【レポート】満洲国の観光について 第二章 「観光から見る新京」

はじめに

 第二章からは各都市における観光者の旅行行動及び観光者の視点から見た都市の様相を見て行く。新京における観光の特徴として、観光事業者側は日本が建築した近代的建築群を観光資源とし、観光者に見せようとしていた。しかしながら観光者は、それらの観光資源を見つつも、現地住民が形成した商埠地を訪れたり、現地住民の文化施設を見学したりしていた。また、現地住民たちも日本側の諸施設を利用していたことが、観光者の視線から読み取ることが出来る。

第一節 新京の観光資源 日本による近代的建築群

 新京の観光資源として特徴的なものが、日本が新京に建設した近代的建築群である。。
碧空を戴つて櫛比する高楼の偉観、アスファルト、タールマカダムに舗装されて縦横に展開する街衙の豪壮を見る時、誰が果して之が茫洋たる内蒙の一旗地「長春」だつだのだと考へることが出来ませうか。〔……〕日に新しく日に進む国都新京の颯爽たる姿こそは、大満洲帝国建設の革新的表象であり、人類創造史に驚異的頁を加へるものと謂ふ可きです。巨大なる高層建築物、坦々たる三線式道路、完備せる交通機関凡ゆる近代的都市施設をもつ新京は、一方又、古都長春の名残を幾多止めてゐます。近代と古代、新しきものと古きものとの美を渾然調和の裡に包含してゐるのが五族協和の国都に適はしい魅力でありませう。【注1】
満洲国以前、新京は長春と呼ばれており駅周辺に満鉄附属地がある程度に過ぎなかった。しかし、満洲国が建国され首都に選定されると都市開発が行われた。特に執政(後皇帝)溥儀の新宮殿が南面するエリアには大通りと諸官衙が形成された。結局、新宮殿は完成しなかったのだが、それら近代的都市建設が観光資源として大々的にピックアップされたのである。
 また近代的建築群の中で威容を放っていたのが、関東軍司令部である。この施設は満洲国支配の象徴的意味あいもあり、城郭のようなデザインで作られ、周囲を圧倒していた。観光資源としては戦跡と並んで需要な地位を占めており「児玉公園の南に道路を距ててお城風の厳然たる建物こそ吾が関東軍司令部並に駐満日本大使館である。【注2】 」、「先づ中央大街の康徳会館、海上ビル、中央銀行、東拓ビルをはじめ、国務院、財政部、経済部、蒙政部、市公署等々の建築物の壮観に打たれた。中にも関東軍司令部の建物は巍然として、我が大阪城名古屋城にも劣らぬ位の堂々たる威容である。【注3】 」などと紹介されている。
 以上のように、新京は日本によって新たに建築された近代的な都市であるというイメージで売り出されており、その支配の象徴としての関東軍司令部ということを観光者に知らしめたかったと言えよう。

第二節 新京における観光者の旅行行動

 第一節で見たように、観光事業者側は日本による満洲国の近代化というイメージで新京を現出したが、観光者たちは、実際にどのような旅行行動を取ったのであろうか。観光者たちは勿論、戦跡や近代的建築群を訪れた。しかし観光者たちはモデルコース以外にも様々な地域・施設を訪れていたのである。

二-一 商埠地

 新京においては、まず商埠地が挙げられる。商埠地は現地住民が満鉄附属地に対抗して建設した近代的欧風都市である。観光者のまなざしからは以下の様に表現されている。
  商埠地区域に入つた。俄かに活気を覚えた。人馬の来往恰も織るが如しで各国各種の人間が思い思いの服装である。外国人の商館商估も、日本人や満人の大商店も集中して大なる市場を成してゐる。道路も整ひ交通網も行届いてビジネス・センターとしては米国ロシアンゼルス市よりも殷賑であると思つた。日本総領事館も此処に在るとの事である。百万国都の商業中心としてまだまだ膨張するであらう【注4】 。
観光バスのモデルコースにおいて、商埠地はバスが通るルートに組み込まれている。しかし、それは溥儀の仮宮殿を見学するためであり、実際に都市空間を見学するわけではなかった。新京では近代的都市建築を成したのは日本のおかげであるというストーリーが作られていたが、近代的都市建設を行ったのは日本人だけではなかった。現地住民たちの手によっても近代的都市がつくられていたのである。そしてここに観光者のモデルコースからの逸脱が起こる。観光者たちはお仕着せのコースでは通らない商埠地を訪問していたのだ。彼等の目線からは、商埠地における多様な人種の混交が見られる。満洲国の都市は、日本人と現地住民で分断されてお互いが没交渉だったのではなく、お互いに交流が見られたのだ。

