国語教育雑文集;言語的諸能力・文芸的公共性・国語教科書共通教材


国語という科目は形式陶冶の側面が強いのだわ。教材そのものを覚えることに意味があるのではなく、教材を通して語彙力や論理的思考力や要旨把握力や文章構造分析能力を身につけるの。それで身につけた言語的諸能力を使って初見の問題を解くの。つまり国語の勉強というのは言語的諸能力を育成することなのね。これが分からないと国語の勉強方法が分からない〜ってなっちゃうのだわ。


しかしながら「育成を目指す言語能力」でゴリ押しすると、教材がなんでもいいことになってしまうのではありませんか?それこそどんなテクストを通してだって言語的諸能力を身につけることができるでしょう。実際私たちは多種多様なテクストを読解しなければなりません。教材の価値を考慮に入れていないのでは?


そうね。国語は言語的諸能力を身につけるだけではないわ。その国語教育の機能の一つに強制的に共通の教材を読ませるという効果があるのだわ。勿論、全ての教科書に同じテクストが採用されているわけでもないし、教員が恣意的に扱わなかったりもするけどね。だけど中等教育の段階(中学・高校)で、『坊ちゃん』、『銀河鉄道の夜』、『メロス』、『高瀬舟』、『故郷』、『山月記』、『羅生門』、『こころ』、『舞姫』あたりは多くの人たちが読まされたと思うのだわ。


多くの人たちが読書によって同じ文芸作品を学び同じ価値観を共有しているのですね。つまり国語というのは集団の中に同じような考え方のトレーニングをした知的同質性を形成する狙いがあるのですね。


これは国民国家論でとらえれば、国民創出のための国語と考えられ「国語は国民の血液じゃ!」って叫ぶのだけどね。いまさっきハーバーマスの「文芸的公共性」の視点から国語教科書共通教材を捉えられるのでは?と思いついたのだわ。だからこれを書いているのだわ。


「文芸的公共性」?最近読んだ新書にあった気がします。えーっと、「文芸作品などをコミュンケーションの媒体として、共にこれを享受し、議論することによって成立した「市民的な読書する公衆」を基盤とする「公共性」です」(三谷太一郎『日本の近代とは何であったか』岩波新書、2017年、51頁)とのこと。


そう。生徒に無理やり強制的に学問の時間を付与する学校空間という磁場において、共通の教材を読ませることで、「文芸的公共性」を発生させていると考えると楽しいわよね。出身や学校が違う人たち集まった時に「国語教科書の想い出」とか「国語教科書あるある」の話題で雑談や会話が行われているのを見ると、「文芸的公共性」だわーとか思うのだわ。


・・・ハーバーマスは政治的公共性が文芸的公共性の中から姿を現してくるっていう方向に進むけど、私は同じ価値観を共有する同質性ってのに面白味を感じます。


強制的に布教できるというのもすごいことだと思うのだわ。安価で大量生産されて誰でも扱うことができ供給者が絶えない、だからこそ普及するのだわ。カラシニコフみたいね。タダで誰でも即座に気軽に情報にアクセスでき、その情報をさらに熱心に布教する信者及び流通者がいる。それ故、その作品が広まり多くの人に認知されることになる。のだわ。