? はじめに
- 社会科が育成すべき市民的資質
- 社会的論争問題に対し、主体的に考え合理的に意思決定できる社会的判断力の育成
- 近年の研究:多様な価値観を保障する民主主義社会の合意形成のあり方を模した、学習過程の組織化という視点からの研究
- 今谷氏:社会的論争問題についての個人的判断を集団の意思決定へと集約する際の課題と方法を指摘
- 吉村氏:論争問題に対する意見の集約過程を、討論授業における合意形成過程とみなし、合意形成能力の育成をめざす授業を開発
- 水山氏:合意をつくる議論における「留保条件」の形成に着目し、その機能の解明を試みる。子どもが論争問題への判断を行う際に、判断内容についての一定の例外規定を設定し、作り替えることにより、対立する見解の歩み寄りを見出していけるような指導法の開発が課題。
- 先行研究の特徴
- 社会においてなされている紛争処理過程としての合意形成を子どもに体験させることにより、対立する多様な価値に折り合いをつけていく公共的な社会の見方、態度を育成しようとするもの
- 社会科の授業にも、論争問題を解決する過程を取り入れ、個人の主体性と多様な価値観を尊重しつつ、個人的決定を社会的決定へと集約できる能力の育成が求められる
- 先行研究に対する溝口氏の考え
- 社会が全体として行っているからといって、それを即、教室内に持ち込み、子どもに同様の活動を求めるという点については疑問の余地が残る。
- 近代民主主義社会においては、多様な価値の実現を社会低次元で遂行するため、様々な機構が生み出され、それらの機構が、個々人に代わって価値実現の機能を一部代替しているという側面があるのではないか。そうであるならば、まずは、そうした価値実現のための機能の分化と作動を統一的な視点から子どもに認識させるための方途が求められるだろう。そのためには、社会的になされている価値の実現、すなわち社会的判断を、再び個人の判断の次元に引き戻して考察することを可能にするような、価値判断に関わる原理的視点が必要となるのではないか。
- 価値的知識、価値判断の構造の解明は焦眉の急であるといえる。
? 社会的判断力の構造
(1) 価値的知識の構造
- 判断力育成の問題
- 問題提起
- 価値判断力育成の問題も、同様に、知識成長の問題として論じてゆくことができないものであろうか
- 法哲学の領域からのアプローチ(図1)
- 価値判断それ自体の構造を解明する手がかりとして、価値を科学的知識と類似した構造をもつものとして捉える論が提唱されてきている
- 当該社会において歴史的に受容されてきている実践的原理・原則を核として、その原理・原則の適用範囲を定める過程的な結論、及び、その結論に対する例外規定を設けるための補助仮説(留保条件)とからなる論理的セットとして考えることができる
- 具体例
- 原則「表現の自由は保障されなければならない」
- 過程的結論「マスコミの表現活動は自由であるべきである」
- 留保条件「私人のプライバシーを侵害しないかぎり、その表現活動は自由であるべきである」
- 「プライバシーを侵害しないかぎり」という条件の新たな基準が必要
- 新たな留保条件「私人の日常生活に著しい支障を与えるようなことがないかぎり、その表現活動は自由であるべきである」
- 価値判断とは何か
- 価値判断は、当該社会において受容されている一般原則を社会の中でどのように適用できるのかについての、一定の留保条件をともなった体系的な知識構造として考えることができる
(2) 価値的知識の社会的形成
- 価値的知識のさらなる特徴=社会的紛争処理の過程をとおして形成されてゆくこと
- 判断プロセスは、個人の内面よりもむしろ、社会的次元において進行すると仮定することができる
- 既存の価値的知識の修正が要請されるのは、社会的紛争が生じた場面においてであり、その際には、個人の判断を越えた、社会集的団の次元で解決が図られるから
- 判断プロセスは、個人の内面よりもむしろ、社会的次元において進行すると仮定することができる
- 社会的次元で成立した価値判断
- 社会の一部の成員によってなされた判断であっても、それが社会成員の間で望ましいものとして共有され継承されてゆくならば、規範化され、将来の社会成員も拘束することとなる
- 社会的になされている価値の実現、すなわち社会的判断を、再び個人の判断の次元に戻して、子どもに認識させることが必要
- 具体例:R.H.ラトクリフ、I.ゴードン、E.W.マイルス『Vital Issues of the Constitution(合衆国憲法の重要問題)』(以下『VIC』)
? 社会的判断力育成をめざす歴史教育原理
- ラトクリフらの社会科教育の目標
- 司法の機能と歴史教育
- 司法の機能は歴史教育を通してこそ、より良く学習される。というのも、民主主義社会においては、司法府による歴史的な紛争処理過程を通じて、実践的原理の適用される境界が漸進的に明示されてゆくと考えられるからである
- 実践的原理の具体化が社会的論争の調停を通じてなされる
- 実践的原理の具体化は、司法府の判断によって、原則の適用される社会的範囲が限界づけられることによってなされてゆく