二-二 新民戯院

また観光者は満洲で現地住民の文化を体験することも求めていた。新京では現地住民の文化として芝居が良く見られており、現地住民の芝居施設である新民戯院を訪れている。  
初めて観る支那芝居の面白さ、何よりたまげた事は幕間のない事である。お昼頃から始まるものらしいが、それがひつきりなしに舞台を踏んでゐる。後から後から文字通りの、のべつ幕なしに演ずるのだ。〔……〕舞台は日本の歌舞伎と同じやうに思はれる。高潮に達すれば見物は拍手もするし、泣き笑ひもする。言葉はわからなくとも大抵想像はつくもので見てゐるとやつぱり面白い。【注5】
 このように初めて現地住民の芝居を見る人であり、言語を理解できなくとも、芝居を見て楽しんでいることが分かる。また現地住民の文化を知るには、現地住民の居住区域を見る事が良いとされており、その一環として芝居を見ることもあった。
満洲の情緒を知るには、いはゆる満人街を漫歩するがよい。新民戯院といふので芝居を見た。ハヤシは間断なく鐘を鳴らし胡弓をひいて、騒々しい限りのものであつた。劇はお家騒動風のもので、殿様が御殿を留守にして遊び廻つてゐるうちに敵が難題を持ち込み家老が苦労する。結局、敵の大将と家老が戦ふことになるのだが、その立廻りはなかなか面白く、情痴の場面なども歌劇風な科白が綿々たるものがあつた。【注6】
 このようにして、現地住民の文化や芸能を楽しむの旅行行動が見られるのである。

二-三 新京の歓楽施設

 満洲国観光の旅行行動として、夜には歓楽施設を利用することが多い。その際のエピソードとして挙げられるのが、歓楽施設の名称に関する失敗談である。歓楽施設はランク分けされており、一流芸者屋が「書館」、二流が「班」、女郎屋が「堂」と呼ばれていた【注7】 のだが、本屋と間違えて「書館」に入ってしまい、娼婦に誘われるというものである。このようにして盛んに歓楽施設を楽しんでいたのであるが、新京ならではの施設として「長春浴地」が有名である。
コノ浴地(※長春浴地-引用者)もまた大きなもので新京の名所の一つであらう。〔……〕二人づつの部屋から、一人きりの部屋があり、寝台までもうけてある。浴しては休み、やすんではまた浴するといつた調子でドコまでも支那式である。この浴地には理髪所から娯楽室までがあつて、一日中をたのしくこの中で遊べるやうに出来てゐる。バスにつかつて、ながながと旅のつかれを休めてゐるというとついうとうととねむくなる。窓のむかふは低い屋根つづきで、ところどころに緑の樹木が見えるばかりだ。〔……〕となりの部屋からはクーニヤンの唄ふ声がする。蛇味線と胡引のふるひる音色が交錯して、料亭気分を満喫させる。僕たちの部屋へもコノ賑やかな気分を植えつけようといふので早速クーニヤンが二人呼ばれた。支那服にまとつた彼女たちは立つたままでオ客にサービスをするのだ。【注8】
 長春浴地は現地住民もまた利用する歓楽施設である。このことから日本人が現地住民の施設を利用していることに加え、現地住民の文化的な充実を窺うことができる。ともすると、文化的な後進性ばかりが注目され、現地住民の文化が扱われたとしても異国情緒的な奇異性が強調されるなかで、現地住民の文化資源が旅行行動を生んでいるのである。

