満洲事変前までの満洲観光についての考察。割引切符による観光空間形成、満洲旅行ブームの様相、一般募集旅行団体の集客、修学旅行の実行システムが分析されている。
第一節 観光空間の形成
- 割引切符
- 1909年9月25日に、鉄道院から販売された「満韓巡遊券」をはじめとする各種割引切符により、内地・朝鮮半島・満洲を周遊する観光観念が生成、浸透していった。
- 一般邦人客相手への切符販売の成立
- 「〔……〕1912年3月、鉄道院に創設された半官半民の斡旋機関・ジャパン・ツーリスト・ビューロー(JTB)も、第一次世界大戦終結の1918年11月から、これまで外人客だけに販売していた〔……〕連絡券を一般邦人客に対しても販売を開始するようになり、この時以来JTBの事業は、外客誘致宣伝事業から代売斡旋事業へと傾斜し始めた(日本交通公社史編纂室『日本交通公社70年史』、1928年、33頁)。25年、JTBは、三越進出を皮切りに、昭和に入ってからデパートへの出店を増やし〔……〕「鮮・満・台への連絡切符」の手配サービスも行っている。このように、デパートは、旅行、ひいては満洲への旅行まで百貨のなかに品揃えにするようになった」(131頁)
- 1914年と1929年の旅行コースの比較
- 観光案内で薦められた旅行券の範囲はほぼ変動せず。関東州と満鉄沿線という帝国圏の重なり合う地域。だが観光都市とそのスポットにはいくつかの変化が見られ、日本人の手による文化施設や、大手企業、近代産業開発が多く組み入れられるようになった。
- 観光圏内における訪問地の変化
- 「満洲事変前まで、内地客に薦められた観光圏は、満洲における帝国の勢力圏とほぼ重なり合うことに気づく。ただし、都市は同じでも、29年版の方には、満蒙資源館(大連)や、博物館(旅順)、東亜煙草工場(営口)、南満製糖会社(奉天)、満蒙毛織物会社(奉天)、商品陳列所(長春)、公園(長春)、採木公司(安東)など、日本人によって建てられた文化施設や、大手企業など、14年版にはなかった見学箇所が数多く盛り込まれている。遼陽、鉄嶺といった日露戦争の激戦地で有名な都市は、その後目立った発展が見られなかったせいで、29年の時点ではコースからはずされていた。その代わりに、鞍山製鉄所という日本人の手にかかる近代産業の見学が加えられている。」(132-133頁)
第二節 満洲旅行ブーム
- 1917年ころには、政治家、ジャーナリスト、学生、教育団体しか訪れなかったが、26年ころには、職種、階級、地域を問わない全国的に人気な観光地となる。
- 満洲旅行者の顔ぶれの変化(※引用に注釈がついてないので日付が分からない)
- 「1926年3月の『中外商業新報』は「往時植民地関係者または思惑師の来往する処位に考えられて居たのが今日は北海道の果てからまでも渡来するという有様で隔世の感がある、官吏がある、実業家がある、教育家、学生等、種々雑多でこれ等の数は昨年が一昨年より一倍半の多きを示したという盛況である」と報じた。」(135頁)
- 「満洲現地の新聞『満洲日日新聞』も、「最近は之等学生団体は勿論県主催の教育視察団、実業視察団其他官界民間の各種各階級を網羅し総ゆる方面の視察団が増加し範囲も従来は満洲と特殊関係ある関西地方や主要商業地区に限られたかの感あつたのが殆ど全国的になつて来た」と、満洲旅行が職種、階級、地域を問わず、全国的に流行してきたことを実感している。」(135-136頁)
- 満洲旅行者の顔ぶれの変化(※引用に注釈がついてないので日付が分からない)
第三節 一般募集旅行団体
- 新聞社
- 鉄道局
- 「新聞社に匹敵するほどの集客力を持つのは、交通量の激しい鉄道局である。〔……〕1915年10月、中部鉄道管理局の主催により二百名規模の観光団が来満した。28年頃から、諸地方都市の運輸事務所の主催による満洲旅行団が盛んになり、その範囲は、北海道から、東北、北陸、関東、東海地方までにわたった。」(137頁)
- 日本旅行会
- 「〔……〕満洲旅行を定期的に主催してきたのは、日本初の民間旅行社「日本旅行会」である。〔……〕1927年に、会長の南新助は、初の海外旅行団を満鮮行きと決めた〔……〕第1回満鮮旅行は、大阪運輸事務所、朝鮮総督府鉄道局、満鉄から特別な便宜を受け、貸切臨時列車で実施された。〔……〕行程15日、旅費130円。参加者275名のうち、高齢者が少なかったのと、婦人が45名と多いことが特徴である。〔……〕2年後の29年5月「第二回鮮満視察団」は〔……〕北海道より九州まで殆ど全国に亘る315名の参加を得た。〔……〕旅行中「日の丸」マークの付いた社旗を掲げたり、旅順法会を開き、記念物を奉納したりするなど、民間旅行社・日本旅行会主催の満洲旅行は、つねに団員に「帝国臣民」としての自覚を持たせ、帝国のありがたさを想起させる国家儀礼的な旅といえよう。日本旅行会はそれ以降1940年に至るまで、毎年欠かさず1回から3回まで、満洲旅行を主催し続けていた。」(137-140頁)
第四節 学生の満洲旅行
- 国語教科書
- 「大正時代までの中等学校の国語教科書には、日露戦争までの探検家小越平陸の旅行記や、日露戦争後の夏目漱石、田山花袋などの紀行文が選択されている。一方、昭和時代に入ってからは、満洲国建国の1ヶ月後に満洲文化協会から刊行された、『満蒙新国家と我生命線』(佐藤四郎著)や、満鉄総裁松岡洋右の『満鉄を語る』など、政治色の濃い文章が選択されるようになった。〔……〕教科書というメディアと学校というメディア空間を通して、政府は、生徒たちに「満洲への」ある種の「既視感」を植付けていたのである。満鉄の秘書課長上田恭輔が、これに関して次のように文部当局の意向を推測している。「〔……〕我が文部当局としても将来の日本人に向つて暗々裡に満洲見学を促して居るものと見て差支えないと思ふ」(上田恭輔「満洲の旅と北海道」、『満蒙』第14年第8号、満洲文化協会、1933年8月、120頁)」(144頁)
- 修学旅行への特恵
- 「満鉄は、教育者の満洲視察を援助するだけでなく、早くから、学生生徒たちの満洲旅行の誘致にも力を注いできた。〔……〕1907年夏、満鉄はまだ営業をスタートして間もないころだったが、前年に続く文部省主催の第二回満韓修学旅行に賛同し、8割引きといった思い切ったサービスを断行している〔……〕満鉄は創立当時から一貫して、学生生徒たちと教職員向けに高率の割引を実施し、満洲修学旅行の興隆を支えてきた。」(152頁)
- 「満鉄だけでなく、汽船会社や旅館、観光バスなど、一連の観光関連機関も満洲行きの学生団体向けに特別割安料金を設けている。このような徹底した特恵制度のおかげで、満洲修学旅行団は、同じコースで行く普遍団体の6~7割ぐらいの出費で旅費を賄うことができていた。」(153頁)
- 「〔……〕旅費の面での特恵のほかに、満鉄鮮満案内所のスタッフが、熱心に学校まで出向いて、満洲関係の印刷物を配布したり、講和を行ったり、満州紹介のフィルムを上映したりして、旅行地について情報を直に生徒に伝える工夫をしている。」(153頁)
- 満洲修学旅行の終焉