論文講読用のレジュメ
- 第三章要旨
第一節 在満観光機関と観光産業
南満洲鉄道株式会社
- 『南満州鉄道案内』/『南満州鉄道旅行案内』
- 概要
- 「開業から2年半経過した1909年12月、満鉄は『南満州鉄道案内』という〔……〕ガイドブックを創刊した。〔……〕以後、同じシリーズは12年10月、17年1月、19年6月、24年9月、29年12月、35年4月延べ6回出版され続けた」(100頁)
- 1924年版
- 1935年版
- 「シリーズの最終版・1935年版は唯一満洲国時代に刊行されたものである。それ故に、満洲事変の戦跡後や、満洲建国後改められた政治機関、行政区画に関する内容が新たに加えられ、満州国時代の色が滲みでている。附録地図はこれまでの『南満洲鉄道線路図』から『満洲鉄道図 附航空図』と変わったが、これまでの「隣接鉄道」の項目が消え、満鉄線の紹介のみとなった。一方、35年版では冒頭に「概説篇」を設け、29年版にはなかった「行政区画」、「日本の対満新機構組織」、「満洲の都市」、「風俗紹介」、「服装」、それに、つい前年11月に運行を開始した「特急『あじあ』の全貌」などの新内容を書き加えられた。巻末には、24年版や29年版で「旅行上の注意」の中に入れられた土産物に関する内容が、「満洲名物土産」という独立項目の下に詳しく紹介されている。ほかに、満鉄沿線駅の「旅行記念スタンプ」も記載され、旅行の興趣を高める意匠を見せた。」(102頁)
- 概要
満蒙文化協会
- 成立
- 内地向け満洲観光宣伝
第二節 文化人の満洲旅行
- 夏目漱石の「満韓旅行」
- 「日露戦争後の文化人の満洲旅行といえば、夏目漱石の「満韓旅行」をその嚆矢とする。1909年9月2日、夏目漱石は旧友の満鉄副総裁中村是公の招きで満洲へと旅立った。大連を振り出しに、旅順、熊岳城、営口、奉天、撫順まで足を延ばし、朝鮮経由で10月13日に下関に帰着した。46日間の旅行の見聞は『満韓ところどころ』と題し、10月21日から12月30日まで全51回にわたって、『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』に同時に連載された。」(114頁)
- 「世間一般の持つ満洲イメージには、まだ血腥い戦場の印象が色濃く残り、漱石と同様に「南満洲鉄道会社つていつたい何をするんだい」と思う人が大勢いた時代である。旅行中、漱石は〔……〕満鉄から満洲産業の姿を大いに見せられた」(114-115頁)
- 『満韓ところどころ』の衝撃
- 「『満韓ところどころ』は、漱石の代表作とはいえないものの、文豪といわれるほどの人物の手になる、日露戦争後初の満洲旅行記として注目を浴び、新聞、出版メディアの宣伝力を通して広く読まれていた。さらに、その抜粋は、大正時代の中等学校国語教科書『改訂中等国文読本』や『新定中学国語読本』、『国文新撰』にも収録され、中等教育の場でも活用されていた。」(115頁)
- 「明治文学に関する批評家木村毅は、1936年に満鉄社員が主催した「夏期大学講演」で、満洲イメージの大衆化に果たしたこの作品の役割を次のように評価している。「〔……〕満洲と云ふものを大衆的に紹介したものとしては他に類のない成功を収めた〔……〕殊に今迄の文士がやらない満洲産業に注目して、外の人が気が付かないことを書いて居るに至つては『満韓ところどころ』は大いに尊重すべきもの」」(115頁)
- 「『満韓ところどころ』の影響は〔……〕「満洲イメージの大衆化」にとどまらず、満洲旅行に関する一種の権威付けられた想像パターンまで作り上げ、その後の満洲旅行者にインパクトを与えてしまった」(115頁)
- 漱石以後の文人誘致
- 「漱石以後も、満鉄や満蒙文化協会、JTB大連支部が、機会あるごとに、著名な文人、画家を満洲旅行に誘い、彼らの筆を通して、内地人に満洲を親しませようとした。また、拓殖局や内地の新聞社などの主催で来満した文化人に対しても、満鉄側は案内の労を執り、いろいろな便宜を図っている。」(116頁)
- 「〔……〕満洲旅行をした文化人は、小説家から詩人、歌人、俳人、画家、学者まで多岐にわたっている。これらの文化人に、満鉄やJTB大連支部などの「代理ホスト」側は何を期待していたのだろうか。1929年、新潮社の主催と週刊朝日の後援で、学者、通俗小説家、漫画家を含む一行の来満を控えて、満鉄の弘報主任は次のようなメッセージを送っている。「其の人達の視察後の改造や婦人雑誌、文芸雑誌に現はれるいろんな評論、随筆、満蒙背景の大衆的創作、漫画等を通じて、満蒙内地間の距離を短縮し、それ等を通じて内地の各社階層に『届け行く満蒙の姿』を広く紹介して貰はうと思つて期待してゐます」(『満洲日報』夕刊、1929年7月3日)と。メディアに強い影響力を持つ文化人に満洲宣伝の浸透を期待している意図がここから読み取れる」(118-119頁)
- 「29年末から約1ケ月半に亘り、JTB大連支部と満鉄の招待で、里見弴は志賀直哉と二人で満洲の旅行に出かけた。旅行後の義務はというと、「帰つてから新聞なり雑誌なりで、旅行記を発表すること、それの再録権は満鉄が保有すること、――――ただそれだけだ」(里見弴『満支一見』、春陽堂、1931年、2頁)という。」
- 満洲コンテンツの量産と満洲イメージの浸透
- 「文化人の作品は、新聞記事や著書、あるいはガイドブック、パンフレット、絵葉書などさまざまなメディアを通して、満洲の定番イメージとして一般旅行者に浸透していく。」(121頁)
- 「旅行で作り上げられた文化人の満洲イメージは、もはや満洲を広く紹介するという「大衆化」効果をはるかに超え、一般旅行者の満洲イメージをパターン化すると同時に、満洲の感じ方において一種の権威づけられた座標軸、参照枠を提供する、いわばまなざしの「馴致化」にまで威力を発揮したのである」(121頁)
- 「この意味で、文化人は、「ゲスト」でありながら「代理ホスト」のまなざしをも取り入れつつ、一般の「ゲスト」に広めるべく満洲イメージの創出と伝播を担う権威的な「仲介者」であったといえよう。」(121頁)
第三節 「国民の義務」としての観光
- 【問題提起】なぜ満蒙の宣伝をしたのか?
