雑録

【レジュメ】「満洲国の国都「新京」は旅行案内やパンフレット でどのようなイメージ像を提示されたか?」

1.今回のRQ

  • RQ
    • 満洲国の国都「新京」は旅行案内やパンフレット でどのようなイメージ像を提示されたか?」
  • 分析対象
    • 今回分析したのは『南満洲鉄道旅行案内』(1909年12月、1912年10月、1917年1月、1919年6月、1924年9月、1929年12月、1935年4月)、『満支旅行年鑑』(昭和14年版~昭和18年版)、『観光地と洋式ホテル』(鉄道省、1934)、『国都観光バス案内』(新京交通株式会社、1938)、『新京案内 康徳6年版』(新京案内社、1939)、『鮮満支旅の栞』(南満州鉄道株式会社 南満洲鉄道東京支社、1939)、『満洲の観光バス案内』(大連都市交通株式会社 大連都市交通等、1939年)、『国都新京案内』(新京観光協会、1940)。

2.先行研究における観光における「新京」イメージ

2-1. 新京を近代性の象徴として評価する

  • ①「原野に出現した近代都市」(史資料【1】)
  • ②「驚異の絵巻物」(史資料【2】)
  • ③「帝国のユートピアを視覚化しようとする未来都市・新京」(史資料【3】)

2-2.「満人は飼い馴らされる」対象(史資料【4】)

2-3.先行研究の問題点

  • ①新京は近代性のみだけなのか?
  • ②満人たちは一方的に支配されるのみだけだったのか?

3.なぜ新京か

3-1.新京は「満洲国の心臓」

  • ①新京は、満洲国建国以前「長春」と呼ばれていたが、奠都後「新京」と改称された。宮廷府、国務院を始め各種官公庁が置かれ、国都建設5ヶ年計画により、計画都市が作られた。そのため政治・経済・文化の中心地となった新京は「満洲の心臓」と目され、新京を知ることは満洲国全体を知ることであると観光の宣伝文句とされたのである(史資料【5】、【6】)。

4.満洲国建国以前の長春時代

4-1. 3つの長春

  • 満洲国建国以前、長春という地名は3箇所あった。中国の都城であった「長春城」、ロシアの東清鉄道の附属地「寛城子」、そして日露戦争後に満鉄が建設した「長春駅」である(史資料【7】)。

4-2.開埠地(商埠地)の建設

  • ①満鉄附属地建設後、清朝側による開発も行われた。長春城北門より満鉄附属地に至る広大な土地を開埠地とし、道台顔氏の計画により欧州風の市街を現出した(史資料【8】)。これにより長春は、「満鉄附属地」、「寛城子」、「長春城内」、「開埠地(商埠地)」の4つの地域から構成されるようになった。

