前近代西アジア史【7】オスマン帝国の盛衰

1.オスマン帝国の興亡

(1)建国期~一時断絶

  • ③バヤジット1世(在位1389~1402)
    • 1396 ニコポリスの戦いでジギスムント(←コンスタンツ公会議を開催)率いる十字軍を撃破。→ブルガリアを併合し、ドナウ下流の支配権を確立する。
    • 1402 アンカラの戦いでティムールに敗北。捕虜となったバヤジット1世の憤死で帝国は一時滅亡

(2)再興期~繁栄期

  • ③セリム1世(在位1512~1520)

(3)衰退期

17世紀から徐々にオスマン帝国の衰退が始まる

(4)滅亡 詳しくは近現代史

オスマン帝国の衰退に伴い、ヨーロッパ諸国の進出が進み「東方問題」が起こる。第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国は列強に妥協的であったため、ムスタファ=ケマルらの祖国解放運動により滅ぼされ、トルコ共和国となった。


2.オスマン帝国の支配体制

(1)スルタンの君主専制と中央集権体制

  • ②行政
    • 非常に発達した官僚制度を導入。
    • 直轄領を州・県・郡に行政区分し、中央からウラマーを行政官として派遣。

(2)軍制

  • ①イェニチェリ→オスマン帝国の歩兵常備軍
    • 採用方法…デヴシルメ:オスマン帝国の奴隷・官僚の徴収制度。征服したバルカン半島キリスト教徒の優秀な男子を強制的に徴用し、イスラームに改宗後、適性に応じた訓練を施した。
    • 特権と腐敗…入念な訓練を受けたスルタン直属の精鋭軍に発展したが、与えられた特権から次第に軍規が乱れ近代化を妨げる勢力となった。
    • イェニチェリ解散…セリム3世(位1789~1807)は西欧式新軍ニザームジェディットを組織したが、反発したイェニチェリらは帝を殺害。マフムト2世(位1808~1839)時代にイェニチェリ軍団を解散させることに成功。
  • ②トルコ系騎兵
    • ティマール制…オスマン帝国の軍事封土制。シパーヒーに封土を配分してその土地の徴税権を与え、平時は農地の管理、戦時には封土の広さに応じた兵士を率いて従軍させた。

(3)異教徒政策

(4)対ヨーロッパ関係