【日本史】政治史人物整理 徳川将軍総整理

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徳川三代(詳細はこちら)

4代徳川家綱(位1651~80) 約29年間

  • (1)牢人問題
    • 慶安の変…1651年、家光死後家宣将軍就任直前、由井正雪らが約2000の牢人を集め幕府転覆のために挙兵をはかるが、未然に発覚して鎮圧された事件。
    • 末期養子の禁止の緩和…牢人の発生を防ぐために、お家断絶の原因になっていた末期養子の禁を緩和。末期養子とは当主の死亡直前に養子相続を願い出る事。従来幕府は大名の末期養子を認めず取り潰しの手段としていたが、当主が50歳未満だった場合末期養子を入れて家の存続を許可した。 
  • (2)殉死の禁止(1663年)
    • ①殉死とは?…主君が死亡した際、あとを追って切腹すること。
    • ②内容…主人の死後殉死することなく跡継ぎの新しい主人に奉公するように義務付けた。
    • ③意義…主人個人との主従関係を改め、主人の家に忠誠を尽くすことが望まれた。主人の家は代々主人であり続け、家臣は代々主家に奉公し続けることを当然のこととした。
  • (3)領知宛行状の全大名一斉発給
    • ①変化…従来は個々の大名と主従関係を確認しつつ、まちまちに領知宛行状を発行していたが、家綱によって領地宛行状は統一的に、同時に交付された。
    • ②意義…将軍個人と大名の個人的な主従関係ではなく、将軍家と大名家の主従関係であり、将軍権力が体制的に確立され、幕府の安定を示した。
  • (4)主要幕閣

5代徳川綱吉(位在位1680~1709) 約28年間

  • (2)支配思想の変容
    • 武家諸法度(天和令)…第1条を従来の「文武弓馬の道」から「文武忠孝を励し、礼儀を正すべき事」へ
      • →主君に対する忠、父祖に対する孝、礼儀による上下の秩序が支配原理となる。
    • 儒教イデオロギーの利用…湯島聖堂を建て、林信篤を大学頭に任じ文教を指導させる。
  • (3)天皇・朝廷の利用
    • ①儀式復活…将軍の権威を高め平和な秩序を維持するために朝廷を利用すべく儀式を復活させ尊重。
    • ②大嘗会の復活…天皇の即位儀式の一つ。東山天皇の時に221年ぶりに復活。 
  • (4)戦国遺風の転換
    • ①かぶき者が社会問題化…戦場で武功を上げ社会的上昇を図る道が途絶えた旗本や牢人たちは、儀礼的秩序にはなじめず、社会に反抗して乱暴を働き満たされぬ思いを解消しようとした。
    • ②対策
      • 生類憐みの令…1687~1709。極端な動物愛護令。捨て子・捨て病人の禁、行倒れ人の保護など社会的弱者救済の側面もあった。殺生や虐待を忌むべき価値観を醸成した。
      • 服忌令…1684年。服喪・忌引きの日数を定める。死や血を穢れたものとする意識が社会に浸透。
    • ③価値観の転換…綱吉政権は生類憐みの令と服忌令の両者を同時に徹底することで殺人の価値や殉死を美徳とする武士の論理、動物を殺す無頼行為をなすかぶき者などを最終的に否定した。
  • (5)幕府財政の窮乏化
    • ①鉱山収入の減少…幕府初期から続いた豊かな鉱山収入が減少。金銀の産出量が減少。
    • ②明暦の大火(1657)…江戸城や市街の復興に再建費用が財政を圧迫。
    • ③綱吉の奢侈的生活…綱吉と実母桂昌院の濫費で収支均衡が崩れた上、寺社造営修繕に莫大な費用を投入。
  • (6)経済政策
    • ①貨幣改悪鋳造…荻原重秀の献策。慶長金銀以来の貨幣の純度を下げ元禄金銀を発行(1695)。
    • ②結果…幕府は出目(差益金)として450~500万両を得たが、貨幣価値の下落と物価騰貴でインフレ。
  • (7)社会の動揺
    • ①赤穂事件…1701年赤穂藩浅野長矩江戸城中で吉良上野介を刀傷におよび切腹となる。翌年元家老大石内蔵助ら旧浅野家牢人47名が吉良邸に討ち入り吉良上野介を殺害した。
    • ②富士山大噴火…1707年に噴火。被災地復興を名目に幕府は全国に諸国高役金の徴収を命じた。約49万両集まったが実際に支出されたのは約6万3000両であり残りの40数万両は流用されたとされる。

