【史料】『満洲グラフ』における新京に関する記述

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復刻版は複数の雑誌を編纂したものであり、発行当時の各巻のページ表記ではなく、復刻版通してのページ数となっている。

満洲グラフ』復刻版第1巻

「国都建設」(8-9頁)/(『満洲グラフ』第1巻第1号(1号) 昭和8(1933)年9月15日発行)

  • 内容
    • 見開き2頁。第一期国都建設五箇年計画に着手したことを紹介する記事。
    • 第二期、第三期計画官制の暁には、人口百万、面積二百方粁の大国都が実現される。
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「耀く帝都 新京の御動静」(『満洲グラフ』第2巻第4号(6号)昭和9(1934)年7月15日発行)

  • 内容
    • 6月6日の秩父の宮が新京への入京と皇帝溥儀の出迎え、翌7日の宮内府での親書及び勲章の捧呈が紹介される。以降数日新京に滞在し、13日に奉天経由での帰国の途につく。「日満両国永遠の交誼」、「両皇室の御友誼は兄弟も啻ならぬものあり」と賛美されている。
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    • 「日満国交史に輝く新京・駅頭の固き御握手」、「御親書並に勲章親授式に向はせらる・宮内府正門」、「皇帝陛下と御同乗・満洲国軍閲兵」、「満洲国兵の分列式・御親閲・新京中央通新京神社前」、「国都建設状況御視察の日の殿下 御説明申上ぐるは阮建設局長」、「建設は進む新京」

満洲グラフ』復刻版第3巻

特集号「建設途上の国都新京」(『満洲グラフ』第4巻第3号(20号) 昭和11(1936)年3月1日発行)

