雑録

【史料】北鮮航路日本海ルートを利用した満洲国の旅行記・紀行文の記述

満洲国の旅行に北鮮航路日本海ルートを使った人々が、どのような心象を抱いたか。

四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』自家出版、1934

富山日報記者による対岸貿易拓殖振興会の委嘱視察。伏木・雄基・羅津・雄基・慶源・琿春・訓戒・図們・新京。帰路は関釜航路。

  • 伏木
    • 「フシキミナトの波は静かで、岸壁に横づけされている北祐丸は、すでに積荷の作業を了えて今はただ出帆をまつもののやうに黒煙を吐きたててゐる。」(2頁)

  • 雄基
    • 「清流をのぼる若鮎のやうに溌剌たる雄基の街ではあるが、終端駅を羅津にうばはれてからは、ナントなく若くして老ひたるの風が見えるやうだ。とはいふものの北鮮海岸の一漁村として地図の上でも忘れられてゐたこの港が、これほどまでの発展をしたのだから、まことに素晴らしいものである。現在では人口三万余といはれ、将来は羅津の補助港として工業都市をも期待されてゐる。しかし結局においては羅津が完全に発展するまではコノ港街の繁栄は下り坂を余儀なくされることであらう。」(14頁)
    • 「北鮮海岸の一小漁村が、一躍して世人に噂され、満鮮を旅する者をして必ずたち寄らしむるまでに重要視されるにいたつた理由は、ナントいつても満洲国独立と、北鮮指定航路の開設によるものである。しかしソノ成長がコウいつた事情によるもので全く他力的な発展であるために、ソコには牛乳で育つた子供のやうな、かよわい感がする。生産者がゐない街-産物のない土地は温室の鉢に植えられて咲かせられた花のやうに、パツとしたあでやかさはあるけれど、ひとたび荒い外気にふれるならばスグに萎んでしまふのである。雄基の街の発展ぶりは、これに似たものがある。」(15-16頁)
    • 「ここの街はやがて羅津の完成とともに補助港として、所謂工業港たりうるのだといはれてゐる。満洲特産物の集散地としてソノ期してゐるとほりに発展するかどうかは興味あることだと思はれる。」(16頁)

  • 羅津
    • 「大草、小草の島が心もちかすんだ空の下に海の水をわけて坐る。この港が終端港として満鉄の巨費を投ぜられてゐるのだ。今年の11月からハルピンと清津をつなぐ直通列車が走ることになつてゐる。羅津港の発展はソノ築港の完成よりも、この直通列車の運転によつてヨリ飛躍的な発展を見るに相違ない。」(19-20頁)
    • 「港湾の立派さはサスガに北鮮第一と折紙をつけられるだけであつて僕のやうな素人にさえも嘆声を発せしめたほどである。菱形の港で入口には大草、小草の二つの島が行儀よく坐ってゐるので外界からの視野はさえぎられるし、また自然の防波堤ともなつてゐるわけである。コノ築港計画は第三期までで、第一期は昭和12年度でおはる。そうして第一期計画だけで伏木港の三倍に相当する三百万トンの積荷作業が出来ることになるのだそうであるから大連以上の大貿易港になるワケ。この港の完成するころには、富山県でも伏木港の第三期拡築計画が出来上がるだらうし、東岩瀬の開港場も実現するだらうから、富山県と対岸との貿易関係はおどろくべき発展と頻繁さを招来し県産業界にも一大革命はおこることになりはすまいか?ソノ時こそは工業県として、日満産業関係の枢要なる門戸となるであらうことは疑ふ余地はない。」(21頁)

山形県教育会満鮮視察団編『満鮮の旅(視察報告)』山形県教育会満鮮視察団、1935

尋常小学校の訓導ら8名の視察旅行。山形・敦賀清津・羅津・清津・雄基・吉林・新京。帰路は関釜航路。

  • 敦賀
    • 気比神社、金ヶ崎宮の参拝、市内見学等に過ごす(1頁)

