雑録

間野山研究学会・桜ヶ池クエストに対する南砺市の地域・観光振興政策上における位置づけ

教授が授業で配布したチラシに釣られて参加した間野山研究学会であるが、どのような組織なのかよく知らずに参加したところがあった。そのため、南砺市の地域・観光振興政策ととどのような関係があるのかを調べ、整理した。

  • 間野山研究学会及び桜ヶ池クエストの誕生
    • 2015年8月、ピーエーワークスが母体となって地域振興系の一般社団法人:PARUSが設立された。同年9月、北大とPARUSは南砺市と連携協力し、地域振興を行うこととなった。2017年10月、南砺市はアニメ上の架空の都市:間野山市と姉妹都市提携を結ぶことになった。その際、間野山研究学会と桜ヶ池クエストが提唱されたのであった。PARUSによる具体的な取り組みが「桜ヶ池クエスト」。「桜の木の整備や育成の応援、南砺市・桜ヶ池エリアのにぎわい創出活動」を目指している。そして北大の教授が提唱したのが、間野山研究学会の設立であった。2018年4月、間野山研究学会が実際に発足し、同年5月に桜ヶ池クエストが始まった。
  • 桜満開プロジェクトとは何か。
    • 2013年3月、南砺市ではエコビレッジ構想が策定された。これを受けて翌2014年3月に「桜ヶ池アクションプラン」が策定され、同年4月にプロジェクト第1弾が開催された。第1弾開催時点では「桜満開プロジェクト」の呼称は見られないが、これを契機に春秋2回行われることとなり、2018年秋(10月27日)には第10回が行われた。南砺市のwebには毎回掲載されているわけではないようだ。確認できるには、1,5,9回のみ。第10回は、間野山研究学会・桜ヶ池クエスト・南砺市エコビレッジプロジェクトが共同で行った記念すべきプロジェクトだったのに、報道されていない(2018年11月4日現在)。
  • 結論:間野山研究学会・桜ヶ池クエストの南砺市の地域・観光振興政策上における位置づけ
    • つまりは、2015年9月に北大・PARUS・南砺市で結ばれた連携協力に始まる地域振興政策が具体化された形であると位置づけられる。そして2013年3月に策定された南砺市エコビレッジ構想の一環として、2014年4月に始まった「桜満開プロジェクト」に「桜ヶ池クエスト」が結びついたのが、現在の状況である。

年表

ピーエーワークス南砺市誕生初期
北大・PARUS・桜満開プロジェクトの結合までの動き

【補論】立野原地域の歴史

立野ヶ原
たてのがはら
富山県南西部、南砺(なんと)市にある洪積台地。江戸時代は加賀藩の鷹狩(たかがり)場で、明治中ごろからは金沢第九師団の演習場であった。第二次世界大戦後、開拓地として入植され、タバコやダイコンなどの野菜の栽培や酪農が行われている。灌漑(かんがい)用の桜ヶ池周辺はレクリエーション地域でもある。
[深井三郎]

"立野ヶ原", 日本大百科全書(ニッポニカ), JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2018-11-04)