満洲グラフ』の第4巻第3号は1冊丸々新京特集である。

「第一期国都建設完成近し」(44-45頁)
  • 内容
    • 1936年を以て完了する第一期五ヶ年計画の紹介。
      • 「〔……〕国都建設局によつて第一期五ヶ年計画が着手されたのであるが本年は早くも其の第5年目にあたり、20平方粁にわたる予定事業区域の建設は、すでに殆ど完成に近く、新京は近代国家の国都としての偉容を具える事になつた。」
      • 「〔……〕本年を以て完了する第一期五ヶ年計画の事業区域20平方粁の地は、将来の大国都実現の核心をなすもので、大同・順天・安民の三つの広場を中心に幅60米乃至45米の大道路が放射状に走り、夫れを根幹として東洋的な碁盤目の道路が形成されてゐるのである。」
      • 「〔……〕合理的に区画され近代都市として充分な機能を発揮し得るやう経済的、文化的、保安的、保健的及び社会的諸施設が完備されている。」
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    • 「第一期計画完成近き新京」、「市民30万人に給水し得る浄月潭貯水池」、「国都建設着手当時の新京」、「満洲国国都建設計画略図」
「新装の国都」(46-47頁)
  • 内容
    • 建築物の建造と人口の急増
      • 「第一期五ヶ年計画着手後三年間に、新京には6000万円近い建築物が建つた。これほど急速度な発展を見せてゐる都市は、今日、世界の何処にも見出せないだらう。五年前まで、僅かに14万に過ぎなかつた新京の人口は、今や25万に激増し、本年、第一期五ヶ年計画完成後は、優に30万を容れ得る大都市が実現するのである。」
「日満の新庁舎」(48-49頁)
  • 内容
    • 官公庁施設の紹介
      • 「官公庁舎の敷地は、全計画事業区域の6.5%を占めてゐるが、すでに満洲中央政府の第一、第二、第三、第四庁舎等続々竣成し、現に各庁舎にて執務中である。これら新庁舎は、大同広場、安民広場等の周囲に建て並び、又は目抜の大街路に面して建てられてゐるが執れも近代的洋風建築とは言へ、満洲固有の優雅な建築様式が加味された情緒豊かなものである。特に新京全市を通じて、欧米に見る様な幾重層の摩天楼を見出す事は出来ないが、これは、保健、保安上の立場から、特殊のものを除き高さ20米に限定されている為である。」
  • キャプション
    • 「建国の人柱を祀る忠霊塔」、「関東軍司令部」、「建築中の国務院庁舎」、「第三庁舎(財政部)」、「関東局庁舎」、「第一庁舎(国都建設局・文教部)」、「満洲国衛生研究所」、「第二庁舎(司令部・外交部)」、「満洲電信電話会社社屋」、「康徳会館」
「公園と運動場」(50-51頁)
  • 内容
    • 公園、運動場、街路に関する紹介
      • 「〔……〕満洲国人は公園を愛し、公園をよく利用する。国都建設計画にも、この事は強く反映され、公園と苑道に立ち並ぶ緑樹のために、将来、国都は一つの大公園の観を呈するだらうとまで言われている。〔……〕公園内又は公園附近に、将来博物館・図書館・公会堂・動植物園等が設けられる事になつて居り、競馬場、ゴルフリンク等の施設は既に完成してゐる。大公園は白山、大同、牡丹、順天、黄龍の五つであつて、黄龍を除いて他の四つ既に施設中であつて、大同公園は大半出来上がつてゐる。」
      • 「〔……〕南嶺に築造される総合運動場は約150万平方米(45万坪)にわたる広大なもので、野球、庭球、足球、陸上場等13種目の運動場が設置される筈で、公園内には自由に馬を駆り得る騎乗路も設けられることになつてゐる。」
      • 「街路は交通、衛生、美観の点から、都市計画上特に重要視されてゐるが、新京の街路は全市面積の21%を占める広大なものである。〔……〕なほ新京市内の交通は騒音を防止するため総てバスを以つてする様指定されてゐる。〔……〕特に注目すべき事は、煩わしい電柱や架空線が絶対に地上に現れてゐない事である。これら路上施設は凡て埋設其他の方法が講ぜられている」
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    • 「大同公園」、「白山公園」、「牡丹公園」、「ゴルフ場」、「園内の小径」、「競馬場」、「街路断面図」
「更に進められる建設」(52-53頁)
  • 内容
    • 第一期計画が終わっても、建設は二期、三期と続き、邁進する。
  • キャプション
    • 「皇居の敷地」、「忙しい材料運搬」、「建設進む興仁大路附近」、「木挽さんも一生懸命」、「鋪石道の傍で(苦力の食事)」
「郊外風色」(54-55頁)
  • 内容
    • 国都建設区域は長方多角形の厖大な地域であり、旧北鉄の附属地である寛城子や満州事変の南嶺も事業区域に内包されている。
  • キャプション
    • 「主要都市に連る国道」、「思ひ出の南嶺の戦跡」、「商埠地所見」、「露人の子供たち(寛城子)」
「交通経済の新京」(56-57頁)
  • 内容
    • 政治的中心地であると同時に交通経済上の一大中心地である新京の紹介
      • 「新京は満鉄の終点に当り、且つ旧北鉄線との接続点として世界交通幹線上の要地であり〔……〕満洲国建国後、新京から、北鮮に通ずる日満連絡の最短交通幹線たる京図線が完成し、また満洲国西部国境のハロル・アルシヤンに通ずる京白・白温線が新設され、更に、その交通経済上の重要性を倍加した。」
      • 満洲農産物の一大集散地」であり「発送貨物の主なるものは大豆を筆頭とする」
      • 「新京は地理的にも満洲国の中枢部」であり「新京からは、奉天ハルビン吉林其他七方に向けて国道が通じ、馬車又は高速度バスによつて連絡されてゐる」
  • キャプション
    • 「新京駅ホーム」、「集散される満洲大豆」、「新京駅駅頭」、「新京貨物駅前の荷馬群」、「農産物の積卸」
「既成市街」(58-59頁)
  • 内容
    • 新京旧市街の紹介
      • 「旧長春城内、商埠地及び満鉄附属地、寛城子の北鉄附属地から成り」、「単に満鉄線の終点又は北鉄との接続点として人口14万のささやかな町であつた。」
      • 「この5ヶ年間に、新京の人口は約25万に激増し、現在日本人も約4万人ほど在住してゐるが、在住人口の大部分は、まだこの既成市街に収容され、市街は甚だ活発である。」
      • 「国人は主に城内、商埠地に多く、日本人は満鉄附属地に、露人は寛城子方面に多く住んでゐる」
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    • 「城内大馬路」、「商埠地所見」、「西公園」、「満鉄附属地の街角」、「ダイヤ街夜景」
「冬の新京所見」(60-61頁)
  • 内容
    • 写真のみ。解説文はなし。
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満洲グラフ』復刻版第4巻