  • 北鮮
    • 清津港に着くが、鈴木美通閣下を訪ねて羅南に移動。出張中で会えず清津へ引き返す。市内を一巡して羅津へ。満鉄事務所で羅津築港計画概要を聞き、雄基へ。(2頁)

  • 京図線
    • 雄基発。県人会員に京図線を危ぶまれる。「「京図線は危険です、夜行のみは見合わせたら……」等注意されたので一同稍頭を悩ませたが兎に角行けるところまで行こう……」ということになる。南陽着。国際鉄橋を渡り、満洲国図們駅へ。国境見学をするが標識はなく川の真ん中が国境。図們発、夜行であったが匪賊の襲撃は受けず吉林着。(2-3頁)

東海商工会議所聯合会視察団鮮満視察団編『満鮮 旅の思ひ出』名古屋商工会議所、1936

東海商工会議所主催の視察団の紀行文集。名古屋・敦賀清津?羅津?・雄基・南陽?・図們・延吉・敦化・吉林・新京。帰路は関釜航路。

  • 千賀千太郎「満鮮旅の思ひ出」
    • 羅津港
      • 羅津港に入る。港頭の大、小、草島を天然の防波堤として内港探し、今正にバラックの点景、後山遠く平原を控へ、大洋に暴露する事なく、港勢雄大なり。北鮮主要港の経図も亦宜なる哉。」(15-16頁)
    • 雄基港
      • 「岬を廻りて雄基港に到れば清津港程波も高からざるも、現に上陸点の不備なるため端舟を用ふ。即ち我国最北端の港市にして又港後山遠く遥かに龍水湖を望む。将来発展の港勢途上に有り。市内白揚樹多く新緑に枯ひあり。」(16頁)

  • 槌谷祐七「日満新交通路による満鮮視察」
    • 「〔……〕裏日本の各港から北鮮の要港たる清津、羅津、雄基を経て京図線によつて満洲国の心臓部を貫く新交通路が開け日満交通史上に一大紀元を画する至つた〔……〕」(33頁)

  • 鈴木育太郎「鮮満見聞録」
    • 羅津港 此港は昭和7年5月11日附を以て、拓務大臣より京図線と連絡する図們東部線の終端港として指令を受け、北鮮三港の一つに加へられ、僻地の一寒村が、一躍世界的に有名となつたのである。その築港費用は7千5百万円巨額であつて、〔……〕羅津が先輩貿易港である清津及雄基の良港を凌ぐ大築港計画が樹てられたのは、次の理由に拠るのである。一、清津は背後鉄道の距離大にして、輸送能力に限界がある。二、雄基は風浪激しく築港計画をなすも、最大呑吐能力5、6百万吨に過ぎぬ。三、羅津及雄基は港湾素質良港で、鉄道距離小なるため経営上採算が最も有利である。四、羅津は雄基に比し水陸共に面積大きく風波に遮蔽されかつ工事費が僅少にてすむ。羅津港が風波に遮蔽されてゐるのは、地勢上東北西の三面に山を負ひ、南方に開いて日本海に面し、湾口に大草小草の二島介在して、自然の防波堤を形成してゐるからであり、全く天興の良港である。」(45-46頁)
    • 清津港 此港は明治41年4月開港場に指定せられ、人口約4万人の都市であつて朝鮮沿岸の諸港の航路は因より、裏日本の諸港、関門、阪神、京濱等への定期航路も有り船舶の出入頻繁である。産業は水産物を主とし、就中此地方は鯤は最も良好であり、魚の種類は北海道方面のものと同様である。輸出貿易は1ヶ年4600萬円位で、重要輸出品の種類は穀物、木材、魚油、魚肥等であり、昨昭和8年度の輸入総額は1283万円で、その中綿織物が最も多く二百万円以上に上る。現在港内は650万円の予算を以て、岸壁950米の突堤6百米延長工事を行つてゐるが、本年中には竣工の予定であつて完成の暁は百万吨の収容能力を有するに至り、なほ外に百万円の予算を以て、13万坪の国際的漁港の建設中である。」(46頁)
    • 「雄基港 此港は大正10年6月貿易港に指定せられ、現在の港湾整備は、大正15年より4ヶ年継続、工費60万円を以て完成され、更に昭和4,5年の両年に亘り、その拡張工事を施したるも、桟橋の繋船能力は、3千吨級の汽船二隻を同時に繋溜し得るに過ぎない。港湾に接続して龍水湖と呼ぶ相当広き湖水があり、木材貯蔵場として適当の素質を有すると云ふ。人口2万4千人、物産は海産物を主とし、背後地の物資、木材、大豆、小豆等の集散地であり、附近に金鉱等もあり、市街は港町式の繁昌を呈しゐる。雄基駅は市街を距る約1里の所にあり、その附近には工場敷地として適当のもの多し。」(47-48頁)
    • 「三港の将来 以上は羅津、清津、雄基三港の見聞の概略であるが、近き将来に於て羅津港は裏日本の港と連繋して、大飛躍をなすべく、其の際、雄基及清津はその両翼となり、生産都市として大いに発展せんことを期待する。〔……〕」(48頁)

