【先行研究】「第三章 満洲観光の担い手」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、98-129頁)

論文講読用のレジュメ

  • 第三章要旨
    • (1)満鉄にある旅客課と鮮満案内所、満蒙文化協会、JTB大連支部の事業展開について。
      • 在満観光機関と観光産業は1920年代に徐々に整う。満鉄と満蒙文化協会は宣伝誘致に力を入れ、JTB大連支部は斡旋案内と乗車券の販売の実務にと努めた。
    • (2)満洲事変前までに満洲に旅立った文化人について。
      • 在満観光機関のお膳立てのもとで作品が生み出され、一種の権威的な満洲イメージを提供した。文化人は満洲イメージ生産の担い手であり、「代理ホスト」と「ゲスト」のまなざしの仲介者でもあった。
    • (3)在満観光機関の満洲旅行の位置づけについて。
      • 満洲旅行は1920年代後半から「国民の義務」とされた。内地の行き詰まりを救う満洲という宣伝に対し、実は在満日本人社会も行き詰っており、満洲旅行を通して植民政策に対する内地世論の応援をねらう満鉄の意図があった。
    • (4)満洲旅行は営利ではなく国策
      • 半官半民の国策会社が担う満洲旅行は、営利目的ではなく、国策的な見地より観光を植民政策展開の一環として取り込まれてきた。

第一節 在満観光機関と観光産業

満洲鉄道株式会社

  • 南満州鉄道案内』/『南満州鉄道旅行案内』
    • 概要
      • 「開業から2年半経過した1909年12月、満鉄は『南満州鉄道案内』という〔……〕ガイドブックを創刊した。〔……〕以後、同じシリーズは12年10月、17年1月、19年6月、24年9月、29年12月、35年4月延べ6回出版され続けた」(100頁)
    • 1924年
      • 「〔……〕最も興味を引くのは、24年版は「旅行案内」項目の前後の頁に、歌人河東碧梧桐作「満洲の印象」計18首を挿入したことである。碧梧桐はその前年の10月に満鉄に招待され、講演旅行を行ったが、これは、その途上経過した各都市の風景をテーマにした歌である。このように、一文化人が受けた満洲の印象は、満鉄の公式ガイドブックの内容の脚注となり、一般旅行客に満洲イメージの一種の想像パターンを提供することになったのである。」(100頁)
    • 1935年版
      • 「シリーズの最終版・1935年版は唯一満洲国時代に刊行されたものである。それ故に、満洲事変の戦跡後や、満洲建国後改められた政治機関、行政区画に関する内容が新たに加えられ、満州国時代の色が滲みでている。附録地図はこれまでの『南満洲鉄道線路図』から『満洲鉄道図 附航空図』と変わったが、これまでの「隣接鉄道」の項目が消え、満鉄線の紹介のみとなった。一方、35年版では冒頭に「概説篇」を設け、29年版にはなかった「行政区画」、「日本の対満新機構組織」、「満洲の都市」、「風俗紹介」、「服装」、それに、つい前年11月に運行を開始した「特急『あじあ』の全貌」などの新内容を書き加えられた。巻末には、24年版や29年版で「旅行上の注意」の中に入れられた土産物に関する内容が、「満洲名物土産」という独立項目の下に詳しく紹介されている。ほかに、満鉄沿線駅の「旅行記念スタンプ」も記載され、旅行の興趣を高める意匠を見せた。」(102頁)
  • 南満州鉄道株式会社の観光への取り組み
    • 「これまで概観してきたように、大連本社の旅客課と東京支社の鮮満案内所を中心に、満鉄は、ガイドブック『南満州鉄道案内』(のちに『南満洲鉄道旅行案内』と改題)や旅行パンフレット、雑誌『平原』の編集・発行から、絵葉書原版、写真の一般募集、案内係の新設、満蒙事情講演会の開催、「満蒙宣伝隊」の派遣、博覧会への出品、主催など多彩な取り組みを通して、満洲の観光誘致に力を入れるようになった。とりわけ、1920年代前半から、旅行誘致の意気込みが強く感じられるようになった。」(107頁)