立野ヶ原
たてのがはら
袴腰はかまごし山から北へ延びる尾根は桜さくらヶ池の南方まで続く。この尾根の東側には山田やまだ川、西側には打尾うちお川が北流し、小矢部おやべ川に注ぐ。桜ヶ池から北へ約三キロにわたって、城端町・福光ふくみつ町にかけて広がる丘陵が立野ヶ原である。新生代第三紀洪積層からなり、東西は約二キロ、南部が高く、標高は一二〇―二六〇メートル。東西方向に複雑な起伏がある。近世には周辺に東に西原にしはら・原はら・塔尾とうのお・千福新せんぶくしん・経塚野きようづかの・大西新おおにししんの各村、西に七曲ななまがり・立野新・土生新はぶしん・大西おおにし(現福光町)の各村があった。地名の由来は、草地として存在する野原、すなわち秣場・萱立場という意味であろう。寛文五年(一六六五)城端善徳ぜんとく寺門徒二二ヵ村の肝煎連名で御花切山二町歩を寄進しているが、この山は立野ヶ原の南東部にある。「山田之郷中、山割仕ニ付而、御花切山少談合可仕由、被仰下候。右何連も郷中相談之上ヲ以、西原村之東、丸山と申所、五まんたう道ヲきりニ永代御花山ニ進上仕候」とあり(善徳寺文書)、もと山田郷に属した二ッ屋ふたつや・瀬戸せと・上見うわみ・中尾なかお・原・塔尾・野口のぐち・金戸かねと・野田のだ・是安これやす・信末のぶすえ・西原、利波河とのご・徳成とくなり・殿との・高畠たかばたけ・神成かみなり・久戸ひさと・梅原うめはら・在房ありふさ・宗守むねもり(現福光町)、田尻たじり(現福野町)の二二ヵ村肝煎が署名している。現在の桜ヶ池は昭和二七年(一九五二)に完成したが、当初は西原谷溜池と称し、昔の西原村はその周辺にあった。また「五まんたう道」とあるが、護摩堂への道と解され、立野ヶ原南部の山麓修験道山伏の修行する仏堂があったという。

元禄(一六八八―一七〇四)頃、西原村に緒〆石(瑪瑙)が出土した。宝暦(一七五一―六四)頃には水上谷・西原谷を流れ大西村に至る大井おおい川にも出土し、大井川石と称した(越中志徴)。丸まる山を越えると是これヶ谷だに(現福光町)があり、遥か遠くには小矢部川を隔てて医王いおう山(現同上)の山並が連なる。是ヶ谷の北、立野新の南に位置して次郎右衛門堂がある。その参道の石標に「伊東神社」とあり、大西村を開拓した伊東家の先祖を祀る石堂といわれる。泰澄が開いたという医王山には、かつて栄えた四八ヵ寺の僧房があった。元禄八年蕉門の俳人八十村路通は「育王房跡」と題して「かげろふも苔にとちたるしめり哉」と詠んでいる(城端町史)。明治以降には陸軍第九師団砲兵射撃場跡・集団開拓地としての歴史がある。

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"たてのがはら【立野ヶ原】富山県:東礪波郡/城端町", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2018-11-04)

西原村
にしはらむら
[現]城端町立野原たてのはら

かつての当村の集落は桜さくらヶ池南部の水底にあった。立野ヶ原陸軍演習場の拡張で農地の買収が進み、大正八年(一九一九)全戸が移転した。現在西原と称している地区は昔の示野新しめのしん村の土地で、元の西原からは約四キロ離れた場所にある。

元和五年(一六一九)の家高新帳では上組本江に属し、役屋数五。正保郷帳では高一六二石余、田方一〇町二反余・畑方六反。寛文一〇年(一六七〇)の村御印では草高一六九石、免五ツ三歩、小物成は山役六九匁・蝋役五匁・牛役八匁(三箇国高物成帳)。文政八年(一八二五)能美組、天保一〇年(一八三九)以降山田組に属した。嘉永六年(一八五三)の村鑑帳(菊池家文書)では家数一八・人数一一〇(男五四・女五六)、馬一、おもな稼は杪柴・苧・ぜんまい売出しなど。明治五年(一八七二)の戸数二四・人数一一六(男六三・女五三)、神社一(明治初年の礪波)。正徳二年(一七一二)の礪波郡社号帳(川合家文書)に神明が一社あり、現在は野口のぐち稲荷神社に合祀。「越中志徴」によれば、元禄一五年(一七〇二)頃「城ケ端近辺西ケ原より出申おじめ石、先年商売申処に、近年御留山に罷成候」とあり、「西原緒〆石」とも記している。おじめ石は瑪瑙石のことで、天保九年巡見使への答申には「瑪瑙石之義御尋有之候とも存不申段御答可申上事」(善徳寺文書)としている。桜ヶ池周辺の集団開拓地は現在立野原に含められている。

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"にしはらむら【西原村富山県:東礪波郡/城端町", 日本歴史地名大系, JapanKnowledge, https://japanknowledge.com , (参照 2018-11-04)