  • 稲川勝二郎「名古屋と京図線の関係」
    • 「〔……〕図們は、今回の旅行の主要目的の一である京図新線の始発駅として、北鮮へ通ずる重要なる関門である。-京図線の名は、まだよく人口に膾炙されず、尚ほ内地人には耳新しく響くやうだが、この京図線こそ、日支20年来の大懸案であつた所謂吉会鉄道を事実の上に解決したものであると云へる。即ち京図線とは満洲国の首都新京と、満鮮国境の図們を結ぶ全長528粁の大幹線であつて、旧吉長吉敦両鉄道と昭和8年4月20日、にその敷設を完了した敦図鉄道を合併併称したものであり、満洲国の心臓部を東西に貫く、再捷の日満新交通路である。かくて日本内地より満洲に入る経路は、大連、安東を経由する従来の二経路の外に、裏日本の敦賀、新潟諸港より海路北鮮三港を経て京図線に連絡するものと、図們より京城、北鮮鉄道を経て京図に入るものとの新二線路が付加せられ、殊に敦賀より満洲に入る最捷経路は、実に日満交通史上一新世紀紀元を画するものとして、これによりわが大陸政策の基調は、太平洋から日本海へ、即ち表日本から裏日本への一大飛躍に移らうとする感がある。更に敦賀と名古屋、満洲と名古屋製品等の関係に思ひを及ぼす時、我ら名古屋の実業家として、深い感動を禁じ得ないものがあるのである。やがて来るであらう日本海中心時代―名古屋商品万能の時代―を夢見ながら図們駅のプラットフォームに下り立つたのは4日午後0時半頃。然し図們港の国際鉄橋を通過する時、1時間遅らしてゐるのでここからは所謂満洲時間である。」(111-112頁)

  • 岡田保次郎「鮮満地方視察記」
    • 「東海商工会議所主催鮮満視察に於いて、北日本汽船会社所有の満洲丸3千54吨を利用し北満の咽喉を扼する清津、羅津、雄基所謂北鮮三港を視察したことは極めて有意義であつた。」(169頁)

大橋克『満鮮北支紀行』自家出版、1938

三重県農会幹事。伊勢新聞に掲載。満洲農業移民を視察。津・新潟・清津・図們・牡丹江・鶏西・黒台・密山・林口・千振・弥栄・佳木斯・牡丹江・哈爾濱・天理村?・哈爾濱・新京。帰路は関釜航路。

