参考になった箇所のメモ
先行研究の分析
満洲国の博物館に対する概括的な議論
- 君塚仁彦「植民地博物館史研究を問う――「満洲国」に関する研究動向を中心に」王智新ほか編『批判 植民地教育史認識』社会評論社、2000年
- 「満洲国」の博物館を植民地博物館とし、その「文化侵略性」を批判する研究
- 植民地文化学会・東北淪陷十四年史総編室共編『<日中共同研究>「満洲国」とは何だったのか』小学館、2008年
- 社会教育の機能を利用して中国東北地方の人文自然科学資料を展示した日本による植民地支配イデオロギー形成の場とし、人々の思想と精神に与えた否定的影響の大きさを指摘する研究論文集
- 上記の研究群に対する大出氏の批判
- 固有の歴史的・地域的特徴を個別に博物館の実態を解明する作業が不可欠。議論を国家レベル、政府レベルにとどめず、実際に活動を担った博物館運営者・展示企画者にまで遡及させることによって、旧植民地博物館の内実が明らかになる。
「満洲国」研究の中における博物館研究
国立中央博物館新京本館に関する研究
- 国立中央博物館-新京本館概要
- 原山煌研究
- 犬塚康博研究
- 国立中央博物館の副館長で博物館運営・展示企画を担った藤山一雄の人物像および事跡を考察し、藤山独自の博物館論に基づいて新京本館が展開が研究・社会教育を重視した諸活動を、戦後日本の博物館の前史的な実践と位置付ける。
国立中央博物館奉天分館に関する研究
- 国立中央博物館-奉天分館の先行研究
- 原山論文(「「満洲国」国立中央博物館の諸活動-2-」『IBU四天王寺国際仏教大学文学部紀要』 (14), p134-146, 1981)で個別に検討すべき課題とされたが、現在(※レジュメ作成者註-2014年)まで詳細は明らかにされず。国立中央博物館の前身である国立博物館時代は変遷を追う作業すらされていない。
年表
- 1932年3月1日、「満洲国政府」、「建国宣言」を行う。
- 1932年3月9日、溥儀が執政となる。「政府組織法」、諸官制などが公布される。政府首脳人事も決定される。「政府組織法」により、国務院が「満洲国」の行政府となり、「国務院官制」により国務院民政部に文教司が設置される。
- 1932年6月18日 国立奉天図書館が設立され、国立文化院構想は実現せず。
- 1932年7月5日 文教司が民政部から独立し文教部となる。博物館は文教部礼教司社会教育科成人教育股の所管となる。以後、改組により度々所属が変わるが、博物館は社会教育の管轄下に置かれる。
- 1933年9月 新京で東方文化の振興を目的とする「満日文化委員会」が発足し、10月には「日満文化協会」となる。
- 1946年 接収され中国共産党東北局として利用される
- 1949年 東北博物館となる
- 1959年 遼寧省博物館となる
- 2004年 新築・移転され現在に至る。「満洲国」期に収集された文物を保存・継承している。
博物館と政治性
- 外務省の「対満文化事業」の政治性(p.51)
- 「阿部洋『「対支文化事業」の研究』720頁では、この「対満文化事業」について、「満洲国」建国の正当性を、人文科学の諸分野から側面的に証明していこうとする、極めて政治的色彩の強いものと指摘する」
- 1937年以降の展示内容の変化からみる「満洲国史」の創造(p.45-46)
- 「『満洲史学』1-2、1937年9月、71頁の「国立博物館一部陳列替」には、「国立博物館は6月1日から陳列品の一部展示替を行つたが今回は従来乏しかつた満洲色を出すことに努め、巴林左旗ワーリマンハ及遼陽県石岨子の遼代壁画関係資料(第18室)、輯安附近高句麗関係資料(第19室)、及満洲各地出土の銅器類(第16室)、陶器、塼類(第22室)等昨年度収穫の考古資料が陳列されたのが眼に立つが、其他、陶器、書画等も陳列替を行つた。」とある」
- 「また、「国立博物館が国立中央博物館の官制施行に伴い奉天分館となった1939年1月直後に発行された『満洲史学』2-4、1939年3月、64頁の「彙報」には「国立中央博物館奉天分館(旧称国立博物館)に於ては此程註文中の陳列ケースの取付を終つたので、陳列室一部の模様替えと共に陳列替を行つた。陳列替は満洲歴史資料を主として行ひ、高句麗(輯安)、渤海(東京城)、遼(ワーリマンハ)、金(白城)等の発掘品を第21室(従前墓誌銘陳列)に陳列した。就中、東京城の資料は昭和8、9年東亜考古学会に依つて発掘されたもので、初めて公開されるものである」とある」
