【史料】観光客・旅行者から見る満洲国新京市

満洲国新京市については既に論文の草稿を報告した。

h30shimotsuki14.hatenablog.com

 その時の指導教授のコメントは、満洲国における現地住民の活動にクローズアップせよというものであった。このことは研究室訪問をした際に、研究計画書を見てもらった時から終始一貫して言われていることである。教授は、満洲国において現地住民が日本人の経営する諸施設(デパートや満鉄など)を利用していることを実証することの重要性を強調していた。
 以上により、新京における現地住民の行動に関する史料を整理する必要があったのだが、今回ようやく手に着けることができた。今回は満洲国新京における現地住民の活動を主としてまだ扱っていない史料を整理した。この史料を加えて、第2章の新京編を修正する予定である。

新京概観

京商埠地

外国人、日本人、満人の大商店が集中

「商埠地区域に入つた。俄かに活気を覚えた。人馬の来往恰も織るが如しで各国各種の人間が思い思いの服装である。外国人の商館商估も、日本人や満人の大商店も集中して大なる市場を成してゐる。道路も整ひ交通網も行届いてビジネス・センターとしては米国ロシアンゼルス市よりも殷賑であると思つた。日本総領事館も此処に在るとの事である。百万国都の商業中心としてまだまだ膨張するであらう。日本商人の進出する余裕が綽々として備へられてゐる。」
新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938、142頁

日本人も多く住む

「商埠地は北門外と満鉄附属地との間に設けられて居る。城郭がないため城内と商埠地の限界は明かではないが、三馬路の稍南方を以て境とし、煉瓦造の立派な商店が櫛比して、非常に明るい気分のする街で、日本人も多く住んでゐる。」
杉山佐七『観て来た満鮮』、日本商業教育会、1935、190-191頁

寛城子

新京におけるロシア人居住地域

「一体に此都には露西亜色が濃厚に支那色と混じ漂つてゐる様に思はれる。それは強ち気候の影響ばかりでは無く、地を接してゐる関係から露西亜かぶれのした所もあるのであらう。其癖市街に露西亜人を見ることが少ない。但し一里許り北方の寛城子へ行くと露人が多く、赤い煉瓦の露西亜家屋の庭に、白樺の続いた長い林の道に、バスケットを掲げたり、林檎を皮の儘かぢつたりしてゐるロシア(ママ)女がゐて、頭には赤や白の布を巻き付けてゐる。男は—所謂白系の露人は—顔を真赤にして馬を御したり、果物の店を開いたり、或いは立ん坊生活をしてゐるのが異様である。之れが長春から新京と改名した都会である。」
渡辺房吉『満洲から朝鮮へ』、自費、1933、60-61頁

観光と新京

国都新京と戦争の記憶

「〔……〕其昔長春時代より現在に至るまで都市としての変遷に伴ひ、大和民族の血涙が注がれている観光地であることを忘れてはならぬ。日露戦役の古史は未だしも、満洲創国の裏面には寛城子の苦闘と貴き犠牲あり、将又南陽の激選・肉弾攻略あり、孰れも、歩みを現状に停むとき涙なくして、参拝せざるものはない、また国都新京の雄々しき建設と其の建築物の広大にして郷土色あり文化色ある建物のどれもが、観光の対象とならぬものはない」
杉村大造『満支へ気ままの旅へ』箱館経済協会、1939、45頁

関東軍司令部

「〔……〕関東軍司令部の異様な姿がある。上部は古代の天守閣の優美を備へ、下部は洋風の現代的な堅牢なものである。思ふに東西文化の特有性を採つた事であらふ。而かも堂々たる威容は他を圧せずんば止まぬ一種の権威である。此処に郷土出身の東条英機中将が参謀長として全満の国情の脈拍を診断してゐるであらう。脱帽の礼を捧げて通過した。」
新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938、142頁

新京観光協会

「特に我の注目を引きたるは、観光協会の活動である、日本国際協会の建物二階を利用し、且新京交通株式会社の観光バスと相提携し、観光バス巡覧券の発売及案内を業務とする外、満蒙研究案内に専門家を聘して能く此等の旅行者のよき説明相手となつてゐる殊に新京土産品陳列を兼ねて販売の業務をも掌つて旅行者に百パーセントの満足を供すると共に土産品の向上発展に資せるは、誠に理想的といはねばならぬ、尤も観光協会は、特に新京駅前の地の利を得たるものありと雖も、其の着眼点は確かに観光そのものの真意義をキャッチし、能く利用したものといふべきである。近時観光施設に対して、非常時局の折柄兎角放任になり勝ちなるも、こは観光そのものを今尚昔ながらの遊山気分とのみ誤認せるの結果であつて、真の観光こそ国の姿の顕はしである。その郷土の姿の顕はしである」
杉村大造『満支へ気ままの旅へ』箱館経済協会、1939、46頁