  • 清津
    • 明治41年4月1日万国通商貿易港として開港した当時には人口1千5百、貿易額90万円に過ぎなかつた清津が今日では人口約6万5千、貿易額百倍に達し1億円を突破せんとする一大都市を形成し(内2割日本人、三重県人は此内の百分の一)産業貿易の中心地として、美事満洲国の表玄関として活躍するに至つたのである、重要なる輸移出品は穀物(主として大豆)150万石、木材50万石、魚油200万缶、魚肥50万俵等々である〔……〕」(4頁)

山形県教育視察団編『満鮮の旅』山形県教育視察団、1938

尋常学校・高等小学校の校長・教頭ら10名の視察団。山形・新潟・清津・東京城・牡丹江・弥栄・哈爾濱・新京。帰路は関釜航路。

  • 清津
    • 清津に上陸するや例の袴に上着をつけた白衣の同胞が異国調の言葉をかはしている。婦人は大きい荷物を頭の上に載せてゆつたり歩いてゐる。清津の港も町も停車場もさんざん引つ繰り返へしてゴタゴタにしてゐる感じがする。清津は未だ建設途上に有るのだ。しかしはち切れさうな元気に満ち満ちている。」(15頁)

  • 図們線の印象
    • 「列車にはカモフラージュした装甲車をつけたのが有つたし、どの列車にも銃剣に身を固めた警備兵が乗り込んでゐる。鉄道沿線にはそこここに警備所が厳然として構へてゐるし、殊に南陽から国際橋で豆満江を渡つて図們に入り、内鮮満の人が入りまじつてゐるのを見て遠くも来つる感にひたるので有る。」(15頁)

岡山県鮮満北支視察団編『鮮満北支視察概要』岡山県教育委員会、1939

岡山県学務課・岡山県教育会主催の14名の視察団。岡山・敦賀清津・朱乙・南陽・図們・牡丹江・佳木斯・閻家・林口・龍爪・哈爾濱・新京。帰路は関釜航路。

  • 清津
    • 「上陸後、直ちに清津神社に詣ず。邦人の発展する処、必ず天照大神明治天皇を祭神として神社が建立される。此の精神が、日本の伸びる原動力になつてゐる事を思ふ時皇国に生れし有難さをしみじみ感じた。境内からの眺望はまた別格である。清津の市街は一望の中に入つて来る。最近北鮮の門戸として又新工業の中心として偉大な躍進をした所である。」(8頁)

石橋湛山『満鮮産業の印象』東洋経済新報社、1941

東洋経済の社長。帰路に日本海ルートを利用して帰国している(新京・清津・朱乙・茂山・清津・新潟)。往路は関釜航路。

  • 北鮮航路経由で新潟港に帰国
    • 「此の頃出版せられた下村海南博士の「持久戦時代」と云ふ随筆集を見ると、その巻頭に、日満ルートとして日本海航路を大いに発達せしめねばらなぬ、と云ふ一文が掲げてあります。私もまったく同感です。さればこそ、私も今回帰りには、わざわざ此の通路を選んだのでありました。ところが之れを知つて、石山君(※引用者註-ダイヤモンド社の社長。石橋湛山と共に満洲を旅行したが一足先に帰国)が大に喜ばれた。同君は、前にも申した如く、郷里が新潟で、而かも郷里の産業開発の為めに、予てから大いに尽力してをられる。新潟港の拡張は同君多年の念願で、自分で専門家に依頼し、調査までもせられた程です。そこに私が、帰りには新潟に出ると申したから、喜んで呉れたわけであります。併し私は実際に、此の通路を経験して見て、以上の通りの次第(※引用者註-関釜航路に比べて厳しい税関の検査を受け、新潟到着後も検疫などにより上陸に時間がかかった。)でありましたので、遺憾ながら此の有様では、幾ら君が新潟を盛んにしようとしても、一度で誰れも此のルートは利用しませんよと、悪戯口をきいたわけでありました。実際これは、何とか改めないと、敢て新潟の為めと云はず、日満及び内鮮経済の発達の為めに遺憾な次第だと存じます。」
    • 「併し付け加えて置きますが、此の航路そのものは、決して悪くはありません。時季も特に良かつたからでありませうが、海は寧ろ平穏すぎるほど、静かでありました。我々の乗つたのは月山丸と云ふ船でありましたが、これも悪くはありませんでした。時間は、清津からですと約二昼夜で、少し長くかかりますが、これは殆ど丸一日羅津で費し、又船の速力ものろいからであります。改良の余地は十分あります。〔……〕東京北鮮間の交通路としては云ふまでもなく、東京新京間の交通路としても、亦将来有望であることは疑ひがありません。今の所、貨物が少ないことが、此の航路の悩みのようですが、之れも将来は追々殖えるに違いないと存じます。石山君の主張の如く、新潟港を改良して、一層大きな船が自由に出入出来るようにし、就航船数も今日よりも増しさへすれば、朝鮮側の港には、羅津でも、清津でも、不足はないのですから、茲は立派な日本大陸間のルートになります。」(129-130頁)

