雑録

【草稿】満洲国の観光 第2章「観光から見る満洲国新京」

【レジュメ】「新京において旅行者はどのような行動を取り、それを通してどのような心象を抱いたか」

目次

1.序論

(1)問題の所在

  • ①先行研究では、修学旅行や視察旅行の個別具体的な事例や各都市における観光バスの訪問先を分析した事例にとどまっているし、新京は近代的な性格のみが強調されている。そのため旅行者たちが訪問先においてどのような旅行行動を取り、訪問先(観光資源)を訪れることでどのような心象を抱いたのかについては、断片的な事例があるにすぎない。

(2)リサーチクエスチョン

  • ①旅行者は新京においてどのような旅行行動をとっていたのかを明らかにする。
  • ②各種旅行記を題材に、新京を観光してどのような心象を抱いたのかを分析する。
  • 満洲国において新京観光を観光することがどのような機能を持っていたかを考察する

2.本論

(1)日本人が建設した都市

  • ①新京以外の主要都市…満洲国の主要都市は新京を除いて、大連、奉天、哈爾濱が挙げられる。このうち奉天清朝ゆかりの土地であり、中国的な城市が発展していた。大連は日清戦争後の列強による中国分割でロシアの租借地となりダルニーと称され都市建設が進み、日本が租借権を譲渡されたのは日露戦争後である。哈爾濱は大連と同じく中国分割の際に東清鉄道の敷設権を得たロシアにより都市建設が進んだ。哈爾濱を始め日本の北満進出が本格化するのは1935年の北満鉄道譲渡以後である。
  • ②新京
    • a.満洲国建国以前…新京は満洲国建国以前、長春と呼ばれていた(現在の中国名も長春)。日露戦争後に長春以南の東清鉄道を譲渡されたが、ロシアが長春に建設していた寛城子駅は対象外とされたので、日本は新たに長春駅を建設し、満鉄附属地を築いた。こうして長春には、満鉄附属地、ロシアの寛城子駅、清朝長春・商埠地という3つの地域が形成された。長春において日本が建設した地域は附属地のみであったのである。
    • b.満洲国建国以後…長春が国都として奠都されると首都建設が始まった。既に附属地は建設されていたが、その都市の大部分は日本が新たに建設したのである(【史料1】【史料2】)。そのため、新京を訪問した旅行者をして、荒野に大都市を出現させた日本の力を体感させる効果があった(【史料3】【史料4】)。

(2)植民地都市としての性格

  • ①新京は日本の延長か?
    • 旅行記の中のうちのいくつかは、新京は「内地の延長」であり「満洲とは思われず」(【史料5】)、「日本の氾濫」であり(【史料6】)、「異国的な香りはそれほど濃厚ではない」(【史料7】)し、「満洲と云ふよりは、日本の感じ」(【史料8】)であると述べられている。
  • ②植民地都市と歓楽街
    • 【史料5】~【史料8】の特徴は何か。なぜ新京を日本の延長として捉えているのか。それは都市建設を行っている新京の性格にある。新しく都市を作り上げる場合、独身男性が大量に流入するため、歓楽街が設置され、本国の文化を移植した市街が生まれる(【史料9】【史料10】)。今一度【史料5】~【史料8】で挙げられている新京の地域を見てみると、新京銀座をはじめとする歓楽街であることが分かる。これらの旅行者は歓楽街を見て、新京が日本の延長だと見なしているのであろう。
  • ③新京神社とその御祭神
    • 旅行記からは新京に立ち寄った旅行者は何はともあれ新京神社に参拝している。ではその御祭神とは何であり新京神社はどのような意味があるのか。新京神社の御祭神は天照大神大国主命明治天皇である(【史料11】)。天皇家の祖先である天照、国譲りの大国主、国家安泰の明治天皇からその植民性が分かる。

(3)新京支配の象徴 支配装置としての関東軍司令部

  • ①城郭式の威容
    • 新京には執政(後皇帝)の宮廷府、政治の中心国務院があった。だが宮廷府は仮宮殿のままであり、新宮殿の建設も予定されていたが、太平洋戦争の影響と資材不足のため、基礎工事のみで終わった。国務院は近代建築として建設されたが、数ある官衙のうちの一つである。そのような中で単独としての訪問地(観光資源)となったのが、関東軍司令部である。城郭式の建築物は新京において威容を示し、支配の象徴となっていた(【史料12】~【史料16 】)。
  • ②日本人の誇り
    • また関東軍司令部の建設物は日本人旅行者にとって一種の誇りとなっていた。この建設物は旅行者を感動させたり、尊厳を抱かせたり、日本人としての幸福を感じさせたりしている(【史料17】~【史料20】)。
  • ③現在の関東軍司令部
    • 現在は中国共産党吉林省委員会が関東軍司令部をそのまま使用しており、支配の象徴としての建造物は引き継がれている。

