※作業中
復刻版は複数の雑誌を編纂したものであり、発行当時の各巻のページ表記ではなく、復刻版通してのページ数となっている。
『満洲グラフ』復刻版第1巻
「国都建設」(8-9頁)/(『満洲グラフ』第1巻第1号(1号) 昭和8(1933)年9月15日発行)
「耀く帝都 新京の御動静」(『満洲グラフ』第2巻第4号(6号)昭和9(1934)年7月15日発行)
『満洲グラフ』復刻版第3巻
特集号「建設途上の国都新京」(『満洲グラフ』第4巻第3号(20号) 昭和11(1936)年3月1日発行)
『満洲グラフ』の第4巻第3号は1冊丸々新京特集である。
「第一期国都建設完成近し」(44-45頁)
- 内容
- 1936年を以て完了する第一期五ヶ年計画の紹介。
- 「〔……〕国都建設局によつて第一期五ヶ年計画が着手されたのであるが本年は早くも其の第5年目にあたり、20平方粁にわたる予定事業区域の建設は、すでに殆ど完成に近く、新京は近代国家の国都としての偉容を具える事になつた。」
- 「〔……〕本年を以て完了する第一期五ヶ年計画の事業区域20平方粁の地は、将来の大国都実現の核心をなすもので、大同・順天・安民の三つの広場を中心に幅60米乃至45米の大道路が放射状に走り、夫れを根幹として東洋的な碁盤目の道路が形成されてゐるのである。」
- 「〔……〕合理的に区画され近代都市として充分な機能を発揮し得るやう経済的、文化的、保安的、保健的及び社会的諸施設が完備されている。」
- 1936年を以て完了する第一期五ヶ年計画の紹介。
- キャプション
- 「第一期計画完成近き新京」、「市民30万人に給水し得る浄月潭貯水池」、「国都建設着手当時の新京」、「満洲国国都建設計画略図」
「新装の国都」(46-47頁)
- 内容
- 建築物の建造と人口の急増
- 「第一期五ヶ年計画着手後三年間に、新京には6000万円近い建築物が建つた。これほど急速度な発展を見せてゐる都市は、今日、世界の何処にも見出せないだらう。五年前まで、僅かに14万に過ぎなかつた新京の人口は、今や25万に激増し、本年、第一期五ヶ年計画完成後は、優に30万を容れ得る大都市が実現するのである。」
- 建築物の建造と人口の急増
「日満の新庁舎」(48-49頁)
- 内容
- キャプション
「公園と運動場」(50-51頁)
- 内容
- 公園、運動場、街路に関する紹介
- 「〔……〕満洲国人は公園を愛し、公園をよく利用する。国都建設計画にも、この事は強く反映され、公園と苑道に立ち並ぶ緑樹のために、将来、国都は一つの大公園の観を呈するだらうとまで言われている。〔……〕公園内又は公園附近に、将来博物館・図書館・公会堂・動植物園等が設けられる事になつて居り、競馬場、ゴルフリンク等の施設は既に完成してゐる。大公園は白山、大同、牡丹、順天、黄龍の五つであつて、黄龍を除いて他の四つ既に施設中であつて、大同公園は大半出来上がつてゐる。」
- 「〔……〕南嶺に築造される総合運動場は約150万平方米(45万坪)にわたる広大なもので、野球、庭球、足球、陸上場等13種目の運動場が設置される筈で、公園内には自由に馬を駆り得る騎乗路も設けられることになつてゐる。」
- 「街路は交通、衛生、美観の点から、都市計画上特に重要視されてゐるが、新京の街路は全市面積の21%を占める広大なものである。〔……〕なほ新京市内の交通は騒音を防止するため総てバスを以つてする様指定されてゐる。〔……〕特に注目すべき事は、煩わしい電柱や架空線が絶対に地上に現れてゐない事である。これら路上施設は凡て埋設其他の方法が講ぜられている」
- 公園、運動場、街路に関する紹介
- キャプション
- 「大同公園」、「白山公園」、「牡丹公園」、「ゴルフ場」、「園内の小径」、「競馬場」、「街路断面図」
