洲の農業に於て注意すべきは、これも前に日本の開拓団に就て申上げた際触れました如く、農耕法の甚だ幼稚な事であります。現在既に耕作せられてゐる土地は、産業大臣官房からの文書にもあります通り、昨年は約9千万ヘクターと云はれ、我国の耕地面積の三倍以上であります。然るに其の農業収入は甚だ少なく、金額にして我が国の農業総収入の十分の一位であらうと申します。ところが満人は、僅かに土糞と称する堆肥様の物を少しばかり土地に入れるだけで、耕作を続けますので、段々地力が衰へて、大豆の如きさへ、20年前よりも却て、現在は収穫量が減つてゐるさうであります。之れも大陸科学院の鈴木博士の御話であります。従つて此の儘では、耕地を殖しても、満洲の農産物を増産することはむづかしい。満洲では、肥料無しに農業が出来ると云ふのは、満人の農業を見ての話です。それでは実は充分の収穫を挙げることは出来ないのです。」(180-181頁)
  • 満洲開発について
    • 資本投下
      • 「〔……〕満洲又は北鮮に於ても、開発し得る資源は確かに存在します。併し之れは昔の経済学の言葉で申せば、土地資本労力の三要素の中、所謂土地だけが見付かつたといふ状態です。それに更に資本と労力とを入れなければ、「土地」は有効の働きを致しません。之れが今後の問題だと存じます。〔……〕電力は、唯だ之れを開発しただけでは、何の役にも立ちません。此の電力を利用して生産を行ふ工場が同時に出来なければならぬ。工場で生産を行ふには、其の製品を運び出したり、或はそこに原料等を運び込む鉄道、港湾、船舶などが亦必要です。斯様に考へて参りますと、満洲の資源を開発するには、一体何れ程の資本を要しますか。一寸われわれには勘定出来ません。兎に角莫大な金額に上ることは明かであります。」(183-184頁)
    • 外資導入
      • 「北米合衆国は、今日世界で最も富んだ国と云はれ、其の貿易は、年々輸出超過であります。けれども此の米国も、1789年から1873年まで〔……〕毎年殆ど輸入超過でありました。其の主なる原因は、矢張米国の国土を開発する為めには、巨額の資本を要し、それを満洲から借りたからであります。無論何れの国でも、外国から借金をせずに、開発をすることも出来ます。併しそれでは年月を要します。早く国の資源を利用し富まそうとするならば、是非借金が必要である。私は満洲も同様の政策を取らねばならないと思ひます。〔……〕日本では甚だ気が短く、もう満洲も開発資金を自弁したら宜からうとか、或は物資を大いに日本によこすようにならないか、などと申しますが、そんな事で何うして満洲が生長出来ますか。」(186頁)
    • 資本だけ入れても事業は有利ではない
      • 「〔……〕満洲には天然資源が豊富であります。唯だそれを開発するのには非常に多くの資本が要ります。之れは覚悟しなければなりません。が茲に問題は、それなら満洲の産業は、資本を入れさへすれば、容易に有利に発展させ得るかと云ふことであります。之れも私は、満洲で率直に話して来たのでありますが、満洲の産業は、我が国や、又満洲で、一般に考へてゐるように、決してそんなに有利ではありません。将来は確かに有望だと考へますが、差詰めとしては、相当不利な点があることを、十分に認識して掛からないと、飛んだ間違いを生ずるだらうと思ふのであります。」(187頁)
      • 「例えば鉄に致しましても〔……〕大体外国の技術を借りて来てゐるのでありますし、使用してゐる機械類も、目ぼしい物は外国製が多いと云ふ有様です。新しい直接製鉄法の如きは、つい近頃まで外国人を雇つて来て、其の指導を受けてさへをつたのであります。従つて資本も余計に掛かるでありませう。其の資本の中には、新産業を物にするのに必然免れない無駄も生ずるものと考へなければなりません」(191頁)
      • 「農業に就ても同様であります。前に農業開拓団に就て申しました如く、満洲には、まだ茲に適する新しい農業技術が生まれをりません。在来の満洲の方法では、最早満洲の農業は行詰まりですし、日本の農民を移植することも困難です。而かも土地は何うかと云ふと、之れも前に申した如く、現状では矢張行詰つてをります。新たな土地を開発するのには、之れ亦莫大な資本と優秀な技術とを要します。」(191-192頁)
      • 「更に大きな問題は交通機関です。〔……〕此の交通機関の整備には、容易ならぬ金が掛りませう。併し之れを整備しなければ、産業も発達しなければ、国防上にも危険だ。是れは尋常一様な方法を以て満洲の開発は出来ないと云ふ感を強く抱きました。」(192頁)
    • 安くない労働賃金
      • 満洲の産業が、必ずしも有利でない理由は、又労働力が豊富でない点に求められます。〔……〕大体の様子を伺つて見ますと、先づ平均6ヶ月、悪ければ、3、4ヶ月で、折角高い費用をかけて募集してきた労働者が出替りするといふのが、真相でありませう。或大会社では、此の事を率直に認め、仮令自分の処には居付かずとも、斯うして費用を掛けて労働者を連れて来るのも、国家への御奉公の一つだと考へてゐると云ふてゐました。」(193-195頁)
    • 労働の質が悪い
