第一節 問題の所在
観光というと、物見遊山などの娯楽的なイメージをされる場合が多い。さらに満洲国への観光というと、一九三〇年代から四〇年代という非常時の中で観光など出来たのかという疑問も生じる。しかしながら、観光を娯楽として捉えるのも歴史的に形成された考え方の枠組みの一つであり、従来観光が持つ意味は多様であった。
例えば『満洲観光連盟報』(一九四〇)では、「観光とは国の光を世界に観すことである 」としている。観光の機能として、国内外の人々の満洲認識を深めることができると強調している。観光事業が多くの指標を持っており、国家社会の利益と進歩の源泉になることを説いている。このように、観光業は単なる娯楽産業であるのではなく、当時の満洲国において重要な役割を期待されていたのである。
そもそも満洲国は、蔣介石の北伐に破れた張作霖を殺害したら、張学良が易幟をしたため、満洲事変を経て、建国された。リットン調査団では、満洲国は民族自決による独立国家とは認められなかった。だからこそ、満洲国が一つの独立国家であることの認識を広めることが求められており、その一翼を担ったのが、観光業だったのである。
観光業を担った事業者や、各都市の観光協会は、観光に関する雑誌や各種案内、パンフレットを発行することによって情報を発信した。そこで紹介された満洲国の情報は発信者が見せようとする満洲国像であった。それゆえ、満洲国では国家事業として観光機関が整備され、トップダウンによる統一した観光政策がとられるようになる。その一方で観光者らは、提示された満洲像を消費しつつも、自らが実際に見た満洲国の様相を旅行記や紀行文に記して行った。ここに、事業者側が見せようとした満洲と観光者が実際に見た満洲のギャップが生じるのである。一方では、満洲国の都市空間の実相を明らかにすることができ、他方では創られた満洲イメージを浮き彫りにすることができる。
以上により、観光という視点をもとに満洲国とその社会を捉え直すことは意義のあることである。第二節では、満洲国の観光に関する先行研究の問題点を指摘し、第三節ではリサーチクエスチョンを設定する。第四節では各章の概要を述べていくこととする。
第二節 先行研究
本論では、満洲国の観光に関して、旅行行動や観光の機能、観光者の視点を扱うため、それらに関する主要な先行研究を取り上げる。
①満洲旅行の機能を四つに類型化し、満洲観光の政治性を強調した論考
- ケネス・ルオフ/木村剛久訳『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』朝日新聞出版、二〇一〇年
- 【概要】
- この研究は満洲旅行の機能を四つに分類するものである。一つ目は「戦跡」観光の機能であり、「満洲で日本が特殊権益を有するのは、日本が戦場で大きな犠牲を払ったからだという考え方」を具現化したものだとする。二つ目は日本により「近代化」を果たした諸施設の観光であり、「後進地域に近代化をもたらした日本の役割」を強調する効果があるという。三つ目は「現地住民の後進性」を見世物とする機能であり、これを見せることにより、日本が満洲に恩恵をもたらした存在であることを示そうとしていたと指摘する。四番目は日本が「アジアの先導者」であることを示す機能であり、歴史遺産を見せることで、「日本人がアジア文明の保護者たらんとして、現地の歴史遺産の保護に努めてい」たことを強調する効果があったとしている。
- 【問題点】
- 【概要】
②観光バスによって「楽土」的都市空間と帝国のファンタジーが創出されていたとして、観光の権力性を指摘する論考
- 高媛「「楽土」を走る観光バス−一九三〇年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、二〇〇二年、二一五-二五三頁
- 【概要】
- 【問題点】