6代家宣(在位1709~12)・7代家継(在位1713~1716) 正徳の治の約6年間

  • (1)新井白石の登場
    • ①短命将軍・幼児将軍:1709年の綱吉死去後、甥の甲府藩主家宣が6代将軍となるが治世3年9か月で死去。その幼児家継が7代将軍となるが急死。。合わせて8年に満たないものであった。
    • 文治政治…6代・7代将軍の時に政治顧問:新井白石側用人真鍋詮房が文治政治を展開。
  • (2)正徳の治
    • ①法令改正…生類憐みの令を廃止、柳沢吉保を排除し、賄賂などを禁じる。
    • 典礼整備…将軍個人の人格能力ではなく将軍の地位が各式と権威を持つように儀式・典礼・服装を整備。
    • ③朝幕関係…宮家は伏見・桂・有栖川3家のみで天皇の子弟の多くは出家→閑院宮家創設。
    • ④日朝関係…朝鮮通信使を簡素化。将軍の称号を「大君」から「日本国王」へ改め権威強化。
    • ⑤貨幣改鋳…元禄金銀に代わり慶長金銀と同じ品位を持つ正徳金銀を鋳造→物価安定を図るがデフレ。
    • ⑥貿易政策…金銀の流出を防ぐため海舶互市新例で船舶数・貿易額を制限し、銅や俵物で決済。
  • (3)正徳の治の限界
    • 儒教文治政治は幕政の引き締めには効果があったが理想主義が現実無視の傾向を帯び、吉宗に退けられた。

8代徳川吉宗(在位1716~1745/大御所1745~1751)

