~前回までのあらすじ~
進捗状況報告がボロクソだったので、先行研究を読み返し論点を整理することにした。
今回は先行研究が満洲国観光をどのような機能として位置付けているのかを分類した。
1.満洲国観光による満洲に対する典型的イメージの付与
- 1-1.定型化した周遊ルートと定型的な植民地理解
- 「旅行者の訪問地は日本の支配権が及ぶ鉄道網に規定され,釜山-京城-平壌-安東-奉天,そして旅順-大連-奉天-撫順-長春・新京-哈爾濱という,奉天を結節点とする2大幹線に沿った 10 都市が中心であった。言い換えれば,釜山と大連を出入り口としてこの10 都市を結ぶ線が、代表的な周遊パターンを構成していたといえる。〔……〕鮮満ツーリズムのなかで近代の日本人が体験した鮮満とは,一面では,日本語環境を維持したままの鉄道による駆け足旅行であり、定型化した周遊ルートのなかで表面的かつ定型的な植民地理解を形成する機会を作り出すものであったといえる。」(米家泰作「近代日本における植民地旅行記の基礎的研究 : 鮮満旅行 記にみるツーリズム空間」(京都大學文學部研究紀要、2014、53、341頁)
- 1-2.満洲国と「異国情緒・贅沢さ・超近代性」イメージの結合
- 1-4.満洲観光の典型的4テーマ「戦跡・近代性・現地の遅滞性・アジア文明の保護者」
- 「〔……〕そのうちもっとも大事なのは、満洲で日本が特殊権益を有するのは、日本が戦場で大きな犠牲を払ったからだという考え方だった〔……〕後進地域に近代化をもたらした日本の役割も強調されていた。首都新京(現長春)の新建築をはじめ、鞍山の製鉄所、撫順の炭鉱、吉林から30キロほど上流の松花江で建設中のダムにいたるまで、1940年に満洲を訪れた観光客の見学先には、日本人による近代化の成果がふんだんに盛り込まれていた〔……〕日本人観光客を強く引きつけた三つ目のテーマが、満洲に住む現地住民の集団が遅れた状態に置かれていること〔……〕最後の四番目のテーマは、日本人がアジア文明の保護者たらんとして、現地の歴史遺産の保護に努めているということである」(ケネス・ルオフ/木村剛久訳『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』、朝日新聞出版、2010年、207頁)
2.各観光資源の機能・役割
2-1.戦跡
2-2近代性
- 2-2-1.「パノラミックな景色と近代性」
- 「長春は、国都と定められてから、近代的な都市建設が急ピッチで進められ、「日に新しく日に進む颯爽たる姿」が「新興満洲」の象徴として宣伝されるようになった。1937年ころの「国都観光バス」ツアーの締め括りには、「国都建設局」の屋上で都市計画の概要の説明が行われ、観光客の視野を全開させるところで、満洲の心臓都市の未来図を強く実感させることになっている。新京の「国都建設局」と同様、旅順の「白玉山」、大連の「山の茶屋」(展望台)、撫順の「露天掘」(露天炭田)のようなパノラミックな景色が展開される場所は、ガイドの力の入れどころであり、在満邦人の功績を誇示するのに最適のステージである。」(高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」、『岩波講座近代日本の文化史6』、岩波書店、2002年、234頁)
2-3.異国情緒
- 2-3-1.「エキゾチックとノスタルジア」
2-4.歓楽郷
- 2-4-1.ロシア人女性のセクシュアリティ
- 「〔……〕「外人征服」の暗喩としてのロシア人女性のセクシュアリティへの屈折した欲望が秘められている。昼の観光バスに花を添えるロシア娘ガイド、夜のキャバレーを彩るロシア人「踊り子」。ハルピンという「外人征服精神を鍛錬する唯一の道場」において、ロシア人女性の身体は、在満邦人と内地客の共謀するまなざしのもとで、「亡国の女」、「楽土」の安住者、異国情緒の体現者、歓楽郷の愛玩物など、豊穣なナショナル幻想を投射するオブジェとして、かつ「外人征服」の快感を達成させてくれる「肉体の勲章」として欲望消費されているのである。」(高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」、『岩波講座近代日本の文化史6』、岩波書店、2002年、244)