      • 「斯様に労働賃金は安くありませんが、其の上に労働の質が悪いといふ難点のあることも亦忘れてはなりません。〔……〕数の観念が乏しくて、1から10までは数へられるけれども、その先になると判らなくなる者が大多数である。従つて数を必要とする仕事には使へない。賃金は、表面上から安くても、能率の点から云ふと、内地の女工とは較べ物にならない。」(196頁)
  • 覚悟や認識、理解が不足している人が満洲に行っても損害となるだけ
    • 「〔……〕満洲で事業を起さうとする者は、余程覚悟を定めて掛らなければなりません。満洲に行けば、簡単に一儲けが出来るなどと考へたら大間違ひです。之れは商業でも同様でせう。満人を向かふに廻して競争をしなければならぬような商売でしたら、殊に容易でありません。ところが何うも日本人には、此認識が未だ十分でないように思わはれます。そこで、前に申した如く、諸所に土地熱が現れるような事が起る。そして其の土地を結局日本人は持ち切れずに、満洲人が買ひ込むと云ふような、不思議な現象を呈するのです。私は決して満洲或は北鮮を悪く言ふ為めに、斯んな事を申すのではありません。有利な点も不利な点も、公平に十分考へて、其の上で算盤を立て掛るのでありませんと、折角仕事を始めても、うまく行きません。其の結果は、仕事を始めた者が存在を被るばかりでなく、やがては日本人全体の発展を妨げ、満鮮の開拓も不成功に終らせる危険を伴ふのであります。私は寧ろ左様な満鮮の不利な事情を十分理解しないような人は、出かけて行つて呉れない方が、現地の為めでも、日本の為めでもあると考へます。」(196-197頁)
  • 日本が満洲国に無利子の外資を投下せよ!
    • 「斯様に満洲には資本は乏しい。税金も余り取れない。併しそれでも満洲を、時間的に急いで開発する必要がないのならば、前にも申した如く、やり様はあります。年々国内で超弁し得る限りの資本と政府の収入とで、ゆつくり開発して参れば宜しいのです。けれども、それでは満洲国としても満足が出来ないでありませうし、日本も困りませう。いろいろの点から考へて、満洲国の開発は、急速力で行はれなけれればならないと信じます。とすると、茲に是非とも特別の処置が必要だと云ふことになります。併し特別の処置と云ふても、別段数奇な方法はあるとも思へません。所詮は外国資本を輸入して、其の助けをかりて、開発を急ぐ外はありますまい。茲に外国と申す中には、勿論日本も含みます。将来は兎に角、私は爰当分は、外国資本と申しても、日本の資本を入れる外には、妙策はあるまいと思います。」(201-202頁)
    • 「そこで私は満洲国の急速な開発を行ふ為には、利子の付かない-或は付いても無利子に近い-外資が必要だと感じました。それが無ければ満洲の発達は遅れる。併しそんな資本を、何れの外国からも供給して呉れる筈はありませんから、若しそれが何うしても必要だと云ふのなら、日本が之れを引受けるより外はありません。つまり日本は、満洲国の開発を急速に行ふ必要があるか何うか。私は其の必要が痛切だと考へますが、若しさうなら我が国は其の覚悟で、無利子か、或は無利子に近い低利の資本を大に満洲国に注ぎ込む手段を講じなければなりません。其の方法は、日本政府が国内で国債を募集し、利子は政府が負担して、満洲国に転貸すれば善いのです。私は此の事を、我が政府と国民とに、強く進言したいのです。万一我が政府と国民とが、それは嫌やだと云ふならば、満洲国の開発は遅れます。而して其の開発が遅れることは、やがて日満一体と云ふことにも支障を生ずる危険があるが、それでも善いかと申したいのです。要するに若し日本が満洲を必要だとするならば、日本は、それだけの負担を辞してはならぬと深く感じて、満洲を見て参つた次第であります。」(205-206頁)
  • 開発には満人も使え!石橋湛山の唱える五族協和
    • 「〔……〕斯様に数の多い満人を無視し、或は其の力を借りずして、満洲開発の目的を達し難いことも明白です。茲に如何に其の力を借るべきかの問題が起こるわけです。〔……〕我々は満人を日本人の尺度で律してはなりません。それでは満人の力を十分に借りることは、恐らく不可能でせう。従つて満洲国の開発に満足な結果を収めることも困難でせう。」(215-216頁)
    • 満洲に於ける満人の仕事としては、農業が最も大きなものであります。之れは将来に於ても、先づ変わらない所だらうと考へます。ところが今満洲国の当路者は、日本開拓民の入植には非常な努力を続けていますが、3千万人を以て数へる満人の農業を利用して、国策に寄与させる方法に就ては、果して何れだけの注意を払つてゐるでせう。日本開拓民の入植には、別個の意義目的がありますから、之れも勿論大に促進する必要がありませう。併し満洲の農産を殖し、国の収入を増すと云ふ方から申せば、満人の農業を佐官にすることが捷径です。而して此の満人農家の懐に飛び込み、彼らに喜んで農産の増殖を行はせる方法は、商取引と云ふことを立前にして行けば、さう難しい事とは思ひませんが、何んなものでせう。而して斯くする事こそ、亦所謂五族協和の理想を達成する捷径と考へますが、何うでせうか。」(218-219頁)