国史概説EX002 試験対策(2)【試験問題予想】

昨日、全12回分の論点整理と予想問題を作ったので、模範解答も用意した。
試験問題を見てから論理を組み立てるようでは、絶対に試験時間内に解き終わらないであろう。
試験が開始する前に、試験はもう始まっているのである。

大問1:中世

日本における歴史学の趨勢について
  • 戦前の歴史研究について、漢文編年史・正史志向、官学アカデミズム、皇国史観から説明しなさい。
    • 明治政府の正史編纂事業は、中国の考証学による実証的方法論が目指され、水戸藩の『大日本史』を編年体に直し正史とする作業が行われていた。しかし『大日本史』は南北朝までであり、それ以降の歴史は補う必要があった。だが重野安繹らは『大日本史』を批判するようになり久米邦武筆禍事件を契機に、重野・久米は免職となった。以後、三上参次黒板勝美・辻善之助らの官学アカデミズムとなり、正史編纂は諦め、史料の編集・出版を行うようになった。そして、平泉澄・秋山謙蔵らの皇国史観が登場し国粋主義的傾向となり、日本の歴史学実証主義が始まりそうにあったが、失墜した。
  • 戦後歴史学に関し、唯物史観の影響とその結果としての実証の空洞化について説明しなさい。
    • 戦後歴史学は民族に拘りすべての民族が同じ進歩で発展していくとして、マルクス主義史観すなわち唯物史観をとった。古代奴隷制、中世封建制、近代資本制へと進むという歴史法則に則っているから科学的とされ、実証はおろそかにされた。それゆえ、歴史学は空洞化していった。
  • 1970年代における社会史の隆盛とその問題点、および社会史への反発について説明しなさい。
    • 1970年代になると、外からの理論を投げかけるのではなく下からの実証が進み、習俗、民俗、境界領域などの社会史が盛んとなった。網野善彦らが中心となり、多くの人達が社会史に参入したが、文献史料以外の様々な史料が用いられるようになり、粗雑さが目立つようになる。一方、中世と近世の断絶を強く主張する安良城盛昭が太閤検地以前は奴隷制であると唱え、社会全体をどうみるかの論争となった。
  • グローバルヒストリーの中に日本史を組み込むにはどうすれば良いか。日本外交史の事例から説明しなさい。
    • ヨーロッパの外交と前近代東アジアの外交は異なるため、ヨーロッパにないアジアの文化としてグローバルヒストリーに日本史を接続できる。日本、中国、琉球、ヴェトナムなどの冊封のやり取りが、どのように主権国家体制に変わっていったのかを外交儀礼の変化から投影していく。
時代区分論
  • 唯物史観の概略について説明し、それを日本史に当てはめようとした際に生じた問題を論じなさい。
  • 日本における封建制の区分について、起点を太閤検地に求める説(太閤検地以前は奴隷制)を「職の体系」と「作合」の観点から論じなさい。
    • 荘園制の成立とともに、寄進や立荘により土地所有が重層的となり、「職の体系」が発生した。土地の権利関係は錯綜し、中間搾取が行われる状況、すなわち「作合」が生まれた。この重層的な土地支配関係を否定したのが、豊臣秀吉太閤検地であった。領主が検地をして農民の土地支配を認めることで、作合が否定された。こうして、1対1の関係になって初めて封建制へと移行した。
書き換えられる歴史
  • 唯一普遍の歴史など存在せず、絶えず歴史が書き換えられていくのはなぜか。「最善の仮説」の観点から論じなさい。
    • 歴史は、現代を理解するために叙述される。そのため、時代ごとに問題意識は異なるために歴史は書き換えられる。歴史学は「なぜ」を問い続ける学問であり、因果関係を実証的に明らかにしていく。しかし因果は一つに絞れないため、「最善の仮説」を目指すことになる。だがそのアブダクションが妥当かどうかは分からない。故に学会があり、目にされされることで妥当性を問う。
  • 書き換えられる歴史の事例として、倭寇の主体論争がある。戦前では「倭寇=日本人説」であったが、どのように書き換えられてきたかを説明しなさい。その際、「境界人」の概念の導入と「民族意識」からの反論を述べなさい。
