雑録

【日本史】院政の整理

藤原頼通の時代に摂関政治は頂点を迎えるが、後冷泉の皇后寛子に皇子が生まれず、藤原氏を直接の外戚としない後三条天皇が即位する。後三条は親政を行い、譲位した後には院政の傾向も見せたがまもなく死亡。次代の白河は自分の皇統を作ることに執心し院政を開始、堀河・鳥羽・崇徳と即位させた。しかし院政は後継者の対立を生み、白河と鳥羽の不仲を原因として、最終的には崇徳と後白河が皇位を争う保元の乱が発生する。その中で後白河院政期には平氏政権が成立し、治承寿永の乱が起こる。後鳥羽院政期の承久の乱をきっかけに朝廷は実権を失っていくこととなる。

【目次】

1.摂関政治からの転換

2.後三条天皇の親政(1068~72)

  • 後三条天皇(1034-1073)(在位1068~72)
    • 後朱雀天皇第二皇子。母は禎子内親王(三条帝皇女)。1045年、父(後朱雀帝)の死に際し皇太子に立てられる。関白藤原頼通はこれに異を唱え陰に陽に圧迫したが、1068年異母兄(後冷泉天皇)が嗣子なく死去したため即位した。
    • 1072年、長子の皇太子(白河)に譲位し、同時に2歳の次子(実仁)を立太子させた。譲位の目的は実仁立太子にあったとみられ、院政の傾向を示していたが、病気により翌73年に死去した。
      • 延久の荘園整理令→記録荘園券契所を設置して審査。1045年以降の新設荘園や不備のある荘園を停止。
      • 宣旨枡(1072)→多様な枡を統一

3.白河上皇による院政の始まり

関連皇族

  • 白河(1053-1129)(在位1072~86)(院政1086~1129){堀河・鳥羽・崇徳}
    • 後三条天皇第一皇子。1068年、父後三条の即位により親王となり翌年皇太子となる。1072年、父の譲位により践祚するが、皇太子には父の意志により異母弟実仁が立てられた。1085年実仁が死亡すると、翌1086年皇子堀河を皇太子に立て、即日譲位した。その後も自己の皇統を作ることに執心し、堀河に続き鳥羽(孫)・崇徳(ひ孫)を即位させ一系継承のかたちを作り上げた。白河上皇の治世をもって院政の始まりとされるが、それは上皇皇位継承に対する意志が一貫して強く発現したことにもかかわりがある。武力としては北面の武士を設置し、平氏を登用した。
      • 北面の武士白河上皇が創設した武力組織。名称は院御所の北面に詰めたことに由来する。武芸にすぐれた者が任じられる名誉ある地位と考えられ、上皇との主従的結びつきを強めることにより院政政権の軍事的基盤の一つとなった。
  • 堀河(1079-1107)(在位1086-1107)
    • 父は白河天皇。皇太子実仁親王(白河の異父弟)の死去から1年後の1086年に立太子し、その日に父白河から譲位を受けて践祚した。いわゆる白河院政の始まり。長子(鳥羽)の誕生(1103)を待って、これを皇太子に立てた。1107年に堀河が死ぬと、5歳で鳥羽が践祚した。
  • 鳥羽・崇徳は後述

