- 概要
- 「はじめに」で先行研究の整理が行われ、第1章で海軍進出に伴う主要産業の喪失による海軍・呉市民間の相互依存関係の構築が論じられ、第2章では戦後呉市経済の混迷と軍転法設置について、第3章第1節では軍転法の限界について述べられる。
- だが第1章、第2章、第3章1節は先行研究で既に論じられていることであり、メインとなるのは第3章第2節の海上自衛隊誘致の部分であるが、ここは3頁半しかなく全体に占める割合は少ない。
- リサーチクエスチョンである「なぜ平和産業港湾都市を標榜しながら海上自衛隊を誘致したのか」に対する答えも「平和産業路線を堅持することも、市を挙げて海上自衛隊を迎えることもできない」というものであった。呉市は、軍転法と海事誘致の矛盾に対して、国際情勢の変化を「国是」、軍転法による経済復興の限界を「現実」という言葉を用いて折り合いをつけてきたと述べている。
- 最後には1950年代前半の矛盾した呉市政の背景として、「呉市民が抱く「海軍への親和的感情」」が挙げられ、史料的根拠もないまま、呉市民が「特別な感情を海軍に対して抱いていた」という感情論で締めくくられて終わる。
[目次]
はじめに
先行研究の整理
- 戦後歴史学における軍事史研究
- 政治勢力としての軍部を主たる考察対象とする。
- 【問題点】
- 師団や連隊、軍港や軍需工場などの軍事施設が全国各地に設置され、地域住民に受け入れられていく過程を詳しく考察しようとはしなかった。
- なぜ軍隊が地域社会に受け入れられていったのか、ひいては、なぜ戦争動員が受け入れられ、人々は戦争に参加したのかという点は解明されなかった。
- 1990年代からの研究潮流
- 呉の都市史研究
- 呉の戦後都市史研究
- a.上杉研究
- 研究事例
- 研究の特色
- b.呉の都市景観に関する研究
- c.呉の海軍受容に関する研究
- a.上杉研究
第1章 軍港都市・呉
第1節 軍港都市の建設
- 鎮守府設置による産業構造の転換
- 海軍に左右される呉市の経済
- 鎮守府設置後も、軍需工業の拡大に伴う都市化の進展で農地は狭まり減少し、従来の町の様子は大きく変化した。海軍は呉の市民を巻き込み、市の財政と人々の生活に変化をもたらす。
- 1920~30年代は「海軍休日(ネイバル・ホリデイ)」とも呼ばれる海軍の低迷期。海軍は大規模な規模縮小と、人員整理、予算削減を行う。呉海軍工廠も例外ではなく、六六八二名の工員が解雇され、その際には呉では全市を挙げた失業対策が行われた
- 「非常時」には海軍軍備の拡充が図られ、戦時下では海軍軍備の規模も更に拡大する。呉海軍工廠内部では能率増進、技術の進歩、節約型の合理化が目指され、更にそこに民間企業の活用という民と官の融合を行うことで、「帝国海軍第一の造船所」としての地位を確立した。
- 1930年代後半から呉海軍は飛躍的な発展を遂げることとなる。当時の呉海軍工廠は「東洋一」との呼び声も高く、それを擁する呉市は最盛期には40万人余りの人口を擁する巨大な軍港都市へと進化した。海軍は呉という町の一要素として溶け込み、市の発展に大きく寄与していた
第2節 市民と海軍
- 呉鎮開庁初期における市民と海軍の非友好的関係~主要産業の喪失~
- 海軍が呉にやって来ることによって、市民は大きな制限を受けた。
- 港湾の使用制限、呉・広両工廠の構内・沿岸の通行規制は市民の行動範囲に大きく影響した。
- 港湾の使用制限は従来からの主要産業であった漁業を低迷させ、1921年には呉の漁業組合を解散に追い込む。
- 海軍は経済活動や市民生活を規制して、従来行われてきた商業、土木建築だけでなく、スケッチや撮影の禁止、立ち入りの制限などを行った。
- 海軍は民間の企業誘致にはマイナスの効果をもたらした。