(4)戦跡と満洲国建国の正当化

  • ①血で贖った満洲を示す
    • 新京に訪れた際には、忠霊塔及び南嶺戦跡、寛城子戦跡へ参拝することが定式化していた。それでは旅行者たちは、各種戦跡でどのような心象を抱いたのであろうか。彼等は、満洲国が日本人の犠牲により成り立ったことを体感し、涙を流したのである。こうして満洲国は英霊たちにより獲得した土地であり、日本が満洲国を建国した正当性を体感したのであった(【史料21】~【史料27】)

(5)現地住民への視線

  • 漢人(満人)への視線
    • 漢人(満人)への視線は、漢人(満人)の後進性を指摘し(【史料28】)、それを導く存在としての日本人という意識が見て取れる(【史料29】)。また漢人(満人)との文化の違いを蔑視(人種的嫌悪)としてしか受け入れることができず、纏足などの因襲を批判(【史料30】)し、彼等の食文化を低俗なものとして見ている(【史料31】)。
  • 白系ロシア人への視線
    • 1935年まで北清鉄道の長春以北はロシア(ソ連)が権益を保持していたので、新京駅の北西に位置する寛城子駅で乗り換えが行われていた。そのため、寛城子にはロシア人街が形成されていたが、1917年のロシア革命を契機に祖国と切り離された白系ロシア人たちがいた。彼等は祖国に戻れず寛城子に残っていたため、日本人旅行者たちは彼等の憐みの目線を向けている(【史料32】~【史料34】)。

(6)新京内の交通インフラ

  • ①馬車と洋車(人力車)
    • 市内の観光は交通インフラによって規定される。先行研究の高媛(2005)では専ら観光バスが取り上げられおり、その観光バスの訪問ルートから各都市の性格を割り当てていた。新京は近代的な建築群のみピックアップされていた。しかし新京の交通手段のメインとなるものは観光バスではなく、馬車及び洋車(人力車)であり、観光バスルート以外にも足を伸ばしていたことが分かる(【史料35】~【史料38】)。

(7)現地住民を尊重・配慮するもの

  • 満洲の文化を評価するものとしては【史料39】の「新民戯院」での芝居がある。また【史料40】の孝子廟は、親孝行をした満人の伝承から信仰を集めている廟であり、本来ならば大同大街を直線にするため除去されるよていであったが現地住民の信仰に配慮して道を曲げることとなった。
  • ②上海などでヨーロッパ諸国により作られた公園は犬と有色人種お断りなど人種的排他性が見られたが、西 公園では入園料(2銭~4銭)を支払えば誰でも利用することができ、日本人以外の満洲娘やロシア美人の姿も見られた(【史料41】)。
  • ③現地の料理店としては【史料42の】「鹿鳴春」などがあり、その施設、サービス、料理の味などが評価されている。

3.結論

(1)リサーチクエスチョンと結論

  • ①旅行者は新京においてどのような旅行行動をとっていたのかを明らかにする。
    • a.旅行者の多くが必ずといっていいほど訪れていたのは、新京神社、関東軍司令部、忠霊塔、戦跡(寛城子・南嶺)。先行研究では観光バスの利用が指摘されていたが、観光バスよりも馬車での移動の方が多く見られた。また新京で近代的建築物建設以外も旅行者は訪れており、露人街や満人街なども観光している。
  • ②各種旅行記を題材に、新京を観光してどのような心象を抱いたのかを分析する。
    • a.国都新京の建設→日本人の偉大さ
    • b.歓楽街→新京は日本の延長
    • c.新京神社→御祭神(天照大神大国主命明治天皇)
    • d.関東軍司令部→城郭的建築による威容、日本人の誇り、感動
    • e.戦跡→英霊たちにより獲得された土地が満洲
    • f.露人街/満人街→露人たちの憐れさ、満人達の後進性
  • 満洲国において新京観光を観光することがどのような機能を持っていたかを考察する。
    • 国都新京の観光は、荒野に都市を作り上げた日本人の功績を体感させナショナリズを昂揚させた。歓楽街では満洲国に日本人の文化をそのまま移入させたと感じさせた。新京神社は御祭神から神話を利用する孤島化があった。関東軍司令部はその城郭的な建築物から統治・支配の象徴となった。戦跡は満洲の獲得の起源を英霊たちの血肉に求め日本の満洲国支配を正当化させた。現地住民たちへの視線は、日本人に優越感を抱かせ、日本人の指導性・先進性の根拠となった。

史料編 下線部は引用者による。旧字は適宜改めた。

京都市建設

【史料1】
満洲の大都市のうちで、根本的にやり直したのはここ(※引用者註-新京)だけでせう。この日本街のこの辺から北は旧の通りですが南に広がった部分は全く新計画ですし、旧城内は殆ど変わりませんが、商埠地は新政庁の大建築を廻つて全く面目を一新しましたし、南嶺は戦跡記念の地を残すだけで、すツかり市街地に入りました。」(臼井亀雄『開けゆく満洲』日東書院、1933、193頁)

