雑録

田中克彦『ことばと国家』(岩波新書) 第2章「母語の発見」


まず始めに母語って何だか分かる?



うっう〜。
読んで字の如く、お母さんから教えてもらったコトバのことれすか?



そうね。
けど、母語っていうのはそのままでは認識することなんてないわ。
母語と対立する言葉があって初めて「母語」というものが認識できるのね。



れぅ〜。
実際にはどんなのがあるんれすか。



古代ローマでは、書き言葉としてのの唯一のラテン語と日常の話し言葉の対立が見られたわね。
ラテン系諸語、いわゆるロマンス語は、ラテン語から分派していったものなのよ。
ローマの政治権力と文化的威信によってラテン語が唯一の書き言葉になっていたけど、非ラテン諸語の日常言語がラテン語を乱し、その乱れの蓄積によってラテン語から分離した独立の言語の成立への道を開いたのね。



うっう〜。
れすけどラテン語ってのいうのはガッチガチな文法体系を持っていてずっと変わってないことで有名じゃありませんでした?



これはね、きちんとしたラテン語を書ける人と、俗ラテン語仕掛けない人に差が生じて言ったの。
言語エリートがくずれていくかたちを笑った瞬間にラテン語は止めを刺されて死んだのよ。
ことばがくずれていくのは生きている証拠で、生きるためには変化が必要なの。
死んだことばは絶対にくずれないからね。



分派したのは分かりましたけど、そうなると際限なく広まっていってしまうのではないれすか?
国境を越えたりしてしますぅ。



母語とそれを共有する言語共同体との関係のみが人間の集団形成にとって根源的・自然的だから現存する国家の境界線を越えてしまうのは当たり前ね。スイスなんてドイツ語やフランス語が入ってるでしょ?



じゃあ母国語っていうのはどうなるんれす?



母語と母国語は全然違うわ。
母国語なんて国に母のイメージを乗せた国家と言語を結びつける扇情的な造語といえるわね。



そう考えると国語教育で「国語愛」の教材とされてきた『最後の授業』なんておかしくなっちゃいますよ。
確か、普仏戦争によりアルザス地方の帰属がフランスからドイツに変わっちゃうからフランス語涙目、ってお話ですよね。
けど、アルザス地方って原住民の母語は大体がドイツ語じゃないれすか。
黒板に「フランス万歳」って書いたのは、「言語を奪われないようにする」っていうのも奇妙れす〜。



そうねことばの愛着に国家への愛を伴う必要なんてないわ。
これは日本の一般読者むけの扇情的な思い入れね。
啄木に「ふるさとの 訛りなつかし 停車場の 人ごみな中に そを聞きにゆく」ってあるでしょう。
母国語なんて幻想で母語を懐かしんでるいい例だわ。