新京の「食」

「〔……〕大馬路の鹿鳴春へ赴いた。鹿鳴春は新京一流の満洲料理店で、見たところ店の構や設備も今迄になく立派で品位があり、サービスも中々行届いて居り、出された満洲料理はその粋を極め、此れに加へて料理の甘さ(ママ)は此度びの旅行中で口にした中で特別のものだつた。」
森田福市『満鮮視察記』自費、1938、168-169頁

交通インフラ

新京と馬車

「〔……〕悠長な馬車が悠長な客をのせて右に行き、左に折れる。空馬車は轍をとめたり、歩をゆるめたりして行人を物色しながら行く。垢染みた法衣を着た御者の手には、長い紐をつけた細い鞭が握られてゐる。私は此の馬車に乗つて見たい誘惑にそそられてたまらないので、或る日一行が懇談会に臨んでゐる一時間を利して、町の端れまで試乗した。ビシッと軽く当てられた鞭を合図に、戞々と頭に快い蹄の音を感じ乍ら、大路小路を曲折し、商埠地や城内までも普く歩き廻つた。此馬車の幾台となく行き交ひ連り合ふ様は、確に満洲市街の一風景を特色づけてゐる」
渡辺房吉『満洲から朝鮮へ』、自費、1933、60頁

新京と現地住民(満人)

旧附属地の西公園を満人も利用する

「〔……〕附属地の西公園は十万以上もあり満洲第一を誇つてゐます。満人は概して公園を愛するのか、その気分を好むのか、入場者は満人が多く、彼等は唯何とはなしに花を眺め或いは小鳥を眺めて楽しんでゐます。この公園に続いて新京の忠霊塔が聳え、又関東軍司令部憲兵隊の大建築があたりを威圧してゐます。」
石川敬介『満洲をのぞく』カニヤ書店、1937、19-20頁

満鉄汽車内 吉林から新京に向かう

「〔……〕日中の三等車内も私には目新しいものであつた。私は好んでこれに乗つたのであるが、予て想像したやうに、彼の地の人々の風俗習慣を窺うには良い機会である。内地でもさうであるが、二等車の人は皆すましてゐて隣席の人と話をするなどといふことはめつたにないが、それに引きかへて三等車はなかなか賑やかである。満洲の三等車もこれと同様で、話をする声、笑い声があちこちに聞える。列車の停車する毎に相当に乗降客がある。さうして冷房装置のあるアジヤ号(内地の富士、つばめに相当する)などに乗る人々とは自ら異ることは想像できる。私の前に居た50歳位の男が私に煙草を1本くれた私は敬意を払つてそれを貰つて吸つた。私の横向に居た15、6歳の少女は母親と同車してゐたが、煙草を吸はうとしたがマツチがなかつたらしい、やおら立つて私の傍へ来て火をくれいといふ。私はマツチを出して与へた。やがて火をつけ会釈して去つた。なかなか馴れた態度である。車内がにんにく臭いのと不潔なのには閉口した。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部 1941、17-18頁

新京銀座 売買しているのが非日本人

「夕食を終へると女中が「新京銀座」でも散歩しては如何ですかと言つた。私は其の新京銀座といふはどの方向か、そこへ行くには……と尋ねた。旅館を出て教へられた方向へ行つて見た。ちやうど神田の神保町の夜店と云つた感じがした。ただ道路が広くていろいろ変わったものが出てゐる。また売ってゐる人、買つてゐる人が日本人でないところが私には面白かつた。」
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、1941、24-25頁

満人街とお芝居

新民戯院

「新京の名物は馬車と洋車(人力車)である。牧畜国の満洲人はよく馬を御す。かくて何千頭或いは万を越ゆるかと思はれる馬が、二頭曳きとなつて1キロ10銭で客を乗せ、市中を洋車と共に織るごとく走るのである。洋車も同じ位の値段である。新京は、馬の蹄の音に明けると言つてもよい。満洲の情緒を知るには、いはゆる満人街を漫歩するがよい。新民戯院といふので芝居を見た。ハヤシは間断なく鐘を鳴らし胡弓をひいて、騒々しい限りのものであつた。劇はお家騒動風のもので、殿様が御殿を留守にして遊び廻つてゐるうちに敵が難題を持ち込み家老が苦労する。結局、敵の大将と家老が戦ふことになるのだが、その立廻りはなかなか面白く、情痴の場面なども歌劇風な科白が綿々たるものがあつた。」
白鳥省吾『詩と随筆の旅:満支戦線』、地平社、1943、68頁