【史料2】
満洲大陸に於ける都市の中で大連と哈爾濱は露西亜人の造り上げたもので、あの様な大計画であつたが我が邦で継承して更に完備はしたものの、完全に最初から邦人の計画に成つた都市では新京が最も著しいものである。」(藤本実也『満支印象記』、七丈書院 1943、227頁)

【史料3】
「新装の新京にこそ、最も新満洲国の面目が見られるわけと、意気込んで都入りをした。車を連ねて私達は新京の街を走つた。その時の感激こそ、私は北鮮に於けるそれと並べて、今度の旅行の最大の収穫に数へたい。ここには、私達が夢にのみ見てゐた近代科学都市が実現されてゐる。而も、之は日本人が作つたのだ〔……〕兎に角、新京のすばらしさは実際に行つた者でなければわからぬ。ここに来るまで、多少私の心に巣喰っていた疑惑も、うすぐらい議論も、一切吹き飛ばして私は晴れ晴れとした明るさで背が伸びる様な思ひだつた。本当に日本の国は驚くべき国だ〔……〕自分も新京を作った中の一人である様な錯覚に一寸おち入つた程であつた。」(木村都「満鮮に旅して」、大陸視察旅行団 『大陸視察旅行所感集 昭和14年』、大陸視察旅行団 1940、17頁)

【史料4】
「〔……〕一望千里ともいひたい曠野の上に茸が生えたやうによきよきと忽然と出現した首府新京特別市の姿〔……〕立派に舗装し整然と街路樹を植えた現代的な道路が、目のとどく限り遠くまで伸び、巨大な石造建築が連なつてゐる。〔……〕これが10年に足りぬ月日の間に、秋晴れの日の満鉄の汽車の中から折々見かける蜃気楼のやうに、それまでほとんど何もなかつた地上に出現した大都会なのである。これだけは、リツトン卿に見て貰ひたかつたと思ふのは僕だけではないだらう。何やかやといつても、日本の力といふものを一番手早く如実に知る方法は、年を更へては満洲国を見ることのやうである。」(大佛次郎『氷の花』、六與商会出版部、1942、46頁)

植民地都市としての性格

【史料5】
「新京銀座の夜は内地の延長だ。浴衣がけの日本人が大半だ、ネオンの光眼眩しく、ヂャズの音高き軒並のカフェー、鈴蘭形の電燈、夜店、どうしても満洲と思はれない。」(大貫将「満洲の農業と産業組合」、日本産業組合研究会、1934、86頁)

【史料6】
「盛り場、吉野町の通りには、街頭に鈴らん燈をつけて、その名も「新京銀座」-夜店の行列に、軒並みのカフエー、そこを、浴衣掛けの内地婦人が団扇片手に、インチキ翡翠を値切つてゐる。門限におくれまいと日本の兵隊が颯爽と通る。ねぢ鉢巻きでバナナをたたき売ってゐる。お嬢さんがお花の稽古から、花の包みをかかへて、ゆるやかな御散歩。ものみな一切が「日本」の氾濫だ。おまけに、そこの裏通りに入れば「長唄師匠」岡安なにがしの看板や、盆石師匠の看板に、「あんま」「マッサーヂ」「女かみゆひ」-おお、なんと、日本人は自己生活を、他人の国に拡張展開することの巧妙にして、無遠慮な民族であることよ。清楚な満洲婦人が、おのぼり日本人に、ぢろりと見られるのを機恥かしげに、伏し目勝ちで夜店をあさるところ、ここは今、横浜か神戸かとの主客倒錯を与へぬものでもない。それほど「日本」は、今、新京に力強くして、根太い呼吸をつづけてゐるのだ。〔……〕かくてここ一年そこそこ以来の新京は、満洲街の城内に行かぬ限り、その風物の一切が「日本」の氾濫であり「日本」の躍動だ。底知れぬわが国威国権の伸長は、まさに、瞠目に値ひする。」(満洲産業建設学徒研究団 編『満洲産業建設学徒研究団報告』学徒至誠会、1935、398-399頁)

【史料7】
「娯楽機関の方では日本映画館もあるし、支那の芝居もあるし、また遊興の巷も所々にあつて一通りは揃つてゐて事欠くやうなことはない。〔……〕万事が日本的で、新京へくると大陸的といふよりも日本的であるため異国的な香りはそれほど濃厚ではないのである。」(東文雄『朝鮮・満洲支那大陸視察旅行案内』東学社、1939、38頁)

