満洲国の旅行記や記録文を読んでいると移民視察が一種の観光行動となっていることが分かる。
それ故、満洲移民の時系列を調べて年表を作成している。
満洲国の成立と試験移民
第二次若槻内閣
- 1931.9.18満洲事変
犬養毅内閣
- 1932.1 関東軍、「満蒙二於ケル法制及経済政策諮問会議」
- 「1932年1月15日から29日にかけて関東軍統治のもと、満洲国建国後の諸政策を検討する「満蒙二於ケル法制及経済政策諮問会議」が開催され、26日には諮問会議の一委員会である産業諮問委員会において、移民問題が取り上げられた〔……〕関東軍統治部では二月になって政策の優先順位を示すことになったが、財政経済政策では満洲国建国前に早急に着手すべき事業として、「移民土地ノ選定及獲得」「屯田計画ノ進行」「土地制度ノ規定」といった移民関連事業が挙げられ、建国後には移民会社の設立と移民訓練所の完備が列記された。〔……〕ここに関東軍にとって移民政策が最優先されることになり、同月中には、日本政府・満鉄・民間出費による移民会社を窓口にした普通移民と北満への屯田兵制移民の二本柱からなる「移民方策案」と「日本人移民案要綱」「屯田兵制移民案要綱」が作成されたのである。(加藤聖文『満蒙開拓団 虚妄の「日満一体」』岩波現代全書、2017年、18-20頁)
- 1932.3.1満洲国建国
斎藤実内閣
- 1932.6.14 衆議院、 満洲国承認の 決議を 満場一致で 可決。
- 1932.8.30 第63臨時議会で移民案を実現するための第一次満洲移民に関する予算案が通過
- 1932.9.15 日満議定書(満洲国承認)
- 1932.10.3 第1次試験移民(弥栄)
- 「〔……〕満洲移民はそれぞれの個人や組織の政治的思惑が異なるなかで、まず関東軍と拓務省が連携し、それを陸軍中央が追認、さらに在郷軍人会が積極的に後押しするかたちで軍事色の強い試験的な武装移民になり、1932年8月16日には移民案を実現するための第一次満洲移民に関する予算案を第63臨時議会へ提出することが閣議決定され、30日には議会を通過、これを受けて拓務省と陸軍省とのあいだで移民団送出に関して緊密な連携が図られることになった〔……〕そして9月1日に募集が開始され…5月に締め切って10日には…各訓練所で3週間の訓練を経て、10月3日に第一次試験移民として423人が満洲の最初の入植地となる佳木斯へ渡った。」(加藤聖文『満蒙開拓団 虚妄の「日満一体」』岩波現代全書、2017年、31頁)
- 1933.3.1 満洲国「満洲国経済建設要綱」公表→日満経済ブロック形成と経済の国家統制を掲げる。
- 1933.7.5 第二次試験移民(千振)
- 1934.2 矢内原忠雄が『満洲問題』(岩波書店、1934.2)で「満洲農業移民不可能論」を展開
- 「〔……〕1930年代初頭までは、「満洲農業移民不可能論」が一般的な常識であった…これを理論的に整理したのが矢内原忠雄だった。彼は、『満洲問題』(1934年)のなかで、満洲移民問題を取り上げ、満洲農業移民の成否の鍵は「経済的条件」いかんにあるとした。彼は、「自給自足的経営」を行えば、満洲移民は成功すると主張する「満洲農業移民可能論」に対して、「農家は自給自足的と言っても、貨幣経済を無視して一切の商品に就き自給自足の原則を固執する如きは勿論不可能である」と述べ、貨幣経済を前提とした場合、生活水準が高い日本人農業移民が生産する農産物の生産価格は、それより相対的に低い在満中国人農民のそれと市場で競合することはできない、したがって高度の技術と膨大な資本投下なくして、満洲農業移民を実施しても成功しない、と論じ、「不可能論」を展開したのである。」(小林英夫『<満洲>の歴史』講談社現代新書、2008 186-187頁)
- 1934.3 土竜山事件→日本の土地収奪に対する反発
満洲移民の国策移民化
岡田啓介内閣
- 1934.11 関東軍特務部「対満農業移民会議」、「満洲農業移民根本方策案」を策定 満州移民が国策移民として定義される。
- 1934.12.16 対満事務局の設置(関東軍と陸軍が主導権を掌握)
- 1935.3.23 ソ連、中東鉄道を満洲国へ売却 → 北満移民の必要性が急務となる。
- 1935.8.1 石原莞爾が参謀本部第一部第二課長(作戦担当)に着任。総力戦体制構築に向けた日満一体の産業開発計画の立案を進める。
- 1935.8.12 満洲国移民政策を主導してきた統制派の永田鉄山が斬殺される。→移民政策が迷走し始める。