「更に進められる建設」(52-53頁)
- 内容
- 第一期計画が終わっても、建設は二期、三期と続き、邁進する。
- キャプション
- 「皇居の敷地」、「忙しい材料運搬」、「建設進む興仁大路附近」、「木挽さんも一生懸命」、「鋪石道の傍で(苦力の食事)」
「郊外風色」(54-55頁)
- 内容
- 国都建設区域は長方多角形の厖大な地域であり、旧北鉄の附属地である寛城子や満州事変の南嶺も事業区域に内包されている。
- キャプション
- 「主要都市に連る国道」、「思ひ出の南嶺の戦跡」、「商埠地所見」、「露人の子供たち(寛城子)」
「交通経済の新京」(56-57頁)
- 内容
- キャプション
- 「新京駅ホーム」、「集散される満洲大豆」、「新京駅駅頭」、「新京貨物駅前の荷馬群」、「農産物の積卸」
「既成市街」(58-59頁)
- 内容
- 新京旧市街の紹介
- 「旧長春城内、商埠地及び満鉄附属地、寛城子の北鉄附属地から成り」、「単に満鉄線の終点又は北鉄との接続点として人口14万のささやかな町であつた。」
- 「この5ヶ年間に、新京の人口は約25万に激増し、現在日本人も約4万人ほど在住してゐるが、在住人口の大部分は、まだこの既成市街に収容され、市街は甚だ活発である。」
- 「国人は主に城内、商埠地に多く、日本人は満鉄附属地に、露人は寛城子方面に多く住んでゐる」
- 新京旧市街の紹介
- キャプション
- 「城内大馬路」、「商埠地所見」、「西公園」、「満鉄附属地の街角」、「ダイヤ街夜景」
『満洲グラフ』復刻版第7巻
村岡勇「国都」(『満洲グラフ』第7巻第11号(64号) 昭和14(1939)年11月1日)
- 筆者
- 筆者はおそらく英文学者で後の東北大学の教授。(村岡勇 - Wikipedia)
- 内容
- 国務院の屋上から新京見物
- 広い空き地が8年計画の皇居と宮内府の敷地、赤い建物が総理大臣官邸、順天公園、満映の建物
- 絵画
- 大臣の部屋
- 遠藤博士設計:中銀倶楽部
- 満映のステユデイオ
- 日本人の民族差別
- 「〔……〕上品そうな満州婦人が数人はいってきて私達のテーブルに着き露西亜人のウエトレスに何か命じた。「満州婦人」でもこんな所で洋食を食べるような贅沢をするのか知ら」 会社員であるTさんの奥さんが問ふともなしに言ふ。「勿論ですよ、その位のこと」とSさんは暫く肉を切るのを止めてそちらに顔を向ける。「あの人達はおそらくより余程上等な生活をしているでせう」Tさんの奥さんは黙って俯いた。Sさんは今度は自分の奥さんの方を省みて、「先日もね、そんなことでこれを叱つたのですよ」 奥さんは何事かと主人の方を注視する。「同僚の満人が二人宅に遊びに来たので飯を御馳走してやつたのですが、その帰った後でこれを言ふことが不埒極まるのです。満人の用いた食器は穢いから区別して置かなければつてね」 奥さんは顔をあからめて下を見たり上を見たりする。「僕がおこつたのは言ふまでもありません。そんな考へを無くさなければどうして日満親善が実現されますか」 Sさんの語気は次第に熱を帯びてきた」
- 中銀倶楽部から大同広場への道中
- 首都警察庁の青い塔、中銀の社宅、バッカアドの新車
- 国務院の屋上から新京見物
『満洲グラフ』復刻版第8巻
守安新二郎「季節の新京」(71ページ)/(『満洲グラフ』第8巻第3号(68号) 昭和15(1940)年3月1日発行)
- 筆者について
- 内容
- 随筆。新京を訪れた時の雑感が記されている。
- 本文抜粋
- 人の躍動
- 建設への興奮
- 「〔……〕この人々の健やかな足に、建設への興奮の響きを微かに感じたものである」
- 新京市街雑感