    • 戦前における倭寇はヒーローであり、海外雄飛の象徴であった。そのため当然、倭寇=日本人説が採られていた。だがしかし、両親が朝鮮人である朝鮮系倭人の存在、北九州が倭とされており日本は別の存在であるという認識、高麗沿海民の課役逃れなど様々な倭寇の主体がおり、倭寇=日本人ということはできない。そのため村井章介は「境界人」を唱え、帰属問題は捨象すべきであると主張しているが、現代人は国民国家に所属するため、どうしても民族性を問われることになる。

大問2:近世

近世の特質
  • 地域として日本列島を区分した際、三つの文化の観点から分類し、江戸時代においてどのような状況となったのか説明せよ。
  • 国家としての日本に関し、大和王権の継続性について説明せよ。
    • 大和王権の継続性はまず天皇に求められる。現代にまで天皇が続いているから大和王権が継続しているといえる。また、奈良時代に作られた律令制が形骸化したとはいえ、明治時代の太政官制まで継続する。また現在でもその残滓は見られ、例えば小学校の校長が死ぬと従六位が与えられるなど、故人を顕彰する機能として位階制が残っている。
  • 時代区分論において、社会構造の転換から区分した際、どのような観点から区分できるか。内藤湖南応仁の乱、安良城盛昭の太閤検地柳田国男の木綿、高埜利彦の犬喰いを踏まえて説明せよ。
    • 内藤湖南は和風文化の成立に着目し、応仁の乱以前は竪穴住居であったことなどを例示しながら、応仁の乱で区分することを唱える。安良城盛昭は封建制度鎌倉時代ではなく太閤検地で成立したことを主張し、それ以前は奴隷制であったと見なしている。柳田国男は16世紀〜17世紀に木綿が国産化されて普及したことで区分し、高埜利彦は元禄時代文治政治における生類憐みの令を契機に日本における犬食いの風習がなくなたことを指摘し文化の変質から時代を区分している。
  • 江戸時代の画期性について、水林彪、吉田伸之、岸本美緒の江戸時代の評価を説明せよ。
    • 林彪幕藩体制はそれ以前の日本の歴史の総括であるとみなし、日本的社会の成立と見なしている。吉田伸之は日本における固有文化の成熟・結晶が18世紀に起ったとして江戸時代を前近代の達成という見方を持つ。岸本美緒は現代人が「日本的」と考える生活様式や社会編成の特異執が江戸時代に定着したとして伝統社会の形成という見方をしている。
近世身分制社会
  • 身分の発生を「民族」と「職能」の観点から説明せよ。
    • 征服民族が被征服民族を劣位とした時に生じるのが民族にも身分。一方で同じ集団内で賤しい職業として賤視するのが職能による身分。
  • 太閤検地の意義について、中世における重層的な土地支配を踏まえ、領主的土地所有と百姓的土地所有の観点から説明せよ。
    • 荘園制により重層的・錯綜的であった土地制度を原則的に1対1とし、中間支配が取り払われた。これにより、生産された農産物を年貢として収奪する権利である領主的土地所有及びその土地を耕して生産する権利である百姓的土地所有が生まれた。
  • 固定化されていた身分制社会において、その周縁にいた人々を参勤交代と一季居奉公人の観点から説明せよ。
    • 一定期間だけ務める臨時採用の武士を一季居奉公人といい、参勤交代が彼らを必要とした。参勤交代は軍役であり、領知に応じて軍制を整えておかねばならず、軍役令によって定まっている。しかしこの数通りに揃えることは不可能であり、出発するときと大きな城下町を通る時と江戸に入る時だけ人数を揃えて後はスリムでくる。そのため臨時で採用される奉公人が求められ、固定された身分制度に周縁的存在が生まれる。
  • 近世社会の身分が流動的であった事例について、「本所編成」及び「株売買と養子縁組」から説明せよ。
    • 本所編成により身分制度を流動した人物として渡辺左京が挙げられる。渡辺左京は当初武士として生まれるが牢人となったが、武家奉公人を経て陰陽師となり、神社の「社人」となり除地を得て土地持ち陰陽師となる。その後、土御門家の家来となり公家身分になるも追放される。しかし、今度は旗本の家来となり武士身分となったが、家老に抜擢されるも不正告発事件により告発した家臣に殺害された。