- 「〔……〕移民政策の主導権を握っていた陸軍内部では大きな動揺が起きていた。拓務省による海外拓殖委員会が設置され、特別委員会で移民政策の具体化が図られていた最中の8月12日、統制派リーダーの永田鉄山が、対立する皇道派の相沢三郎中佐に陸軍省内で殺害されるという前代未聞の事件が突発する。〔……〕永田にとって満洲国の産業化と資源開発は、日本の高度国防国家に不可欠とされたが、農業生産の拡大による食糧供給基地化もそのなかの一部であった。また、石原莞爾の腹心で満洲産業開発のブレーンであった宮崎正義(満鉄経済調査委員会)も、移民は生産拡大を担うものとして重視しており、やがて満洲産業開発五か年計画を支える重要な要素として位置づけられるのである。しかし、永田は特別委員会の答申が出されて満洲移民政策が本格化する前に殺害されていた。もともと満洲移民政策は、拓務省の省益拡大という思惑と加藤完治ら農村問題解決に熱心な者たちの近視眼的な動機から開始され、やがて関東軍・陸軍の対ソ軍事戦略と中長期的な総力戦構想に取り込まれて本格化していった。そして、それを主導してきたのは永田であった。しかし、永田という戦略の司令塔を失った陸軍も中長期的視野を欠くようになり、移民政策の迷走が始まるのである。」(加藤聖文『満蒙開拓団 虚妄の「日満一体」』岩波現代全書、2017年、92-93頁)
- 1935.12 第68通常議会 1936年度予算(本格的移民団1000戸送出の予算)、議会通過
広田弘毅内閣
- 1936.8.10 「満洲国第二期経済建設要綱」が決定→日満両国の国策として移民政策が強力に推進されることとなる。
- 1936.8.11 広田弘毅内閣の七大国策の6策目として「二十カ年百万戸送出計画」が確定する。
- 1936.9 青少年義勇軍の草案「在満日本人の在満軍隊への徴収及び召集を容易且便益」する方策
- 「義勇軍計画の初発は、1936年9月、満洲事変時の関東軍参謀で当時は陸軍省軍務局にいた片倉衷少佐が満洲国を視察した後に報告書を作成、そのなかで徴兵適齢前の青少年を移民とし、将来的に現地徴収の途を取るべきとの意見を開陳したことから始まる。〔……〕当時の日本の兵役制度では本籍地の聯隊に入営するのが基本であった。当時、満洲国には国籍がなく移民は日本国籍のままであった。そのため、満洲国に入植した移民も本籍地で徴兵検査を受け、召集令状を受ければ本籍地の聯隊に入営した。関東軍としては、満洲の兵力を補いたくても辺地の日本人移民を直接召集することはできなかったのである。有事の際に迅速な大量動員ができないのであれば大量移民の意味はない。そこで現地召集の検討を始め、片倉が渡満して調査を行ったといえる。そして、片倉は、徴兵前の青年を入植させ、現地で徴兵検査を受け、関東軍指揮下の現地部隊に直接入営させる方策が適切であると判断したのである。」(加藤聖文『満蒙開拓団 虚妄の「日満一体」』岩波現代全書、2017年、149頁)
- 1936.11 上記(1936.8.10)「満洲国第二期経済建設要綱」が「満州産業開発五カ年計画」として具体化される(翌年開始)
日中戦争と移民不足
第一次近衛内閣
- 1937.7.7 日中戦争勃発 → 移民の人材が足りなくなる。
- 1937.9 石原莞爾、日中戦争不拡大を唱え参謀本部内で孤立、関東軍参謀副長に左遷される(東条と対立し翌38年罷免)。
- 「1937年9月、日中戦争不拡大を唱えたものの戦争拡大阻止に失敗し、参謀本部内で孤立した第一部長の石原莞爾が関東軍参謀副長に「左遷」された。満洲国を総力戦体制構築の要と位置づけていた石原にとって、日中戦争満洲国の産業開発計画を狂わすものでしかなかった。そのため盧溝橋事件勃発後の戦争拡大の阻止を図ったが、部下は彼の指示に従わず拡大に突き進んでいった。〔……〕満洲開拓政策基本要綱が策定される過程は、移民政策実現に大きな影響を与えてきた石原が政治の表舞台から去る過程とも重なり、開拓政策は本来の意図も目標も見失ったまま誰も止められなくなる起点ともなった。」(加藤聖文『満蒙開拓団 虚妄の「日満一体」』岩波現代全書、2017年、165-167頁)
- 1937.11.3 「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」が提出される。
- 1937.11.30 「満州に対する青少年移民送出に関する件」閣議決定
- 1937.12 「満州青年移民実施要項」を作成
- 1938 青少年義勇軍の送出開始
阿部信行内閣
- 1939.12 「満洲開拓政策基本要綱」発表
戦争の拡大と対ソ戦のための満洲移民
第二次近衛内閣
東条英機内閣
- 1944.2 新京で「第二回開拓全体会議」が開催。産業合理化によって転廃業を余儀なくされた中小商工業者と空襲に備えて建物疎開を受けた者を開拓民とすることを強調。
- 「1944年2月、新京で「第二回開拓全体会議」が開催された。この会議では、これまで行っている分村開拓民送出以外に「企業整備並都市疎開二伴フ大陸帰農開拓民二一層重点ヲ指向スル」と、産業合理化によって転廃業を余儀なくされた中小商工業者と空襲に備えて建物疎開を受けた者を対象として、彼らを開拓民とすることが強調されていた。1944年段階になると、一般農民よりも戦時下で基盤を失った者たちを開拓民として選びだそうとしていたのである。さらに興味深いことに、「関東州内並国内ノ日本内地人帰農開拓民、都市疎開開拓民(以上イズレモ仮称)都市人口疎開、義勇隊現地募集二就テモ漸次之ヲ制度化スル様考慮」と満洲国と関東州に在住する日本人(開拓民ではなく、都市部に居住していた市民)の満洲国内での開拓民化も計画していたことが注目される。」(加藤聖文『満蒙開拓団 虚妄の「日満一体」』岩波現代全書、2017年、187頁)