白河院政関連年表

4.鳥羽院政(1129~1156)と平氏の躍進

関連皇族

  • 鳥羽(1103-1156)(在位1107-1123)(院政1129-1156){崇徳・近衛・後白河}
    • 堀河天皇第一皇子。祖父白河待望の皇嗣として誕生し1歳で立太子、5歳で父死去のため践祚。1119年長子(崇徳)誕生。この頃から白河と鳥羽は対立し始め、1123年に白河の意志により鳥羽は崇徳に譲位させられた。白河の死後、皇位継承を近衛に決め、1141年崇徳から譲位させた。1155年に近衛が病死すると後継に後白河をあて崇徳をあくまでも排除した。翌1156年、鳥羽は死去し、同時に保元の乱が起こることになる。
    • 当初白河院政を継承したが、徐々に独自性を加え、荘園整理政策の緩和による立荘の促進は中世的土地制度の確立をもたらした。また伊勢平氏を積極的に登用し、その台頭に大きく寄与した。
  • 崇徳(1119-1164)(在位1123-1141)
    • 鳥羽天皇第一皇子。1123年に5歳で立太子、即日父鳥羽の譲位で践祚。これは曾祖父白河の意志によるものであった。真偽は不明だが崇徳は白河の子と言われており鳥羽とは不仲であり1141年異母弟近衛に譲位させられた。近衛の死後も後白河・二条父子が擁立されたため、崇徳は自らの皇子への皇位継承の望みを絶たれた。1156年に後白河方との合戦に及ぶ(保元の乱)が敗れ、讃岐に配流された。配所で死亡したため怨霊として恐れられた。
  • 近衛(1139-1155)(在位1141-1155)
    • 鳥羽天皇の皇子。生後3カ月で立太子、1141年崇徳帝から譲位を受けて践祚。父の鳥羽から嫡流となる望みを託されたが、皇子女がないまま17歳で死去した。
  • 後白河については後述

平氏の動き

  • 海賊追捕と日宋貿易で西国に基盤を築く
    • 平忠盛(1096-1153)…正盛の嫡子。清盛の父。1129年3月山陽・南海の海賊を討伐。同年7月白河院死亡。1132年、鳥羽院のために三十三間堂を造り、その功により内昇殿を許される。1133年、宋船が院領肥前神崎荘に来着すると同荘預所であった忠盛は自ら下文を作り院宣と称して交易権を主張して大宰府と争う。1135年にも海賊追捕、その功により子の清盛が従四位下に叙せられる。忠盛は平氏繁栄の基礎を作った。

源氏の動き

  • 源氏は義親の嫡男為義が家督を継承→為義は六男為朝乱行で解任される→為義の嫡子義朝が家督を継承。
    • 源為義(1096-1156)…義親の子。父の謀反により祖父義家の4男義忠の養子となり、義忠の死によって源氏の家督を継ぐ。1146年検非違使となり六条堀川に住んだので、六条判官と呼ばれた。息子の為朝の九州での乱行により1154年解任され、家督を嫡子義朝に譲った。保元の乱では崇徳上皇方について敗れ、義朝の助命運動も及ばず殺害された。
    • 源為朝(1139-1170/77)…為義の八男。13歳の時に父に鎮西へ追放される。武勇に優れ、九州各地で騒擾を起こし、朝廷に訴えられたが召喚命令に従わなかった。1154年、父為義が解任されたと知り上洛。保元の乱に巻き込まれ、父と共に崇徳上皇側で奮戦したが捕らえられた。優れた武勇のため死を免れ伊豆大島に配流。配流後は近隣の島々を襲ったため70年追討を受けて自害したという。後世、琉球に逃れて舜天王の父になったという伝説が生まれた。
    • 源義朝(1123-1160)…鎌倉を拠点に東国に勢力を張り、武士団を編成。保元の乱では清盛とともに後白河の主力となる。義朝の主張した夜襲により後白河は勝利を収め、その功績で昇殿を許された。しかし崇徳側に加わった父や兄弟の助命嘆願は許されなかった。その後、後白河の近臣藤原通憲(信西)や清盛と対立。1159年藤原信頼と組んで平治の乱を起こしたが失敗し殺害された。

