藤原頼通の時代に摂関政治は頂点を迎えるが、後冷泉の皇后寛子に皇子が生まれず、藤原氏を直接の外戚としない後三条天皇が即位する。後三条は親政を行い、譲位した後には院政の傾向も見せたがまもなく死亡。次代の白河は自分の皇統を作ることに執心し院政を開始、堀河・鳥羽・崇徳と即位させた。しかし院政は後継者の対立を生み、白河と鳥羽の不仲を原因として、最終的には崇徳と後白河が皇位を争う保元の乱が発生する。その中で後白河院政期には平氏政権が成立し、治承寿永の乱が起こる。後鳥羽院政期の承久の乱をきっかけに朝廷は実権を失っていくこととなる。
【目次】
1.摂関政治からの転換
2.後三条天皇の親政(1068~72)
3.白河上皇による院政の始まり
関連皇族
- 白河(1053-1129)(在位1072~86)(院政1086~1129){堀河・鳥羽・崇徳}
- 堀河(1079-1107)(在位1086-1107)
- 鳥羽・崇徳は後述
4.鳥羽院政(1129~1156)と平氏の躍進
関連皇族
- 鳥羽(1103-1156)(在位1107-1123)(院政1129-1156){崇徳・近衛・後白河}
- 崇徳(1119-1164)(在位1123-1141)
- 近衛(1139-1155)(在位1141-1155)
- 後白河については後述
平氏の動き
源氏の動き
- 源氏は義親の嫡男為義が家督を継承→為義は六男為朝乱行で解任される→為義の嫡子義朝が家督を継承。
- 源為義(1096-1156)…義親の子。父の謀反により祖父義家の4男義忠の養子となり、義忠の死によって源氏の家督を継ぐ。1146年検非違使となり六条堀川に住んだので、六条判官と呼ばれた。息子の為朝の九州での乱行により1154年解任され、家督を嫡子義朝に譲った。保元の乱では崇徳上皇方について敗れ、義朝の助命運動も及ばず殺害された。
- 源為朝(1139-1170/77)…為義の八男。13歳の時に父に鎮西へ追放される。武勇に優れ、九州各地で騒擾を起こし、朝廷に訴えられたが召喚命令に従わなかった。1154年、父為義が解任されたと知り上洛。保元の乱に巻き込まれ、父と共に崇徳上皇側で奮戦したが捕らえられた。優れた武勇のため死を免れ伊豆大島に配流。配流後は近隣の島々を襲ったため70年追討を受けて自害したという。後世、琉球に逃れて舜天王の父になったという伝説が生まれた。
- 源義朝(1123-1160)…鎌倉を拠点に東国に勢力を張り、武士団を編成。保元の乱では清盛とともに後白河の主力となる。義朝の主張した夜襲により後白河は勝利を収め、その功績で昇殿を許された。しかし崇徳側に加わった父や兄弟の助命嘆願は許されなかった。その後、後白河の近臣藤原通憲(信西)や清盛と対立。1159年藤原信頼と組んで平治の乱を起こしたが失敗し殺害された。
5.後白河院政と源平合戦
関連皇族
- 後白河(1127-1192)(在位1155-58)(院政1158~1179、1181-1192){二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽}
- 鳥羽天皇の皇子。1155年近衛が死去すると、鳥羽は後白河の長子(二条天皇)を後継者と決め、まずは後白河を即位させた。崇徳はこれを不満とし、鳥羽死後の1156年に保元の乱が発生する。これ勝利した後白河は、1158年二条に譲位し院政を開始。翌年の平治の乱では御所を焼かれている。1165年に二条の皇子の六条が皇太子となり即日践祚するが、二条はその1カ月後に死去。後白河は自身の皇子(高倉)を後継者に決め1166年に立太子し、1168年に5歳で六条から高倉へ譲位させた。この頃から院政の実が備わったとされる。
- 後白河は清盛と対立。鹿ケ谷の陰謀の結果、1179年に幽閉・引退させられた。しかし1181年1月高倉天皇が死亡すると院政再開。1183年平氏都落ちの後、源義仲の襲撃を受けるが、動乱のなかをよく政治的に対処した。源頼朝勢力の京都進出後は頼朝と協調の方針をとる。1185年の義経挙兵の一時的混乱をこえて、朝廷と幕府の共存に道を開いた。1192年3月、66歳で死去。
- 信仰に厚く、遊び事を好み、今様を集成して「梁塵秘抄」を編纂した。
- 二条(1143-1165)(在位1158-1165)
- 六条(1164-1176)(在位1165-1168)
- 高倉(1161-1181)(在位1168-80)
6.後鳥羽院政(1198-1221)→後鳥羽・土御門・順徳・仲恭
関連皇族
- 後鳥羽(1180-1239)(在位1183-1198)(院政1198-1221)
- 高倉天皇第4皇子。1183年、安徳の都落ちのあと、神器なく後白河の院宣で践祚。1198年、土御門に譲位して院政を始める。西面の武士を設置したほか、西国守護や在京御家人などの幕府方武士をも影響下に置いた。多数の院領荘園を基礎とする財力によって水無瀬・鳥羽・宇治などに離宮を造営、熊野詣を数多く行い権威を示した。
- 鎌倉幕府に対しては、外戚坊門信清の娘を実朝の妻とするなど公武の融和に努めていたが、実朝暗殺後は皇子を将軍として迎えたいという幕府の要望を拒否して倒幕に傾いた。1221年、北条義時の院宣を下して幕府打倒の兵を起こすが失敗。膨大な所領は没収され、隠岐に流された。
- 多芸多才で和歌に優れ、1205年、新古今和歌集を撰し、蹴鞠・琵琶・筝・笛にも優れた。
- 土御門(1195-1231)(在位1198-1210)
- 順徳(1197-1242)(在位1210-1221)