    • 株売買と養子縁組により身分を流動した人物としては、樋口一葉の父、樋口則義が挙げられる。百姓として生まれるも武家奉公人から陪臣となり、身分を偽って御家人同族となる。そして御家人の株を100両で買って幕府に許されて御家人となった束の間、大政奉還が起こってしまう。すると新政府の陪臣となり、新政府に出仕した。
触穢の観念
  • 江戸時代における穢れの観念の発生について服忌令を挙げて説明せよ。
    • 公家社会には血や死に対して穢れという観念があった。武家政権である江戸幕府においては穢れの観念に囚われる必要はなかったのだが、綱吉の時代に礼の秩序を上受けるため穢れの観念を制度化してしまった。それが服忌令であり、穢れがうつるから喪に服するということが制度化された。現代の忌引きも、穢れがうつるから学校や職場に来るなという意味で公欠となる。
  • 明治時代における身分解放令について、江戸時代との連続面と断絶面を説明せよ。
    • 江戸時代、穢れの観念が制度化されたため、血や死に関する職能がエタ・ヒニンとして編成された。皮革産業などだけでなく、穢れをはらう清掃や芸能などもエタ・ヒニンとされた。江戸時代においては差別はあれど経済的は保障されていたが、明治時代になると身分解放令により職業上の特権を奪われてしまった。これが断絶面である。しかし、壬申戸籍には新平民と書かれたため、触穢の観念は残存することとなった。これが連続面である。
  • なぜ現代日本において被差別部落問題を教育しなければならないのか。身分制社会の包摂と排除の原理から説明せよ。
    • 江戸時代から続く触穢の観念は、権力者が統治の為に共同体内部に恣意的に差別を生みだしたものである。このように、権力者による統治のために、包摂と排除の原理として恣意的に差別が生みだされることが多々ある。被差別部落の問題は、その一事例であるため、これを学習しておかないと、別の差別が生みだされた時に、盲目に従属することとなってしまう。

大問3:近現代(1) 明治国家

明治国家の理念と位置づけ
  • なぜ明治国家は理念上は天皇親政だったのか。「支配の正統性」という観点から説明せよ。
    • 明治国家は「公儀」であった江戸幕府を倒したため、それを上回る支配の正統性を示す必要があった。そのため、神武天皇以来続く天皇が自ら政治を行うことで権力の正統性を示そうとした。
  • なぜ明治国家の実態は天皇が親政を行えないのか。「国民国家における政治的側面」から説明せよ。
    • 政治とは全国民に価値の配分を行う事。つまりは税金をとり福祉の形で再配分を行うのだが、価値の権威的配分は誰がどうやっても不満が発生する。そのため、為政者のせいで損をしたんだと思う人間が一定数出てくると、為政者の交代が起こるわけだが、天皇は取り換えがきかないので、失敗ができない。政治は誰がやっても必ず失敗するので、天皇が親政を行い瑕がついたら、国家そのものの失敗に結び付いてしまう。支配の正統性が揺らいでしまう。故に天皇親政という建前をとるけれども、天皇は政治に携わることができないのである。
  • 明治政府が理念上中央集権国家をとった理由を、幕藩体制と比較し、王土王民論の観点から説明せよ。
    • 江戸時代には幕藩体制が敷かれており、藩という小さな国家の集まりである一種の連邦制のような国家であった。この幕藩体制を否定するため、全ての土地と民は天皇ものであるという王土王民論がとられ、版籍奉還廃藩置県が行われ、明治国家の中央集権体制を整えたというストーリーを創造した。
  • 幕藩体制の地方支配の実態について説明せよ。
    • 幕府は全国統治をしているというが、やっていたのは治安の維持である軍事警察と年貢を取る徴税のみ。これ以外のことは武家政権では無関心。軍事警察と徴税が武士の本質であり、一般民衆は「民草」という認識であり、そもそも行政サービスを行うという発想がなかった。