4-3.観光資源としての「西公園」の開発

  • 長春は哈爾濱に至るまでの満鉄と東清鉄道の乗換地という側面が強かったが、独自の観光資源として西公園の開発を進めた(史資料【9】、【10】)。

5.新京の観光資源

5-1.国都建設計画による計画都市の出現

  • 満洲国建国後、1933年3月から1937年12月まで国都建設計画第一期事業が行われ、計画通り完成した(史資料【11】)。

5-2.計画都市の近代美

  • ①近代建築群
    • a.関東軍関連施設(旧附属地以南の中央通)
      • 児玉公園の南の中央通西側に関東軍司令部が建設された。関東軍司令官は在満日本大使及び関東局長官を兼ねたので、同じ建物に日本大使館があった。「お城風の厳然たる建物」、「館頭高く燦として煌く菊花御紋章の尊さ」と紹介される。また中央通を挟んで向かい側に関東局が建設された 。
    • b.ビル街(大同広場以北の大同大街)
      • 大同広場以北の大同大街両側にはビル街が立ち並んだ。大同大街東側の大興ビル、海上ビル、東拓ビル、西側のニツケビル、康徳会館、三中井百貨店などである。
    • c.官公庁(興仁大路以南の大道大街沿いと順天大街沿い)
      • 東西に走る興仁大路以南と交叉する大同大街及び順天大街には官公庁の建築群が立ち並んだ。大同大街沿いには経済部・専売公署・内務局・民生部が建設された。順天大街沿いには国務院、治安部、司法部、交通部が作られた。これらの官公庁の中には現代中国の長春においても観光資源となっているものもある。
  • ②都市の中に計画的に配置された公園施設
    • a.旧市街(満鉄附属地)
      • 満鉄経営の西公園を起源とする児玉公園、満鉄を記念する創業館のある日本橋公園(東公園)。
    • b.新市街に作られた親水公園
      • 国都建設計画最初の大同公園、動物園もある白山公園、テニスコートや温室のある牡丹公園、順天大街から大同大街まで続く順天公園、新京南部の南湖をある黄龍公園。
  • ③新京南部につくられた学校施設
    • a.帝国官吏の養成の大同学院、国家指導者育成の建国大学、資源開発の大陸科学院

5-3.満洲事変の慰霊と戦跡

  • ①忠霊塔…満洲事変以後の戦闘に関係して病没した軍人、警察官、満鉄社員等を祀っている。武藤元帥以下千体以上の遺骨が納めてある。「新京に来往する人々の第一に訪れて敬虔な祈りと感謝の念を捧げねばならぬところ」 。
  • ②寛城子戦跡・南嶺戦跡…満洲事変が勃発した際に、東北軍閥と衝突した戦闘を記念する戦跡。両地域とも少なからぬ犠牲者が出た。

5-4.異国情緒

  • ①ロシア…旧東清鉄道の附属地である寛城子にはロシア風の建築物が残っていた。
  • ②満人
    • a.旧商埠地…満人街の地域。イスラーム教の寺院である清眞寺、満人最大の百貨店泰発台、新京唯一の支那芝居小屋の新民戯院、所謂ドロボウ市場である小盗児市場などが異国情緒の代表として紹介される。
    • b.旧城内…満人の商店が連なり、商品を象った看板を見て歩く事が面白い。書家が必ず絵にする関帝廟長春城の南門の跡南関がある。
    • c.新市街…大同大街の通りにある満人の土着の信仰を集める孝子墳には近代美の計画道路を造る際に撤去も検討されたが、満人の心情に配慮し、残されたという逸話があり 、世界紅卍学会は道教施設である。

5-5.観光都市の歓楽街

  • ①旧附属地東部
    • a.日本橋周辺…新京駅南の広間から放射する東南の道路。富士町、三笠町、吉野町を斜めに突切って南広場に至る。カフェ、バー、ダンスホール、キャバレーなどでひしめいている。
    • b.「ピンカンリ」…南広場北東の大和通にある満人妓館の一つ。別名「平康里」。「ピンカンリ」では満人芸妓にやり込められる事例もあった(史資料【12】)。
    • c.ロシア人
      • ⅰ.ロシア人喫茶…アウエチシヤン、アララート、アルメニヤ等。ロシア少女の給仕を楽しむ。
      • ⅱ.ロシア人キャバレー…伝統のあるモデルン、インペリアル。新興のサモワール。日本人は鴨にされる事例もあった(史資料【13】)。
  • ②旧城内東部…新京に二つある満人妓館地区のうちの一つ「新天地」(別名「向春路」、「歓楽地」)がある。

6.まとめ

6-1.RQ確認

  • 満洲国の国都「新京」は旅行案内やパンフレット でどのようなイメージ像を提示されたか?」
    • 先行研究において「新京」の観光は近代的な計画都市の側面ばかりが強調されていたが、異国情緒や満人の土着文化は無視されていたのだろうか?
    • 満人は支配される対象として評価されているが、それだけだったのだろうか?

