雑録

髙橋香織「軍港都市・呉の戦後史―旧軍港市転換法と自衛隊誘致を中心に―」、『北陸史学』67号、55-77頁、2018

  • 概要
    • 「はじめに」で先行研究の整理が行われ、第1章で海軍進出に伴う主要産業の喪失による海軍・呉市民間の相互依存関係の構築が論じられ、第2章では戦後呉市経済の混迷と軍転法設置について、第3章第1節では軍転法の限界について述べられる。
    • だが第1章、第2章、第3章1節は先行研究で既に論じられていることであり、メインとなるのは第3章第2節の海上自衛隊誘致の部分であるが、ここは3頁半しかなく全体に占める割合は少ない。
    • リサーチクエスチョンである「なぜ平和産業港湾都市を標榜しながら海上自衛隊を誘致したのか」に対する答えも「平和産業路線を堅持することも、市を挙げて海上自衛隊を迎えることもできない」というものであった。呉市は、軍転法と海事誘致の矛盾に対して、国際情勢の変化を「国是」、軍転法による経済復興の限界を「現実」という言葉を用いて折り合いをつけてきたと述べている。
    • 最後には1950年代前半の矛盾した呉市政の背景として、「呉市民が抱く「海軍への親和的感情」」が挙げられ、史料的根拠もないまま、呉市民が「特別な感情を海軍に対して抱いていた」という感情論で締めくくられて終わる。

[目次]

はじめに

本稿の趣旨

先行研究の整理

  • 戦後歴史学における軍事史研究
    • 政治勢力としての軍部を主たる考察対象とする。
    • 【問題点】
      • 師団や連隊、軍港や軍需工場などの軍事施設が全国各地に設置され、地域住民に受け入れられていく過程を詳しく考察しようとはしなかった。
      • なぜ軍隊が地域社会に受け入れられていったのか、ひいては、なぜ戦争動員が受け入れられ、人々は戦争に参加したのかという点は解明されなかった。

  • 1990年代からの研究潮流
    • a.戦後歴史学に対する批判意識と新たな研究潮流
      • 兵士に関する研究・戦争協力に関する研究・軍隊と地域との相互規定的な関係を解明しようとする研究・戦没者の慰霊に関する研究
    • b.代表例
      • 荒川章二『軍隊と地域』(青木書店、2001年)→軍隊が地域社会に根付いていく過程とその後の展開を分析し、両者の関係は必ずしも軍隊優位の一方向的なものではなく、互いに規定し合う双方向的な関係であったことを明らかにした
      • 『地域のなかの軍隊』(全9巻、吉川弘文館、2014~2015年)→「地域」という視点に立った軍事史研究が進展を見せている。
    • c.軍事都市研究の隆盛とその問題点
      • 陸軍の師団や連隊が設置された軍都や、海軍の鎮守府や要港部が置かれた軍港都市を分析対象とした軍事都市史研究も盛んになる。
      • 1990年代以降の研究においても、戦後を考察対象とした研究は乏しい。軍隊が解体されたことが、その地域やそこに暮らす人々の戦後の歩みをどのように規定してきたのか、また自衛隊の誘致は戦後の地域住民にどのように受け入れられたのかという問題を取り上げた研究はほとんど皆無。

  • 呉の都市史研究
    • 代表的事例
      • 呉市史』(全8巻、呉市、1956~1995年)→近代編は『呉市史』全8巻中、第4~8巻までの5巻分を占め詳細に記述される。
      • 坂根嘉弘編『地域のなかの軍隊五 西の軍隊と軍港都市中国・四国』(吉川弘文館、2014四年)
      • 河西英通編『軍港都市史研究Ⅲ 呉編』(清文堂出版、2014年)