第三節 現地住民の都市生活

 第三節では観光者の視線・まなざしから、現地住民の都市生活の様子を見て行く。第二節まででは、現地住民と日本人が没交渉で分断されているわけではなかったこと、日本人が一方的に現地住民の施設を利用していたわけでもなかったことが分かった。ここからは現地住民もまた日本人の居住区域に進出していたし、諸施設を利用していたということを論じて行く。
 まず満鉄附属地が敷かれていた地区を中心とする日本人街で、現地住民が商売をしている様子が描かれている。新京銀座は日本人の歓楽街として賑わっていたが、ここにも現地住民が進出しているのである。「夕食を終へると女中が「新京銀座」でも散歩しては如何ですかと言つた。〔……〕旅館を出て教へられた方向へ行つて見た。ちやうど神田の神保町の夜店と云つた感じがした。〔……〕売ってゐる人、買つてゐる人が日本人でないところが私には面白かつた。【注9】 」とある。在満日本人は日常的にこの風景を見ているため、特に違和感を抱かないであろうが、観光者だからこそ残されていた記述である。
 次に附属地西部にあった西公園(後の児玉公園)が重要である。この公園は欧米列強が東アジア植民地に形成した公園と対比されることが多い。欧米列強は現地住民の立ち入りを禁止したのに対して、日本人は許していたという文脈である。では、実際には観光者のまなざしからどのような様子が分かるか。
  〔……〕附属地の西公園は十万以上もあり満洲第一を誇つてゐます。満人は概して公園を愛するのか、その気分を好むのか、入場者は満人が多く、彼等は唯何とはなしに花を眺め或いは小鳥を眺めて楽しんでゐます。この公園に続いて新京の忠霊塔が聳え、又関東軍司令部憲兵隊の大建築があたりを威圧してゐます。【注10】
 ここからは、日本人居住区にある公園を現地住民が利用して楽しんでいることが分かるが、加えて西公園の立地も重要である。西公園は日本人の父祖が満洲の為に血を流したことを示すための忠霊塔が接続しており、関東軍司令部からも近かった。これらは日本の満洲国支配の象徴ともいうべき建造物だが、それらが近くにあろうと、現地住民は西公園を利用していたのである。
 現地住民の都市生活で欠かせなかったのが満鉄である。半官半民の日本の国策会社である満鉄を現地住民も日常的に利用していた。吉林-新京間の車内の様子も旅行記として残っている。
〔……〕日中の三等車内も〔……〕彼の地の人々の風俗習慣を窺うには良い機会である。内地でもさうであるが〔……〕三等車はなかなか賑やかである。満洲の三等車もこれと同様で、話をする声、笑い声があちこちに聞える。列車の停車する毎に相当に乗降客がある。〔……〕私の前に居た五〇歳位の男が私に煙草を一本くれた私は敬意を払つてそれを貰つて吸つた。私の横向に居た一五、六歳の少女は母親と同車してゐたが、煙草を吸はうとしたがマツチがなかつたらしい、やおら立つて私の傍へ来て火をくれいといふ。私はマツチを出して与へた。やがて火をつけ会釈して去つた。なかなか馴れた態度である。車内がにんにく臭いのと不潔なのには閉口した。【注11】
 第三節では三つの事例を史料から見てきたが、ここから言えることは、自己の生活や利益の役に立つのならば、所属がなんであれ構わないという一種の合理性である。日本人居住区であろうと商売や買い物に出かけるし、日本の支配の象徴が近くにある公園でも構うことはなく、日本の鉄道会社である満鉄をも平然と利用しているのだ。以上から現地住民の都市生活として日本人の諸施設を利用していたという事ができよう。

第四節 本章のまとめ

 
第二章では観光から満洲国の首都である新京にアプローチした。新京の観光資源は何よりも首都建設により建てられたその近代的建築群であった。満洲国成立以前は満鉄附属地内の建設が進んだだけであったのに比し、道路、公園、諸官衙、新宮殿(未完成)、関東軍司令部など様々な建物が作られた。観光事業者側は、日本のおかげで近代化することが出来たという新京を現出しようとしたのである。
 だがしかし、観光者は事業者が見せようとした物のみ見たのではない。附属地と城内の間に現地住民によって建設された近代的欧風都市商埠地にも足を運び、現地住民による近代化を認識していた。また後進性が注目され異国情緒的な奇異性が強調される現地住民の文化についても、劇や浴場など文化性の高い施設を利用していたのである。
 一方で、現地住民側も日本人居住地域と分断されていたのではなく、附属地で売買を行っていたし、西公園での散歩も楽しみ、満鉄も利用していたのである。現地住民も一方的に現地住民の居住地域に押し込められていたわけではなかったのである。

【注1】『満洲の観光バス案内』大連都市交通株式会社 大連都市交通等、一九三九 、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122565、六-七コマ
【注2】『国都新京案内』新京観光協会、一九四〇 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122480、二-三コマ
【注3】『満洲グラフ』第八巻第六号(七一号) 一九四〇、一六四頁
【注4】新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、一九三八、一四二頁
【注5】鷲尾よし子『和平来々 : 満支紀行』、牧書房 一九四一、一六三-一六四頁
【注6】白鳥省吾『詩と随筆の旅:満支戦線』、地平社、一九四三、六八頁
【注7】志村勲『満洲燕旅記』自費出版、一九三八、九八頁
【注8】四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自費、一九三四、七七-七九頁
【注9】磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部、一九四一、二四-二五頁
【注10】石川敬介『満洲をのぞく』カニヤ書店、一九三七、一九-二〇頁
【注11】磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部 一九四一、一七-一八頁