  • (1)背景
    • ①家康没後100年…家継が幼少で死に徳川宗家が断絶。紀伊藩主であった徳川吉宗が幕府に迎え入れられる。
    • ②政治方針…家継の政治顧問:新井白石側用人:真鍋詮房を罷免し側用人政治を排除。幕府創業期の政治体制への復帰を掲げて幕政改革に取り組む(享保の改革)
  • (2)支配体制の整備
    • ①目安箱の設置…庶民の投書を許す。成果としては江戸の防火体制の整備や小石川養生所の創設。
    • ②人材登用
      • 足高の制…役職に就くとその職務に必要な経費は自分で出さねばならなかったので低家禄の者には負担が大きく、有能な人材を登用できなかった。そのため役職の基準石高を定め(例:町奉行3000石)、それ以下の者が任じられた時には在職中だけ不足分を支給した。これにより家禄を引き上げなくとも人材登用でき、財政支出を抑制できる効果もあった。
    • ③法制整備
      • 公事方御定書…1742年。これまでの裁判の判例を集めて、裁判や刑罰の基準とする。上巻81条は司法警察関係の法令、下巻103条(「御定書百箇条」)は刑法・訴訟法関係の法令。
      • 御触書寛保集成…1744年。幕府創設以来の法令類を収集。1615~1743年まで129年間の触書を収集。
  • (3)財政再建
    • ①相対済し令…1719年。金銀貸借に関する紛争は当事者間にまかせ幕府は訴訟を受け付けないとするもの。根本的な解決にはならず金融業界も混乱し1729年に停止された。
    • ②上米の制…1722年。参勤交代の江戸滞在期間半減を条件に諸大名に石高1万石に100石の米を上納させた。1730年に停止し、元に戻した。
  • (4)経済政策 
    • ①米価調整…幕府は財政収入増加を目指して米の増産に励んだが逆に米価は下落したため米価調整に苦心。
      • 1730:大坂堂島の米相場を公認。米価統制を行う。
      • 1731:買米令を出し大名や商人に買占めをすすめ三都への廻米を禁止し米価下落を防ごうとする。
      • 1732:西国で虫害による享保の飢饉が発生し米価高騰。各地で一揆。33年江戸で初の打ちこわし。
    • ②通貨対策
      • 1717年正徳金銀と同質の享保金銀を鋳造して良貨政策 →貨幣高により低米価となってしまう。
      • 1736年質を落とした元文金銀(文字金銀)を発行 →米価引き上げと物価安定をもたらす。
    • ③株仲間公認…商人は幕府の禁止にも関わらず同業者の仲間(組)を作り利益の確保をはかっていたので、1721年幕府は株仲間として公認し、特権付与と引き換えに、商品経済を統制しようとした。
  • (5)農村政策 
    • ①新田開発
      • 幕府主導で開発→武蔵野新田。新田からの年貢の1割を代官に支給する→代官見立新田。
      • 町人請負新田…新田開発に町人の参加を奨励し商業資本を導入。全国各地に大規模な新田が開発されたが、寄生地主制の前提となり封建体制の基礎を崩壊させる要因ともなった。
    • ②年貢増徴
      • 従来:検見法…毎年、その作柄の実地調査によって課税する方式。
      • 変更:定免法…過去数年間の収穫を平均して税率を決め、一定期間その税率で徴収する。→経営規模の大きい富農は利益を得たが、中小農民は実質増税。凶作時はすさまじい苦しみ。
    • ③流地禁止令
      • 内容:田畑を質に入れ、期限が過ぎても借金を返済できないため質流れ(流地)となり、百姓層の分解が進行してきたことへの対処。
      • 質地騒動:百姓たちは流地禁止令を徳政令であると解釈し、流地の返還を地主に迫り騒動を起こした。

9代家重時代における側用人政治の復活・10代家治と田沼時代

  • (3)商業政策 
    • ①専売制度…銅・銀・真鍮・朝鮮人参などを幕府の専売とし直営の座を設置。
    • ②株仲間の奨励…商業資本と結びつき保護の代わりに運上・冥加として徴収。
    • ③長崎貿易…銅・俵物(イリコ・ホシアワビ・フカヒレ)を輸出し金銀を輸入。蝦夷地開発は俵物増産のため。
    • ④貨幣鋳造…秤量貨幣ではなく流通に便利な表記貨幣である南鐐二朱銀を鋳造。
  • (4)田沼の失脚 
    • 商業資本との結合により幕府財政の安定と強化には成功したが、政治の腐敗・堕落、士風の退廃が目立ち、天明の大飢饉(1783~87)や田沼意知(1784)の暗殺の中で、家治の死と共に失脚した。

11代 徳川家斉(在位1787~1837/大御所1837~1841)

  • 時期区分
    • 寛政の改革期…寛政の改革(1787~1793)。寛政の遺老(1793~1818)。
    • ②親政期…1818~37。1818年に水野忠成(ミズノ=タダアキラ)が老中になると家斉の親政が始まる。
    • ③大御所期…1837~1841。12代家慶に将軍職を譲った後も死没するまで実権を掌握。