- 内地の行詰りを救う満洲の地を視察することは国民の義務
- 「〔……〕『満蒙朝鮮の話(附鮮満支旅程ト費用概算)』は、〔……〕満洲富源を並べ、「満蒙の開発は人口問題、食糧問題の為、吾々大和民族の存立上、是非必要なことである」と強く主張したあとで「〔……〕鮮満の視察は単なる内地の名所巡りと異つて、因襲的引込思案の我国民性を覚醒し又国民として是非其実情を知つて置かねばならぬ、寧ろ国民の義務ともいふべき〔……〕」と、「国民の義務」の五文字をわざわざ大書して強調した(『朝鮮満蒙の話(朝鮮満支旅程ト費用概算)』、鮮満案内所、1927年1月)」(123頁)
- 「〔……〕内地の食糧問題、人口問題を解消する満洲の重要性が一段と強調され、満洲認識を深める旅行までも「国民の義務」と位置づけられるようになったことが分かる」(123頁)
- 満洲事変以前の在満日本人社会の行き詰まり
- 「「国民の義務」の叫びに、パンフレットに内地の行き詰まりばかりが強調されているようだが、その裏には、同胞の共食いや、高揚する中国の利権回収運動に悩まされる、在満日本人自身の行き詰まりが存在する。」(123頁)
- 「旅行団員の持ち帰った感想は「年と共に面目を改むる満洲の産業状態/萎微沈衰の極にある邦人事業 濡手に粟の思惑投機が其禍因/局面打開の機迫る」という見出しにも現れているように、けっして楽観的なものではなかった。」(124頁)
- 「東洋拓殖会社の奉天支店長吉庄三が〔……〕「〔……〕城内が、あれ程繁栄していますのに、日本人街はこの通りな淋れかたです、私共は当地に常在して居るものとしてこういう状態をお見せすることを甚だ遺憾に感じます」と自ら在満日本人の苦境を認めざるを得なかったほどである(『中外商業新報』1925年12月5日)」(124頁)
- 「満洲事変前に、在満日本人社会の不況がますます深刻になり、満洲旅行に対する批判の声も上がっている。〔……〕奉天在住の小川勇が満洲旅行の無意味さをはっきりと指摘した。〔……〕「在満邦人の事業さへ悉く行き詰りの状態にて、充分落ち着き無き時代に斯かる満洲の実相を遥々内地から視察に来た人々に見せたところで、知らせたところで何の役にも立たず、満洲の実相を知れば知るだけ悲観の念を増すのみと存ぜられ候」(『満蒙』、1929年4月、77-78頁)」
- 「また、大連の『新天地』という雑誌にも、満洲視察事業に対する痛烈な批判が寄せられている。「〔……〕在満邦人の虚構的外観の優勢、支那人に対する誤れる優越感等の錯覚こそ、実に在満邦人の発展を阻害せる主要因の一であつて、之等の妄想錯覚を、将来生活の本拠を求めて再渡満することあるべき人々に継承せしむることは、満洲旅行の全意義を失はしむるもの言つて過言ではあるまい」(阿部勇「満洲見学団の去来」、『新天地』、新天地社、1930年5月、314頁)」(124-125頁)
- 満蒙生命線論と「国民の義務」としての満洲旅行
- 「1931年1月、政友会の松岡洋右代議士(27年満鉄副総裁)が、帝国議会で「満蒙生命線論」を展開し、〔……〕同年9月に、満洲事変が勃発。その直後に刊行されたリーフレット『鮮満の話 旅程ト費用』の冒頭は、いきなり、「生命線」論から書き出している。「満蒙は我等の生命線であることは今更新しく繰り返すまでもない〔……〕大和民族生存権擁護の叫びは深刻に植え付けられた〔……〕満蒙の新天地開発は、実に我等挙国一致以て資本と智識とを先頭とし世界の楽土となし人類の安住地となすは大和民族の義務であり〔……〕満蒙は実に日本の心臓であり、大和民族の生命線である〔……〕先づ日本人として誰しも知つて置かねばならぬ。/行け尊き我同胞の戦跡と英霊を弔ひに/我等民族子々孫々の繁栄の為めに」と、満洲旅行の持つ「国民の義務」としての意義をより雄弁に説得せんとしていることがわかる(鮮満案内所『鮮満の話 旅程と旅費』、1931年版)」(125頁)