- 「新京の市街は清楚で、健康的である。金魚の如き、毒々しさはないが、めだかの如き素朴さが鼻尖きに感じられる。それでゐて、市街を散歩すると、われわれが東京の密集した家屋の中に通じる道を歩いてゐる感じとは凡そ異なつた、ゆとりを感じることである。道が雄大である。」
- 協和会服
- 「〔……〕市民に感じたことは、質素な協和会服が、この街で恐ろしく羽振りを利かしてゐることである。」
- 日本的建設
- 「私が、新京を発つとき、「まるで満洲と云ふ感じよりも、日本の延長と云つた感じだ。」と云ふと、某要人は、「当たり前ぢやないか、日本的に建設したんぢやないか!」と云つた。私は自分のうかつさに呆気れた。」
- 新京の女性観
- 「新京の女性は、非常に印象に深い。それは街の性格そのものの如く、健康的であり、清楚であるからだ。派手さはなくとも聡明な理知を持つてゐる。ハルビンの女性が、妙に派手でありながら旅行者の脳裡には、暗い影を秘めた女と云ふ印象のそれと比較するとき、私達は、新京の女性の質実な生活に、淡い憧れを抱くのは、なんとしても旅の快味であらう。」
大沼珠子「新京に住みて」(164頁)/(『満洲グラフ』第8巻第6号(71号) 昭和15(1940)年6月1日発行)
- 筆者について
- 読者寄稿。渡満し新京の官庁で働いている女性。
- 内容
- 内地での劣った新京イメージと現実の威厳のある国都新京とのギャップ
- 「さて渡満した当時の新京は実に私には意外と言ふより他はなかつた。何故なら私の想像し、又、郷土の人々からの聞かされた新京の観念を根底から覆へされたからだ。かつて満鉄線の終点であつた寒駅の長春もこの時には国都新京としての十分の威厳が備はつてゐたのである。」
- コロニアルなまなざし
- 「駅前の町車夫を見た時は聊か悲観もし一方気味悪くもありその上ニーヤの体臭が、街の臭気か訳の分からない臭いで窒息しそうであつた。〔……〕其のうへ物凄い容貌や薄汚い厚い異様な衣に圧迫されて彼等の言ふ通り示す通りにしか出来なかつた」
- 満語を知らなかったが故の苦労話と青年学校における満語の習得
- 新京名所紹介
- 「始めは何処へも行く事を嫌つて居たが地理が明るくなるに従つて、街や郊外に進出して見たくなつたのである。と云ふよりも、新京の部分、部分が私の心を捉へ、誘惑し始めたと言つても過言ではないだらう。」
- 「先づ中央大街の康徳会館、海上ビル、中央銀行、東拓ビルをはじめ、国務院、財政部、経済部、蒙政部、市公署等々の建築物の壮観に打たれた。中にも関東軍司令部の建物は巍然として、我が大阪城、名古屋城にも劣らぬ位の堂々たる威容である。」
- 「それに嬉しいのは児玉公園、大同公園其の他四ツ五ツある公園地で、一番大きい児玉公園など、面積にかけては内地でも珍しい位だと思ふ。夏はこれらの公園の中で色々の催し物があり、そんな時には民族協和の微笑ましい情景も目のあたりに見られるのである。冬は冬で一部分がスケート場に化し老いも若きも、はてはヨチヨチ歩きの幼児まで元気に滑走しているのを見かける。」
- 「康徳会館の屋上から見通す中央大街と大道大街の壮観はまるでロンドンやパリーもかくやと思はれる許り壮麗である。また、この大道路を四條に走る街路樹は殊の外美しい、満洲事変の華々しい戦場として知られる南嶺は新京の外れに広漠として続いてゐる。ここは未だ未開の地、いはば新京の宝の持腐れとも云ふべき地だ。此処にも将来この広い郊外まで都市計画が拡大されやう。それが実現の日を思へば今にも興奮で胸が詰まりそだ。」
- 内地での劣った新京イメージと現実の威厳のある国都新京とのギャップ
『満洲グラフ』復刻版第9巻
筒井俊一「新京と寒さ」(214頁)/(『満洲グラフ』第9巻第3号(80号) 昭和15年(1941)年3月1日発行)
- 筆者について
- 満洲日日新聞のジャーナリスト
- 内容
- 初めての新京の冬に向けて