6-2.結論

  • ①異国情緒体験や満人の土着文化も観光資源化されている。
    • 新京の観光において、近代都市としての素晴らしさをイメージ像として提供しているのは確かである。
    • しかし、寛城子におけるロシア人街や旧商埠地及び旧城内における満人市街の体験など、異国情緒の側面も提示されている。
    • また土着の文化として、イスラーム寺院の清眞寺や道教団体である世界紅卍学会も観光資源として組み込まれている。そして近代的な道路建設を一方的に推し進めたのではなく、満人の土着の信仰に配慮した孝子墳などが紹介されている。
  • ②満人やロシア人とのやり取りも存在した。
    • 満人芸妓やロシア人娘などとの交渉では日本人がカモにされる事例なども紹介されている。

6-3.今後の課題

  • ①旅行雑誌、グラフ誌、満鉄映画などにおける新京に関する報道を分析する。
    • JTBが発行していた『旅行満洲』(改題『観光東亜』、『旅行雑誌』)、満鉄の『満洲グラフ』、朝日新聞の『アサヒグラフ』、満鉄の宣伝映画などで新京がどのように扱われていたか。
  • ②旅行者の新京の印象を分析する。
    • JTBや満鉄、新京旅行協会によって提示された新京イメージであるが、実際の旅行者は「新京」を観光してどのような印象を抱いたのかを分析し、相違点を明らかにする。
      • 宣伝が成功していたのか/していなかったのか。

  

史資料 (旧字は適宜改めた)

【1】

「1934年11月から運行開始した満鉄の超特急「あじあ」号に乗り、国都「新京」の建設ぶりを実感させるというのがプログラムの定番となっている。〔……〕日本人がいったい満洲のどこを外人にもっとも観せたかったのか〔……〕「原野に出現した近代都市」新京こそ、日本が満洲国開発のためにいかに貢献しているかをアピールするもっともシンボリックな場所と思われているのである。」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、218頁)

【2】

満洲最大の見どころとして、在満日本人による満洲開発の壮観を挙げている〔……〕「驚異の絵巻物」への「展望」空間は、観光バスのコースにきちんと組み込まれている。〔……〕1937年ころの、「国都観光バス」の締め括りには、「国都建設局」の屋上で、都市計画概要の説明が行われ、観光客の視野を全開させたところで満洲の心臓都市の未来図を強く実感させることになっていた。」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、198頁)

【3】

「帝国のユートピアを視覚化しようとする未来都市・新京には、「満人」の<異界=過去>的な空間は「楽土」と逆転的な存在と見なされていたのである。」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、203頁)

【4】

「〔……〕六大都市の観光バスのなかで、新京だけは1939年頃から「満人」のバスガイドを採用し、「満人向け」客向けの「満語」(中国語)コースを併せて運営したことがある。〔……〕「満語コース」には「寛城子」と「南嶺」といった満洲事変の激戦地が、日本語コースには「衛生技術廠」と「放送局」が含まれていない。すなわち、日本人コースは戦跡を、中国人コースは科学的、文化的施設をと、それぞれに力点の置き所を違えている様子がうかがえた。〔……〕中国人観光バスは、これまで単に見られる客体としてしか期待されてこなかった「満人」に、観光のまなざしを植えつけ、彼らを、飼い馴らされた「観光欲」を持つ主体として作り変えようとしている。」(高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』東京大学、2005、博士論文、207頁)

【5】

「新京が満洲国の心臓であることは、今更云ふまでもない。新興満洲国の政治、経済、文化あらゆる分野の動向は、新京において完全にこれを看守することが出来る。その意味において新京を知ることは、満洲国全体を知ることであるともいへる。」(「新京の観光について」、『新京の概況』、新京商工公會、1942、106頁)

【6】

「新京は満洲の心臓である。満洲国の政治・経済・文化あらゆる分野の動向は、新京に於て完全にこれを看取することが出来るであらう。その意味に於て新京を知ることは、満洲を知ることであるともいへる。」(『新京案内』、新京案内社、1939、97頁)

【7】

長春は一名寛城子と称す俱に長春乗の名称にして二箇所の市街ありしにあらず、然るに東清鉄道の敷設せらるるや露国は二道溝の土地二百坪を買収して爰処に停車場を開き〔寛城子〕と命名したり、日露戦後寛城子問題を解決するに及び我が南満洲鉄道会社は地を長春城寛城子駅間の中央なる頭道溝に相して百五十余万坪を買収し其の終駅を此地に進めて〔長春駅〕と命名するに及び同一名称は三箇所に通称せられて頗る奇異の感を与へたり」(『南満洲鉄道案内』南満洲鉄道株式会社、1912年10月、127頁)