5.後白河院政と源平合戦

関連皇族

  • 後白河(1127-1192)(在位1155-58)(院政1158~1179、1181-1192){二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽}
    • 鳥羽天皇の皇子。1155年近衛が死去すると、鳥羽は後白河の長子(二条天皇)を後継者と決め、まずは後白河を即位させた。崇徳はこれを不満とし、鳥羽死後の1156年に保元の乱が発生する。これ勝利した後白河は、1158年二条に譲位し院政を開始。翌年の平治の乱では御所を焼かれている。1165年に二条の皇子の六条が皇太子となり即日践祚するが、二条はその1カ月後に死去。後白河は自身の皇子(高倉)を後継者に決め1166年に立太子し、1168年に5歳で六条から高倉へ譲位させた。この頃から院政の実が備わったとされる。
    • 後白河は清盛と対立。鹿ケ谷の陰謀の結果、1179年に幽閉・引退させられた。しかし1181年1月高倉天皇が死亡すると院政再開。1183年平氏都落ちの後、源義仲の襲撃を受けるが、動乱のなかをよく政治的に対処した。源頼朝勢力の京都進出後は頼朝と協調の方針をとる。1185年の義経挙兵の一時的混乱をこえて、朝廷と幕府の共存に道を開いた。1192年3月、66歳で死去。
    • 信仰に厚く、遊び事を好み、今様を集成して「梁塵秘抄」を編纂した。
  • 二条(1143-1165)(在位1158-1165)
    • 後白河の第1皇子。出家予定だったが、近衛が死去したため鳥羽によってにわかに後継者とされた。1155年まずは父:後白河が即位し、二条はその皇太子となり58年譲位を受けて践祚した。父の後白河院政を否定し、親政を行おうとしたが、23歳の若さで死去した。
  • 六条(1164-1176)(在位1165-1168)
    • 二条天皇の皇子。1165年、2歳で皇太子に立ったその日に、二条の譲位を受けて践祚。二条はその1カ月後に死亡。祖父:後白河の意志により1166年後白河の第7皇子(高倉天皇)が立太子され、1168年に5歳で高倉に譲位した。
  • 高倉(1161-1181)(在位1168-80)
    • 後白河の第7皇子。父の意志により1166年皇太子に立ち、2年後六条天皇の譲位を受けて践祚した。平清盛の娘:徳子を中宮とした。1178年徳子が生んだ長子(安徳)を立太子、1179年清盛のクーデタで後白河が鳥羽殿に幽閉されると、1180年安徳天皇に譲位した。
  • 安徳(1178-1185)(在位1180-1185)
    • 高倉天皇の第1皇子。誕生後1カ月で立太子、3歳で即位。父高倉からの譲位は清盛によって強引に進められたが反発を招き、全国的内乱に発展した。1183年7月、義仲軍に京を追われて都落ち。都では後鳥羽が即位したので朝廷は分裂した。1185年3月、壇ノ浦の戦いで死亡。

治承寿永の乱 関連年表

6.後鳥羽院政(1198-1221)→後鳥羽・土御門・順徳・仲恭

関連皇族

  • 後鳥羽(1180-1239)(在位1183-1198)(院政1198-1221)
    • 高倉天皇第4皇子。1183年、安徳の都落ちのあと、神器なく後白河の院宣践祚。1198年、土御門に譲位して院政を始める。西面の武士を設置したほか、西国守護や在京御家人などの幕府方武士をも影響下に置いた。多数の院領荘園を基礎とする財力によって水無瀬・鳥羽・宇治などに離宮を造営、熊野詣を数多く行い権威を示した。
    • 鎌倉幕府に対しては、外戚坊門信清の娘を実朝の妻とするなど公武の融和に努めていたが、実朝暗殺後は皇子を将軍として迎えたいという幕府の要望を拒否して倒幕に傾いた。1221年、北条義時院宣を下して幕府打倒の兵を起こすが失敗。膨大な所領は没収され、隠岐に流された。
    • 多芸多才で和歌に優れ、1205年、新古今和歌集を撰し、蹴鞠・琵琶・筝・笛にも優れた。
  • 土御門(1195-1231)(在位1198-1210)
    • 後鳥羽の第1皇子。1198年即位するが、1210年父後鳥羽の命で弟の順徳に譲位した。承久の乱には積極的に関わらなかったので、後鳥羽・順徳は配流されたが、鎌倉幕府から追及されなかった。しかし、同年自ら土佐に移り、のちに阿波に移って同国で没した。
  • 順徳(1197-1242)(在位1210-1221)
    • 後鳥羽の第3皇子。1200年土御門の皇太弟となり1210年父後鳥羽上皇の意志で即位した。1221年、倒幕の意志を固めた父を助けるために仲恭天皇に譲位。承久の乱に敗れて佐渡に流され、その地で没した。