【史料8】 
「7時から8時半迄自由行動が許された。明日からいよいよ訓練所に入所するので、私達の生命の糧とも云ふべき甘い物を買込んで置かうと、皆と連れ立つて外出した。宿舎のすぐ前が、鈴蘭燈などのある繁華街で、アスフアルトの道路の両側には、大阪と少しも変わらない明治の喫茶店や、下駄屋、布団屋、洋服屋果物屋、そしてぼんぼりを軒につるし紺の暖簾をかけた粋な小料理屋やおすし屋もあつて、まるで心斎橋筋を歩いてゐる様だつた。街を行くのも日本人が遥かに多く、その故か、道路も清潔だ。協和服の人、洋装の女、浴衣がけの人、女学生、子供等が右往左往してゐて、此処は満洲と云ふよりは、日本の町の感じだ。」(松井秀子『大陸奉仕行』興亜保育協会、1941)

【史料9】
満洲国は国都新京を初めとして各地とも官公署の建築鉄道の敷設、道路の開設等々で何処へ行つても建設建設で夥しい活気を呈している。そしてこれ等の建設に従事してゐる内地人は、妻帯者も大抵は単身で来てゐるので独身者ばかりである。従つてカフェーや料理店は大繁盛である。だから、あまり綺麗でなくとも好いから丈夫な年頃の娘さんを十人も伴れて行つて、満洲で水商売をやれば屹度儲かる。何しろ女給クンが月に三百円のチップを稼ぐと云ふのだからタイしたものである。」(東海商工会議所聯合会満鮮視察団 『満鮮旅の思ひ出』、名古屋商工会議所、1936、99頁)

【史料10】
「〔……〕新京の歓楽境ダイヤ街〔……〕ここにはカフエー、喫茶店、バー、料理屋、ダンスホール等々軒を並べ、ネオンサインがあくどくお客を呼んでゐます。日本人の行く所何処でもカフエーだけは作られるやうです。兎に角この街は日本化されたと云ふより、全く日本の街になつてゐます。ここから少し離れて新京銀座と呼ばれる吉野町の繁華街があります。」(石川敬介『満洲をのぞく』カニヤ書店、1937、19-20頁)

新京神社

【史料11】
「新京神社は新京中央通りにある。大正15年11月3日、大正天皇御大典記念会事業として御鎮祭申上げ、次いで昭和4年5月、今上天皇御大典記念事業として全社殿を改築し、昭和7年12月14日長春神社の社号を新京神社と改称申上げた。御祭神は天照大神大国主明治天皇の御三座である。その御社運は何れも皇室の大典、国家の大事に関係して飛躍的の発展を遂げつつある。これは内地でも同様であるが殊に朝鮮満洲に於て顕著である事を感じた。」(中島正国『鮮満雑記』、自費、1937、37-38頁)
植民地都市と統治支配の象徴 関東軍司令部

関東軍司令部

【史料12】
関東軍の新庁舎は、小高い丘陵に、南面して建てられ、むろん、近代洋式ではあれど、中央正面の屋上高く、日本の城郭の二重櫓をしつらへ、左右にも、一個づつやぐらが、威容を厳然ととのへてゐる。差づめ大阪城名古屋城の一部を連想せしめ、ここにも「日本」の氾濫を象徴してゐるのだ〔……〕菊花の御紋章、燦然として四辺を払い、屋上、雲を衝いて、日章旗が風にはためけば、これこそ「日本」を延長した幾万の居留民にとり、力強くもまたたのもしい後盾であらねばならぬ。」(満洲産業建設学徒研究団 編『満洲産業建設学徒研究団報告』学徒至誠会、1935、400頁)

【史料13】
「新興満洲国の中心新京の1画に16の御紋章高く、燦然と輝き、我が国威を世界に示すものの如く、巍然と立てる庁舎、これぞ関東軍司令部である。」(福徳生命保険 『鮮満事情 : 文部省推選派遣教育家の見たる 昭和12年版』福徳生命保険 1937)

【史料14】
「特に目につくのは軍司令部の建物で、これは城郭に擬したやうな建物で如何にも新京の全体を睥睨して巍然として建ツて居る姿は、非常に要領を得たものだと思ツた」(田中智学『渡満紀行』獅子王文庫、1938、163頁)

【史料15】
「上部は古代の天守閣の優美を備え、下部は洋風の現代的な堅牢なものである。思ふに東西文化の特有性を採つた事であらう。而かも堂々たる威容は他を圧せずんば止まぬ一種の権威である」(新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938、142-143頁)

【史料16】
「駅前の北広場から一直線に大同広場へ通じてゐる街路樹茂る中央通りの大道路を辷るが如く南走する事僅にして、右方、緑の並木越しに中央に天守閣を、左右の端に出丸をあしらつた三層建ての堂々たる大建築が見える。一寸風変りで名古屋の市庁舎を彷彿とさせる建物だ〔……〕仰ぎ見る菊花御紋章の輝きに感激〔……〕さすが東洋平和確保の大号令を全満に向つて発する関東軍の総本家だけあつて、庁舎の広壮雄大なること盤石の如き観がある。」(森田福市『満鮮視察記』、自費出版、1938、163頁)

