2020-06-16 戦後西アジア史 受験世界史 戦後史 戦後イラン史 中東戦争 ⓪背景 ①第1次中東戦争(パレスティナ戦争:1948~49) ②第二次中東戦争(スエズ戦争:1956~57) ③第三次中東戦争(六日戦争:1967) ④第四次中東戦争(1973) ⑤第4次中東戦争以後のパレスチナ 米帝のイラク介入 (1)親米政権のイランで革命が起こったためアメリカはイラクへ援助を行うが、今度はイラクがクウェートに侵攻したので湾岸戦争で潰す。 (2)9.11とアフガニスタン攻撃 (3)9.11とイラク戦争 戦後イラン史 ①パフレヴィー2世(位1941~79)の親英米化←←第二次大戦直後、地方革命政権が樹立されたため。 ②モサデグ首相(任1951~53)の民族主義運動 左翼勢力からイスラーム勢力までを結集する国民戦線の指導者となり、イギリス系アングロ=イラニアン石油会社のイラン石油独占に反対!接収して石油国有化を実施 ③イラン=クーデタ イラン石油が国際市場から締め出されて経済が悪化し、英米の支援を受けたパフレヴィー2世がクーデタを起こしモサデグ政権は崩壊。親英米派は55年にバグダード条約機構(中東条約機構、METO)の一員として、反共軍事同盟の一翼を担う。 ④パフレヴィー2世(位1941~79)の政治…アングロ=イラニアン石油会社国有化を図るモサデグを打倒して近代化政策。 白色革命…パフレヴィー2世による上からの近代化政策。米国の経済援助と膨大な石油収入を通じて軍や首都の近代化を強行。貧富の差の拡大など社会矛盾が噴出し、イラン革命で亡命。 ⑤イラン革命 1978;国王独裁への抗議運動 ←パフレヴィー2世は親米独裁。近代化政策白色革命を強行。 1979;ホメイニが帰国してイラン=イスラーム共和国を樹立 イスラーム原理主義。強烈な反米姿勢。ソ連のアフガニスタン侵攻を機に反ソ姿勢も明確化。 イラン革命による産油激減で73年を上回る第二次石油危機を発生させる。 中東戦争 ⓪背景 1945年3月:アラブ諸国連盟の結成…エジプトが提唱。アラブ諸国の協力と統一的行動を目的とする。エジプト・イラク・サウジアラビア・イエメン・トランスヨルダン・レバノン・シリアの7か国が加盟。 1947年 イギリスのアトリー労働党政権が帝国解体を決定 →パレスチナの委任統治を放棄。パレスチナ問題の解決は国際連合に委ねる。 ①第1次中東戦争(パレスティナ戦争:1948~49) 1947年 国連総会がアラブ諸国連盟の反対を押し切って分割案を多数決で採択。 ※WWⅡ集結まもない当時はナチス=ドイツのユダヤ人強制収容所の実態がようやく明らかとなって、世論はユダヤ人への同情論が圧倒的(米ソも分割案を支持) 1948年:英軍の撤兵終了と同時にユダヤ人がイスラエルの建国を宣言。アラブ諸国連盟はこれに反発して軍事行動を起こし、戦争勃発!イスラエルは分割案の当初の1.5倍の面積の国土を獲得した。 →イスラエルによってパレスチナから100万人以上のアラブ人が追放され難民となる。 ②第二次中東戦争(スエズ戦争:1956~57) a)背景 1952年 アラブ連盟の盟主・エジプトで自由将校団がファルークの王政を打倒(エジプト革命) 1954年 親ソ派のナセルが親英米派のナギブを追放 1955年 バンドン会議に出席したナセルの積極的中立外交とアラブ民族主義を英米は警戒 1956年 英米はアスワン=ハイダム建設の資金援助を撤回。ナセル大激怒!!! b)経緯 1956年 激怒したナセルはソ連の資金援助でスエズ運河国有化を宣言! →イスラエル軍がエジプトに侵攻。続いて英仏も出兵して運河地帯を占領。 →国連安保理でソ連のフルシチョフ書記長がエジプトを支持して撤兵勧告 →事前に相談をされなかった米のアイゼンハウアーも激怒し、英首相イーデンに撤兵勧告。 c)スエズ戦争の意義 i. 3カ国軍の撤兵でナセルの人気が頂点に達する → アラブ民族主義の勝利 ii. 中東に対する米ソの影響力が強まり冷戦が波及(米国;イスラエル支援、ソ連;アラブ支援) ③第三次中東戦争(六日戦争:1967) a) 1964:アラファトらがPLO(パレスチナ解放機構)を創設。 