【レポート】満洲国の観光について 終章

 本論文のリサーチクエスチョンを確認しておく。まず対象としては満洲国の国策機関や観光協会などの事業者とともに、旅行記・紀行文の分析により観光者に重点を置いた。それを踏まえ、観光者の旅行行動の実態を通して、満洲国の諸都市が観光者の視線にどのように映し出されたかを明らかにすることをリサーチクエスチョンとした。
 本論文は大きく二つに分けることができる。第一章では満洲国観光の前提となる国策機関や観光協会などの事業者側を扱った。第二章から第四章では観光者側を扱い、具体的な事例として満洲国の三大都市である新京、奉天、哈爾濱を取り上げた。
 第一章では満洲国観光の前提として、満洲国が成立したからこそ発展した観光業を明らかにした。満洲国には国策機関である観光委員会とそこでの施策を実行する観光連盟が設置され、各都市の観光協会を統率するという一元的な観光国策が展開された。そして交通インフラの整備が行われ、京図線、北鮮鉄道、北鮮三港が繋がり満洲国に至る第三の経路である日本海ルートが誕生したことも重要である。このようにして、満洲国が成立したからこそ展開できた観光事業があることをここでは明らかにした。
 第二章から第四章では旅行行動の実態を通し、観光者の視線に映し出された満洲国の諸都市の様相から二つのことが明らかになった。
 一つ目は現地住民の近代性である。先行研究ではとかく日本の近代性が強調され、現地住民はその後進性ばかりが扱われることが多い。しかしながら新京では商埠地に現地住民により近代的都市が新設され、奉天では旧来の都市であった城内が近代化し先進的な建築物が建設され、哈爾濱ではロシア人居住地からはじき出された現地住民が傅家甸と呼ばれる上海に次ぐ大陸第二の都市を建設していた。このようにして現地住民は決して後進的であったのではなく、独自の文化を発展させていたのである。
 二つ目は民族間の混交である。従来のイメージでは日本人と現地住民はお互いに没交渉であり、各自の居住地域は分断されていたのだが、実はそうではなかったことが明らかになった。日本人も現地住民も相互の居住地域における百貨店や歓楽施設などを利用していたし、満鉄を利用して満洲国内を移動していた。また哈爾濱ではロシア支配時代には排除されていた現地住民が満洲国成立、北鉄譲渡を経てかつてのロシア人居住地域にも進出していることが特徴的である。
 以上により、第二章から第四章では現地住民の近代性及び民族間の混交が明らかになった。だがしかし、ここで考察したいのが、現地住民の近代性や民族間の混交をなぜ観光事業者はモデルコースに組み込まないのかということである。満洲国は民族自決による国民国家として認められなかったため、様々な手段を尽して独立国として承認してもらおうとしていた。現地住民が近代化していれば、それは民族の自立性に繋がるし、人種間混交が進んでいれば五族協和としてアピールできるはずである。これは一体どういう事であろうか。このことからは、あくまでも満洲国の観光国策としては、あくまでも日満不可分一体のもとでの満洲国の独立性を目指していたと考えることができる。満洲国の観光事業者側が見せようとしなかったものが、満洲国の観光者から浮き彫りになったことを意味していると言えよう。
 本論文で取り上げた観光者の訪問地は三大都市である新京、奉天、哈爾濱のみである。しかしながら当時は投資や開拓移民の呼び込みのための視察旅行も行われていた。初期の開拓移民がどんなに発展したかを見せるために観光地と化した弥栄村や千振村。日本国内から移民を送出するために分村移民のモデルケースとなった大日向。これらは特に重要な移民村の観光地である。特に大日向村に関しては、日本国内で大々的に宣伝され、分村移民の様子が小説化され、さらには国策映画となって日本中で放映され、大日向村への視察旅行が活発化したのである。
 また当時日本が建設した旧日本帝国の遺産は、中国東北部においてそのまま再利用されたり、観光資源化されたりしている。旧来の観光資源が現在でも観光資源となっているケースも多いため、過去と現在の比較も必要であろう。
 移民村の観光資源化及び現在と過去の観光資源の比較研究が今後の課題となる。