- 「新京の冬は初めてなので、実は秋口から毛皮外套を買つて貯へるやら、大連の妻にも毛皮の沓下を買つてをけと命ずるやら随分用意は周到だつた。〔……〕ヤマトホテルの玄関に寒暖計がある。12月中旬だつたが、零下26度である。どうも鼻の穴がムヅムヅすると思つたら、鼻毛が凍つてバリバリになる為らしい。〔……〕新京も冬の間は20度30度といふ日が多いと聞くけれど、未だ、顔のありやなしやを確めてみたくなるほどの寒さといふものはやつてこない。〔……〕新京ぐらゐの寒さなどはさう大仰に考へる必要はなささうである。」
- 満洲の暖房事情について
- 「そこへ行くと満洲はいい。スチーム、ペチカ、ストーヴ、何処の家だつて、一旦家へ入ればもう占めたものだ。廊下であらうが、便所であらうが、ぽかぽか暖かい。外へ出るのだつてそれだけの身支度をしてゐれば案外気楽である。」
- 支那蕎麦屋
- 「豊楽路の僕のアパートの下に支那そばやが出る。支那そばやは東京にも多いが、新京は街のいたるところに暖簾を張つてゐて、冬の夜の景物の一つである。〔……〕さて、その支那そばやだが、雪が降り出す頃から、寒雀を焼いて売り出した。1串18銭、2羽くつついてゐるから、焼芋より余程安い。東京の頃はどうもあの嘴を切つた髑髏みたいな雀の頭といふ奴が苦が手であつたが、新京へ来てからは鈍感になつたのか平気である。あの脳味噌が、東京の屋台などで食うと、冷いやりと舌端にふれて陰惨で無気味なのだが、ここの寒雀の頭蓋骨は、どういうわけか骨もやわらかだし、びつととび出す脳味噌も案外温かくて、舌に乗せると忽ちとけてしまうふ。本当はあの陰惨な冷感が却々乙なんだらうが、僕などには新京の方がありがたい。寒雀の脳味噌さへ暖かい―と、こんな風に内地の友人などには書いてやらうと考へてゐる。」
- 初めての新京の冬に向けて
『満洲グラフ』復刻版第11巻
『満洲グラフ』復刻版第12巻
藤山一雄「生ける国立中央博物館」(92-93頁)/(『満洲グラフ』第10巻第5号(94号) 昭和17(1942)年5月1日)
- 筆者について
- 満洲国国立中央博物館副館長
- 内容
- 満洲国国立博物館の始まり
- 新京と奉天
- 「その構成は自然科学及び人文科学よりなるが〔……〕新京の自然科学部展示場を取り敢えず創設し、既設奉天博物館は分館として、人文科学部の一翼となし、同年三月学芸館の陣容なると共に早急その活動を開始した。」
- 新京大経路展示場
- 地理部と先住民族展示
- 本館建設予定地と民俗展示場
- 「本館建設予定地は既に建国広場東方の一角四筆、約6万5千坪が決定せられた。〔……〕本館の特殊な企画の一つである人文科学部の一翼たる民俗展示場創設を先きにすることにし、既にその第一号館たる「北満農民の家」を南湖南畔中30万平方メーター余の広大な地域の一角に実現せしめた。これは逐次、国内に先住せるツングース族の名に総括され満州族ゴルド族、オロチヨン族や蒙古ツングース族なるダホール族及び日本族、朝鮮族、蒙古ブリヤート族、トルコ族或は漢民族などの生活生活生態旧慣、民間古俗等をその住宅に盛り地域的に順次建てならべ満洲現民族の文化程度をありのままに展開し、一は以つて日に月に失はれ行く古俗習慣の保存にあたり、二には現住民族の生活様式及び内容の研究に供し、後に来るものの参考として、その文化水準の高揚に資せんとする目的を有する。」
- 「要するに此の企は素朴にして原始的且つ健康なる自然的生活様式を都市生活者に今一度ふり向かしめ、その知性を駆りて、正しき判断のもとに人間生活の真の幸福が奈辺にあるやを発見させたいのである。〔……〕本館は更にその「生活」を展示し、民族生活を抱擁する環境を一定の地域に模造、実現し如上の生ける博物館の具顯に邁進するつもりである。」