近現代西アジア史【2】近現代イラン史

1.カージャール朝

1-1.カージャール朝の成立

(1)サファヴィー朝の滅亡
(2)二大勢力の興亡
  • アフシャール朝(1736-96)
    • トルコ系騎馬遊牧民が建国。一時期インドにも進出して進出してデリーを襲撃。しかし安定した支配権を打ち立てることはできなかった。
  • ドゥッラーニー朝(1747-1818,39-42)
(3)カージャール朝(1796-1925)の成立

1-2.カージャール朝治下のイラン

(1)英露対立

イランをめぐりイギリスとロシアが勢力争い

(2)カージャール朝の財政破綻
  • ①主要産業:ヨーロッパ向けの絨毯生産。経済は発展していったが・・・。
  • ②改革失敗:19世紀半ば、近代改革を試みたが失敗し、70年代には財政破綻
    • 道路建設・銀行開設などの利権を英露の投資家に譲渡し、収入を確保しようとする。
(3)民衆運動と知識人による改革
  • ①タバコ=ボイコット運動
    • 1891年カージャール朝がイギリス商人にタバコの生産・販売などに関する独占権を与えたことに、イランの宗教指導者・商人。民衆が抗議した運動。イラン最初の大規模な抵抗運度で、これ以後イラン民族主義は高まっていく。
  • ②イラン立憲革命
    • 1905年イギリス・ロシアの侵略とこれに従属する政府に対しておこった立憲運動。1906年憲法が制定され、国民議会が創設された。
  • ③英露の干渉
    • 英露は1907年に英露協商を結びイランの勢力範囲を決定し圧力をかける。1911年にシャー(国王)は議会を解散。

2.パフレヴィー朝

2-1.第一次世界大戦とイラン

  • ①WWⅠ
    • カージャール朝は中立だったが英露により占領。革命で露は引き上げたが英に半植民地化された。
  • ②パフレヴィー朝の成立
    • レザー=ハーンがクーデタでカージャール朝の実権を握り、1925年にパフレヴィー朝を開く。上からの近代化を促進。1935年には国名をペルシャからイランに改称。国内の石油利権はイギリスに残される。

2-2.パフレヴィー2世(位1941~79)

  • ①パフレヴィー2世の親英米
    • 第二次大戦直後、地方革命政権が樹立されたため英米に接近する。
  • ②モサデグ首相(任1951~53)の民族主義運動
    • 左翼勢力からイスラーム勢力までを結集する国民戦線の指導者となり、イギリス系アングロ=イラニアン石油会社の石油独占に反対!接収して石油国有化を実施
  • ③パフレヴィー2世のクーデタ
    • イラン石油が国際市場から締め出されて経済が悪化し、英米の支援を受けたパフレヴィー2世がクーデタを起こしモサデグ政権は崩壊。親英米派は55年にバグダード条約機構(中東条約機構、METO)の一員として、反共軍事同盟の一翼を担う。
  • ④白色革命
    • パフレヴィー2世がアングロ=イラニアン石油会社国有化を図るモサデグを打倒して近代化政策を実施。
    • 米国の経済援助と膨大な石油収入を通じて軍や首都の近代化を強行する。貧富の差の拡大など社会矛盾が噴出し、イラン革命の原因となる。

3.イラン=イスラーム共和国

3-1.イラン革命

  • 経緯
    • 1978;国王独裁への抗議運動(※パフレヴィー2世は親米独裁で近代化政策「白色革命」を強行していた)
    • 1979;ホメイニが帰国してイラン=イスラーム共和国を樹立

3-2.イラン=イラク戦争 (1980~1988)

  • 概要