- 本章の趣旨
第二節 ある早大生の満洲国旅行
- 切り取られた日記の謎
- ハルピンとコンテンツツーリズム
- ハルピンは夜の一大歓楽街が観光資源として当時の日本人の間で有名になっていた。
- 「「狼色群のテーブルで股を載すように跳ねて魅惑の綱を投げかけて行く。無神経である。それを有神経にとるのはヤボンスキーでハダカオドリのニツツアに落とす年額10万円という。愛国機が二台製作されるのだ、憐むべし。ニツツアの女達は黄色い切符といつてキヤバレーの女達から侮蔑されてゐるのを日本の旅行者は御存知がない、黄色い切符とは二枚鑑札の札の色から出た言葉でキヤバレーはいはば町でハダカオドリは山である。山の女達は日本語サヨウナラと、カチユーシや可愛いやが得意なもので町の女のなかにはコムソモールカ(婦人共産党)が潜んで、さかんに活躍してゐる、一寸凄い話だらう、涎を流してスペシヤルルームに入り浸つて機密を盗まれたキヤバレー秘密史はさすがに国際的魔都を物語つて数限りないといふ。」(「エロとグロとの/大歓楽の夜の都/大ハルビンの新風景」『大新聞』1932年7月19日)」(174-175頁)
- 上記のハルピンのイメージを作ったのは、奥野他見男のベストセラー『ハルピン夜話』
- ハルピンは夜の一大歓楽街が観光資源として当時の日本人の間で有名になっていた。
第三節 観光機関の拡大と統制
1 JTB満洲支部
- 『旅行満洲』
- 誕生
- 改題
- 『満支旅行年鑑』
- 「〔……〕JTB満洲支部のもうひとつの重要な刊行物は『満支旅行年鑑』である。これは「東亜共栄圏確立の拠点たる満洲国の発展と、支那事変に據る皇軍占拠後の中北支新政権に伴ひ、大陸旅行界の順調なる動きに応へ」るため、1938年12月、ついに創刊に至ったものだった。旅行関係の情報のみならず、開拓移民政策の概説から、満洲、「支那」、「蒙古」の人情習俗の紹介、さらには映画館の入場者数までここには何でも揃っている。創刊以来予想以上の好評を得て、昭和15年版以降は、「博文館」との間に翻刻発行の契約を結び、印税1割を取得するとの条件で東京でも発行されていた。発行部数は、毎版5千部から1万部で、昭和19年版まで発行されていたことが確認できている。」(179頁)
- JTBの改称
- 「1941年8月に、ジャパン・ツーリスト・ビューローは「社団法人東亜旅行社」に名を改め、さらに、42年12月「財団法人東亜旅行社」、翌43年12月に「財団法人東亜交通公社」と改称した。」(179頁)
2 満洲事情案内所
- 満洲視察者のための宣伝紹介施設
- 「満洲事変まで、満鉄と共に満洲宣伝に大きく寄与した文化団体・満蒙文化協会(26年10月より「中日文化協会」、1933年より「満洲文化協会」と改称)は、満洲国建国の翌年1月に新京に「満洲経済事情案内所」を設置した。従来の協会の地方事務所とは異なり、〔……〕「来満の日本人に満洲経済事情を紹介し企業家等に経済方面の案内」をなすことを目的に設置されたのであった。〔……〕1年後の1934年1月2日、「多数利用者ノ要求に応ズル為メ」、関東庁と駐満海軍司令部の後援のもとに、「満洲事情案内所」と改称し、同3月24日には、「満洲視察斡旋委員会」を設置し、満洲視察団斡旋事務も開始した。〔……〕建国後間もなく設立された同所は、蔵書の無料公開や案内書の刊行発売などを積極的に行い、やがて、来満視察者が踵を接して訪れるほど、満洲の宣伝紹介に重要な役割を果たすようになった」(179-180頁)
- 満洲事情案内所と開拓団視察旅行
- 「〔……〕1937年以降急増する開拓団視察旅行に備え、満洲事情案内所は、1940年と41年に、第一次弥栄村開拓団と牡丹江市にそれぞれ分所を設置し、開拓現地視察の旅行者の宿泊所に充てるなど、開拓地実情の紹介宣伝にも努めた。〔……〕満洲事情案内所が開拓団に分所を設置した経緯については〔……〕「〔……〕此視察者に対する事務は其重要さに於ては当さに政府の為すべきことであるが、政府直接之れを紹介するよりも却つて他の半官半民的な機関を以つてした方が宜からう又弥栄自身の手では自己宣伝に見らるる傾きがあり、されはといふてツーリスト、ビューローの手では一般に観光的の感じを受け、結局是は満洲事情案内所の仕事として取扱ふのが最も相応はしいだらう。〔……〕元来満洲事情案内所の組織は株式会社であつても単なる営利会社ではなく、弘報関係の仕事をする国策会社と称すべきものであります」という経緯であって、国策宣伝と観光案内の双方を備え持つ満手事情案内所の特殊な立場が買われていたことがわかる(「満洲事情案内所弥栄分所事業概要」、『満洲事情案内所社報』第11号、株式会社満洲事情案内所、1940年11月分、業務報告第96号)」
3 満洲観光連盟
- 観光委員会の設置
- 「〔……〕1937年2月26日、全満観光事業の統制機関「観光委員会」が、国務院総務庁情報処内に設置された。国策宣伝の一部門として観光を組み入れたエボックメイキング的な出来後であった。立案者の「弘報委員会」は、満洲国建国の年に、「特に日満不可分の特質に基き国民の指導、国際政治の補強の目的を以て」、関東軍、満洲国政府などから編成された宣伝機関であった。傘下に、通信、言論を統制する満洲弘報協会を置き、これら通信・放送・映画の三部門とともに、観光事業も国策的宣伝事業として位置づけ、観光委員会の設置を遂行したのである(柴野少佐(関東軍新聞班)「皇道文化の西流」、『月刊満洲』第10巻第3号、月刊満州社、1937年3月、1937年3月、132-133頁)。」(181頁)
- 国策宣伝の見地から見る観光事業の重要性
- 満洲観光連盟の設置
- 『満洲観光連盟報』
- 「『満洲国観光資源名』懸賞公募」
- 懸賞の結果
- 「審査委員会は、投票数の多寡にこだわらず、「国情の宣揚になる」かどうかを眼目に、観光資源百種類を五つの等級に分けて選出した。〔……〕大栗子溝、鏡泊湖、大豊満ダム、大陸科学院、横道河子といった一等の五資源のなかで、最も人々の意表を衝いたのは、一席の大栗子溝であった。投票数がわずか4名しかなかった無名の場所だが、世界希有の鉱山資源と、長白山、鴨緑江のような景勝地を擁することで選ばれたのだという。さらに重要なポイントは、ここが抗日パルチザンの盛んに活動する地域だったことだ。「匪賊の産地」から「観光資源」へのイメージチェンジは、まさに「王道楽土」を内外に示す巧みな宣伝効果をもたらすものであった。」(183頁)