支那芝居

「初めて観る支那芝居の面白さ、何よりたまげた事は幕間のない事である。お昼頃から始まるものらしいが、それがひつきりなしに舞台を踏んでゐる。後から後から文字通りの、のべつ幕なしに演ずるのだ。〔……〕舞台は日本の歌舞伎と同じやうに思はれる。高潮に達すれば見物は拍手もするし、泣き笑ひもする。言葉はわからなくとも大抵想像はつくもので見てゐるとやつぱり面白い。二人でやる獅子の所作事のやうなものも出たが、身ぶりそぶりは日本の舞台にも似てゐる。がその伴奏がこれは又、何とまあやかましいことだらう。せりふも何も消されてわからないのである。」
鷲尾よし子『和平来々 : 満支紀行』、牧書房 1941、163-164頁

京城内と商店

「城内の浅草のやうな処である。大きいデパートには支那繻子やほしいものが沢山あつた裏道のやうな満人街にはもう12時なのに、焼豚をつるした店などはさかんに脂臭い匂ひを発散させて、紅々と灯をともし立ち食ひのお客が一ぱいにゐた。」
鷲尾よし子『和平来々 : 満支紀行』、牧書房 1941、164頁

新京の歓楽街

満人妓楼

満洲では一流芸者屋を「書館」二流を「班」女郎屋を「堂」と称すのだと云ふ、班、堂は先づ意味が通ずるように思ふが、書館に至つてはその語源を想像するに苦しむ。新京には事変後、ダイヤ街とかに一大不夜城を現出し、日鮮満色とりどりの堂やら班が櫛比してゐる〔……〕」
志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938、98頁

長春浴地

「〔……〕新京には「長春浴地」と号する別天地がある〔……〕称号通り浴場だが、各部屋箇別に浴槽があり、相手はSでもPでもなく純粋?の満洲娘だと云ふのである。〔……〕言葉が通じぬから総て筆談でゆく「汝の営業を問ふ」「吾れ××公司印書係なり」などとやる〔……〕浴中に喃々するも可、湯上りの浅酌低唱も結構、いつ来ていつ帰らうと格別の制限もなし、それでベリ、チープだと云ふのだから極めて採算がよい〔……〕」
志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938、99頁

長春浴地

「風呂はこの春飯店の向ひ側にある「長春浴地」までゆかねばならない。コノ浴地もまた大きなもので新京の名所の一つであらう。風呂はロシヤ式のもので琿春の一吊風呂によく似てゐる。二人づつの部屋から、一人きりの部屋があり、寝台までもうけてある。浴しては休み、やすんではまた浴するといつた調子でドコまでも支那式である。この浴地には理髪所から娯楽室までがあつて、一日中をたのしくこの中で遊べるやうに出来てゐる。バスにつかつて、ながながと旅のつかれを休めてゐるというとついうとうととねむくなる。窓のむかふは低い屋根つづきで、ところどころに緑の樹木が見えるばかりだ。〔……〕口笛をふきながら僕は30分あまり、コノ小さい部屋で遊んだ。浴後のビールはとても甘い。となりの部屋からはクーニヤンの唄ふ声がする。蛇味線と胡引のふるひる音色が交錯して、料亭気分を満喫させる。僕たちの部屋へもコノ賑やかな気分を植えつけようといふので早速クーニヤンが二人呼ばれた。支那服にまとつた彼女たちは立つたままでオ客にサービスをするのだ。」
四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自費、1934、77-79頁

夜の新京情緒

「〔……〕夜の新京情緒を見学に出かけた。夜の新京として先づ第一に眼につくのは新京銀座を中心に日本橋通、三笠町の夜店、五族協和の色とりどりに夏の夜は殊の外涼しいとの事である。東1条、東2条のネオン街に続く所謂ダイヤ街は事変後新しく浮び出た不夜城で新検番があるとの事、三笠町の表通り、裏通り一帯は日鮮満の賑やかな花街で殊に満洲情緒を満喫出来るのは、東3条から以南東4条へかけでであつて新京一流の書館(満洲では一流の芸妓屋は何々「書館」或いは「下処」二流のそれは班、女郎屋は「堂」と呼ぶ)も見受けられる処のよし、我々の一路車を飛ばして駆け付けたのもこの辺りだつたらしい。我々には珍しい構の家と楚々たる満洲美人の群を一通り見学して、マアチヨウにゆられながら旅館へ帰つた。」
森田福市『満鮮視察記』自費、1938、167-168頁

