1860年代〜70年代におけるヨーロッパ国際関係の変化が準備した19世紀末の帝国主義

国民国家形成


よく固有の領土とかいうじゃない?けど世界史を勉強すると分かるけど けど けど。
国家が明確な領域や主権を持つのって近世絶対王政社会からじゃない?全然固有じゃない。
それと同じで近代国民国家っていうのも歴史上の産物なのよね。
私たちはさも自明のように思ってるけど けど けど。
そう考えるとお国のために〜とかいうのは鼻白むわね。
うちのじーさんばーさんも戦時中は国策に踊らされて随分痛い目にあったというわ。


そもそも国民としてまとまる必要が出来てきたのが産業社会への対応のためですし。
イギリス産業革命により同質の文化を持つ均質な「国民」労働者を育成する必要が出てきました。
またフランス革命義勇軍のように祖国防衛意識を持つ国民軍の創出も図られました。
このような先進工業国への追いつきのために独・伊・日では国民国家の創設が急務とされました。
1860年代〜70年代の国際関係の変化というのは、独伊日の近代国家建設を指しています。

イタリア・ドイツの統一と多民族国家オーストリア


まずイタリアの統一から見ていきましょう。リソルジメント
イタリアは1861年サルデーニャのヴィットーリオ=エマヌエーレ2世がイタリア王国を形成します。
しかし、オーストリアヴェネツィアローマ教皇領は残存したままだったのです。
この領土を回収する動きが1860年代のイタリアとなります。
イタリアは普墺戦争普仏戦争プロイセンを支援し、
ヴェネツィア(1866)と教皇領(1870)を獲得します。


次はドイツだわ。
生徒はドイツという国がずっとあったと思いがちなんだけど
ドイツは領邦国家で分裂状態であり統一した国家なんてなかったのよね。
フランクフルト国民会議などもあったけど、結局ドイツは軍事力によって統一されるわ。
プロイセンがヴィルヘルム1世×ビスマルクの下で鉄血政策を展開するの(1862〜)。
1866年、普墺戦争で勝利したプロイセンオーストリアを除外して北ドイツ連邦を形成。
そして1870〜71年普仏戦争で勝利したプロイセンヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝に即位したわ。
こうして領邦国家で分裂していてオーストリアプロイセンという二つの勢力があった謎地域は、
ドイツ帝国として統一されたのね。


プロイセンに敗れたオーストリアにも着目しておきましょう。
オーストリアは敗戦後の他民族問題に対処するためアウスグライヒし二重帝国を形成します。
他民族を抱え国民国家を形成できなかったのはオーストリアの他にロシアもありました。
両国はパン=ゲルマン主義とパン=スラブ主義を掲げ、バルカン半島の民族運動に介入します。


ドイツとイタリアは経済的には後進国であったから英仏に対抗するため
アフリカ分割に参加し、帝国主義列強を目指していくのね。
オーストリアとロシアもバルカン半島をめぐって対立し、バルカンは火薬庫状態になるの。
まさに1860年〜70年代は帝国主義前夜って感じね。

帝国主義


帝国主義の背景には第二次産業革命による独占資本の形成と資本輸出があります。
従来ヨーロッパの植民地は原料供給地や製品市場が中心でした。
それらに加えて資本輸出が活発化すると、
港湾や鉄道の建設のために、領域支配が行われるようになっていきます。
各国は植民地獲得をめぐって争い、アフリカ分割など帝国主義列強の抗争が顕著になります。
ドイツでヴィルヘルム2世が即位するとビスマルクは引退し、世界政策が展開されます。
こうして英独対立が激しくなっていくのですね。


つまりドイツとイタリアの国民国家形成が帝国主義を準備したという展開なわけね。
1860年代〜70年代の国際関係の変化が国民国家形成。
この変化が準備し、19世紀末に顕著になる国際関係上の趨勢が帝国主義というわけ。