  • 呉の戦後都市史研究
    • a.上杉研究
      • 研究事例
      • 研究の特色
        • 「連続」と「断絶」をキーワードに、戦中・戦後の呉が目指した都市像や都市空間の変遷を分析し、空襲によって被害を受けた呉が、戦後「平和産業港湾都市」として軍港都市とは異なる方針を定めた点に戦中戦後の断絶面を見る。しかし一方で、呉の戦後復興があくまで海軍の遺産を引き継ぐ形で行われたという点や、1954年に海上自衛隊が設置された点から軍港都市としての側面が連続していると主張する。そして、戦前との連続面と断絶面の両者を兼ね備える呉の地域性について言及し、その対立を解消する手段として旧軍港市転換法を位置づけた。
    • b.呉の都市景観に関する研究
    • c.呉の海軍受容に関する研究
      • 林美和「軍港都市呉における海軍受容」(『年報日本現代史軍隊と地域』第一七号、2012年)
      • 林美和「呉市における戦後復興と旧軍港市転換法」(河西英道編『軍港都市史研究Ⅲ 呉編』清文堂出版、2014年)

  • 先行研究の問題点
    • a.戦後が考察対象となった場合でも、敗戦から軍転法施行までの過程が主たる考察対象とされており1954年の海上自衛隊設置を射程に入れて考察した研究は蓄積が乏しい。
    • b.先行研究においては1954年の軍転法制下での海上自衛隊設置という明らかな矛盾を見過ごしている。
    • c.なぜ呉は平和産業港湾都市を標榜しながら海上自衛隊を迎え入れたのか、この点に関する地域社会の論理は明らかになっていない。

研究の射程・考察対象

  • 射程
  • 考察対象
    • a.軍転法の意義と効果
      • 軍転法によって呉は戦中とは真逆の方針を定めたがなぜ呉は軍転法を必要としたのか。
      • 軍転法により呉には何がもたらされたのか。
    • b.海上自衛隊設置の理由付け
      • 軍転法により新たに生まれ変わった呉が、その4年後には「平和産業港湾都市」を掲げながらも海上自衛隊を誘致するという状況において、その矛盾は当時から明らかであったが、海上自衛隊設置を正当化する呉独自の論理や理由付けとは何だったのか。
      • なぜ呉は軍転法で戦後復興を果たすことができなかったのか、その際に抱えた困難とは何であったのか。

第1章 軍港都市・呉

第1節 軍港都市の建設

  • 鎮守府設置による産業構造の転換
    • 前近代の呉は農業と漁業を中心産業としていた。1889年の鎮守府開庁により、呉の人々はそれまで利用してきた土地や港を失うこととなる。鎮守府による水道敷設や呉港への民間船の出入りが制限され、産業の中心であった農業・漁業は衰退していった。その結果、呉の経済は海軍に依存する体質へと変化した。

  • 海軍に左右される呉市の経済
    • 鎮守府設置後も、軍需工業の拡大に伴う都市化の進展で農地は狭まり減少し、従来の町の様子は大きく変化した。海軍は呉の市民を巻き込み、市の財政と人々の生活に変化をもたらす。
    • 1920~30年代は「海軍休日(ネイバル・ホリデイ)」とも呼ばれる海軍の低迷期。海軍は大規模な規模縮小と、人員整理、予算削減を行う。呉海軍工廠も例外ではなく、六六八二名の工員が解雇され、その際には呉では全市を挙げた失業対策が行われた
    • 「非常時」には海軍軍備の拡充が図られ、戦時下では海軍軍備の規模も更に拡大する。呉海軍工廠内部では能率増進、技術の進歩、節約型の合理化が目指され、更にそこに民間企業の活用という民と官の融合を行うことで、「帝国海軍第一の造船所」としての地位を確立した。
    • 1930年代後半から呉海軍は飛躍的な発展を遂げることとなる。当時の呉海軍工廠は「東洋一」との呼び声も高く、それを擁する呉市は最盛期には40万人余りの人口を擁する巨大な軍港都市へと進化した。海軍は呉という町の一要素として溶け込み、市の発展に大きく寄与していた

  • 海軍に依存した呉市の末路
    • 軍縮期の人員削減とそれに伴う失業者の増大や、戦時下の大量の人員確保と市の発展など、海軍の盛衰に応じて市の経済状況も左右されてきた。つまり、海軍規模の拡大・縮小は、呉市民の生活に直結していた。呉は軍港都市として、海軍と不可分の関係を築いてきた。一方で経済を海軍に依存した。呉市が自力更生ができない状況では、海軍との結びつきを強固にし活路を見出しかなかった。

