満洲引揚者の戦後再入植の勉強の一環として軽井沢町を訪問した。
第三の大日向村はどこにあるのですか?
- 戦後再入植地「第三の大日向村」を求めて
大日向開拓記念館に入るのは難しい
- どうすれば大日向開拓記念館に入れるのか?
- 第一の難関 まず連絡先を得なければならない
- 大日向村開拓記念館の公式情報は存在しない。web上の個人の記述や新聞報道を繋ぎ合わせると、北佐久郡軽井沢町の公民館(大日向分館)の館内に設置されていることが分かった。(公式情報はないが、天皇陛下がしばしば訪問なさるので断片的な情報はかなり落ちている)。しかし普段は閉鎖されており、鍵の管理者に電話をかけて開けてもらわねばならない。だが大日向分館の電話番号は分からない。それならばと軽井沢町の中央公民館に電話。中央公民館の職員が鍵の管理者の方に問い合わせて電話番号を教えても良いかという許諾を頂き承認されれば電話番号を教えるとのこと。ここでも身分と所属と義勇軍の関係者であることを伝えてしばらく待つ。・・・数時間後、折り返しの電話があり許可が出る。この鍵の管理者の方は新聞報道などでも度々紹介されているが、戦後軽井沢に再入植した第三の大日向村の人々のうち、現在も農業を続けている唯一の方として有名である。
- 第二の難関 3名以上の団体客のみで農繁期は不可
- 鍵の管理者の方は普段は農業に従事されておられるので、鍵を開けてくださいと言ってもすぐに開けてもらえるものではない。それゆえ、農繁期を避けた秋以降でないと受け付けて頂けず、3名以上からの対応になるとのこと。フツーならここで条件を満たせず終わるのだが、しかし私は幸運なことに、3名の団体様の見学の予約に便乗させて貰えることとなった。
- 第一の難関 まず連絡先を得なければならない
【聞き書き】新京難民生活
大日向開拓記念館を見せて頂いた後、ご主人と奥様から貴重な話を聞かせて頂いた。ここでは新京難民生活についてまとめておく。
- 敗戦と中国人の襲撃
- 日本の敗戦が伝わると中国人が襲撃してきた。満洲大日向村は5つの部落から構成されていたが、日本人たちは第2部落に集まることとなった。管理人の御主人は12歳、奥様は10歳のことであったらしい。当時根こそぎ動員により成人男性は3名しかおらず、彼らの指導で逃避行が主導されたとのこと。この時、開拓村の資金を巡り様々なことがあった(ここでは詳述しない)。奥様がいた第4部落では懇意にしていた中国人たちが第2部落まで護送してくれたのだとか。第2部落に集まった後、舒蘭の駅まで歩いて行ったが、無蓋の貨車が用意してあり、それに乗って新京へ向かった。
- 舒蘭県から新京へ
- 舒蘭から新京までの鉄道移動は遅々として進まず、ことあるごとに汽車が止められて金品などを要求され、差し出しては運行が再開されるの繰り返しだったのだとか。奥様の話ではシベリア抑留で北方に送られる捕虜となった日本人兵士の汽車とすれ違う時に、無蓋の馬車へ黒パンを投げ入れてくれたことが記憶に残っているとのこと。そして新京に辿り着くと、関東軍陸軍兵舎での暮らしが始まる。ご主人の話では、官舎の地下にはプールもあったらしい。
- 新京難民生活(越冬)
- 関東軍陸軍官舎での生活
- この越冬生活で大部分が死んだ。その一因として開拓団の資金をめぐる問題があったとのこと。上述の通り3人で開拓団の資金を分配したが、このうちの2人は何故か資金を失ってしまったと述べた上で、大日向開拓団の人々とは分かれて別の官舎に移ったのだとか。隣の官舎では佳木斯隊が良い暮らしをしていたのだが、この二人は隣の官舎に移ったとのことであった。なぜ移れてよい条件で越冬生活を送れたのかは類推の通りである・・・。残りの大日向村開拓団の人々は、持っていた資金を提供した一人の副団長の下で越冬生活をした。越冬生活は厳しく満鉄の引き込み線で石炭拾いをしてコークスを集め、それを売って何とか生き延びたとのこと。
- 国共内戦
- 関東軍陸軍官舎での生活
- 葫芦島からの帰還
- 戦後再入植
- 母村の大日向村に戻るも、そもそも母村の農村問題を解消するために満洲に行ったので居場所がない。故に、戦後の再入植地を探すことになった。紆余曲折を経て現在の長野県北佐久郡軽井沢町大字長倉に入植することとなった。昭和22年には天皇陛下が行幸なさったことで有名となり、以後も陛下がたびたび訪れる地となる。だが、戦後の高度成長や軽井沢開発により土地の値段が上昇したため離農が進み、現在残っているのは公民館の鍵を管理なさっている御主人の一家だけとのこと。
- 現在は、満蒙開拓平和記念館と交流をしたり、母村があった佐久穂町の公民館により継承が行われたりしている。そして、毎年秋には筑波大を筆頭にして、早稲田大、明治大などの教授が学生を引き連れて調査が行われているとのことであった。