- 2-4-2.ロシア人女性のアンビバレンツ的機能
- 「歓楽街で接客するロシア人女性が、ヨーロッパへの憧憬をかきたてると同時に、ヨーロッパに対する優越感を与えてくれるアンビバレントな存在となっていった。〔……〕近代日本の旅行者にとって、哈爾浜とは,ロシアとの帝国主義的な争いと、そこでの勝利を象徴する都市であり、「夜のハルピン」は歪んだオクシデンタリズムを掻き立てる場所となった。」(米家泰作「近代日本のコロニアル・ツーリズムと哈爾浜」(『日本地理学会発表要旨集 2018s(0)』、公益社団法人 日本地理学会、2018、https://www.jstage.jst.go.jp/article/ajg/2018s/0/2018s_000096/_pdf/-char/ja、2019年5月11日閲覧15時32分閲覧
2-5.植民地と博物館
- 2-5-1.「満洲国史」の創出
- 「ここで、国立博物館の展示が創出しようとした「満洲色」とは何だったのかを検討してみたい。〔……〕考古学調査で得られた成果を展示するという手法をもって「満洲国」建国に至った中国東北の歴史像を来館者に「見せる」ことが、展示において「満洲色を出す」ということだったのである。国立博物館では〔……〕「清朝色」に代わって、考古学・東洋史学者による考古学調査の成果に基づいて「満洲色」を強調しようとしていた。この動きは、中国内地の歴史とは切り離した「満洲国史」を構築しようとする、「満洲国」の文教政策に同調するものであった。〔……〕特に、「満洲国」の領土内で興亡した高句麗・渤海・遼・金各王朝の文物が徐々に国立中央博物館の主要な展示を構成するようになった結果、かつての「清朝色」や中華文明的要素は薄められていく。それは、単に考古学資料の増加がもたらした相対的な変化ではなく〔……〕「満洲国史像」の創出を意識したものであった。」(大出尚子『「満洲国」博物館事業の研究』、汲古書院、2014年、46頁)
- 2-5-2.「民族協和」の演出
3.新京の位置づけ
- 3-1.新京における「異国情緒」の捨象
- 3-2.新京の「近代性」
- 3-2-1.「原野に出現した近代都市」
- 3-2-2.「驚異の絵巻物」
- 3-2-3.「未来の桃源郷」
- 3-3.新京と民族協和
- 3-3-1.児玉公園と現地住民への配慮
- 「公園の利用について、1940年5月6日(日曜日)の児玉公園(旧称西公園)を調査したところ、日本人と中国人の比は2対1であった。これは児玉公園が旧満鉄付属地にあることを考えると、中国人の利用者数はむしろ非常に多いといえる。これは上海の租界にある公園が「犬と中国人と立入るべからず」という立札が一時あったことに象徴されるように、欧米人のためのものであったことと好対照をなしている。」(215頁)
- 3-3-2.官公庁の興亜式建築様式と民族協和
- 【A】「満州国の政府官庁は、新京都市計画の二大軸線(大同大街と順天大街)に沿って配置されている。特に順天大街には宮廷、政府庁舎、法院が配置され、その建築様式は一定のものに統一されている。このような官庁建築群は都市の"顔"をつくるものである。日本人が近代以降に手がけた都市計画で、都市の中心地区が一定の建築様式にもとづいて構成され、一つの政治的表現をつくり出している事例は新京を除いては存在しない」(越沢明『満洲国の首都計画』、ちくま学芸文庫、2002年、238頁)
- 【B】「満洲国は日本の満洲進出の産物で、日本の保護国あるいは傀儡国家であったことは事実としても、建前としては五族(日、漢、満、蒙、鮮)の民族協和を謳っており、官庁建築にはそれぞれが具現化される必要があった。そのため欧米の古典様式や国際様式(いわゆるモダン建築)を採るわけにはいかず、東アジアの民族性をなんらかの形で表現する必要があった。」(越沢明『満洲国の首都計画』、ちくま学芸文庫、2002年、 248頁)
- 3-3-1.児玉公園と現地住民への配慮