【日本史】 経済史:戦前の恐慌の整理とまとめ

1920年代以降、日本は度重なる恐慌に襲われたが、根本的な解決に導くことができず、最終的に戦時統制経済へ移行した。

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1.戦後恐慌(原敬内閣・高橋是清蔵相)

  • ①背景
    • 1919年、第一次世界大戦終結後、ヨーロッパ経済の復興により貿易は輸入超過に転じる。特に重化学工業製品の輸入が増加して国内生産を圧迫。
  • ②発生
    • 1920年、株式市場の暴落を口火に恐慌が発生。綿糸・生糸の相場は半値以下に暴落。
  • ③対応
    • 政府は日本銀行・大蔵省預金部による大規模な救済融資を実施、恐慌は20年下半期には沈静化へ。

2.震災恐慌(第二次山本権兵衛内閣・井上準之助蔵相)

  • ①発生
    • 1923年9月1日に起こった関東大震災を契機に恐慌が発生。日本経済の中心を成す東京・横浜の銀行、工場、店舗、商店の消失を招き60億円以上の被害をもたらす。
  • ②震災手形とその対応
    • そもそも手形とは、現在手元にお金が無い場合などにおいて、一定期間後に支払うことを交わした証書のことを指す。震災手形とは関東大震災により決済不能に陥ってしまった手形のこと。
    • 政府は震災手形に対して、日銀に4億3082万円を特別融資させたのですが、1926年末の時点で2億680万円が焦げ付いてしまった。
  • ③影響
    • 震災手形の回収が進まず金融恐慌の原因となってしまう。

3.金融恐慌(第一次若槻礼次郎内閣・片岡直温蔵相→田中義一内閣・高橋是清蔵相)

  • ①震災手形の処理と片岡直温蔵相の失言
    • 第一次若槻礼次郎内閣(憲政会)は震災手形を処理するため法案を議会に提出した。1927年3月、この法案の審議の際、片岡直温蔵相は事実に反し「渡辺銀行が破綻した」と失言したことから、震災手形を抱えた銀行の経営状態の悪化が暴露されてしまう。
    • これをきっかけに各銀行に取付け騒ぎがひろがり、銀行の休業が相次ぎ経済界は大混乱に陥った。
  • 台湾銀行救済問題
    • 台湾銀行鈴木商店への多額の貸付や中国への投資が回収できなくなっていた。4月には鈴木商店が破産し、台湾銀行も危機的な状況に陥ってしまった。
    • 政府は、恐慌の拡大を恐れ、緊急勅令により台湾銀行の救済を図ろうとした。
    • しかし若槻内閣の協調外交(幣原外交)に不満を持つ枢密院はこの勅令を否決、若槻内閣は総辞職し、台湾銀行も休業に追い込まれ、恐慌の波は他の大銀行にも広がった。
  • ③モラトリアム
    • 若槻礼次郎に代わり田中義一(立憲政友会)が組閣し、高橋是清が蔵相となる。
    • 当面の恐慌の対策としてモラトリアム(支払猶予令)を発し、全国の銀行を一時休業させ、日銀から20億円近くの非常貸出しを行って恐慌を沈静化させる。
  • ④金融独占資本
    • 銀行…金融恐慌を通じて中小銀行は倒産し三井・三菱・住友・安田・第一の五大銀行が中小銀行を吸収して金融界の支配が確立→多くの企業が銀行を通じて財閥の系列下に組織される。
    • 企業…カルテル(企業連合)、トラスト(企業合同)により企業の独占・集中が進む。
    • 財閥と政党…三菱と憲政会(立憲民政党)、三井と立憲政友会が結びつき政治上で発言力を強化。

4.昭和恐慌 (浜口雄幸内閣・井上準之助蔵相→第二次若槻内閣・井上準之助蔵相→犬養毅内閣・高橋是清蔵相)

