国語の共時性と通時性

国民国家における国語の役割とは何か?国民国家形成以前、その国家において話されているコトバはまちまちであった。しかし、全ての国民を均質に内包しなければならない国民国家が形成されるにあたり、国語がその装置として一翼を担うようになった。通信・出版・流通・軍隊・法律・行政などで均質な言語でなければならなかったからである。即ち国語の共時性・現在性が求められたのである。しかし、皆が同じコトバを均質に使うようになる一方で、そのコトバを使う正当性が求められる。おなじコトバを昔から使っているということを利用して、昔から、脈々と受け継がれてくる一体感を醸し出そうとしたのである。つまりは通時性・伝統性が求められたのである。この国語の共時性と通時性の矛盾は帝国の拡大にあたり様々な面で噴出していく。内地及び、琉球蝦夷に対しては、古語が方言に残るということを利用して通時性を獲得しえた。しかし、それが台湾・朝鮮、さらには満州・南方と拡大するにあたり、通時性を鑑みて簡易的な日本語を使うべきだという主張と、国語のなかに国民性が宿るので国語を簡易化するのは国体に反するという主張で対立し続けた。この二律背反は解決することなく終戦を迎え、戦後の国語民主化や外国人に対する日本語教育の中で、同じような問題が構造的暴力として発現しつつある。

参考文献

安田敏朗『脱「日本語」への視座』(三元社)

上田は過去と現在、未来を考えなければならないと言ったわけですが、それはある言語の過去を研究して、昔の言語を構築することが必要だということになる。これを仮に通時的という言い方をしておきます。これにより過去と現在をつなぐのです。一方で現在的な研究を共時的と仮に名づけます。そこで言語の構築の仕方と国民の作り方、国家の作り方を考えてみますと、共時的な現在、明治期なら明治期のある特定の時期に国民をくまなく覆うような言語が必要とされます。簡単に言えば標準語とか共通語と呼ばれるものですが、なぜ標準語や共通語が必要かといいますと、法律や教育など国民国家を運営する色々な制度を運用するには、なるべく言語が少ないほうがいいという効率の問題があります。
しかし、共時的な一体感とは、つまり現在私が話す言葉はみなさん分かっていますね。私は日本人だし、皆さんも日本人だという思い入れがあるわけです。それは本当かと疑い出せばきりがないけれども、この時点で我々は一体だと思ったとしましょう。けれどもそれだけでは不十分であって、歴史的に一体であることを証明しなければならない。我々は同じ歴史を背負った集団であり、同じ歴史を背負った言葉を話しているということにしないと、日本という国家における国民としての一体感が出てこないと国民国家を形成する際に考えられたのです。そのために言語について言えば、通時的な過去の言語がどういうものであったかということの研究も必要になってきます。1000年前の国語、2000年前の国語、という言い方をしても、それは今の我々が話している国語とつながっていることが証明できれば、2000年前からの国語から現在の国語への定義づけができるわけです。