【史料17】
「〔……〕現代的鉄筋コンクリートの広壮ばる建築に日本的城郭式を調つらへた九段下の軍人会館を立派にしたやうな関東軍司令部と、純日本式の新京神社を排した時、吾国威の偉大なることを感ずると同時に、日本国民であることの誇りを感じた」(中根環堂『鮮満見聞記』、中央仏教社、1936、41-42頁)

【史料18】
満洲の夕日をあびて金色に耀く菊花の御紋章を排した時思はず眼頭が熱くなつて、皇国日本の有り難さ尊さが痛切に感じられ、聖代に生を享くる我等の幸福を沁みじみ感謝したのである。」(岐阜県社会教育課『鮮満視察輯録』共栄印刷所 1937)

【史料19】
「西公園の緑を距てて巍々として聳ゆる大建築、本館を中心に前後・左右・中央に羽翼にの陣を張り、三層の上に天守の櫓めいた単層若くは重層の高楼があつて堂々たる偉容で、仰ぎ見れば菊花御紋章が燦として輝き尊厳の感にうたれる。屋上に昇つて市街を展望するに東西南北際涯を知らず、無数の大建築が或は成り或は営まれつつあつてその大観は想像以上で、これが人力で行われつつあることかと思ふばかりであつた。」(中島正国『鮮満雑記』、自費、1937、40-41頁)

【史料20】
「宛ら守護神の如くある我関東軍司令部の、アノ燦たる菊花御紋章を仰ぎ見る時、如何に日本人たる事の幸福と誇を感じる事か、私は暫し雨の路上を門前に胸を張つて立つたのであつた。」(志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938、89頁)

忠霊塔

【史料21】
「遺骨は内地家庭に送りたるものの一部の分骨を、一柱毎に高さ5寸に三寸角の木箱に納め、正面に所属部隊官位氏名、行年、右側に死亡年月日、場所、死因、右側に本籍地遺骨発送稀先及其の宛名が明記してある」(中島正国『鮮満雑記』、自費、1937、46頁)

戦跡

【史料22】
「満蒙の新天地は、今や陰惨の暗から黎明の暁に移ったが、そこに至つたのも実に我が同胞の尊き犠牲の賜物であつて、今日のあたりに戦跡の一部を視る時、ましてカーキ色の畑の中にさびしく立つ所の墓標を見る時、誰れか、感慨無量、地下の霊魂に感謝の涙を注がぬ者はあらうか。」(石倉惣吉 『満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933、51頁)

【史料23】
「殊に南嶺に殊勲を立てられた倉本少佐始め4基の記念碑が並列するのを観て一層その感を強くし、心から崇敬の念を深くし、皆様の犠牲に因つて吾々日本国民は今日の位置を得、枕を高くして寝ることが出来るのであると感謝の礼拝を捧げ、何となく去るに忍び難かつた。」(中根環堂『鮮満見聞記』、中央仏教社、1936、42頁)

【史料24】
「〔……〕新京の観光といふことになツた、劈頭第一に新京神社に参拝し、忠霊塔にもお詣りをすまして、市中の見物もやりたいはやりたいけれども、兎に角満洲事変について生々しい物語を事実に結晶した戦跡ともいふべき南嶺に赴いた。〔……〕目の辺り其の兵舎や何かの現状を見て、生生しき戦死者の墓を展するに及んで、其の感慨は一層深いものがあツた」(田中智学『渡満紀行』獅子王文庫、1938、159-160頁)

【史料25】
「過ぐる満洲事変の戦跡南嶺や寛城子を訪ね満洲特有の強い蒙古風に吹かれ乍ら激戦の模様をつぶさに聞き、眼のあたり幾多英霊の墓標を排しては何時しか一行の両眼に熱いものが光ってゐた。」(岡山県鮮満北支視察団『鮮満北支視察概要』、岡山県教育会 1939、14頁)

【史料26】
「〔……〕其昔長春時代より現在に至るまで都市としての変遷に伴ひ、大和民族の血涙が濺がれてゐる観光地であることを忘れてはならぬ。〔……〕満洲創国の裏面には寛城子の苦闘と貴き犠牲あり、将又南陽の激戦・肉弾攻略あり、孰れも、歩を現状に停むとき涙なくして、参拝せざるものはない」(杉村大造『満支へ気ままの旅へ』箱館経済協会、1939、45頁)

【史料27】
「肉弾又肉弾敵兵四千を壊滅敗走せしめた偉勲、満洲建国の尊い戦跡である。当時の兵営、激戦のあとは、星霜10年徒に雑草茂り、白樺の樹のかげに標石さびしく、静かに瞑目皇軍勇士戦没の跡にたてば、そぞろに感謝と哀悼と怨憤の感に咽ばざるを得ない。」(山形県教育会視察団『満鮮2600里』、昭和十七年山形県教育会視察団、1942、78頁)