新京の露西亜人キャバレー「インペリアル」と紀元2600年

「〔……〕イムペリアルとかいふ露西亜人のキヤバレへ行く。バンドは頻りと、「紀元は2600年……」といふ日本の歌を奏してゐる。キヤバレの露西亜娘は、まるで教養も教育もなく、そして無頼のお人好し振りを発揮する。いかにも19世紀の露西亜人らしくて哀れな気がする。生まれは大抵上海からハルピンか、たまに向うで生れたと云ふ年増がゐても、ウラルとかポーランドとか云つた具合で、モスクワのことなどは何も知らない」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』明石書房、1942、239-240頁

京の花街 開埠街

「 この日本市街に相対してつらなる開埠地は、支那人の建設にかかる欧米風のモーダン街である。ここの壮麗さときたらまた格別で、支那趣味の洋館がズラリと並んでゐる。城壁をなくした城内は旅行者をして珍しがらせるに充分な支那風を、いまでも残してゐる。新京の花街は開埠街にある。
広壮な二階、三階建の妓楼が大通りに面して、ポツリポツリとある。重い扉を押して中に入ると細い廊下が続く。つきあたりの正面には大きな鏡があつて、直前から進む自分の姿をうつし出してくれるのにはチヨツトてれる。大鏡の両側に二つの入り口がある。一足ふみこむとモウモウたる煙がたちこめて、電燈の光りが紫色に変色させられてゐる市場のやうだ。そして素見客がウロウロとこの広間を往つたり来たり、あるひはたたずんだりしてゐる。
果物だとか、パンを売つてゐる小さい売店もこの中に設けられてあるのだから、日本内地では見られぬ場面である。
 白、赤、桃色、あるひは藍色の上衣に身をやつしたクーニヤン(芸妓=女郎のこと)が何百人となくたちさはいでいる。すでにオ客を得て自室におさまつてゐるもあれば、一生懸命になつて約束した情人をさがしまはつてゐるのもある。そしてこの広間は公然と客と彼女たちの取引場でもあるのだ。
 広間の四方は、いくつもの小間にしきられて、部屋の入口にはうすいカーテンがおろされてゐる。
 これがクーニヤンの居間であり、日本でいへばつまり花魁の部屋といふことになるのだが、小間は6畳ぐらいで寝台をとり、応接間も設けて簡単なアパートのやうなかたに出来てゐる。泊る必要のない客は、唯オ茶をのんで彼女たちと雑談をかはしておればよいわけ……。
 だからコノ部屋へ通つて、一杯の支那茶に旅のつれづれをなぐさめるのもまた一興であらう。」
四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自費、1934、77-79頁

一流カフエー・双葉

日本橋通の一流カフエー・双葉は、待合建である。高い坂塀がこひで、飛石づたひに植えこみの中をくぐるとやうやくにして入口である。静子、てる子、かず子なんてあふれた名だが、いづれも凄いばかりの美人給与。内地で旅行中の「赤城の子守唄」をレコード唄つてゐる。酔つぱらつた日本人が女給相手に、あやしげなステツプをふんでゐる。おどるといふよりも、女と抱擁してゐたいのが男のつねなのかもしれない。レコードが止まりそうなまでの大きな爆笑がおこる。夜の11時から、このカフエーは騒々しくなる。ハルビンのカフエーも面白いが、ここもまたナカナカ妙なことをやりをる。オールナイト、10円から15円といひば大抵の人にわかるであらう。ときによると「妾だつて満洲にまで来て稼いでいる女よ!!どうあつても今夜は返さない!!」と語尾をソプラノーでつつぱなす勇敢なのがゐる。」
四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自費、1934、116頁

新京キヤバレーモデルン

「キヤバレー・モデルンは、ほとんどの客は支那人である。ここのロシヤ御喃の踊りと来たら、それこそ、まつたくなつとらん。踊り場の中はクリーム色で、分教場の教室のやうだ。上手なのか、下手なのかわからないが、馬鹿に速い舞踏曲が、すき間なく奏でられる。-モウ少しおそいといいのだがナア……といへば、オ金をやつて下さいと女がいふ。ここでは、酒場とオーケストラは分立してゐるので、楽隊の請負であるといふのだからふるつているではないか。」
四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自費、1934、117頁