イギリスを「複合国家」として見なし「文化変容」の観点から歴史を叙述している。本文では「海の向こうからくる力強く新しい要素と、これを迎える諸島人の抵抗と受容、そして文化変容。これこそ先史時代から現代まで、何度となくくりかえすパターンであった」(p.16)と述べられている。以下、参考になった箇所をまとめておく。
抜き出し
- 塗油による国王の戴冠式(pp.33-34)
- 「…ヨーロッパの国王はいかにして部族長や将軍にはない権力と権威の超越性を証したのか。血統だけ、力だけでは王位は定まらない。神話的世界観とキリスト教の混交による、王位の正統性の三つの要件が必要であった。1.血統の正しさ、2.貴族など聖俗の有力者による推挙あるいは同意、そして3.神の加護、すなわち教会の承認である」
- 「…同じころヨーロッパ大陸ではカロリング朝が滅亡したあと、962年にドイツでザクセン朝のオットーが皇帝の冠を教皇から受けた。いわゆる神聖ローマ帝国の始まりである。987年にはフランスで、ユーグ・カペーが国王としてランス大司教によって戴冠した。これらとイングランド王エドガの973年の戴冠式を並べてみると、それぞれ10世紀後半に他の貴族より卓越した者がキリスト教会の塗油の礼を受けて戴冠し、国王あるいは帝としての正当性を内外に明らかにし、継続的な王朝を開始した」
- 主権国家(p.74)
- 「…グローバル化とは地球世界の構造的一体化であり、これによってすべてが均質的にフラットになるのではない。各地域は分業的に編成され、交わりも摩擦も増え、国と国が競う。最初のグローバル化の大きなうねりのなかで、中世からの懸案、アイデンティティと秩序の問題が16世紀的な衝突と解決をみる。そのさいに決定的なのは宗教改革と信仰、そして主権国家と国民意識である。ヨーロッパは中世までよりはるかにナショナルに結晶化し、国内秩序と国際秩序は同時に編成される。グローバル化と表裏一体に「諸国家システム」の時代に突入するのである」
要約
- 複合国家(pp.118-119)
- 同君連合は、中世のカヌート王やアンジュ朝といった先例。近世ヨーロッパでは常態 →「複合国家」
- 近世の複合国家/礫岩政体の首長は、各地の多様な成り立ちを承知し、聡明にいざというときにはアグレッシヴに指揮することが求められる。宗教戦争に直結した時代なので、政治社会と教会は一体不可分。宗派をこえる普遍性を主張するには神との直結(神授王権)を唱える必要がある。
- 名誉革命後のイギリス → 「財政軍事国家」の出現
- 中世以来の関税と臨時税だけでは長期の戦費をまかなうのは無理→直接税・国債発行とイングランド銀行の創設・消費税→ウィリアム三世期のイギリスは議会の決定により近代的な財政国家となる。
- 名誉革命後のイギリスに「財政国家軍事国家」が出現
- 世界史としての産業革命
- 近世のアジアはヨーロッパよりも豊かで成熟した政治・経済・文化を営む。南蛮人も紅毛人もそこに不器用な遅参者として割り込み参入を許可される。東西の力関係が転換するのは18世紀。
- オスマン帝国の後退、プラッシ会戦におけるクライヴの勝利、広州の開港といった転換の兆しに科学革命と啓蒙ヨーロッパの奮闘努力が加わって「大きな分岐が生じる」
- 産業革命なかった説に対して
- 世界史の分岐、そして人類史の画期となった産業革命はたとえ国内生産の成長率が年1%あまりであろうと、それが数十年続いたから「革命」。長期に渡った代替商品作りの試行錯誤が、産業資本主義として結実した。
- 世界資本主義システム(p.196-)
- 近代世界史はイギリス資本主義によるグローバルな支配、それにたいする対抗ないし従属の歴史
- 日本の状況
- 1808年、イギリス海軍フェートン号のペリュ艦長は長崎港を奇襲、出島のオランダ商会員を拘束(オランダを併合していたナポレオン帝国とグローバルに戦争していたイギリスによる軍事行動)
- 1813年、14年に来航した「阿蘭陀船」はジャワを占領したラッフルズのつかわしたエゲレス船の偽装。積み荷としてインド更紗とともに「本国更紗」が初めてもたらされた。オランダ船の貿易が17年に再開してから以降も「ヨーロッパ更紗」の輸入が続く