  • ①井上財政
    • a.緊縮財政
      • 1920年代の放漫財政への対策として予算の削減・官公吏・軍人の減俸・行政整理など財政の緊縮を行う。20年代当時、政府は恐慌のたびに日本銀行券を増発して経済破綻を防いだため、インフレ傾向が深まっていた。インフレになると生産コストが高くなり国際競争力も低下していた。
    • b.産業合理化
      • 生産性の低い企業を整理し経営能率化を図り生産費を引き下げ輸出拡大を図る。
    • c-1.金解禁
      • 金本位制の復帰により為替相場を安定させて、貿易の拡大を図る政策。→金相場の実勢は100円=46.5ドル前後であったが、100円=49.85ドルの旧平価で解禁した。
    • c-2.旧平価で解禁するとどうなるか
      • 円高となり商品が海外で高くなるので、貿易は不利になってしまう。
      • 通貨供給量を金の保有高に合わせるため実際よりも通貨量が少なくなりデフレとなる。
    • c-3.なぜそれなのに旧平価で金解禁したのか
      • 円の国際的な信用を落としたくない。
      • 不況とデフレにより生産性の低い不良企業を淘汰して日本経済の体質改善をはかる。
  • ②昭和恐慌(←世界恐慌+金解禁の不況)
    • 発生
      • 1930年1月に浜口内閣は金解禁を行ったが、1929年10月にアメリカで発生した世界恐慌が日本にも波及し、金解禁による不況とあわせて深刻な恐慌状態に陥る。
    • 影響
      • 輸出が大きく減少、正貨が大量に海外に流出、企業の操業短縮・倒産、産業合理化による賃金引下げと人員整理による失業者の増大
    • 対策
      • 重要産業統制法…1931年公布。昭和恐慌下、産業統制強化を目的とした法律。不況下の価格競争を防ぐため、カルテルを結ぶことを認め、重要産業が潰れないように保護を図った。この結果、中小企業は一つの財閥が各産業部門を支配するコンツェルンの形成が進む。
    • 波及
      • →農業恐慌…昭和恐慌の中で生糸・繭の価格が暴落、1930年の豊作による米価低落で農業生産が一層低下。翌31年には東北地方の大飢饉で農村の困窮が深刻化、欠食児童や娘の身売りが増加した。
      • 満州事変…満州に対する経済的進出の要求は市場拡大のためにかねてからあったが、恐慌の進展はこの要求を強めさせ「満蒙の危機」が叫ばれるようになり満州事変の一因となる。
  • ③高橋財政
    • 金輸出再禁止
      • 1931年12月に成立した犬養内閣の高橋是清蔵相は金輸出再禁止を行い円の金兌換を停止、管理通貨制度に移行した。
    • 輸出の拡大
      • 金輸出再禁止により円為替相場が急落し円安になり、産業合理化を進めていた諸産業が低賃金を利用し輸出を急速に伸ばす。1933年には恐慌以前の生産水準を回復。綿織物の輸出は英を抜き世界1位となるが欧米から「ソーシャルダンピング」として非難された。
    • 軍需インフレ
      • 膨大な赤字国債の発行と低金利政策によるインフレで景気を刺激。この結果、軍需生産を中心に重化学工業が発展、1935年には生産額で重化学工業が52%と軽工業を上回る。新興財閥が伸長し鮎川義介の日産、野口遵の日窒が植民地にも進出した。
    • 公共土木事業
      • 時局匡救事業として農民を日雇い労働に雇用して現金収入を得させる。のち、「自力更生」をはからせ農山漁村更生運動を展開する。

5.その後の日本経済

  • ①馬場財政
    • 広田弘毅内閣の蔵相馬場鍈一が国債漸減方針を放棄し公債増発による軍拡予算を実現。
  • ②結城財政
  • ③戦時統制経済
    • 第一次近衛内閣は臨時資金調整法・輸出入品等臨時措置法等を制定、直接的な経済統制へ。