家斉の将軍就任と松平定信の登場

  • 田安宗武の七男:定信は田沼意次の策謀で白河藩松平家の養子となり、一橋家の家斉が家治の世継ぎとなる。家治死後、家斉が若くして将軍に就くと、定信が老中首座、将軍補佐役となり政治に望んだ。
  • 寛政の改革(1787~93) 
    • ①定信は流通経済の発展・商業資本の成長に対してどのような方針をとったか?
      • 復古政策:商業資本を断ち切り田沼政治の腐敗浄化に努める。極度の緊縮財政を基調とし、商業資本を抑圧、農村の復興による貢租体系の再整備をはかって、幕藩体制を再建・強化しようとした。
    • ②社会経済政策
      • a.棄捐令…札差らに6年以前の債務を破棄させ5年以内の債務は利息を引き下げて年賦で返済。
      • b.人足寄場…浮浪化した都市流入者を隅田川河口の石川島に収容し、職業指導を行った。
      • c.七分積金の法…江戸市中の町費(町入用)を節約させ、節約分の7割を町会所に積立させ、貧民救済・非常用資金に充てた→効果:天保の飢饉の際に打ちこわしを未然に防止
      • d.商業経済の抑圧…流通経済の抑圧と統制強化により物価安定を図り、運上・冥加などの収入がなくなるにもかかわらず、あえて株仲間の一部を廃止した。
    • ③農村復興策
      • a.囲米の制…飢饉に備え、諸大名に石高1万石につき揉米50石を貯蔵させる。また各地に貯蔵施設である社倉・義倉を設置。
      • b.旧里帰農令
        • 目的:荒廃した農村復興のため農村人口の確保、農民の流入により膨張した都市貧民対策。
        • 内容:農民の都市への出稼ぎ、逃亡を禁止し定職を持たない者の都市から農村への帰農を奨励。
      • c.商品作物栽培の制限…米・菜種・綿以外の農作物の栽培を制限し、商人の農村進出を阻止し、自然経済・本百姓体制の再確立を目指した。
    • ④思想・風俗の統制
      • a.町人生活の規制…私娼・芸妓の取り締まり、混浴・賭博の禁止、出版統制(洒落本作家山東京伝処罰)
      • b.寛政異学の禁…朱子学を正学、儒学諸派を異学とし、聖堂学問所での講義を禁じ、朱子学の保護を図る。その意図は異学の禁圧ではなく、朱子学による幕臣の士風刷新・教化。
    • ⑤海防問題
      • a.林子平の処罰…林子平は『三国通覧図説』(1785)で日本防衛のための蝦夷・朝鮮・琉球の確保と蝦夷地開発を説き、『海国兵談』(1791)で外国に対する防備を力説した。翌92年定信は民心を動揺させるとして『海国兵談』を絶版発禁とし処罰したのだが4か月後にラクスマン来航。
      • b.ラクスマン来航…ロシア使節として根室に来航。漂流民大黒屋光太夫を日本に送還するとともに通商を求める。幕府は長崎入港許可証である信牌を与えて長崎に行くよう指示→1804年レザノフ来航
      • c.海防政策…諸大名に海岸防備の強化を指示するとともに江戸湾防備の必要性が認識され定信自らが相模・伊豆などの沿岸を検分。
    • 寛政の改革の失敗
      • a.時代逆行的な政策・根本的な問題解決の棚上げ
        • 当時の時代的要求は流通経済・商業資本の発展への対応。
        • 定信の方針は農村復興による自然経済、本百姓体制の維持。
        • 保守的、反動的色彩の強い緊縮政策や思想言論の統制では根本的な問題の解決とはならず。
      • b.尊号一件
        • 光格天皇は実父典仁親王天皇として即位していなかったので太上天皇の尊号を宣下したいと幕府に許可を求めたが定信は却下。家斉は将軍ではない父:治済を大御所にしようとしていたので不和となる。
      • c.寛政の遺老の政治…1793~1818。老中松平信明らにより改革路線が引き継がれる。