  • 明治国家の地方支配を地方自治制(1888)における府県と市町村の観点から説明せよ。
    • 明治国家は幕藩体制江戸幕府を否定するため中央集権の理念を掲げたが失敗する。そもそも中央の人数が足らないので、支配を末端まで行き届かせるのは物理的に不可能だったのである。そのため、1888年地方自治制においては府県・郡・市町村の三段階に分けて地方統治が行われることになり、中央から地方へ人材が派遣されたが、それは府県・郡レベルであった。市町村は、地元で互選することになり従来通り地元の有力者、江戸時代における名主層たちが自治を行うことになった。つまりは末端は江戸時代のシステムを横滑りにさせて代行した。
  • 現代日本において中央集権国家とはいえない側面を説明せよ。
    • 現代においても国家が個人への直接支配が及んでいない。国家事業のマイナンバーカードも委託されて市町村がやっており、引っ越すと市町村で登録し直さないと使えなくなる。国の事業なのに国民を直接把握できていない。年金の失敗もそのせい。1980年代までは年金は市町村がやっていたが、社会保険庁ができて国が年金事業をやることになったが、能力がなくて大失敗した。現在も、年金を処理できる能力はなく、いつも失敗ばかりしている。
権力分立体制、内閣制度、政党政治
  • ★★★井上毅は一人の大臣が内閣を総辞職させないようにするため単独輔弼責任を組み込んだのに、なぜ結果として井上の意図とは逆に単独輔弼責任のために内閣が総辞職するシステムになってしまったのか?内閣官制第五条「閣議」の側面から説明せよ。
    • 井上毅は内閣制度に否定的であり、天皇国務大臣を個別に首にできるようにするため、明治憲法五十五条を入れさせた。さらに内閣総理大臣の権限を低下させるために、内閣職権を内閣官制に書き換えた。しかし、この内閣官制第五条の七に「勅任官及地方長官ノ任命及進退其ノ他各省主任ノ事務二就キ高等行政二関係シ事体稍重キモノハ総テ閣議ヲ経ヘシ」という規定が井上毅の意図を裏切ることになる。この規定のせいで、内閣の責任は大臣全員で取ることになってしまったのである。井上毅が自分で作った内閣官制で閣議を法制化してしまったので、閣議が全員一致となり、総辞職につながるようになってしまったのであった。軍部大臣現役武官制の倒閣機能が発生したり、終戦工作で天皇が安易に「聖断」使えなかったのもこのためである。
  • なぜ明治憲法においては必然的に政党政治へ繋がるのか。国民国家における政治的側面を踏まえ、閣議と連帯責任の観点から説明せよ。
    • 政治は富の再分配であるため、誰がやっても必ず不満が出る。明治国家は統治の正統性を神武より続く天皇に求めたため、替えのきかない天皇は政治を行うことができない。そして内閣官制により、必ず閣議を経て裁可を得ることとなった。全員一致、つまりは連帯責任は生じたのである。それゆえ、閣議を構成する大臣は同じ思想、政見を持つ者で組織されることが必要となった。同じ思想、政見を持つ人々は、それすなわち同じ政党の人々である。以上により明治国家は政党政治へ向かった。
  • 明治憲法において政党政治はどのように正統化されるか。三つの観点を挙げて説明せよ。
    • イギリスの議院内閣制をモデルにした理想主義憲政論、先進国の模倣と実用性を掲げる実用主義憲政論、明治憲法政党政治の根拠を求める「不磨の大典」論。
統帥権独立、陸海軍、戦時体制
  • 明治国家における国政と統帥の分離を明治憲法11条と軍人勅諭から説明せよ。
    • 軍人勅諭において「世論に惑はす政治に拘らす」とあり、陸海軍は政府に口を出せない。一方で、明治憲法11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」から政府の言う事で陸海軍は左右されない。こうして国政と統帥が分離している。
  • なぜ明治時代においては国政と統帥が分裂せずにいられたのかを人材の側面から説明せよ。