現地住民への視線

(1)漢人

【史料28】
支那人は「食ふ事」が道楽の一つで、日本で道楽といへば飲む買ふ打つを三拍子といふが、支那では此の三拍子に食ふ事と、それから「戯」の二つが加はつてこれを五拍子揃った道楽といふ「戯」といふのは芝居の事で、観劇亦彼等の道楽の一つになつてゐる、戦禍と乱政とに常になやまされて、生命財産の保護はおろか、日々の生活すら脅威されてゐる彼等は、今日あつて明日のないいのち、現実本能主義に傾いて、盛んに飲む、女を買ふ、博打を打つ、芝居を見る、又うまいものを出来るだけ食ふ、従つてその民風に応じて営利的料理の発達したのも当然である。」(石倉惣吉 『満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933、39-40頁)

【史料29】
「〔……〕長煙管に悠然として歩行する多数の彼等を見た。大国民と言はうか。文明から生存競争場裡から捨てられた漢民族とでも言はんか?興奮発奮の意気が無い。矢張り日本人が背後から押し出して遣らねばならぬ。そこに日本の使命がある。彼等を指導し啓発し東洋の発展と文化と民族の独立の気性を涵養教授して行かねばならぬ。白皙人種の東漸する横暴の自衛の為にも……。」(新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938)

【史料30】
「〔……〕纏足を見た時には、思はずぎよつとして立ちすくんだ程だつた。牡丹江、ハルビンを過ぎて新京にはいつてからは纏足を見ても割に冷静に観察されるやうになつた。纏足は暫次(ママ)消滅してゐるとは云へ、まだまだうら若い女の纏足を見た時には、彼等の纏足に対する美的観念が、まだ覚めずにゐるのか知らと感ぜずには居られなかつた。」(高橋津留子「新京城内を見学して」、大陸視察旅行団 『大陸視察旅行所感集 昭和14年』、大陸視察旅行団、1940、214頁)

【史料31】
「来る人も会ふ人も周囲は満洲人の姿。大蒜の香をはきかけられては人種的嫌悪が私の気持ちをぐつと、しめつけて自ら自身の心の殻の中に満人に対する蟠り、恐怖を抱かせるのだつた。それは言葉の全然通じないといふ事も確かにその原因をなしてゐると思はれるのだが。路傍で瓜をかぢつてゐる男、屋台屋で白い粉をすすつてゐる老爺、彼等は凡て鈍重な眼、無表情な顔、それに細目に開けてゐる口が一層顔にしまりのなさを與へてゐるのだつた」(高橋津留子「新京城内を見学して」、大陸視察旅行団 『大陸視察旅行所感集 昭和14年』、大陸視察旅行団、1940、214頁)

(2)白系ロシア人への視線

【史料32】
「市街(※引用者註-寛城子)は純ロシア式で、風俗も新京が満洲風であるのとは非常な相違である。布で頭から頬冠りしたロシア婦人や栄養不良らしい老人なども多く見受け、民族衰退国家滅亡の悲壮な状態をまざまざと見せ付けられた」(新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938、129頁)

【史料33】
「帝国ホテルを真似たやうな中銀クラブに入る。暖炉では火があかあかと燃えてゐた。ここは新京の上流人の社交場らしい。給仕はロシヤの少女である。〔……〕ロシヤの給仕女の尖つた鼻先が寒さで赤らんでゐた。頬には血の気がなかつた。いかにも哀れな気がした。」(今村太平『満洲印象記』、第一文芸社、1941年9月、129-130頁)

【史料34】
「〔……〕イムペリアルとかいふ露西亜人のキヤバレへ行く。バンドは頻りと、「紀元は二千六百年……」といふ日本の歌を奏でてゐる。キヤバレの露西亜娘は、まるで教養も教育もなく、そして無類のお人よし振りを発揮する。いかにも19世紀の露西亜人らしくて哀れな気がする。生まれは大抵上海かハルピンか、たまに向うで生れたと云ふ年増がゐても、ウラルかポーランドと云つた具合で、モスクワのことなどは何も知らない。」(井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房、1942、239-240頁)

新京内の交通インフラは馬車

【史料35】
「現在、新京に来て馬車屋などを働いてゐる者は、近郊の百姓も相当にあるとのこと〔……〕農作物等を、兵隊たちに無理やりに奪取されたりするとの不安の念を抱いてゐるため、農作を捨てて顧みないでゐる。少しも耕作をやらない。それらの農民が、新京へ押し出して来て馬車屋をやるのだとのこと。」(信楽真純『柳絮』松倉友之助、1933、15頁)