満蒙文化協会

  • 成立
    • 1920年7月1日に、関東庁と満鉄の後援と賛助のもとに、満蒙文化の開発・宣伝を図るための特別機関「満蒙文化協会」が、大連市役所内に誕生した。〔……〕すなわち、満蒙文化協会とは、経済開発に偏重する現状に鑑みて、文化面の開発・宣伝の喫緊性から生まれた機関であった。〔……〕中国民族主義の高揚を背景に、満蒙文化協会には、政治、経済侵略とは異なる「文化開発」を盾に、中国国内外からの批判を緩和する役目も与えられている。」(107頁)
  • 内地向け満洲観光宣伝
    • 「〔……〕1920年代、満蒙文化の開発と宣伝を使命に設立された満蒙文化協会は、満鉄の協力のもとで、内地客向けの満洲観光宣伝に積極的に取り組んでいた」(111頁)

JTB大連支部

  • 発足
    • ジャパン・ツーリスト・ビューロー(以下、JTB)は、日本初の外客誘致機関・喜賓会(1893年誕生)の仕事を継承する団体として、1912年3月に鉄道省内に設立された半官半民の斡旋機関である。設立からわずか8ヶ月後、JTB本部は大連支部を満鉄運輸課内に創立し、その業務を満鉄社員に委嘱した。支部長には満鉄社長を戴き、満鉄運輸課長が一切の事務を統括するといった形で発足したのである。」(111頁)
  • 独立
    • 「〔……〕満鉄と満蒙文化協会による累年の満洲宣伝の成果で、1920年代半ばから内地人の満洲方面への関心が高まりつつあった。〔……〕1926年5月、大連支部は〔……〕市の目抜き通りに「大連支部案内所」を開設し、本部から会計を独立させた。〔……〕1年後、〔……〕会計上の独立とともに、人事上でも完全な独立機関となったのである」(112頁)
  • 満洲事変以前の大連JTB支部は満鉄指定団体の斡旋案内と乗車券販売が中心
    • 「満鉄旅客課や満蒙文化協会が、内地向けの満洲宣伝に努めているのに対して、JTB本部から巣立ってから満洲事変に至るまでの5年間、大連支部の業績は、満鉄指定団体の斡旋案内と乗車券販売が中心であった。〔……〕満洲事変(31年)および日中戦争(37年)を契機に、JTB大連支部の事業は大きく飛躍を遂げた」(114頁)

