受験日本史の鎌倉時代は、北条得宗家の重要な人物をおさえることが肝要。全ての執権を覚える必要はない。
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北条時政の政治(1199~1205) 2代将軍頼家を排除!
- ①十三人合議制
- 1199年、頼朝が死んだ後、頼家が家督を継いだ(将軍には1202年就任)。しかし妻の父:比企能員(ヒキヨシカズ) を重用して他の老臣を軽んじ御家人の統率力に欠いた。そのため、有力御家人13人の合議により幕政を決することとし、頼家の親政を制限した。
- ②他氏排斥:頼朝以来の有力な御家人を滅ぼし、北条氏の地位を不動のものとする。
- 梶原景時(1200)…石橋山の戦いで頼朝を救い重用される。頼朝死後は排斥され討たれた。
- 比企能員(1203)…頼家の義父。時政追討を企てたが、逆に謀殺された。
- 畠山重忠(1205)…義仲追討、奥州平定に功績。子の重保が謀殺され、重忠自身も敗死。
- ③頼家廃嫡
- 1203年、時政が頼家を修善寺に幽閉し、3代将軍に実朝を立てる。頼家は翌年暗殺される。
- ④執権の始まり
- ⑤失脚
- 時政は実朝を廃し娘婿平賀朝雅を将軍にしようとするが、政子・義時に妨げられて失敗し隠退。
北条義時の政治(1205~1224) 承久の乱に勝利!
- ①幕府における指導的地位の確立
- 1213年、侍所別当であった和田義盛を滅ぼした義時は、政所別当と侍所別当を兼ね、反北条勢力を一掃した。以後、執権は政所・侍所の両別当を兼務する役職となった。
- ②源氏の断絶
- 1219年、鶴岡八幡宮で右大臣拝賀の儀式を終えたばかりの実朝を頼家の遺児:公暁が暗殺する。公暁も斬られて源氏の正統は3代で断絶。
- ③承久の乱
- 背景:後鳥羽上皇は宮廷勢力の回復を目指し、院に西面の武士を新設するなど軍事的な整備をはかり、実朝暗殺を契機に武家政権打倒を実行に移した。
- 経過:1221年、義時追討の院宣を諸国に下し討幕の軍を起こす。しかし御家人の結束はかたく、義時の弟時房と息子泰時が上洛して上皇軍を撃破し、上皇方の完敗で終わる。
- 結果
- 1)上洛した時房・泰時を京都の六波羅に常駐させる → のちの六波羅探題。
- 2)皇位継承・公家人事にも幕府の意志が強く働くようになる。
- 3)新補地頭の配置 ►上皇方から没収した所領に新しく地頭として補任。
- 4)守護による大田文の作成 ►土地台帳の作成を守護が行うようになる。
北条泰時の政治(1224~1242) 名執権!優れた政策
- ①連署設置
- 泰時が新設した執権の補佐役。連署とは「名を連ねる者」の意味。幕府の重要な公文書には、執権と共に署名した。最初の連署は時房。
- ②評定衆設置
- 泰時が新設した役職。政所に出仕して重要政務の処理や裁判の採決に当たった。
- ③御成敗式目(貞永式目)
- 目的:守護や地頭の権限や義務を明らかにし、公平な裁判を行う基準を成文化するため。
- 特徴:51か条。頼朝以来の慣例と武家社会の「道理」に基づいて、守護・地頭の権限、御家人の身分、御家人の相続や権利・義務などを定めた。
- 意義
- 1)武家社会最初の成文法。武家政治の基本法として、後世の武家法に影響を与える。→足利尊氏の建武式目、戦国大名の分国法、江戸幕府の諸法度など
- 2)幕府の勢力範囲が対象。公家や非御家人を拘束するものではない。朝廷の支配下では律令の系統をひく公家法が、荘園領主の支配下では各領家が定めた本所法がそれぞれ効力を持つ。→幕府の勢力発展と共に、式目が効力を持つ範囲が次第に広がる。
- 3)式目は実際的であることを重視。新たな規定を要する場合は「式目追加」。
北条時頼の政治(1246~1256) 得宗家に権限を集中!(※得宗とは北条本家。義時の法名得崇に由来)
- ①宮騒動
- 1246年藤原頼経が幕府への謀叛に加担したとされる事件。頼経は京都へ送還され、頼経と結んだ北条一族の名越家は幕府から一掃された。
- 頼経は3代将軍実朝が死亡した後、1219年に2歳の時に鎌倉に下り、26年に4代将軍となる(摂家将軍)。しかし成長すると執権北条氏と対立し1244年には子の頼嗣に将軍職を譲らされた。
- ②宝治合戦
- 1247年北条氏と並ぶ有力御家人の三浦泰村が滅ぼされた出来事。時頼は母方の実家:安達氏に命じて三浦氏を挑発し、合戦の末に三浦一族を自害に追い込んだ。
- ③引付衆設置
- 1249年評定衆の付属機関として設置。訴訟の処理の能率化をはかり、御家人の所領訴訟を専門とした。
- ④宮将軍(皇族将軍)
- ⑤仏教の帰依
北条時宗の政治(8代執権:1268~1284) 元寇
- ①執権就任の背景