第2節 市民と海軍

  • 呉鎮開庁初期における市民と海軍の非友好的関係~主要産業の喪失~
    • 海軍が呉にやって来ることによって、市民は大きな制限を受けた。
    • 港湾の使用制限、呉・広両工廠の構内・沿岸の通行規制は市民の行動範囲に大きく影響した。
    • 港湾の使用制限は従来からの主要産業であった漁業を低迷させ、1921年には呉の漁業組合を解散に追い込む。
    • 海軍は経済活動や市民生活を規制して、従来行われてきた商業、土木建築だけでなく、スケッチや撮影の禁止、立ち入りの制限などを行った。
    • 海軍は民間の企業誘致にはマイナスの効果をもたらした。

  • 大正中期以降における呉市民の海軍受容~海軍・工廠側からの要因~
    • a.海軍施設の見学の奨励
      • 海軍の広報活動に加えて、志願者確保という狙い。一般見学者は一九二七年の五万人から一九三二年の七万人へと増加
    • b.海軍記念日
      • 特に1930年の25周年、1935年の30周年には賑わいを見せた。1936年以降は地元新聞社である中国日報社と呉日日新聞社の共催で、海軍記念日の前後数日を「軍港まつり」として盛大に開催した。
    • c.その他行事
      • 海兵団の観桜会、工廠主催運動会等海軍の年中行事にも間接的、直接的に市民の参加が認められる
      • 戦時期に入ると、艦隊の入港歓迎や、出征兵士の歓送迎、戦死者の合同慰霊祭などが新たに行事として加わる。
    • d.海軍工廠
      • 当時の海軍施設や海軍関連の情報は機密性が高く、呉市民といえども海軍と触れ合う機会は海軍諸行事以外では限られていた。
      • 市民は、海軍そのものではなく工廠を通して海軍との結びつきを実感していた。海軍工廠で働く工員の姿が海軍の象徴としてみなされていた。

  • 市民と海軍の相互依存的関係の構築~市民の理解・協力を必要とする海軍と産業を海軍に依存する市民~
    • 呉が「軍港都市」として成立するためには、市民からの理解と協力は不可欠であった。そういった意味では呉の軍港都市化の過程は、市民による労働力の提供などを含めた海軍協力に支えられ、海軍が市民と強固な関係を結び、呉の町に溶け込んでいく過程でもあった。
    • 海軍を迎え入れたことにより主要産業を失った呉市民の困難があった。当時の海軍は、主要産業を無くした呉市民にとっては労働機会を提供してくれるとともに、呉の主要産業を担う中心でもあった。
    • 呉市民と海軍は相互依存的関係を築いていたのであり、海軍と市民が強固な関係を築いたことで呉は「軍港都市」となり、それは単なる軍隊ではなく「呉の海軍」として人々の記憶にも残されていくこととなる。
    • 呉は海軍と共に歩みを進めることで自らの存立基盤である造船業を発展させ、軍港都市としてのアイデンティティを形成していった.。

第2章 敗戦と旧軍港市転換法

第1節 戦後の混乱と失業モデル都市

  • 戦後呉市の経済状況
    • 戦後すぐの海軍解体により激増した失業者は、その後の進駐軍の駐留と民間企業の進出による雇用の増大で一旦は回復の兆しを見せたが、進駐軍の撤退と相次ぐ工場の操業停止で再び危機に晒された。「失業モデル都市」といわれる状態にまで景気は低迷した。1949年11月には、職無き人々が職業安定所に殺到する様子が報じられている。
    • 呉市要覧』統計からみると、1950年にはかなりの危機的状況に直面しており、求人数8055に対して、求職者数が3万4686人、その内の就職者数がわずか5879人と苦しい呉の状況が表れている。