第二節 文化人の満洲旅行

  • 夏目漱石の「満韓旅行」
    • 日露戦争後の文化人の満洲旅行といえば、夏目漱石の「満韓旅行」をその嚆矢とする。1909年9月2日、夏目漱石は旧友の満鉄副総裁中村是公の招きで満洲へと旅立った。大連を振り出しに、旅順、熊岳城、営口、奉天、撫順まで足を延ばし、朝鮮経由で10月13日に下関に帰着した。46日間の旅行の見聞は『満韓ところどころ』と題し、10月21日から12月30日まで全51回にわたって、『東京朝日新聞』と『大阪朝日新聞』に同時に連載された。」(114頁)
    • 「世間一般の持つ満洲イメージには、まだ血腥い戦場の印象が色濃く残り、漱石と同様に「南満洲鉄道会社つていつたい何をするんだい」と思う人が大勢いた時代である。旅行中、漱石は〔……〕満鉄から満洲産業の姿を大いに見せられた」(114-115頁)
  • 『満韓ところどころ』の衝撃
    • 「『満韓ところどころ』は、漱石の代表作とはいえないものの、文豪といわれるほどの人物の手になる、日露戦争後初の満洲旅行記として注目を浴び、新聞、出版メディアの宣伝力を通して広く読まれていた。さらに、その抜粋は、大正時代の中等学校国語教科書『改訂中等国文読本』や『新定中学国語読本』、『国文新撰』にも収録され、中等教育の場でも活用されていた。」(115頁)
    • 「明治文学に関する批評家木村毅は、1936年に満鉄社員が主催した「夏期大学講演」で、満洲イメージの大衆化に果たしたこの作品の役割を次のように評価している。「〔……〕満洲と云ふものを大衆的に紹介したものとしては他に類のない成功を収めた〔……〕殊に今迄の文士がやらない満洲産業に注目して、外の人が気が付かないことを書いて居るに至つては『満韓ところどころ』は大いに尊重すべきもの」」(115頁)
    • 「『満韓ところどころ』の影響は〔……〕「満洲イメージの大衆化」にとどまらず、満洲旅行に関する一種の権威付けられた想像パターンまで作り上げ、その後の満洲旅行者にインパクトを与えてしまった」(115頁)
  • 漱石以後の文人誘致
    • 漱石以後も、満鉄や満蒙文化協会、JTB大連支部が、機会あるごとに、著名な文人、画家を満洲旅行に誘い、彼らの筆を通して、内地人に満洲を親しませようとした。また、拓殖局や内地の新聞社などの主催で来満した文化人に対しても、満鉄側は案内の労を執り、いろいろな便宜を図っている。」(116頁)
    • 「〔……〕満洲旅行をした文化人は、小説家から詩人、歌人俳人、画家、学者まで多岐にわたっている。これらの文化人に、満鉄やJTB大連支部などの「代理ホスト」側は何を期待していたのだろうか。1929年、新潮社の主催と週刊朝日の後援で、学者、通俗小説家、漫画家を含む一行の来満を控えて、満鉄の弘報主任は次のようなメッセージを送っている。「其の人達の視察後の改造や婦人雑誌、文芸雑誌に現はれるいろんな評論、随筆、満蒙背景の大衆的創作、漫画等を通じて、満蒙内地間の距離を短縮し、それ等を通じて内地の各社階層に『届け行く満蒙の姿』を広く紹介して貰はうと思つて期待してゐます」(『満洲日報』夕刊、1929年7月3日)と。メディアに強い影響力を持つ文化人に満洲宣伝の浸透を期待している意図がここから読み取れる」(118-119頁)
    • 「29年末から約1ケ月半に亘り、JTB大連支部と満鉄の招待で、里見弴は志賀直哉と二人で満洲の旅行に出かけた。旅行後の義務はというと、「帰つてから新聞なり雑誌なりで、旅行記を発表すること、それの再録権は満鉄が保有すること、――――ただそれだけだ」(里見弴『満支一見』、春陽堂、1931年、2頁)という。」
  • 満洲コンテンツの量産と満洲イメージの浸透
    • 「文化人の作品は、新聞記事や著書、あるいはガイドブック、パンフレット、絵葉書などさまざまなメディアを通して、満洲の定番イメージとして一般旅行者に浸透していく。」(121頁)
    • 「旅行で作り上げられた文化人の満洲イメージは、もはや満洲を広く紹介するという「大衆化」効果をはるかに超え、一般旅行者の満洲イメージをパターン化すると同時に、満洲の感じ方において一種の権威づけられた座標軸、参照枠を提供する、いわばまなざしの「馴致化」にまで威力を発揮したのである」(121頁)
    • 「この意味で、文化人は、「ゲスト」でありながら「代理ホスト」のまなざしをも取り入れつつ、一般の「ゲスト」に広めるべく満洲イメージの創出と伝播を担う権威的な「仲介者」であったといえよう。」(121頁)

