室町時代初期は南北朝の動乱、中期は室町幕府が動揺していき、戦国時代以後は細川氏→三好長慶→松永久秀が京都の実権を握る。
【目次】
- ①天皇親政…後醍醐、北条氏が滅亡すると即座に京都に帰還。持明院統の光厳天皇を廃し、摂政・関白・幕府・院政を認めず、直接統治を開始。
- ②政治機構
- i)中央
- 記録所(天皇親裁の最高機関)
- 雑訴決断所(所領関係訴訟処理)
- 恩賞方(倒幕論功賞の審議・処理)
- 武者所(京都警備)
- ii)地方
- ③崩壊要因
- 天皇権力の性急な強化に無理が生じたこと。
- 所領安堵には天皇の綸旨が必要であるとの命令を出したが処理しきれず天皇の絶対性を標榜する親政の政務はたちまち停滞した。
- 新政府に参加した人々の立場がまちまちで、協調して政務にあたれなかったこと。
- 幕府の存在を否定したこと。
- ②南北朝分離
- 1336年12月、後醍醐は吉野に逃れ、皇位の正統性を主張
- 吉野(南朝)と京都(北朝)に皇統が分立し、異なる年号を用いて内乱が展開されることとなった。
- ※1339年後醍醐死亡→南朝皇位は教義親王(ノリヨシシンノウ)が継ぎ後村上天皇と称す。
- ③観応の擾乱と三つ巴の戦い
- 二頭政治…幕府では権限が分割され「軍事の長」である尊氏と「政事の長」直義が対立した。
- 高師直(尊氏の執事)VS直義
- 新興武士層が支持する尊氏の執事:高師直と伝統的保守的武士層が支持する直義が抗争する。
- 1351年、尊氏は直義と和し、高師直を滅ぼす。
- 1352年、尊氏は直義を毒殺する。
- 三つ巴の戦い
- 直義が死んだ後も、【尊氏&嫡子義詮】・【直義の養子で尊氏の庶子直冬】・【南朝勢力】の3派が離合集散を繰り返した。
- ④南北朝の動乱が長期化した理由
- 武士社会の変貌
- 分割相続から単独相続へという動きが定着し本家と分家の繋がりを前提とする惣領制が崩壊
- 武士は血縁ではなく地縁を重んじて結びつくようになり、各地に新しい武士集団が発生。
- これらの武士集団は各地方・各地域の主導権をかけて互いに争い、一方が南朝方につけば他方は北朝方、一方が尊氏方につけば他方は直義方に属して戦った。
- 武士の支配に対抗する新しい村の共同体(惣村)の形成
- ①足利政権の安定
- 畿内→義満の頃には南朝側の衰退は決定的
- 九州→今川良俊(貞世)が懐良親王と菊池氏を破る
- ②南北朝の合一
- 南朝側は抵抗する術を失い、幕府との話し合いに応じざるを得なくなる。
- ③朝廷が保持していた機能を吸収
- 侍所を充実させ市中の警察権、市中の刑事・民事の裁判権などを検非違使庁から取り上げる。
- 朝廷が保持していた諸国に対して一律に課す段銭の徴収権を管轄下に置く。
- 外交権も吸収。
- ④義満の権威強化
- 将軍として太政大臣となり摂家以下の貴族を従える。
- 死後には太政法皇の称号を贈られようとする(幕府は辞退して実現せず)。
- 天皇や上皇を超える権威を誇り、明との交渉では日本国王として振る舞う。
- ⑤有力守護の抑圧
- 土岐氏の乱…伊勢・美濃・尾張の3カ国の守護を兼任していた土岐康行を討伐。
- 明徳の乱…全国66か国のうち11カ国を支配し六分の一殿と称された山名氏清を討伐。
- 応永の乱…港湾都市堺・博多を支配し朝鮮貿易で利益をあげる大内義弘を討伐。
- ⑥幕府機構の整備
- 三管領…斯波・細川・畠山3氏が交替で管領に任命される。
- 四職…山名・赤松・京極・一色4氏から侍所の長官(所司)が任命される。
- 地方機構…関東には鎌倉府(鎌倉公方-関東管領)、九州には九州探題。
- ⑦軍事・直轄地
- 将軍直属の軍事力は奉公衆と呼ばれ、全国に散在する御料所(直轄地)の管理も委任される。
4代将軍 足利義持【義満主導期1394~1408/義持の政治1408~1428(23~25は5代将軍義量)】
- ①義満生存期…1394年に将軍に就任するも父義満は1408年に死ぬまで実権を掌握。
- ③5代義量(ヨシカズ)…義持は1423年将軍職を譲って出家。しかし早世したので再び政務をとった。
6代将軍 足利義教【在位1429~1441】万人恐怖
- ①御神籤将軍…1428年、義持が後継を決めないまま死去したので御神籤で将軍職に選ばれる。
- cf.正長の土一揆(徳政一揆)
- 1428年、京都で徳政実施を求めた武士・民衆が武装蜂起し、畿内近国に内乱状況が波及した事件。
- この年は将軍が義持から義教へ、天皇が称光天皇から御花園天皇に代わった年で、疫病・飢饉が起こり、代替わりなど時代の変わり目をきっかけになされる徳政の始まりを当時の人々に予感させていた。