第2節 平和産業への転換

  • 呉市復興の失敗
    • 開港の効果は上がらず
      • 1945年11月28日に呉市復興委員会が発足し、呉を「国際貿易都市」とすることで戦後復興を果たすという方針が定められた。呉港開放のため、市は広島海運局や政府に対して呉港の管理権の委譲や将来的な管理経営を求めた陳情を行った。1947年からは新たに呉市長に当選した鈴木術がこの運動の先頭に立つ。1947年に英連邦占領軍より呉港を貿易港として開放することへ協力する旨が通告された。開港の指定を受け、ソビエト船やアメリカ船の入港が始まったものの、その効果は十分ではなく、当初の期待ほどの成果を挙げることができなかった
    • 自由港指定の失敗
      • 1949年には「呉国際自由港市建設法案」を作成し自由港の指定と国有財産の譲与を受けることに主眼を置いて運動を進めていく。しかしこれも政府の協力が得られず頓挫する。

  • 軍転法に賭ける
    • 海軍解体に伴い存立基盤を失った旧軍港都市が更生するためには、港の活用と旧海軍施設の平和的利用の二点以外に途はなかった。
    • 1949年10月 旧軍港四市の代表者が東京に集まり会談が開かれる
    • 1950年3月 市民大会開催 → 宣言文発表
    • 1950年4月11日 軍転法国会通過 → 特別法通過感謝市民大会や商工会主催の春まつり、大名行列等の祝賀行事が開催され、市内は祝祭ムードに包まれた
    • 1950年6月4日 特別法に関する住民投票を実施 →有権者10万7040人、投票数8万7993人で投票率82.1%であり、その内賛成票が全体の92%を占める8万1355票であった

  • 朝鮮特需と軍転法施行による旧海軍工廠跡地への企業進出
    • 軍転法による企業誘致の第一号は東洋パルプ株式会社呉工場で広の旧第11航空廠跡に進出。
    • 旧呉工廠跡に日亜製鋼株式会社呉工場、株式会社淀川製鋼所呉工場などが相次いで進出し呉は新たに産業都市としての一歩を歩み始める。

第3章 平和産業港湾都市のその後

第1節 平和産業港湾都市の限界

  • 呉市のジレンマ
    • 軍転法も実際の効果は限られていた。当時は国連軍による接収が続いており、呉市が自由に使用できる旧海軍用地はごくわずかに留まっていた。呉は旧海軍施設返還を求め、返還された施設を利用しての「平和産業港湾都市」構想を抱き始めた。しかし当時の呉には国連軍による間接雇用で何とか職を得ていた市民が多く存在した。したがって、国連軍に対する施設返還要求は、軍労働者の職を奪い、市全体の失業者を増やしかねないことを意味していた。こうした点で、呉は強いジレンマを抱えていた。

  • 軍転法の限界
    • 軍転法で新たな途へと歩みを進め始めたかのように見えた呉であったが、実際は平和産業路線のみでの市の再建には限界があった。

  • 呉基地隊への依存の始まり
    • 1953年において呉基地隊が1年間で使用した額は1億1270万と非常に規模が大きい。内訳をみても全体の9割は呉市内の業者に支払われており、呉市経済にとっては重要な顧客となっていることが分かる。
    • それに加えて臨時職員への給与、隊員個人の支出などもあり、呉の商工業者は総監部昇格によって更なる経済発展が見込めると期待している

第2節 理想と現実―平和産業路線と海上自衛隊

  • 海自誘致に関する論争
    • 当時、市は広範囲に及ぶ旧軍施設を接収していた英連邦軍の撤退を見越して、呉港全域を産業貿易港とする計画を持っていたが、そこに政府から接収施設を海上自衛隊に転用する方針がもたらされた。進出賛成派は自衛隊がもたらす利益と、軍港で発展した呉港に自衛隊が進出するのは宿命であるとする「軍港宿命論」を打ち出した。一方進出反対派は、自衛隊が進出すると平和宣言をした軍転法が骨抜きになるとして議論は夜を徹して行われたという。(中国新聞呉支社編『呉港』中国新聞社、1968年)。

  • 鈴木術市長の矛盾
    • 軍転法を熱望し施行にまでこぎつけた張本人である鈴木術ですら、「国是」というものを警備隊正当化のための大義名分として用いており、地方総監部の進出を望むような世論が形成されると、最終的にはそれを歓迎する姿勢を見せていたというのは注目すべき点である。