第三節 「国民の義務」としての観光

  • 【問題提起】なぜ満蒙の宣伝をしたのか?
    • 「貨物中心の植民地鉄道にとって、旅客輸送収入は営業上重要な存在とはいえない。にもかかわらず、満鉄はなぜ無料の満洲旅行相談窓口「鮮満案内所」を開設したり、満蒙宣伝隊を繰り出したり、文化人を招待したりして、「莫大なる費用をかけて大に宣伝に努めた」(上田恭輔「満洲の旅と北海道の旅」、『満蒙』、満洲文化協会、1933年8月、120頁)のだろうか。」(121頁)
  • 内地の行詰りを救う満洲の地を視察することは国民の義務
    • 「〔……〕『満蒙朝鮮の話(附鮮満支旅程ト費用概算)』は、〔……〕満洲富源を並べ、「満蒙の開発は人口問題、食糧問題の為、吾々大和民族の存立上、是非必要なことである」と強く主張したあとで「〔……〕鮮満の視察は単なる内地の名所巡りと異つて、因襲的引込思案の我国民性を覚醒し又国民として是非其実情を知つて置かねばならぬ、寧ろ国民の義務ともいふべき〔……〕」と、「国民の義務」の五文字をわざわざ大書して強調した(『朝鮮満蒙の話(朝鮮満支旅程ト費用概算)』、鮮満案内所、1927年1月)」(123頁)
    • 「〔……〕内地の食糧問題、人口問題を解消する満洲の重要性が一段と強調され、満洲認識を深める旅行までも「国民の義務」と位置づけられるようになったことが分かる」(123頁)
  • 満洲事変以前の在満日本人社会の行き詰まり
    • 「「国民の義務」の叫びに、パンフレットに内地の行き詰まりばかりが強調されているようだが、その裏には、同胞の共食いや、高揚する中国の利権回収運動に悩まされる、在満日本人自身の行き詰まりが存在する。」(123頁)
    • 「旅行団員の持ち帰った感想は「年と共に面目を改むる満洲の産業状態/萎微沈衰の極にある邦人事業 濡手に粟の思惑投機が其禍因/局面打開の機迫る」という見出しにも現れているように、けっして楽観的なものではなかった。」(124頁)
    • 「東洋拓殖会社の奉天支店長吉庄三が〔……〕「〔……〕城内が、あれ程繁栄していますのに、日本人街はこの通りな淋れかたです、私共は当地に常在して居るものとしてこういう状態をお見せすることを甚だ遺憾に感じます」と自ら在満日本人の苦境を認めざるを得なかったほどである(『中外商業新報』1925年12月5日)」(124頁)
    • 満洲事変前に、在満日本人社会の不況がますます深刻になり、満洲旅行に対する批判の声も上がっている。〔……〕奉天在住の小川勇が満洲旅行の無意味さをはっきりと指摘した。〔……〕「在満邦人の事業さへ悉く行き詰りの状態にて、充分落ち着き無き時代に斯かる満洲の実相を遥々内地から視察に来た人々に見せたところで、知らせたところで何の役にも立たず、満洲の実相を知れば知るだけ悲観の念を増すのみと存ぜられ候」(『満蒙』、1929年4月、77-78頁)」
    • 「また、大連の『新天地』という雑誌にも、満洲視察事業に対する痛烈な批判が寄せられている。「〔……〕在満邦人の虚構的外観の優勢、支那人に対する誤れる優越感等の錯覚こそ、実に在満邦人の発展を阻害せる主要因の一であつて、之等の妄想錯覚を、将来生活の本拠を求めて再渡満することあるべき人々に継承せしむることは、満洲旅行の全意義を失はしむるもの言つて過言ではあるまい」(阿部勇「満洲見学団の去来」、『新天地』、新天地社、1930年5月、314頁)」(124-125頁)
  • 満蒙生命線論と「国民の義務」としての満洲旅行
    • 「1931年1月、政友会の松岡洋右代議士(27年満鉄副総裁)が、帝国議会で「満蒙生命線論」を展開し、〔……〕同年9月に、満洲事変が勃発。その直後に刊行されたリーフレット『鮮満の話 旅程ト費用』の冒頭は、いきなり、「生命線」論から書き出している。「満蒙は我等の生命線であることは今更新しく繰り返すまでもない〔……〕大和民族生存権擁護の叫びは深刻に植え付けられた〔……〕満蒙の新天地開発は、実に我等挙国一致以て資本と智識とを先頭とし世界の楽土となし人類の安住地となすは大和民族の義務であり〔……〕満蒙は実に日本の心臓であり、大和民族の生命線である〔……〕先づ日本人として誰しも知つて置かねばならぬ。/行け尊き我同胞の戦跡と英霊を弔ひに/我等民族子々孫々の繁栄の為めに」と、満洲旅行の持つ「国民の義務」としての意義をより雄弁に説得せんとしていることがわかる(鮮満案内所『鮮満の話 旅程と旅費』、1931年版)」(125頁)