室町時代における関東地方情勢

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生徒から質問があったのでまとめ


まず関東情勢を考えるにあたって、鎌倉公方がどのような性格であったかを理解しておく必要がある。


鎌倉公方室町幕府地方機関である鎌倉府の長官だわ。尊氏の4男基氏が初代鎌倉公方鎌倉公方は当初将軍に従属していたのだけれど、諸権限を移管されて関東支配を行うようになると、将軍との対立が顕在化していくのね。


また鎌倉公方の補佐役であった関東管領も重要な役割を担う。関東管領を上杉氏が世襲するようになると、次第に鎌倉公方と対立する。将軍・鎌倉公方関東管領上杉氏の3者の動向を確認することが大切。


教科書レベルだと関東地方の主な出来事は上杉禅秀の乱永享の乱結城合戦享徳の乱ね。まず上杉禅秀の乱から解説よろしく。


4代義持時代に起こったのが上杉禅秀の乱(1416)。鎌倉公方足利持氏と対立して関東管領を辞した上杉禅秀が乱を起こします。ここで禅秀は4代将軍義持の弟義嗣と結んだので、義持は鎌倉公方側に就いたことをおさえておこう。義持は持氏に援軍を送って禅秀を討伐します。


ふむふむ。永享の乱結城合戦享徳の乱は室町将軍と鎌倉公方が対立しているけれど、禅秀の乱の時には手を組んでいることが重要なのね。


続いて義教時代。永享の乱結城合戦について見ていこう。ここでは義教がどんな人物だったかをまず考えてみよう。


えーっと、義教は「くじ引き」・「万人恐怖」・「カモの赤ちゃん」・「犬死」がキーワードだったわね。くじ引きで当選した義教は権力が不安定だったから強圧的な政治を行って反対勢力を次々と弾圧していった結果、危機感を覚えた赤松満祐に暗殺されてしまうのだったわよね。


永享の乱(1438〜39)の説明。義教のくじ引き当選により、将軍職を狙っていたが果たせなかった人物がいた。その人物とは、上杉禅秀の乱で義持から支援を受けたあの持氏。持氏は上杉禅秀の乱鎮定後からしばしば幕府と対立するようになっていたんだ。詳説日本史研究では義教側にも着目しており「義教は幕府における将軍権力の強化をねらって、将軍に服従しない者をすべて力でおさえようとしたため、幕府からの自立意識が強かった鎌倉府との関係が悪化」と説明しているね。この持氏を諌めたのが足利学校で有名な上杉憲実だったんだけど、持氏は不快に思い憲実を攻めてしまう。これに介入したのがくじ引きの足利義教で、持氏追討軍を派遣して自害に追い込み乱を鎮圧する。これが永享の乱だ。


なるほどね。義教の強圧的な政治が将軍になれなかった持氏の更なる反発心を生み出したと。そして上杉憲実と持氏の対立を名目にして義教は持氏を討伐したのね。結城合戦はどうったのかしら?


結城合戦(1440〜1441)。これは永享の乱で死んだ持氏の家臣である結城氏朝が起こした反乱。持氏の遺児たちを擁して下総の結城城に立てこもったが、幕府は上杉氏を支援し、落城させた。ちなみに、この結城合戦の慰労と鴨の赤ちゃんを口実にして赤松満祐は義教を暗殺した(嘉吉の変)。 貞成親王の『看聞日記』には「将軍此ノ如キ犬死ニハ古来ソノ例ヲ聞カザル事ナリ」とあることも見逃せないね。


くじ引き・万人恐怖・カモネタ・犬死というだけあって義教は結構キーパーソンになっているわよね。じゃあ、最後の享徳の乱の解説をよろしく。


享徳の乱足利義政の時代。永享の乱で死んだ持氏の子は結城合戦で滅んだ者以外にもまだいた。なんと嘉吉の変のどさくさに紛れて生き残っていた足利成氏である。成氏は鎌倉公方に就任すると権力強化をねらって関東管領上杉憲忠を謀殺する。成氏は幕府軍の追討を受けることとなったが、下総の古河にうつって反抗を続けていく。将軍足利義政は庶兄であった政知を鎌倉公方として派遣するが、関東の諸将に反対されて鎌倉に入れない。こうして政知は伊豆の堀越に留まることとなり堀越公方となる。こうして鎌倉公方は分裂したんだ。関東管領上杉家も山内家と扇谷家に分裂するんだが、最終的に上杉は北条氏により滅ぼされることとなる。