磯西忠吉『鮮満北支ひとり旅』大正堂印刷部、1941年

国語教師。教育視察の許可を取り出張。本書を生徒に配布。青梅・敦賀清津南陽・図們・吉林・新京。帰路は関釜航路。

  • 清津
    • 清津に上陸、波止場前の停留所からバスに乗つて停車場に行く。道路の改修、家屋の新築、何処を見てもあわただしい。いかにも新興都市にふさはしい。波止場から駅までは数町ある。丘陵は海岸に迫り、道路は悪しく、大市街を建設するにはまだまだ歳月を要する。清津は日露戦役当時までは、雄基や羅津と共に一漁村に過ぎなかつたが、現在では満蒙欧亜に通ずる大関門となり、交通経済共に北鮮の中心地であり、また海産物の集散並に其の加工の中心地である。故に列車の運転系統は此の地を発着駅としてゐる。」(6-7頁)

松井正明『鮮満一巡 附転業対策卑見』千葉東亜経済研究会、1941

楽器店社長。新京からの帰路に日本海航路を使用(新京・哈爾濱・羅津・新潟)。往路は関釜航路。

  • 羅津港
    • 「羅津は北鮮の要港で満鉄の経営に属し、大規模な築港計画を立てて今建設の途上にある。港は入口に大草、小草の二島があり、湾内広く、深く、典型的な良港を成してゐる。嘗て日露戦役後に上村艦隊の根拠地となり、西伯利亜出兵にも月4餘に亘つた碇泊した事で有名である。人口は3万5千許り、まだたいした繁昌でもないが、新潟、敦賀を経る北満への重要な交通路として将来の大躍進が約束されてゐる。」(46-47頁)

山形県教育視察団『満鮮2600里』昭和17年山形県教育視察団、1942

山形県教育会より校長ら9名を派遣。山形・酒田・敦賀清津・牡丹江・千振・佳木斯・鉄山包・綏化・北安・斉斉哈爾・新京。帰路は関釜航路。

  • 清津の漁港見学
    • 「漁港は海上30分、静かな入江の天然の良港鰮の製造工場を見学した。約3ヶ月で優に1ヶ年の生計費が得られるといふ。大規模な漁獲物陸揚機の設備、専用軌道を敷いた進歩改良された工場、大貯油タンク等々。起ち上る朝鮮は先づ漁業と大工業都市としての活躍が目醒ましい。北鮮三港は、その代表的なもので、殊に満洲大陸と日本を結ぶ重要港としての価値が大きい。逞しい天然資源とその底力、或は大陸前進の兵站基地としての重要性は近年益々著しく認められるやうになつた。重要鉱物資源は勿論のことタングステン、雲母などの非鉱物類の産出が多く。(ママ) 又水力発電、豊富な労力資源等で特筆に値する。」(17-18頁)