- 元朝の服属要求…1268年、高麗を通じて元が日本に朝貢と服属を要求→幕府はこの要求を拒否。得宗家の時宗(当時18歳)を執権にし、正村(前代執権)を連署とし内部を固める。
- ②対元政策
- フビライの使節を黙殺
- 1269年:蒙古使、再び国書を届ける → 朝廷は返書を草案するが、時宗は断固拒否。
- 1271年:蒙古使趙良弼(チョウリョウヒツ)、九州に到来し入貢を迫る → 時宗、またも黙殺。
- 異国警固番役の「起源」
- 1271年:九州地方に所領を持つ東国御家人に九州に下向して「異国の防御」に当たることを命令。
- 1272年:九州御家人に東国御家人の到着を待たず守護の指揮に入り防備につくことを命令。
- ③文永の役(1274年)
- 幕府、筑前守護の少弐資能(ショウニスケヨシ)・経資(ツネスケ)父子を大将とし、九州の御家人たちを動員して迎撃。
- 元軍の集団戦法、毒矢、「てつはう」と呼ばれた火器の前に苦戦→幕府軍、大宰府近くの水城まで退却。
- 元軍、なぜか大宰府への進撃も陸上陣地も構築せず。船に引き上げたところ、暴風雨にあい退却。
- ④防衛体制の準備
- 異国警固番役の整備…博多湾岸など九州北部の要地を御家人に警固させる。
- 長門の防備…長門国守護に北条氏一門を任じ(長門探題)、長門・周防・安芸の御家人に長門警固番役を課す。
- 防塁(石塁・石築地)を建設して博多湾岸を防備。
- 非御家人の動員
- 本所一円地への支配拡大
- 従来、貴族や寺社などの荘園に住む「本所一円地の住人」は幕府の命令の及ばない存在であったが、強大な外敵との戦いという緊急事態を迎え、守護の指揮下に配置される。
- 本所に上納される年貢は兵粮米として徴収された。
- ⑤弘安の役(1281年)
- 1276年に南宋を滅ぼした元軍は日本に再侵攻するも、幕府軍は奮戦し、再び暴風雨にあい退却。
- ⑥元寇の影響
- 西国一帯における幕府の支配力の強化
- 第三次来襲に備えて全国の公領や荘園内の非御家人の武士をも動員する権限を朝廷に認めさせる。
- 長門探題に続いて鎮西探題を博多に設置(時代;貞時の時代1293or1296)し、北条一族を任ずる。
- 得宗専制政治への移行
- 蒙古襲来を契機に幕府の支配力が強化されるとともに、北条氏の中でも家督を継ぐ得宗(義時の法名に由来する嫡流)の権力が強まる→時頼の代から私邸の寄合で重要政務を決定したが時宗の代に一層顕著となる→得宗の家臣の御内人(筆頭を内管領という)が権力を持ち御家人との対立が深まる。
北条貞時の政治(9代執権:1284~1301) 得宗専制政治
- ①霜月騒動
- ②平頼綱の乱
- ③得宗専制政治の確立
- 得宗は執権を務めた後、北条一門の中から執権を指名したが、その後も権力を握り続け、実質的な権力は執権から得宗へと移行し、執権の地位は権力が伴わないようになった。
- 評定衆や引付衆も多くを北条氏が占めるようになり、合議体制も形骸化した。
- 全国の守護職も半分以上を北条一門が占めるようになる。
- ④永仁の徳政令(1297) のち、以下の[i],[iii]は撤廃
- [i]御家人の所領売買、質入れを禁止
- [ii]とある御家人が財力のある別の御家人に売却した所領で、売却後20年未満の土地は無償でもとの持主に返させる。
- [iii] 御家人の所領の貸借の訴訟を幕府は受け付けないこととする。
- ☆なぜ御家人は窮乏化したのか?
- 元寇の恩賞不足→ 奉公に対する恩賞という封建社会第一の原則は守られず
- 分割相続による所領の細分化 → 収入減少
- 貨幣経済に対処できず → 所領の質入れや売却
- ☆御家人の窮乏化と幕府への不満
- 困窮する御家人は、日に日に不満をつのらせ、得宗が主導する幕府はそれを抑えるために、さらに専制的、高圧的になっていく。そしてそのことがますます御家人たちの反発を招き、幕府の存在を動揺させる結果となった。
北条高時の政治(14代執権:1316~1326)※1326年に執権を辞すが得宗の地位は死ぬまで保持
- ①文保の和談(1317)
- 背景:皇統の後継争い…後嵯峨の後、皇統が分裂。後深草に始まる持明院統と亀山に始まる大覚寺統の両統に分かれ、ともに自統の正統性を主張して争う。
- 内容:両統迭立…幕府が提議して調停し、両統が交代で皇位につくことが定められた。
- ②正中の変(1324)
- ③元弘の変(1331)
- ④反幕勢力の挙兵と鎌倉幕府の滅亡
- 後醍醐配流で事件は鎮圧されたかに見えたが悪党(社会秩序を乱す集団)や北条氏に不平を持つ武士が挙兵。
- 後醍醐、配流先の隠岐を脱出し船上山にこもる。
- 幕府、足利高氏(のち尊氏)を京都に派遣するが、途中でそむき六波羅探題を滅ぼす。
- 上野国の新田義貞、鎌倉を攻めて北条高時以下を自殺させる→1333年、鎌倉幕府の滅亡。