- 「政治的、経済的、社会的論争を司法の問題に変換することによって、司法府は紛争の平和的解決に必要な機構を提供してきた」のであり、それゆえ「生徒を援助し、なぜ最高裁が政治の技術や科学に対する国家のユニークな貢献とみなされているのかを理解させることが、社会科の教師の責任となる」のである
- 過去における司法の判断は、実践的原理を制約することの妥当性を判断する基準
- 今日の社会に生きる子どもは、今の社会における実践的原理制約の妥当性を吟味する上でも、過去における司法の判断をもとに、なぜその制約が妥当であると判断されたのか、なぜその制約が妥当でないと判断されたのかを、検討することが求められる。
- 「法過程の研究は、法が抑圧者ではなく、紛争の解決者、すなわち、われわれの社会の幸福に不可欠な人間行動へのガイドであることを生徒に納得させるべきである。……法の下での権利を理解した生徒は、不正に抵抗できるし、また彼らは、他の市民の権利や社会の権利をも理解できる。法に関する知識は、個人の内面に、自分が自分自身の運命をコントロールする機会をもっているという自身を培う」
- ラトクリフらによる歴史
- ラトクリフらによれば、歴史は、民主主義社会の保障する多様な価値を具体化するに当たって、行動の妥当性の判断基準を形成してゆくために要請される。歴史教育は、子どもが、自らをとりまく今の社会のあるべき姿を自覚的に探ってゆくために求められる
? 内容構成原理
(1)全体計画-実践的原理による単元設定-
- ラトクリフらによって開発されたプロジェクト
- 中等後期(9-12)学年用に開発されたカリキュラムユニットであり、全体計画は表1のようになっている
- プロジェクトは、合衆国の憲法、裁判、及び法システムを概観する導入単元と、「信教の自由」「表現の自由」「権力分立」「奴隷制、市民の身分、参政権」「機会の平等」「被疑者の権利」と題された6単元により組織されている
- プロジェクトでは6つの単元を通じて、植民地時代から今日に至るアメリカ史の全体像をつかむことができるようになっている
- 各単元の主題となっている項目の特徴
- 単元の配列
- 合衆国憲法や修正条項の条文順に沿ったかたちではなく、多様な実践的原理が合衆国社会において具体化されていった過程を追うように配列されている。
- 合衆国憲法では建国以前から、ピューリタンらによる植民地建設やそこでの宗教紛争などにより、早くから「信教の自由」が自覚され、その実現が図られてきた。18世紀半ばには、英国政府を批判する「表現の自由」の妥当性が問われるようになった。合衆国の建国当初、最も先鋭化した問題は「権力分立」の問題であったし、19世紀後半には、「奴隷制や参政権」の問題が顕在化するとともに、多様な社会的領域における「機会の平等の実現」が課題となった。こうした権利獲得の運動は大恐慌以降「被疑者の権利」擁護の問題へと拡大する。
- プロジェクトは、全体を通して、合衆国における多様な実践的原理の自覚的形成・発展をあとづけてゆくような構成となっている
(2)単元展開-実践的原理の具体化過程-
- 単元
- 単元は主題において設定された実践的原理の具体化が、社会のさまざまな領域において制約が設けられつつも、実現されてきた過程として構成されている
- 単元は、社会の多様な領域において実践的原理の具体化をめぐり、司法府において争われたさまざまな訴訟例を取り上げてゆくようになっている
- 具体的な単元構成(第2単元『表現の自由』表2)
- 『表現の自由』は1735年から1988年までに起こった8つの訴訟例で構成されている
- 導入部
- 展開部
- 合衆国において「表現の自由」という原則の具体化をめぐって論争が生じてきた領域を網羅するよう「破壊活動[subversion]」「名誉毀損[libel]」「表現の時・場所・態様[time,place,and manner]」「猥褻な表現[obscenity]」という4つの問題領域が設定され、それぞれの領域ごとに「表現の自由」制約の妥当性が最高裁において争われた事例を扱うようになっている
- 例「破壊活動」:小単元2:第一次大戦中に反戦文書を配布した人物の行動の是非
- 例「名誉毀損」:小単元4:州法による避妊具・避妊法の助言禁止措置の是非をめぐって行われた事例
- 例「表現の時・場所・様態」:小単元5:ベトナム戦争時の学生に対する反戦喪章の着用禁止措置の是非をめぐって争われた事例
- 例「猥褻表現」:小単元7:州法による猥褻本の販売広告禁止の是非をめぐって争われた事例
- 他の単元における構成例
- 単元3:『権力分立』では「州際通商」「連邦の州行政への規制権限」「権力均衡」という問題領域
- 「州際通商」:小単元3:州によって付与された州際水上交通独占権の是非をめぐって争われた事例を扱う
- 単元5:『機会の平等』では「人種分離」「性差」「アファーマティブ・アクション」といった問題領域
- 「性差」:小単元3:配偶者手当給付手続きにおける性差による区別の是非が扱われた事例を扱うようになっている
- 単元3:『権力分立』では「州際通商」「連邦の州行政への規制権限」「権力均衡」という問題領域