家斉による治世 文化・文政時代(化政時代)/大御所時代とも呼ばれる。

  • (1)主要政策
    • ①親政初期…関東地方の治安維持のため関東取締出役を設置するなど意欲的な政治を行う。→関東取締出役は充分な成果が出なかったので近隣の村々に寄場組合を作らせる。
    • ②政治腐敗…政治に飽き、奢侈生活を送る。側室40人、子女55人。家斉を補佐した水野忠成は賄賂政治を公然と行い、綱紀の弛緩、士風の退廃、享楽的風潮が一般化した。
    • ③通貨政策…1818年の文政金銀以降貨幣改鋳を繰り返し、出目(差益金)を得る。
      • →質の悪い貨幣が大量に流通したため物価上昇。貨幣相場は混乱したが、商品生産を刺激し、商人の経済活動が活発化。都市を中心に化政文化と呼ばれる庶民文化の花が開く。
  • (2)内憂外患
    • 天保の飢饉…1833~39。ピークは36年。空前の大飢饉が全国を襲い一揆・打ちこわしが頻発。
    • ②反幕府騒動
      • 大塩平八郎の乱…大坂町奉行所元与力で私塾洗心洞を開いていた陽明学者の大塩平八郎が町民救済を奉行所に建言したが受け入れられなかったので幕政を批判して蜂起。乱は1日で鎮圧されたが大塩が旧幕臣であり著名人であったため幕府・諸藩に衝撃を与える。
      • 生田万の乱大塩平八郎の乱に影響され、門弟であると称し「天命を奉じて国賊を誅す」の旗を掲げて挙兵。失敗に終わる。
        • ※江戸では寛政の改革期の七分積金や「お救い小屋」による窮民救済で打ちこわしを防いだ。
    • ③外国船の接近
      • ロシア…ラクスマンの持ち帰った信牌をレザノフが持って長崎に来航(1804)するも幕府は通称を拒否→フヴォストフ事件(06~07)で樺太・択捉が攻撃を受け択捉守備兵が敗走→間宮林蔵樺太調査(08~09)→ゴローウニン事件(11~13)で高田屋嘉兵衛の尽力で関係改善。
      • イギリス…ナポレオンの大陸制覇により蘭は仏の属領となる。英は仏と対立していたため蘭のアジア植民地を奪い東洋貿易の独占を図る。その一環としてフェートン号事件が発生し、長崎が略奪を受けた。幕府に大きな衝撃を与える。
    • ④幕府の対応…英国船の襲撃・略奪が続いたため、文化の薪水給与令(1804)を転換し、異国船打ち払い令(1825)を出す強硬策へ変更。

12代 徳川家慶の時代(在位1837~53) 家斉の大御所政治天保の改革阿部正弘政権(前半)

  • 時期区分
    • ①大御所時代:1837~41。家慶に将軍職が譲られたが実権は大御所となった家斉が掌握。
    • 天保の改革期:1841~43。水野忠邦による復古主義な改革。2年余りで挫折。
    • ③家慶時代の阿部正弘政権:1843~53。阿部は老中(43)次いで老中首座(45)。家慶は53年ペリー来航後に死亡。

天保の改革(1841~43)