b) 1967:ナセルがアカバ湾の封鎖を宣言 → イスラエルのイランからの石油輸入を遮断 →イスラエルが電撃戦による先制攻撃でエジプト・シリア・ヨルダンに圧勝! →エジプト領のシナイ半島、シリア領のゴラン高原・ガザ地区・ヨルダン川西岸を占領 →ナセル政権は内外の権威を低下 ④第四次中東戦争(1973) a) 1970 ナセルが失意のうちに死んでサダトが大統領に就任 b) 1973 エジプト・シリアが先制攻撃(イスラエルは苦戦を強いられる) →OAPECの石油戦略が発動! アラブ側が政治的に勝利 ※OPECも石油の値上げを決議し資源ナショナリズムを展開 →石油危機 ⑤第4次中東戦争以後のパレスチナ ⅰ.エジプト情勢 a)サダト政権(1970~81暗殺) 73年の第四次中東戦争後、財政上の問題から親米政策に転換。 エジプト=イスラエル平和条約(1979)…米大統領カーターの仲介でイスラエルのベギンと和解。直後にエジプトはアラブ連盟脱退を表明し、アラブ18か国とPLOはエジプトと断交した。 b)ムバラク政権(1981~2011) サダト路線を引き継ぎアメリカ、イスラエルとの関係を重視。イスラエルからシナイ半島を返還させる。アラブ諸国との関係修復にも努めた。 ⅱ.イスラエルのレバノン侵攻(1982) レバノンのベイルートからPLOを追放。その最中、親イスラエル派キリスト教グループによってパレスチナ難民大量虐殺が起こった。 ⅲ.インティファーダ 1987年以降イスラエル占領地ガザ・ヨルダン川西岸で投石等により抗議運動を展開 ⅳパレスチナ暫定自治協定(1993) ノルウェーの仲介で秘密交渉が進められたイスラエル占領地におけるパレスチナ人の暫定自治を認める協定。米国クリントン大統領がイスラエルのラビンとPLOのアラファトの相互承認に立ち会う。 米帝のイラク介入 (1)親米政権のイランで革命が起こったためアメリカはイラクへ援助を行うが、今度はイラクがクウェートに侵攻したので湾岸戦争で潰す。 ①バース党政権 1968年以降政権を掌握。アラブ民族主義を掲げる。79年にサダム=フセインが指導。 ②サダム=フセイン政権(1979~2003) i .イラン=イラク戦争 (1980~1988)自国内にイラン革命が波及することを防止し、イランの不安定化に乗じてペルシア湾岸地域での覇権を確立するためイランに侵攻。 アメリカはイランと厳しく対立していたのでイラクを援助し、イラクが軍事大国化するきっかけを作った。 88年にイランが国連安保理停戦決議を受け入れるまで続いた。 ii.湾岸戦争(1991) 1990年、イラクがクウェートの石油資源をねらって侵攻、併合を宣言。 国連安保理は対イラク武力行使を決議。中東の石油利権を確保するという利害から多国籍軍が形成された。 1991年、湾岸戦争開始。大量の新兵器が使用されイラクは大敗した。 (2)9.11とアフガニスタン攻撃 ①背景:アフガニスタンのターリバーン政権 アフガニスタンでは1996年以降、イスラーム原理主義を唱えるターリバーンが権力を握る。 ②同時多発テロ 2001年9月11日。米国旅客機が乗っ取られニューヨークの世界貿易センタービルや国防総省に激突。 ③アフガニスタン攻撃 ブッシュJr.は「対テロ戦争」宣言をし、事件の首謀者イスラーム急進過激派組織アル=カーイダのビン=ラーディンと断定。アフガニスタンのターリバーン政権がビン=ラーディンを匿っているとして軍事行動を起こし、ターリバーンを追放した。 (3)9.11とイラク戦争 ①イラク戦争勃発 2003年3月、ブッシュJr.はイラクのフセイン政権が核兵器や毒ガスなどの大量破壊兵器を保有しているとして攻撃を開始。※イラクには大量破壊兵器など存在していなかった ②単独行動主義 仏独を中心にイラク戦争に反対。アメリカは国際社会の理解を得られずとも自国の利害にもとづいて行動することが判明。アメリカを支持したのはイギリス、日本、スペイン、オーストリアなど少数のみ。 ③アメリカ介入後のイラク シーア派とスンナ派の宗教対立、クルド人問題が絡まり流血の惨事が頻発し、治安回復は見込めない。