【8】

「此地亦明治38年以来北京条約に依り互市場として開放せられたるものの一にして従来は城内外一般を開放地となせしが往年道台顔氏の計画に依り長春城北門より南満洲鉄道附属地に至る広大なる土地及満鉄附属地を囲繞する一定の地を画して開埠地となし開埠局を置き壮麗なる道台衙門を建築し道路を修理し発電所を設け洋風貸家を新設する等著々其歩を進め今や洋風の家屋軒を並べ坦々たる大路縦横相通じ支那に於て稀に見る欧洲風の清潔華麗なる市街を現出し昔日の街上泥濘馬腹に及びたる奇観は復た見るべくもあらず」(『南満洲鉄道旅行案内』南満洲鉄道株式会社、1917年1月、105頁)

【9】

「〔……〕長春駅は四望荒涼たる原頭にして旅客宿するに家なく僅かに夢を列車内に結びて東清線に乗換へたる有様なりしが、今や〔旅館〕にはヤマトホテル、名古屋館、三義ホテル、日清旅館、初音旅館等あり亦四千坪の〔遊園地〕あり 楡樹及白楊の老樹林にして夏時暑を此処に避くるもの多く又喫茶店、運動用具、花園等の設備あり〔料理店〕には八千代館、泉井ホテル、寛城ホテル、明治家、永楽館等ありて鮮肴美酒旅情を慰むるを得べし」(『南満洲鉄道案内』南満洲鉄道株式会社、1912年10月、130-131頁)

【10】

「附属地の公園は満鉄の経営に係り面積十萬二千坪である。此の広大な境域に樹木茂り大きな池水あり、花壇、温室、噴水、小亭、熊狼鹿猿兎小禽の檻があちこちにあつて設備は理想的である。池では夏季ボートを浮べ冬季スケートが盛に行はれる。日支露三国人が和楽逍遥し国際的公園として特色を持つ。正門のところに等身の女神像が平和を象徴して立ち又園内には大正8年7月の寛城子事件に仆れた人々を弔へる誠忠碑がある。」(『南満洲鉄道旅行案内』(南満洲鉄道株式会社、1929年12月、106頁)

【11】

「新京という云ふ街はその名の様に新しい街であります。それは以前長春として相当な街でありまして今でも其の姿は大部分その儘残つて居るのでありますが新京の新京たる所以は新市街即ち国都建設計画によつて出来た街であります。〔……〕その内第一期五ヶ年計画は大同元年に始まり康徳4年に終わつたものでありまして左程大規模なものでもありませんが、純計画的に遂行せられた点に於て世界に類例がないと申されて居りまして市街が殆ど理想的に出来ていると申してよいのであります〔……〕」
(『国都観光バス案内』、新京交通株式会社、1938 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122524 、7-9コマ)

【12】

「元は一流といはれる店は日本人を相手にしなかつたので、強いて遊ぼうと思へば支那服でも着込んで満人に案内して貰ふより手はなかつたさうであるが、今は開けたもので妓も日本語の片言ぐらゐは話すのが多い。ある時若い満語の通訳と一緒に素見に行つたら、彼氏がペラペラと妓に話しかけたトタン―アラ心臓が強いのね―とハツキリ日本語でやられ、完全に顔負けしたことがある。」(『新京案内』、新京案内社、1939、128頁)

【13】

サモワールは「-ロシアムスメの店・土曜日は古代衣装で踊ります-などと、ちょつとアトラクテイブな広告をする〔……〕玄関を入るとすぐホールで、まはりにテーブルを置いて踊つたり飲んだりするという寸法である。ニーナだかナターシヤだとか、小説でお馴染の深い名乗りをあげて、一打ほどのロシアムスメがよき鴨ござんなれと待機してゐる」(『新京案内』、新京案内社、1939、125頁)