ルイ16世時代の諸問題に対する政府の対応とその挫折


末期状態の国家や王朝を扱うと生徒たちは「滅びるのは当然」という立場にたちがちです。
つまりは「政権担当者が何もしなかった」と思い込んでしまうのです。
しかし、ただ手をこまねいていただけか?というとそうではありません。
様々な対応をとったのですが、それでも挫折してしまったということが重要なのです。
なぜ挫折してしまったか?そういうのを考えると歴史的思考力が身につきます。


政権の末期はステレオタイプになりがちだわよ。
生徒の実態を見てると清王朝ロマノフ朝、そしてブルボン朝の政権末期運営についての知識は結構ザルよね。
清王朝では洋務運動・変法運動・光緒新政の特徴と相違点は間違えやすいわ。
ロマノフ朝ではウィッテやストルイピンの改革の重要性に着目する必要があるわ。
ブルボン朝は今回のおはなしのテーマよ。
どのような改革をして、なぜその改革を挫折したかは、説明できるようにしておいてね。


そんなわけで、今回はフランス革命前夜、ルイ16世時代における諸問題への対応のおはなし。
まずルイ16世の治世下での問題点を整理しましょう。
社会的矛盾としてはアンシャン=レジーム。
財政悪化としては、宮廷の浪費、貴族への年金、アメリカ独立革命への参戦。
そしてもう一つ受験にはあんまりでませんが経済危機の深刻化もありました。
ブドウ酒の生産過剰によるブドウ栽培業者への打撃、
異常気候による1788年の穀物不作、
そして英仏通商条約(イーデン条約)による工業不振です。


アンシャン=レジーム下における社会的矛盾については説明が必要かしらね。
よく生徒のイメージにあるのが、貴族と聖職者が石に乗って平民を踏んづけてるアレね。
サン=キュロットと呼ばれた下層市民や
農民の大半であったメチエとよばれる折半小作農が
搾取に苦しんだことはとても強調されるわよね。
けれども注目して欲しいのは貴族層なの。
啓蒙思想のメッセージをもっともよく理解したのが、自由主義的貴族とブルジョワだったのね。
またブルジョワが成り上がり土地と爵位を手に入れ新貴族となった者たちもいたわ。
自由主義的貴族、新貴族がブルジョワ市民と連帯し、反体制運動の担い手となったのよ。


こういった状況の中で、ブルボン朝の政府は財政再建に乗り出していきます。
テュルゴー、ネッケル、カロンヌらが改革を行いますが、その特徴は「特権の廃止」です。
1774年テュルゴーは商取引の自由化やギルド廃止などの自由主義的改革を行いましたが失脚。
1777年ネッケルは宮廷費の削減や貴族の年金停止などを試みますが失脚
1783年カロンヌは免税特権の廃止を行うため、87年に名士会を招集しましたが失敗。
名士会では三部会の開催要求がなされたのでしたね。
1788年、再びネッケルが起用され、国王の承諾により三部会が招集されます。
ネッケルは特権身分への特権身分への課税などを提案しますが、
結局保守は貴族の反発で罷免されます。


政府の対応策であった「特権の廃止」は、特権身分の激しい抵抗で挫折したと言えるわね。
だけど、なぜこんなにも特権身分の人々は王権による改革に抵抗したのかしら?
「免税特権を廃止されたくなかったから」では不十分よね。
ここで思い出して欲しいのが「社団国家」という考え方だったわよね。


絶対王政は全然「絶対」ではなく、中世封建社会から近代国民国家への過渡期の段階でした。
国家が直接国民を支配できておらず、中央集権化は不完全だったのです。
では国王はどのようにして国民を統治したかというと、中間団体を媒介にして支配したのです。
国王は封建領主たちを廷臣として取り込む一方で、
教会や都市。ギルドや大学などにも特権を付与していきました。
つまり、王権は中間団体への特権を調整するバランサーとなることで君臨できたのですね。
ルイ16世時代の改革はこの統治原理であった社団国家そのものにメスを入れるものだったのです。


だから、王権の改革に特権身分の人々は激しく抵抗したのね。