【史料36】
「私は此の馬車に乗つてみたい誘惑にそそられてたまらないので、或る日一行が懇談会に臨んでいる1時間を利して、町の端れまで試乗した。ピシッと軽く当てられた鞭を合図に、優々と頭に快い蹄の音を感じ乍ら、大路小路を曲折し、商埠地や城内までも普く歩き廻つた。此馬車の幾台となく行き交ひ連り合ふ様は、確に満洲市街の一風景を特色づけてゐる。」(渡辺房吉『満洲から朝鮮へ』、自費、1933、60頁)

【史料37】
「広い街路には全く電車は通さず、大衆の交通機関としてはバスが用ひられるとの事です。しかし今日では馬車が一番多く、又最も安価な乗物として広く利用されてゐます。しかも彼等馬車仲間には決してお客争奪の競争もなく、到つてのんびりと所謂大陸的にやつてゐます。大体4人迄10銭か20銭で何処へでも行ける程度です。」(石川敬介『満洲をのぞく』カニヤ書店、1937、21頁)

【史料38】
「新京の名物は馬車と洋車(人力車)である、牧畜国の満洲人はよく馬を御す。かくて何千頭或ひは万を越ゆるかと思はれる馬が、二頭曳きとなつて一キロ十銭内外で客を乗せ、市中を洋車と共に織るごとく走るのである。洋車も同じ位の値段である。新京は、馬の蹄の音に明けると言つてもよい。」(白鳥省吾『詩と随筆の旅:満支戦線』、地平社、1943年)
現地住民の尊重・配慮

満人文化の尊重・配慮

【史料39】新民戯院
満洲の情緒を知るには、いはゆる満人街を漫歩するがよい。新民戯院といふので芝居を見た。ハヤシは間断なく鐘を鳴らし胡弓を引いて、騒々しい限りのものであつた。劇は御家騒動のもので、殿様が御殿を留守にして遊び廻つてゐるうちに敵が難題を持ち込み家老が苦労をする。結局、敵の大将と家老が戦ふことになるのだが、その立廻りはなかなか面白く、情痴の場面なども歌劇風な科白が綿々たるものがあつた。」(白鳥省吾『詩と随筆の旅:満支戦線』、地平社、1943年)

【史料40】孝子塚
「大同外民生部の隣、紅萬字会本部前のペーブされた道の一側に、小高い十何坪ばかりの丘が有つて一本の大木を背にした祠らしいものがある。沢山の扁額が納められて居るし、参詣する人も相当有り、香煙縷々で無しに、こちらの風習で有らう線香が燃え上つてゐる。新京の表玄関からの此の大同街のしかもペーブされた大道のただ中に此の古風な祠の有るには誰も奇異の感がする。」(60頁)

【史料41】西公園(児玉公園)
「駅員の案内により馬車に同乗して、先づ西公園を見る。十万坪の広大なる流石は大陸的だ、殊に満洲には珍しく樹の多いのは嬉しい、池もあり河もあり水もある。グランドもあれば、ゴルフ場もある、脂粉を施した楚々たる満洲娘や闊歩するロシヤ美人等、樹の下、森の䕃に逍遥せる様は、流石は国際的公園の名に恥ぢない。」(早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934、121頁)

【史料42】満洲料理店「鹿鳴春」
「鹿鳴春は新京一流の満洲料理店で、見たところ店の構や設備も今迄になく立派で品位があり、サービスも仲々行届いて居り、出された満洲料理はその粋を極め、此れに加へて料理の甘さは此度びの旅行中で口にしたなかで特別のものだつた。」(森田福市『満鮮視察記』、自費、1938、169頁)

参考文献・引用文献(出版年、五十音順)