- 大正中期以降における呉市民の海軍受容~海軍・工廠側からの要因~
- 市民と海軍の相互依存的関係の構築~市民の理解・協力を必要とする海軍と産業を海軍に依存する市民~
- 呉が「軍港都市」として成立するためには、市民からの理解と協力は不可欠であった。そういった意味では呉の軍港都市化の過程は、市民による労働力の提供などを含めた海軍協力に支えられ、海軍が市民と強固な関係を結び、呉の町に溶け込んでいく過程でもあった。
- 海軍を迎え入れたことにより主要産業を失った呉市民の困難があった。当時の海軍は、主要産業を無くした呉市民にとっては労働機会を提供してくれるとともに、呉の主要産業を担う中心でもあった。
- 呉市民と海軍は相互依存的関係を築いていたのであり、海軍と市民が強固な関係を築いたことで呉は「軍港都市」となり、それは単なる軍隊ではなく「呉の海軍」として人々の記憶にも残されていくこととなる。
- 呉は海軍と共に歩みを進めることで自らの存立基盤である造船業を発展させ、軍港都市としてのアイデンティティを形成していった.。
第2章 敗戦と旧軍港市転換法
第1節 戦後の混乱と失業モデル都市
第2節 平和産業への転換
- 呉市復興の失敗
- 開港の効果は上がらず
- 自由港指定の失敗
- 1949年には「呉国際自由港市建設法案」を作成し自由港の指定と国有財産の譲与を受けることに主眼を置いて運動を進めていく。しかしこれも政府の協力が得られず頓挫する。
- 軍転法に賭ける
第3章 平和産業港湾都市のその後
おわりに
- 戦後呉市の矛盾
- 「海軍への親和的感情」
- 1950年代の呉市政の転換の内在的な原因として、呉市民が抱く「海軍への親和的感情」が働いた可能性がある。
- 戦前に海軍が設置されたことによって都市としての地位を向上させ、日本最大の軍港とまでなった呉で生きてきた人にとって、海軍を支えたというある種の誇りと思い入れが、強く印象付けられていたとしても不思議ではない。
- 戦後も海軍に対する親和的な心情が醸成され、最終的な海上自衛隊設置に何らかの形で働いたのではないだろうか。
- 戦前・戦中と港を中心に発展してきたという都市の歴史と、「呉は昔から海軍の町」であるというアイデンティティを捨てきれない思いが海上自衛隊設置の一要因として働いたのではないだろうか。
- 軍港都市として海軍と共に歩んできた呉の市民が、戦後においても特別な感情を海軍に対して抱いていた可能性は考慮に入れる必要があると考える。
この論文を読んで
- 軍転法と海自誘致の矛盾について
- 筆者は軍転法と海自誘致の間に矛盾点を見出し、それを論じようとしている。だが軍転法の本質は海軍が遺した設備や機械などの「国有財産の処理」による「経済復興」である。時系列的には軍転法の設置→逆コース(アジアの社会主義化による米国の占領政策の転換)→海自設置という流れであり、呉市の海自誘致の目的を経済的恩恵に求めれば軍転法の本質とは矛盾しない。
- 軍転法設置以前は、逆コースになる前だったので当時の社会的風潮として、旧海軍が遺した造船・製鉄などの重工業を継承するためには、理念のシンボルとして平和を掲げる必要があった。産業構造そのものは戦前も戦後も重厚長大の大型重工業であることは同じ(→だから1970年代のオイルショックで大打撃を受けた)
- 市長も市民も海自誘致に傾いているので、新たな都市像を選択していると言えるのではないか。(※中国新聞だけが批判的な論調)
- 海上自衛隊≒旧日本帝国海軍という論調
- 感情論で締めくくられることについて
- 軍転法と海自誘致の矛盾に関し、国際的要員である「国是」や経済的要因である「現実」を根拠に論証してきていたのに、最後には何故か史料的根拠も無いのに「海軍への親和的感情」が述べられていく。筆者は初めから感情論という結論ありきなのではないか。