- ②永享の乱(1438~39) →最終的に鎌倉公方が滅亡
- 足利持氏は室町幕府に対して反抗的態度を取り続けていた。上杉憲実がそれを諫めると持氏は挙兵。将軍義教は軍を派遣して討伐。後、憲実に持氏を攻めさせ自害させた。
- ③結城合戦(1440~41)
- 永享の乱で滅んだ持氏の遺児たちが1440年3月に挙兵すると結城氏朝はこれを支援。幕府は上杉憲実に討伐させた。
- ④嘉吉の変(乱)(1441)…赤松満祐のクーデターにより義教が殺害される。
- 【補】赤松満祐(1373~1441.9)とは?・・・播磨・備前・美作3国の守護。
- 4代義持との対立…1428年、義持から播磨国を取り上げられる(のち回復)。
- 播磨の土一揆/国一揆を鎮圧。
- 1428年徳政を求める正長の土一揆は畿内近国を巻き込み播磨国にも波及(12月には収まる)
- 1429年1月、農民と国人が結合し、守護赤松氏の家臣を国外へ追放すべく戦う。
- 同年2月、守護赤松氏の軍勢は国内各地に転戦して一揆軍と戦い鎮圧。
- 6代将軍義教との対立…義教は赤松家諸氏の貞村を寵愛し1440年に満祐の弟義雅の所領を没収し貞村に与えて赤松家宗家を圧迫→満祐は結城合戦の祝宴と称して自邸に義教を招いて暗殺(嘉吉の変/乱)。
- その後…満祐は本領の播磨に逃れるが山名持豊(宗全)に攻められ自殺。山名氏はこの功績みより、明徳の乱で一時衰えていた勢力を盛り返した。
- ⑤嘉吉の徳政一揆(1441)…近江国で守護の六角氏が徳政令を出したのを契機に京都周辺の土民が蜂起した。将軍の代替わりした年であることから同じく代替わりの年に起こった正長の土一揆(1428)を先例に挙げて一揆を正当化した。
8代将軍 足利義政(在位1449.2~73.12)と応仁の乱 ※1490年死去
- ①当時の情勢…義政は7代将軍義勝が早世したため後継となる。嘉吉の乱後、将軍の権威は失墜、守護家に起こった相続争いは家臣団の分裂・抗争を軸に激化し、守護勢力の均衡関係が崩れ、室町幕府は動揺した。
- ②享徳の乱
- 持氏の子:成氏の時、鎌倉府再興。成氏は上杉憲忠を殺害。幕府は今川範忠に命じて鎌倉府を攻略。成氏は古河に逃れるが、幕府が立てた政知も鎌倉に入れず堀越に拠り鎌倉府分裂。
- ③応仁の乱
- i)二大勢力の形成
- 三管領のうち畠山・斯波両氏が家督相続争いで2派に分裂。ひとり勢力を維持した[17. 細川勝元 ]と嘉吉の乱の功績で強大化した山名持豊(宗全)が幕府の覇権を争う。対立する諸勢力は両者のもとに結集。
- ii)将軍家の内紛…義政には子がなく義視が継嗣となるが、義尚が誕生して継嗣争いが起こる。
- iii)乱の展開
- 1467年1月 畠山氏の家督争いが起こり5月に全面戦争へ。当初は細川方(東軍)が将軍邸を占拠。義政・義尚・義視の身柄を確保して戦局を優位に進める。
- 1467年8月 大内政弘が周防・長門・豊前・筑前4カ国の大群を率いて山名方(西軍)に参加。
- 1468年11月 東軍に担がれていた義視が将軍邸を抜け出し西軍に走る。西軍は義視を将軍に見たて幕府を整備し、東西二つの幕府が誕生する。→ 戦況は膠着状態へ。
- 1473年 山名持豊、細川勝元が相次いで死去。覇権争いの色彩は薄まる。
- 1477年 大内政弘が帰降し、西幕府は崩壊。諸大名は帰国し、京都の戦乱は終結した。
- 山城国一揆(1485)…山城国では乱後も畠山氏の争いが継続したが国人達は畠山氏を退去させた。
細川政元 9代義尚の死→義稙VS義澄→10代義稙→クーデタで11代義澄
- 9代義尚死後の将軍継嗣問題
- 堀越公方足利政知の子義澄か、足利義視の子義稙かで跡継ぎ争いが起こる。細川政元(勝元の子)は義澄を押すが、義稙が10代将軍として即位する。
- 明応の政変…1493年、10代将軍義稙が河内へ出陣中、細川政元がクーデタを起こし11代将軍に義澄を擁立した。
- 1507年、細川政元は暗殺され細川家は内紛となる。
細川高国 10代義稙の逆襲と11代義澄の逃亡→義稙追放→12代義晴
- 1508年、細川家の内紛を知った元10代将軍義稙が大内義興に奉じられて京都に迫る。
- →11代将軍義澄は京都を放棄して逃亡、再び義稙が将軍となる。
- 細川家では高国が大内義興と結び義稙を通して連立政権をとる。
- 1518年、大内義興が帰国したため、高国による単独政権となる。
- 1521年、細川高国は対立した義稙を追放。義澄の子義晴を12代将軍に擁立。
松永久秀 13代義輝暗殺→14代義栄→信長による15代義昭の擁立