- 1825年に幕府の発した「異国船打払令」にもかかわらず、58年の修好通商条約より40年以上も前から、日本列島はイギリス資本主義の世界史システムに編入され、毎年、その戦略商品・サラサを注文輸入していた。
- ステイツマン(p.201-)
- K.ポラニーは19世紀イギリス史を市場経済の人類史における「大変貌/大転換」と呼ぶ。
- 「大変貌」とは政界の編成替えの時代であり、ジェントルマンは豹変し、国家指導者(ステイツマン)が輩出
- 理念型はピット、ピール、グラッドストン
- 「改革の時代」にパクス・ブリタニカの諸問題と取り組むステイツマンを導いたのは1.プロテスタントの贖罪意識にもとづく福音伝道主義、2.功利主義すなわちブルジョワ合理主義、3.古典派経済学という3つの要素の複合
- 宗教改革と啓蒙の精華が合体して近代イギリス国家の「仕事人/実務家(man of business)」たちを支えた。
- ウォルタ・バジョット『イングランドの国制/憲政』(1867)
- 国制の本質は、尊厳と実効の二面性からなり、とりわけ君主制と貴族院は尊厳を代表する。君主は党派政治から超然とし、教会の象徴儀礼や街頭劇のような行列で人心を惹き付け、国民的アイデンティティを具現し表象すればよい。実効統治は首相と内閣が行う。王は君臨し、内閣が統治する。
- スポーツと世界史
- 国民的なスポーツのルールが制定され、そのルールはグローバル化する
- 団体競技は植民地、自治国にもすみやかに広がり、国際対抗試合が国民的なアイデンティティ、競争と連帯の催しとして重要な意味を持つ
- 近代世界のなにごとについても、一定の経験的合理性をもつルールが初期設定されたなら、それがデフォルト値すなわり既定規約となる。世界システムの中枢で初期設定されたゲームのルールが普遍性を持ちグローバル化するのは、主権国家間の戦争と平和のルールから今日のIT基準に至るまで必至。
- 南アフリカ戦争の思想的影響
- J・Aホブスン『帝国主義』(1902)
- 帝国主義とは、資本主義本国における富の不平等故に国内消費が伸びず、海外に市場と投資機会を求めたものだと批判して「厚生」の経済学へと踏み出す。ホブソンなくしてレーニンの帝国主義論(1916)もケインズの有効需要論(1916)もない。
- 第一次世界大戦
- 私たちが第一次世界大戦とよんでいるものを、イギリス人は定冠詞つきで「大戦争」という。イギリスの死者数は(比率についても)第二次世界大戦におけるそれの2倍をはるかにこえる。日本人が両大戦にもつ感覚とは大きく異なる。
- 総力戦と戦後の社会契約
- 責務を果たし、血も涙も流した国民には、上下の別なく、住宅、社会保障、参政権といった手当が欠かせない。
- 第一次世界大戦における帝国臣民の従軍、協力と、その直後の失政による植民地エリートの離心という経過は、あたかも七年戦争におけるアメリカ13植民地の経験を繰り返すかのようである。
- 大衆社会
- 戦後、戦中からもちこした課題は「大衆社会と労働者の世界」。1918年11月に21歳以上の男子、30歳以上の女子が選挙権を享受し、28年には21歳以上の男女は平等となる。こうした大衆男女をどの政党が掌握するかが、20世紀政治のゆくえを決定することになる。
- 第三次産業や行政に従事する事務勤労者は煉瓦と材木と漆喰をあわせた二軒建てか集合住宅に住んだ。粗末ではないが、規格品の衣食住に囲まれた「中間階級の下層(lower middle-class)」の近隣社会が形成され、同じような新聞を読み、同じような余暇を楽しむ大衆が出現した。
- サッチャとブレア
- サッチャ…戦後の馴れ合い政治、新旧エリートによる既存の秩序に対する戦い。「妥協しない政治」「コンセンサスの払拭」「社会主義との戦い」をかかげ「隷従への道」にとって代わるハイエク、フリードマンの経済学を政策の基本に据えた政権。「小さな政府」「民営化」「マネタリズム」「金融自由化」を展開。
- ブレア…金融自由放任、カジノ資本主義の時代。一人でなく一緒に、自由に生きる共同体を創りだし、連帯・寛容・尊重をかかげる民主と社会主義の党が展開され、政治に夢と希望がもたらされた。
- 共通点…サッチャもブレアは党も方向性も異なる。しかし、それぞれの信念により、20世紀/戦後のコンセンサスを問い直し、政治社会の再編成に身を捧げたという点では共通している。