帝国主義ドイツ ~ビスマルクからヴィルヘルム2世へ~

1.ドイツ帝国の特徴

2.ビスマルク内政

  • ①文化闘争…ビスマルクが国家統合のために進めた政教分離策に反対するドイツ南部のカトリック勢力との闘い⇒ローマ教皇ピウス9世の死(1878年)によって自然消滅していった。
  • ③保護関税法…1879年。金融・産業資本家及びユンカーの利益保護のため工業製品と農産物の流入を制限。
  • ④社会政策…労働者を国家に統合させ国民意識を確立。労働者を社会主義運動から切り離す
    • →労働者を保護する社会保険制度を実施:疾病保険(1883)、災害保険(1884)、養老保険(1889)など

3.ビスマルク外交

  • →ポイントは「フランス孤立化政策」。複雑な同盟関係を結んでビスマルク体制を形成
  • ☆イギリスは「光栄ある孤立」を保っていたが、ビスマルクは友好親善関係を結び、仏との接近を防いだ。
  • 1873 三帝同盟…独・墺・露でフランスの孤立化をねらって結成!                                    
    • ※同盟関係だが露と墺はバルカン半島においてパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義のもとで激しく対立。
  • 1878 ベルリン会議露土戦争の戦後処理 → ロシアが離反                                
    • サン=ステファノ条約によりロシアの南下政策が実現してしまったので、英・墺が反発し、開催。
    • ビスマルクが「公正な仲買人」と称して調停した。
    • ロシアの南下政策は挫折。英はキプロス島、墺はボスニア=ヘルツェゴビナを得た。
    • 不満を持ったロシアは三帝同盟を中断した。
  • 1879 独墺同盟…三帝同盟中断後、プロイセンオーストリア間で独墺同盟を結成。            
    • ロシアがベルリン会議の決定に不満を持ち、しだいにドイツから離れていくことに備え、ロシアからの攻撃に対して全面的な相互援助を約束。1918年まで存続。第一次世界大戦の原因ともなる。
  • 1881 新三帝同盟                                          
    • ビスマルクが再びバルカン問題を調停して復活。   
  • 1882 三国同盟(~1915)… ドイツ・イタリア・オーストリア三国同盟を結成。                                      
    • チュニジアをフランスに植民地にされたイタリアが不満を持ってドイツに接近。
    • 「未回収のイタリア」をめぐってイタリアとオーストリアは対立。
      • →WWⅠの時、イタリアは「未回収のイタリア」につられロンドン密約を結び協商国側で参戦。
  • 1887 再保障条約 ←新三帝同盟の解消                                
    • バルカン問題でオーストリアとロシアが対立を深めて三帝同盟は解消。
    • ビスマルクはロシアとフランスが接近するのを防ぐため、ロシアと秘密条約を結んだ。
      • →両国のいずれかが攻撃を受けたとき、互いに中立を守ることを約束。

4.ビスマルク体制

5.ヴィルヘルム2世(位1888~1918)の即位

(1)ビスマルクとの対立 ~若い皇帝は自ら政治を指導することを望む~

(2)世界政策 ~ヴィルヘルム2世の帝国主義政策~

  • ①資本主義が急速に伸長 ⇒「 世界政策 」の名のもとに強引な帝国主義政策
    • (a)建艦競争…海軍の大拡張。世界へ進出するためにはイギリスに抗する海軍が必要だと考えられ、ティルピッツ提督のもとで海軍拡張計画が実施された。イギリスも巨砲主義の大型戦艦を建造して建艦競争に乗り出し、国際関係は英独の対抗軸を中心に展開されるようになった。
    • (b)バクダード鉄道建設による3B政策(ベルリン・ビザンティウムバグダード)
    • (c)膠州湾の租借…日清戦争後の中国分割で山東半島を勢力圏とする。
    • (d)モロッコ事件…アフリカ再分割を求めてタンジール事件とアカディール事件を起こす。
  • ②市民層の意識…パン=ゲルマン主義 運動が広がって世界政策を支援。
    • パン=ゲルマン主義はオーストリアおよび東欧まで含めて全ドイツ人の民族的結集をはかり、ドイツ帝国の世界覇権を目指すイデオロギー。この思想は支配者層から小市民層まで幅広い社会層を結集した「全ドイツ連盟」によって唱えられた。ナショナリズムが鼓吹され、ドイツ社会に深くミリタリズムが浸透していった。

6.ドイツ社会民主党SPDの伸張 ←ヴィルヘルム2世による社会主義者鎮圧法の廃止を契機