  • ①改革の方針…復古的理想主義。幕府の権威回復を通じて支配体制の再強化、列強に対する国防の充実を図る。
  • ②風俗粛清…倹約令・奢侈禁止令・出版統制(人情本作者[為永春水]・合巻作者[柳亭種彦])
  • ③経済財政
    • 物価引下げ令、貨幣改悪による出目の収納、特権的商人から御用金を徴収。
    • 株仲間解散令
      • ►内容:物価騰貴は江戸の十組問屋などの株仲間が商品流通を独占し、物価の不正操作を行っているのが原因として、全ての株仲間の解散を命じる。
      • ►結果:物価騰貴の原因は品位の劣る大量の貨幣改鋳と商品流通構造の変化にあったので効果なし。
  • 【補】商品流通構造の変化について
    • →従来:全国の生産地から大坂市場に集荷、大坂の二十四組問屋から江戸十組問屋に輸送。
    • →変化:生産地から大坂に届く前に下関や瀬戸内海沿岸のほかの場所で売買。廻船業者が地方商人と結び、江戸の仲間外商人や江戸以外へ直接輸送。(cf.内海船)
  • ④農村復興
    • 人返しの法天保の飢饉後、ますます荒廃した農村を復興するため、離村して江戸の住民となることを禁じ、江戸居住者においても妻子をもって一家を支えている者以外は全て帰農させた。
    • 農村の副業禁止…農村への商品経済の流入が本百姓体制の解体を招いたとしてその原因となる副業を禁止。
    • 印旛沼干拓の再興…江戸湾が外国に封鎖された時の流通路を確保する目的もあり、再開発に着手し70%の完成をみたが、忠邦が失脚し中断した。
  • ⑤海防政策
    • 軍備強化:長崎の高島秋帆を採用して洋式縦隊の訓練・砲術教授を行わせる。
    • 沿岸防備:川越藩に相模海岸を、今治藩(愛媛)に房総海岸の警備を命じる。
    • アヘン戦争の衝撃:清国がアヘン戦争に敗れ屈辱的な南京条約を結んだ(1842)ことに衝撃を受け、異国船打ち払い令(1825)を改め、文化の薪水給与令(1805)に復する天保の薪水給与令(1842)を出す。
  • ⑥幕府権力の低下 ☆転封を命じながら実行できず、幕府権力の低下を露呈することになった!!
    • 三方領知替え(1840)…川越藩松平家の願い出により命ぜられるが庄内藩領民の激しい転封阻止運動と外様大名の反対で撤回。混乱をさけるため将軍家慶が水野忠邦の反対を押し切って中止した。
    • 上知令(1843)…江戸・大坂周辺を直轄化。幕府の支配体制及び財政の強化を図るが、転封の対象となった旗本や大名の猛反対にあい、家慶が撤回し、水野忠邦が失脚する要因となった。
  • ⑦改革の結果
    • 水野忠邦の政策が社会情勢に逆行していたことに加え、幕府機構は巨大化、老朽化しており、体制そのものの変革以外に社会矛盾が解決されないところまできていた。

家慶時代の阿部正弘政権(1843~53) ☆43年老中、45年老中首座

  • ①1844 オランダ国王ウィレム2世からの開国勧告書を受理 →45年開国を拒否。
  • ②1846 米使ビッドルが浦賀に来航して通商を要求 → 幕府はこれを拒否
    • ※1848年カリフォルニアで金鉱発見。太平洋航路開拓のため日本の開国を一層望む。
  • ③1852 別段風説書(蘭領東インドバダヴィア植民地政庁で作成)で蘭が米使ペリーの来航を予告
  • ④1853 米使ペリー来航。大統領フィルモアの国書を持参して開国を要求。幕府は国書を受け取り、翌年返書を渡すことを約して退去させる。→ ペリー来航後、12代家慶死去。

ペリー来航後の徳川将軍まとめ 13代家定・14代家茂・15代慶喜

(1)13代 徳川家定(在位1853~58)

(2)14代 徳川家茂(在位1858~1866)

(3)15代 徳川慶喜(在位1866~67)

  • ①慶応の改革
    • 家茂の死を受けて将軍となった慶喜は仏公使ロッシュの建策を受けて改革を促進。内閣制度(五局体制)の導入、新制陸軍の整備、横須賀製鉄所の建設などを行う。
  • 大政奉還
    • 公議政体論を唱えて雄藩連合を目指す土佐藩の建白を受け入れ慶喜が実行。武力討幕の口実はなくなり、さらに慶喜に引き続き政務が委任され将軍職も従来通りとなる。
  • ③王政復古のクーデタ
    • 薩長が公議政体論を抑えて政局の主導権を握るためクーデタを起こす。新政府を作り、慶喜の将軍職辞任、幕府や摂政、関白の廃止などが決定した。
  • 鳥羽伏見の戦い
    • 王政復古後、慶喜大坂城に退去。政治戦略により慶喜の新政府への参画がほぼ決定する。薩摩はそれを阻止しようと幕府を挑発。慶喜は家臣を抑えきれず京都へ進撃させた結果、敗北。
  • ⑤謹慎
    • 慶喜は家臣を見捨てて大坂城から船で江戸へ脱出。朝廷への帰順を主張して謹慎した。