- 観光が権力関係の強化と権力構造の再生産を行う装置であることを示すために、満洲国の観光バスを題材にしている。そのため二つの問題点を指摘できる。一つ目は観光バスについてなら満洲国でなくとも言えるということ。二つ目は観光バスという形態での観光を満洲観光全体に遡及させていること。まず一つ目についてだが、観光バスの訪問地が定型化しており、そこから「楽土」的都市空間と帝国のファンタジーが創出されたというが、固定化したバスのルートのみではステレオタイプの都市イメージしか提示できないのも陶然であろう、また二つ目の問題点について、観光バスは発着時刻と定員が決まっているため、観光者は観光バス以外の手段、すなわち馬車や洋車で観光している。それ故、観光バスが提示する満洲イメージをそのまま満洲の都市空間に適用させるのは、少し難しいであろう。
③観光地としての満洲表現を考察しツーリストの「まなざし」から観光の政治性を指摘したもの
第三節 リサーチクエスチョンの設定
三-一 先行研究の問題点
先行研究においては、旅行行動、観光の諸機能、観光者の視点が取り上げられているものの、それらは題材に過ぎず、あくまでも観光の政治性や、帝国主義における植民地支配の装置としての観光という結論が、まず先にきている。また、満洲国の観光情報を提供する事業者側が内容の多くを占めており、観光者の旅行行動や、観光者が向けた満洲国の都市や社会への視線については検討が不十分である。よって観光事業者側の史料だけではなく、複数の旅行記・紀行文を用いて、旅行行動の実態を明らかにし、彼等の視点から満洲国の都市空間はどのような状況だったのかを分析する必要がある。
三-二 リサーチクエスチョンの設定
以上により、本論文では満洲国の観光政策や観光協会や旅行斡旋機関の事業を扱うとともに、旅行記・紀行文の分析を中心に、観光者側を主軸に置く。そしてその旅行行動の実態を明らかにし、観光者の視点から満洲国の諸都市はどのような様相であったかを描き出すことをリサーチクエスチョンとして設定する。
三-三 学術的意義
本論文では、満洲国についての旅行行動と諸都市の様相を明らかにすることが課題である。特に従来検証もなく後進地域と見なされていた現地住民の居住地域が近代的な都市を形成していたこと、日本人経営の百貨店や商店、満鉄などを現地住民も利用していたこと、また逆に現地住民経営の百貨店や商店を日本人も利用していたことなどが判明したことは意味のあることであったと言える。
しかしながら、実態が明らかになっただけという批判もあろう。このことから学術的意義としてはどのようなことが言えるであろうか。
今回の主軸となるのは、国や事業者側ではなく、観光者サイドである。観光者は国が見せたいコースモデルから外れて色々な場所を観光した。これにより「観せようとしたもの」と「実際に観たもの」の差異性が強調されることとなる。このような観光者によるモデルコースからの逸脱が、却って「観せようとした」ものを浮き彫りにし、国・事業者側の意図を明らかにすることができる。
満洲国は民族自決を認められなかった。それゆえ、満洲国は、傀儡国家ではない・中華民国とは異なる独自の国家であることを示さなければならないというジレンマを抱えていた。その表れの一つが、満洲国が「観せようとした」ものなのである。
以上により、満洲国を観光した人々の旅行行動及び諸都市の様相を明らかにすることで、国民国家たらんとした満洲国のジレンマに迫ることが出来る。これが本論文の学術的意義である。
第四節 構成
第一章
第一章「満洲国における観光国策の展開」では、満洲国側が観光事業の効果として何を意図し期待していたのかを明らかにする。そのためにはまず、満洲国の観光国策機関がどのように成立したのか、その形成過程を追う。続いて観光国策機関として成立した満洲観光連盟が観光事業の意義について何を根拠に説明していのかを機関誌から分析する。最後に満洲国が成立した後に展開されていた観光実態を旅券制度・費用概算及び日程・交通ルートから分析する。結論としては、満洲観光連盟は観光の効果として満洲国を独立国家として示すことの外に、総力戦体制の構築や観光厚生といった側面の役割も期待していたのである。
第二章
第二章からは、観光から満洲国の諸都市を論じて行く。