- 単元は社会生活の多様な領域にわたる実践的原理の実現過程を子どもに反省的に捉えさせるものとなっている
(3)学習過程の組織化-「原理制約の妥当性」の追検討-
- 単元の学習
- 実践的原理の具体化が制約された状況
- 裁判によって争われるような社会的紛争が生じる場合、その多くは、個人・集団による自由な実践と政府などの社会的機構が設定する法や条例との間で矛盾や軋轢が生じるような場合
- そうした状況で調停にあたる司法府は、原理制約の根拠となった法を吟味し、その妥当性を判断する基準を示すことが求められるし、実際そうしてきている。また訴訟によっては、示される判断も統一的なものでなく、多数意見・少数意見の違いはあれ、異なった複数の判断基準が示されることもありうる
- 学習の組織化
- 学習は「原理制約の事実把握」「制約根拠(法や条例)の分析・解釈」を行う前半部と「制約根拠に関わる事実解釈の検討」「制約根拠の妥当性」を行う後半部という4つのパートに分かれる
- パート1
- 教科書の記述を読ませ、実践的原理の具体化が制約された事実、それによって生じた事態について把握させる
- 小単元3の場合:冷戦下の合衆国で、政府転覆を意図し煽動を行っていた共産党員スケールズが、そうした活動を違法とするスミス連邦法により逮捕・起訴され、有罪宣告を受けたことが把握される
- パート2
- 原理制約の根拠となった法や条例などの規定について、条文及び下級審(一審・二審)における議論をもとに分析・解釈する
- 小単元3:スケールズ逮捕の根拠となったスミス法の「構成員」条項の記述内容を確認し、それが違法行為の確定にどのような影響を与えるのかを考察する。またスミス法「構成員」規定に関するスケールズの解釈を検討し、合衆国憲法との整合性について考察するようになっている
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- パート3
- 問題となった規定に関わる事実解釈を、下級審における議論などをもとに検討する
- 小単元3:スミス法の「構成員」規定に関する連邦地裁判事の事実解釈を考察する。判事らが示した、「構成員」規定をスケールズの事例に適用する際の根拠について、追検討がなされる
- パート3
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- 最後のパート
- 制約根拠の規定の妥当性について、自らの判断基準を作り上げる一方で、最高裁が実際にどのような判断を下したのか、その判断基準についての吟味する
- 小単元3:最高裁判事の裁定が分かれたことから、多数派・少数派の代表として、それぞれハーラン判事とブラック判事の見解を把握するようになっている。
- ハーラン判事:スミス法の適用範囲、及び、スケールズ裁判の裁定について考える際、「構成員」条項の規定それ自体は妥当であるが、それをすべての構成員に一律適用するのではなく、「活動的メンバー」に限定して適用すべき
- ブラック判事:条項の規定それ自体を問題視する者、あるいは、煽動が革命を引き起こす蓋然性についての判断も加味すべきである
- 最後のパート
- 他の小単元における学習過程の組織化
- 歴史との関係
- 単元の学習は、過去における原理制約の妥当性を吟味した司法府の判断をもとに、なぜその制約が妥当であると判断されたのか、なぜその制約が妥当でないと判断されたのかを、子ども自らが追検討してゆくものとなっている。このような学習は、まさに、歴史を手段として子ども自らが、今の社会における実践的原理の適用を限界づける範囲を明らかにしてゆくものであるといえよう
? 教材構成の基本原理
- 学習者が形成してゆく判断力
- 教材構成の意義
- こうした事例が問題領域ごとに取り上げられることにより、実践的原理の制約についての判断基準をより体系的に捉えることが可能となる
- さらに、制約の妥当性について、司法府の多数派の意見とともに、問題が審議された当時において少数派であった別の判断基準が示されることにより、確定した司法府の判断を唯一のものとせず、相対化することができるようになっている
- 子どもは、歴史的な司法の判断を吟味することで、実践的原理制約の妥当性に関する自分なりの判断基準を探し求めてゆくことができるようになっている
- ラトクリフら教材構成の根底にあるもの
- 価値的知識が個人の内面において形成されるのみならず、歴史的社会的過程において間主観的に形成されるという考え
- プロジェクトは、社会的レベルでなされている価値判断について、司法府の判断をよりどころにして対象化させ、その吟味をせまるものとなっている
- ラトクリフらのねらい
- 社会的に正統なものとして受容されてきた合意形成を対象化し、そこでの判断基準を相対化する一方で、子どもなりの判断基準をできる限り体系的なかたちで形成させてゆくことにある
? おわりに
- 市民的資質育成をめざす社会科の方向性
- 「合意」を疑うことにあること
- 社会科はその目標とする市民的資質を、集団における合意形成能力にまで拡げてゆくのではなく、認識内容をより重視し、既存の社会的規範の批判的吟味、及び、その個性化という次点にまで引き下がるべきである