山本実彦『満鮮』、改造社、1932
石倉惣吉 『満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933
臼井亀雄『開けゆく満洲』日東書院、1933
川上隆正『黎明の満蒙』帝国在郷軍人大分市大道分会、1933
信楽真純『柳絮』松倉友之助、1933
橋本孝市『満鮮への旅』、自費出版、1933
橋本隆吉『満蒙の旅』堀新聞書籍店、1933
宝蔵寺久雄『海鼠は祈る:満洲旅行記』、新知社、1933
渡辺房吉『満洲から朝鮮へ』、自費、1933
大貫将「満洲の農業と産業組合」、日本産業組合研究会、1934
全国社会教育主事協会 編 『社会教育者は満鮮を斯く見る』、社会教育会、1934
早坂義雄『我等の満鮮』北光社、1934
依田泰 『満鮮三千里』、中信毎日新聞社、1934
四ツ橋銀太郎『満鮮を旅する』、自費、1934
石川磐彦『鮮満視察旅行』、自費、1935
白須皓『我が観たる鮮満』、林風社、1935
杉山佐七『観て来た満鮮』、日本商業教育会、1935
園田銈『満鮮旅行記』、自費、1935
電気学会『携手同行』、電気学会、1935
林安繁『満鮮遊記』、自費、1935
藤山雷太 『満鮮遊記』、千倉書房 1935
満洲産業建設学徒研究団 編『満洲産業建設学徒研究団報告』学徒至誠会、1935
水谷重之助『満鮮の旅』、自費、1935
山形県教育会視察団『満鮮の旅 : 視察報告』、山形県教育会満鮮視察団、1935
長與善郎『滿支このごろ』、岡倉書房、1936.8
大房暁 『鮮満紀行』、岡文社、1936
東海商工会議所聯合会満鮮視察団 『満鮮旅の思ひ出』、名古屋商工会議所、1936
中根環堂『鮮満見聞記』、中央仏教社、1936
広瀬為久 『普選より非常時まで』、自費、1936
藤原千代『満鮮旅行の思出』武蔵野書院、1936
本多辰次郎『北支満鮮旅行記 第2輯』日満仏教協会本部、1936
満支視察団記編輯部『大阪より満鮮北支へ』、満支視察団記編輯部、1936
有田芳太郎『鮮満北支の旅』、自費、1937
石川敬介『満洲をのぞく』カニヤ書店、1937
岐阜県社会教育課『鮮満視察輯録』共栄印刷所 1937
中島正国『鮮満雑記』、自費、1937
福徳生命保険 『鮮満事情 : 文部省推選派遣教育家の見たる 昭和12年版』福徳生命保険 1937
吉岡栄亮『鮮満紀行』、自費、1937
岩崎晴子『満鮮に旅して』、竹柏会 1938
大橋克『満鮮北支紀行』、小寺印刷所 1938
志村勲『満洲燕旅記』自費出版、1938
田中智学『渡満紀行』獅子王文庫、1938
マルサン織物工業組合『北支満鮮視察報告日記』、マルサン織物工業組合 1938
中島真雄『双月旅日記』、自費、1938
新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938
日本旅行会『鮮満北支の旅 : 皇軍慰問・戦跡巡礼』、日本旅行会 1938
平野亮平『満支旅行日記』、自費、1938
松本佐太郎『鮮満北支たび日記 : 附・鮮・満・北支の陶業調査報告』、自費、1938
村松益造『黄塵紀行』南塘文庫、1938
森田福市『満鮮視察記』、自費、1938
山形県教育会視察団『満鮮の旅 昭和13年度』、山形県教育会視察団 1938
長與善郎『少年滿洲讀本』、日本文化協會 : 新潮社、1938.5
保田與重郎『蒙疆』、生活社 1938.12
東文雄『朝鮮・満洲支那大陸視察旅行案内』東学社、1939
岡山県鮮満北支視察団『鮮満北支視察概要』、岡山県教育会 1939
杉村大造『満支へ気ままの旅へ』箱館経済協会、1939
津田亥子生『満支行雑記』自費出版、1939
全国中等学校地理歴史科教員協議会『全国中等学校地理歴史教員第十三回協議会及満洲旅行報告書』、全国中等学校地理歴史教員協議会 1940
第一 第13回全国中等学校地理歴史教員協議会の経過-(三)第13回全国中等学校地歴教員協議会-(2)新京滞在中の概要記録
第二 満洲視察旅行記-(二)B班旅行記
大陸視察旅行団 『大陸視察旅行所感集 昭和14年』、大陸視察旅行団 1940
久米正雄『白蘭の歌』、新潮社、1940年
春山行夫満洲風物誌』、生活社、1940年初版、1941年再版
村野貞朗編『大陸みやげ話』自費出版、1940
今村太平『満洲印象記』、第一文芸社、1941年9月
長與善郎『満洲の見学』、(少年文化叢書)新潮社, 1941.12
伊藤整満洲の朝』、育成弘道閣、1941年
石橋湛山『満鮮産業の印象』、 東洋経済新報社 1941
磯西忠吉 『鮮満北支ひとり旅』、大正堂印刷部 1941
松井正明『鮮満一巡 : 附・転業対策卑見』、千葉東亜経済研究会 1941
松井秀子『大陸奉仕行』興亜保育協会、1941
鷲尾よし子『和平来々 : 満支紀行』、牧書房 1941
大佛次郎『氷の花』、六與商会出版部、1942年3月
石山賢吉 『紀行満洲・台湾・海南島』、ダイヤモンド社 1942
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房、1942
山形県教育会視察団『満鮮2600里』、昭和十七年山形県教育会視察団、1942
阪井政夫『自動車人ノ見タ満洲』日満自動車界社、1943
白鳥省吾『詩と随筆の旅:満支戦線』、地平社、1943年
藤本実也『満支印象記』、七丈書院 1943
鮎沢幸雄『満洲旅日記』、自費、1943
田畑修一郎『ぼくの満洲旅行記』、児童図書出版社、1944年
寺本五郎『大陸をのぞく』紀元社、1944