第二章は新京市を見ていく。新京の特徴は満洲国建国後に首都が置かれたことにより開発が進んだ地域ということである。ここで明らかになったことは、観光者は日本により近代化された都市として新京を訪問していたが、現地住民もまた近代的な都市建設を行っており、そこが観光地となっていたということである。すなわち満洲に新たな近代的な都市を建設したのは日本だけではなかったことが、観光者の視点から分かるのである。
新京はかつて満鉄の最北端の駅であり、ロシアの東清鉄道と接続するという意味しか持たない地域であった。しかしながら満洲国建国後に急ピッチで首都建設が行われ、新宮廷予定地を中心に諸官衙が軒を連ねる新市街が形成された。
こうして満洲国建国後の広野に新市街地が建設され、その近代的な街並みが、新首都の象徴として事業者側から紹介される。しかしながら、満鉄附属地と城内の間にある商埠地は現地住民による近代的な都市づくりが進んだのである。
第三章
第三章は奉天を扱う。奉天は清朝とゆかりのある土地であり、ヌルハチやホンタイジが政務を執っていた奉天城や、ヌルハチの陵墓である東陵とホンタイジの陵墓の北陵があるなど、清朝以来から発展してきた。また奉天軍閥の根拠地であり張作霖の邸宅や熱河軍閥湯玉麟の私邸などがあった。この章で明らかになったことは、城内において都市の近代化が進んでおり、そこへ日本の観光者たちが訪れていたということである。城内には現地住民の居住地域があったのだが、そこには吉順絲房という百貨店をはじめとして近代的建設群が櫛比していた。日本人観光客は吉順絲房の屋上から城内を一望することを旅行行動の一つパターンとしていた。このようにして伝統ある現地住民の都市がそのまま近代化したパターンが奉天の特徴なのである。
第四章
第四章では哈爾濱を扱った。哈爾濱はロシアが三国干渉の見返りとして東清鉄道の敷設権を獲得したことを契機に建設された都市である。そのためロシア色が強いことで有名である。満洲国建国後も北鉄が権益を握っていたが、一九三五年にようやく回収することができ、日本がハウルピン以北にも進出することになった。そのため日本の観光者もロシア色を求めて哈爾濱に旅行に来ていた。その一方でロシアが権益を握っていた時代、現地住民は附属地への立ち入りを禁じられていた。ではどうしたかというと、哈爾濱では傅家甸と呼ばれる松花江に面する地域に現地住民が近代的な都市を建設したのである。従来の先行研究では主にロシア色ばかりが強調されていた。本論文では、現地住民が哈爾濱に建設した近代的都市である傅家甸における旅行行動を明らかにした。
以上のように日本人観光者の旅行記・紀行文を用いて、満洲各都市の旅行行動の実態を明らかにするとともに、観光者の視点から満洲国諸都市の様相を描き出した。
終章では、結論として、現地住民による近代的都市の形成と発展を述べる。新京では日本の進出に対抗する形で満鉄附属地に隣接する形で現地住民による近代都市の建設が進んでいた。奉天では、旧来より栄えていた城内が近代的都市に変容していった。哈爾濱ではロシア人から排除された現地住民が新たに傅家甸という近代的都市を建設した。このように日本への対抗、旧来の都市の成長、ロシアからの追放と各種形態は異なるものの、現地住民たちも近代化を果たして行ったのである。そして現地住民達が形成した都市空間へ、日本人観光者も訪れており、その様相を知ることが出来るのである。
一方で、これらの現地住民による近代的都市は、観光事業者側のメディアでは、大きく取り上げられることは少ない。ここに、満洲国を観せようとした側と、満洲国を観た側のギャップが生じるのである。すなわち、現地住民が近代化し、発展していたことは積極的に伝えたい情報ではなかったのである。満洲国を民族自決による中華民国とは異なる独自の国民国家であることを証明するためには、現地住民による近代化は重要な要素であるのにも関わらず、である。
これらのことから、日本が主導して満洲国を近代化したことを、国策として示したかったのであろうと考えられる。