    • 明治期においては、陸海軍の指導者は国家の指導者であった。陸軍では山県有朋桂太郎寺内正毅、海軍は山本権兵衛、彼らは全員首相も経験する。つまりセクショナリズムに陥らずに、国家の利益で行動することができ、逆に陸海軍の利益を押さえつける立場にもなっていた。
  • なぜ近代の旗手であった陸海軍が反近代の権化となってしまったのか?政党政治と総力戦の観点から説明せよ。
    • 大正時代になり、政党政治が行われるようになると、陸相海相は予算編成のために政党政治にコミットするようになる。つまりは世論に惑うようになる。また第一次大戦以降戦争形態が総力戦に変わったため、全国民が戦争に動員されるようになる。つまりは統帥権が独立した状態では総力戦に対応できないのである。そのため、田中義一宇垣一成軍縮を行い、兵員を削減し最新兵器の導入を図ったが、大幅なリストラが行われたため、最新兵器が敵視されるようになり、精神主義化していった。故に反近代の権化となった。
  • ★★★明治国家において、ガルパンの「戦車道」が成立し得ないのはなぜか。近代兵器への敵視と精神主義化の側面から説明せよ。(※ホントウに講義内で教授が解説なさった)
    • 総力戦への対応のために軍縮を行い近代兵器を導入したため、近兵器が敵視され精神主義化してしまったので、戦車に対して批判的だった。故に、戦車道は成立しない。
  • 明治国家はなぜ崩壊したか。天皇親政の理念と天皇超政の実態を踏まえ、天皇の戦争責任の観点から説明せよ。
    • 明治国家は支配の正統性を天皇に求めたため理念上は天皇親政をとった。だが、支配の正統性を天皇に求めたからこそ、天皇は政治上の失敗ができなくなり、政治にアンタッチャブルとなった。そのため実態は天皇超政となり、天皇がまとめなければならないのに、天皇は何もできないという矛盾に直面した。天皇が政治に介入するには「聖断を仰ぐ」という状況が発生しなければ、何もできなかったのである。ポツダム宣言受諾の際においては、鈴木貫太郎閣議を運営し、受諾反対の立場を取る大臣が暴発し、内閣総辞職となる事態を防がねばならなかった。故に、御前会議においてちょうど大臣の数が同数対立するように調整し、天皇に聖断を仰ぐシュチュエーションを発生させなければならなかったのである。鈴木貫太郎閣議運営により、天皇が聖断をくだせるシュチュエーションを現出したのである。しかし明治国家は、天皇に責任が及ばないように作られていたのに、結局は天皇の聖断により戦争が終結したということで、天皇に戦争責任が発生してしまったのである。この矛盾により、明治国家は崩壊した。聖断で戦争を終結させた時点で、明治国家は崩壊するしかなかったのである。

大問4:近現代(2) 戦争と植民地支配

1930年代と日本の戦争
  • 1931〜1945年におこった軍事・戦争はどのように認識・区分されてきたか。それぞれの説を挙げて説明せよ。(1931満洲事変、1933塘沽停戦協定、1937日中戦争、1941太平洋戦争をどのように捉えるか)
    • 1930年代当時は満州事変、支那事変、大東亜戦争という呼称で区分されていた。戦後における呼称・区分については満州事変、(日華事変→)日中戦争、太平洋戦争(アジア太平洋戦争)という区分である。支那の言葉自体には侮蔑の意味はないが、戦前戦時中に侮蔑的に使われたので、戦後になって使用を避けている。アジア太平洋戦争については太平洋戦争の言い換えとして使われる場合がある。十五年戦争という枠組みにつては、満洲事変後、塘沽停戦協定が結ばれているので、15年みっちり武力行使の伴う戦争をしていたわけではない。
  • 満洲について「州」と「洲」で何が違うかを説明せよ。
    • 現在「州」を使うのは旧字か新字かの区別による。しかし満洲はとは民族名であり地名ではなかった。そもそも満洲という地名はなかったのである。満洲族の民族名が地名に転化した。よって民族名説に沿ってサンズイが付けられる。
  • 関東軍はなぜ満洲事変を起こしたか。「満蒙の特殊権益」を踏まえ経済・移民・対ソ政策・対朝鮮政策の観点から説明せよ。