  • 鈴木術の後任市長である松本賢一市長の論理
    • 警備隊にせよ、自衛隊にせよ、軍転法との兼ね合いを考えると簡単に設置ができない状況であった。松本市長は「現実」の問題を引き合いに出し、警備隊を正当化する理論として用いている。
    • 当時、呉に駐留していた国連軍からは地方税を徴収することができず、光熱費等も呉が負担していた状態であった。それに比べ、警備隊を呉に迎えた場合、彼らは市民として地方税を払い、呉の財政の一翼を担う存在となる。警備隊を設置した場合、それが利益を市にもたらす。

  • 呉市民の歓迎ムードとマスコミによる批判
    • 歓迎ムード
      • 1954年7月1日 海上自衛隊呉地方総監部発足、10月1日に開庁式。→松本市長の歓迎の祝辞。市民の間で歓迎ムードが高まり、市内では様々な催しが行われた。
    • マスコミの批判
    • 不明瞭な都市像
      • 相容れない二つの道の狭間で、新たな都市像を選択することができないまま、呉は海上自衛隊を迎えることとなった。

おわりに

  • 戦後呉市の矛盾
    • 呉の戦後史は、軍転法を施行するも構想通りの戦後復興が不可能となり、自力更生ができないジレンマを抱えながら「国是」、「現実」という言葉を用いて海上自衛隊設置が正当化されていく過程であった。
    • 呉市は平和産業路線を堅持することも、市を挙げて海上自衛隊を迎えることもできないまま戦後の歩みを進めてきた。理念と現実が矛盾する現状に対して「国是」、「現実」という言葉を用いて折り合いをつけてきた。

  • 「海軍への親和的感情」
    • 1950年代の呉市政の転換の内在的な原因として、呉市民が抱く「海軍への親和的感情」が働いた可能性がある。
    • 戦前に海軍が設置されたことによって都市としての地位を向上させ、日本最大の軍港とまでなった呉で生きてきた人にとって、海軍を支えたというある種の誇りと思い入れが、強く印象付けられていたとしても不思議ではない。
    • 戦後も海軍に対する親和的な心情が醸成され、最終的な海上自衛隊設置に何らかの形で働いたのではないだろうか。
    • 戦前・戦中と港を中心に発展してきたという都市の歴史と、「呉は昔から海軍の町」であるというアイデンティティを捨てきれない思いが海上自衛隊設置の一要因として働いたのではないだろうか。
    • 軍港都市として海軍と共に歩んできた呉の市民が、戦後においても特別な感情を海軍に対して抱いていた可能性は考慮に入れる必要があると考える。

この論文を読んで

  • 軍転法と海自誘致の矛盾について
    • 筆者は軍転法と海自誘致の間に矛盾点を見出し、それを論じようとしている。だが軍転法の本質は海軍が遺した設備や機械などの「国有財産の処理」による「経済復興」である。時系列的には軍転法の設置→逆コース(アジアの社会主義化による米国の占領政策の転換)→海自設置という流れであり、呉市の海自誘致の目的を経済的恩恵に求めれば軍転法の本質とは矛盾しない。
    • 軍転法設置以前は、逆コースになる前だったので当時の社会的風潮として、旧海軍が遺した造船・製鉄などの重工業を継承するためには、理念のシンボルとして平和を掲げる必要があった。産業構造そのものは戦前も戦後も重厚長大の大型重工業であることは同じ(→だから1970年代のオイルショックで大打撃を受けた)
    • 市長も市民も海自誘致に傾いているので、新たな都市像を選択していると言えるのではないか。(※中国新聞だけが批判的な論調) 

  • 海上自衛隊≒旧日本帝国海軍という論調
    • 筆者は海上自衛隊と旧日本帝国海軍を同一視しており、なぜ海自と軍転法が矛盾するのかを論じていない。(軍転法と海自誘致が矛盾することを前提としている)
    • 軍転法は旧日本帝国海軍からの転換であって、自衛隊からの転換ではない。

  • 感情論で締めくくられることについて
    • 軍転法と海自誘致の矛盾に関し、国際的要員である「国是」や経済的要因である「現実」を根拠に論証してきていたのに、最後には何故か史料的根拠も無いのに「海軍への親和的感情」が述べられていく。筆者は初めから感情論という結論ありきなのではないか。