- 「この2つの記事は、国立博物館の展示が1937年の展示替え以降、東亜考古学会を中心に盛んになされていた「満洲国」内の学術発展による出土文物に偏重していったことを示している。そしてこのことを、前者の記事は「満洲色を出す」と表現している。」
- 「ここで、国立博物館の展示が創出しようとした「満洲色」とは何だったのかを検討してみたい。〔……〕考古学調査で得られた成果を展示するという手法をもって「満洲国」建国に至った中国東北の歴史像を来館者に「見せる」ことが、展示において「満洲色を出す」ということだったのである。国立博物館では〔……〕「清朝色」に代わって、考古学・東洋史学者による考古学調査の成果に基づいて「満洲色」を強調しようとしていた。この動きは、中国内地の歴史とは切り離した「満洲国史」を構築しようとする、「満洲国」の文教政策に同調するものであった。〔……〕特に、「満洲国」の領土内で興亡した高句麗・渤海・遼・金各王朝の文物が徐々に国立中央博物館の主要な展示を構成するようになった結果、かつての「清朝色」や中華文明的要素は薄められていく。それは、単に考古学資料の増加がもたらした相対的な変化ではなく〔……〕「満洲国史像」の創出を意識したものであった。」
博物館による「民族協和」と「満洲国史」創出
- 社会教育と「民族協和」(129-130頁)
- 「『満洲帝国概覧』第14章教育・社会文化・宗教、第1節教育(1)教育概説、251頁は〔……〕当時の「満洲国」において教育が、建国理念「民族協和」の体認を目的としていたことがよく表れている。同書252頁には続けて、「社会教育及び其他文化事業としては民衆教育館、識字処、講演所、青年訓練所を初め博物館、図書館等を設け、映画、ラジオ等による教育、修養団体の結成の助成等我国より民衆教化を徹底せしむ可く努めている。」とあるように、博物館は、社会教育・民衆教化の施設であることを明示している。「満洲国」において、博物館事業が、「民族協和」を視覚的に訴える社会教育手段として認識され、政府の管理下で宣撫工作の一翼を担うことが期待されていたと推察される。」
- 国立中央博物館の鉱物部と地質部の展示における国策への順応(134-135頁)
- 「鉱物部と地質部の展示に重点を置いたのは、藤山曰く(※レジュメ作成者註-藤山一雄副館長)「多少国策に順応する意図」があったという。例えば、鉱物部の説明に「斯くの如き鉱石を産出する鉱山が満洲国内にある事は、観る人をして十分の心強さを感ぜしむるであらう」という一文が付されていたり、地質部の説明に、ワシントンの国立博物館から寄贈された鉱物標本および文献について、「日満両国と米国との国際関係は近年悪化の一途を辿つて居る時に、独り科学には国境なく……日・満・米三ヶ国の科学親善を如実に示すことゝした」とある。このように「満洲国」の資源開発状況を展示で強調した点には、国策との連動が見られる。また、アメリカの国立機関と交流することにより、「満洲国」の認知をはかり、それを展示によって国内的にも宣伝する姿、すなわち国際的に孤立しないように努めていた様相を読み取ることができよう」
- 地理部(136頁、148頁、230頁)
- 「満洲国国宝展覧会」(142-144頁)
- 「1942年9月10日-25日、「満洲国」の建国10周年を記念し、日本の東京帝室博物館表慶館において、満洲建国10周年慶祝会と東京帝室博物館の共催(「日満(満日)文化協会」が斡旋)による「満洲国国宝博覧会」が開催された。この展覧会は、16日間で50000人以上の来館があった。これは、奉天分館の1942年の年間来館者58494人に匹敵する数であり、その盛況ぶりをうかがえよう。」
- 「日本での受け止め方として、例えば『旬刊 美術新報』には「〔……〕満洲国の古代美術品がわが国で展覧されたことは最初であり、連日真摯な観覧者が同館に詰めかけた」(『旬刊 美術新報』38、日本美術新報社、1942年、17頁)との記事がある。ここでは、「満洲国」を何の躊躇もなく「外国」と記述し、日本の東京帝室博物館初となる外国展であったことが強調されている。」
- 「日本で開催されたこの展覧会に奉天分館の収蔵品が出品されたことについて〔……〕そこには「日満友好」に歴史的実態を与えようとする極めて強い政治性を読み取ることができるのである〔……〕遼代の陶器が「満洲国」の「国宝」として扱われていた点も注目される。すなわちこの展覧会は、貴重な歴史的文物に対して保存に努めるとともに、領内の学術発展を推進する文化国家「満洲国」を顕示する意図があったのである。」