    • 経済的には日本は国外投資の58%を満洲に集中しており、移民政策としては過剰人口のはけ口としていた。対ソ政策としては対ソ戦の第一線の部隊として期待され、戦争資源のためにも総力戦体制の構築に不可欠であった。対朝鮮政策としては、間島パルチザンに悩まされており、朝鮮統治の安定にも南満洲の日本支配が求められていた。
  • 華北分離工作について冀東政権の機能的側面から論ぜよ。
    • 1931年の満州事変後、1932年に満洲国が成立し、1933年には塘沽停戦協定が結ばれ中国側は満洲国を事実上認めた。1935年に中国国民政府が幣制改革を成功させ蔣介石が経済的統一を進めると、日本は中国統一を妨害するため華北分離工作を進めていった。冀東政権が成立すると、日本の資本・商品が中国になだれこみ、さらに密貿易も盛んになった。
  • なぜ盧溝橋事件の発生が戦時体制の確立に繋がるのかを説明せよ。
    • 盧溝橋事件を契機に物資統制として輸出入品等臨時措置法が、資金統制として臨時資金調整法が1937年9月に制定された。以後、戦時中にものすごい細かい法令がでるが、この二つが根拠法となっている。故に、盧溝橋事件を契機に戦時体制の確立に繋がった。
植民地工業化論
  • 満洲研究に関し、戦前〜現代にいたる満洲研究の概要・論点を説明せよ。
    • 戦前は植民学が行われていた戦争で断絶した。戦後において植民地研究としての満洲研究も始まるが、一方で満洲支配を肯定する関係者の回顧録なども多く出版され、歴史認識問題が激しくなっている。
  • 朝鮮研究に関し、戦後朝鮮研究は朝鮮近代史料研究会が主導したが、その概要を説明せよ。
    • 穂積真六郎が朝鮮統治を肯定するために大学院生たちを集めて組織したのが、朝鮮近代史料研究会であり、旧総督官僚に聞き込みを行ったが、大学院生たちは穂積の思惑とはことなり、日本の朝鮮支配に否定的であり、実証的な研究が進んだ。
  • 帝国主義論に関し、現在の植民地研究において民族闘争に対する評価が低いのはなぜか説明せよ。
    • かつては民族闘争が重視されていたが、民族闘争が戦われた結果、何かが大きく変わったかといわれれば、さほど変化していない。故に、現在では大きく取り扱われることはない。
  • ロストウの近代化論について説明せよ。
    • 全ての社会は伝統的社会から離陸し、成熟社会、高度大衆消費社会に向かうという考え。マルクス主義の歴史的発展段階を否定するが、共産主義は伝統的社会から離陸するための一つの選択としてはありうると見なす。全て時間が解決するので、革命運動や民族運動は必要ないとする。
  • フランクの従属理論について説明せよ。
    • 先進国と低開発国は不等価交換であり、先進国が得をし、低開発国は損をするという考え。世界経済は発展しているはずなのに、いつまでたってもアフリカは飢餓であることから着目された。低開発国の発展とは「低開発」の状態がますますひどくなり、搾取され続ける。
  • ウォーラーステイン世界システム論について説明せよ。
    • 経済を1国1国の経済を独立して扱うのではなく、世界経済を一つのシステムと見る。中核-半周辺-周辺の三要素から分業が成り、他の中心国を圧倒している場合は覇権国家と呼ばれる。覇権国家は移動するものであり、17世紀オランダ、19世紀イギリス、20世紀アメリカと、それぞれ動く。
  • 「経済発展論的視角」に基づく植民地研究を「植民地近代化論」と「収奪論」の立場から説明せよ。またその二つの対立概念を克服する視座を答えよ。
    • 植民地近代化論は韓国経済の源流は植民地期に形成されたとして、植民地支配が近代化をもたらしたとする。その一方、収奪論は日帝は収奪したのみであり、朝鮮人の近代化志向を植民地権力が抑圧したことを強調している。両者を克服する道としては近代という言葉にプラスの価値を置かない植民地的近代論が唱えられており、植民地期と解放後を連続したものとしてとらえ、近代を批判的に分析しようとしている。