「新京附属地も斯く躍進した」(94-95頁)/(『満洲グラフ』第5巻第4号(33号)昭和12(1937)年4月1日発行)

  • 内容
    • 新京と旧長春を比較。「旧長春は、満鉄本線最北の終点として、また日本勢力の終端地と目された土地」
    • かつて北行する場合には旧長春で北鉄に乗り換えしなければならなかった。
    • 現在は大連ハルビン間に満鉄列車が直通。北鮮の羅津、蒙古地方への鉄道も新京を中心に東西へ走る。
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    • 「新築当時の長春(新京)ヤマトホテルと中央通り」
    • 「現在の新京ヤマトホテル」

「国都建設成る けふ晴の記念式典」(286-287頁)/(『満洲グラフ』第5巻第11号(40号) 昭和12(1937)年11月1日発行)

  • 内容
    • 1937年9月16日、建設記念式典が挙行される。大同公園の式場、溥儀皇帝は陸軍通常礼装で入御し、勅語を宣諾。
    • 夜には大同広場の大篝火塔で点火の儀式。国都は祝賀に湧いた。
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    • 「神秘の笛火を焚いた白亜の塔」
    • 「協和会代表の挨拶(大同広場)」
    • 歓喜に満つる提灯行列」
    • 「大同大街を行進する旗行列」

満洲グラフ』復刻版第7巻

村岡勇「国都」(『満洲グラフ』第7巻第11号(64号) 昭和14(1939)年11月1日)

  • 筆者
  • 内容
    • 国務院の屋上から新京見物
      • 広い空き地が8年計画の皇居と宮内府の敷地、赤い建物が総理大臣官邸、順天公園、満映の建物
    • 絵画
      • 玄関正面を飾る岡田画伯の絵画:蒙古、朝鮮、日本、満洲支那の5人の少女が互いに手をとりあって野原に嬉戯しているところを描いたもの
      • 講堂の荒井画伯絵画→日満議定書調印式
    • 大臣の部屋
      • メフィストに似た有翼の悪魔が苦悶の色を面に浮かべて仰向けに仆れ、傍には壊れた車の輪が一つころがつてゐる。五人の英雄が互ひに腕を組んで悪魔を踏まへて立つてゐる。近く寄つて見るとそれは近衛前首相と張国務大臣ムッソリーニフランコ将軍とそれからヒットラーの5人であった。」
    • 遠藤博士設計:中銀倶楽部
    • 満映のステユデイオ
    • 日本人の民族差別
      • 「〔……〕上品そうな満州婦人が数人はいってきて私達のテーブルに着き露西亜人のウエトレスに何か命じた。「満州婦人」でもこんな所で洋食を食べるような贅沢をするのか知ら」 会社員であるTさんの奥さんが問ふともなしに言ふ。「勿論ですよ、その位のこと」とSさんは暫く肉を切るのを止めてそちらに顔を向ける。「あの人達はおそらくより余程上等な生活をしているでせう」Tさんの奥さんは黙って俯いた。Sさんは今度は自分の奥さんの方を省みて、「先日もね、そんなことでこれを叱つたのですよ」 奥さんは何事かと主人の方を注視する。「同僚の満人が二人宅に遊びに来たので飯を御馳走してやつたのですが、その帰った後でこれを言ふことが不埒極まるのです。満人の用いた食器は穢いから区別して置かなければつてね」 奥さんは顔をあからめて下を見たり上を見たりする。「僕がおこつたのは言ふまでもありません。そんな考へを無くさなければどうして日満親善が実現されますか」 Sさんの語気は次第に熱を帯びてきた」
    • 中銀倶楽部から大同広場への道中
    • 首都警察庁の青い塔、中銀の社宅、バッカアドの新車

満洲グラフ』復刻版第8巻

守安新二郎「季節の新京」(71ページ)/(『満洲グラフ』第8巻第3号(68号) 昭和15(1940)年3月1日発行)

  • 筆者について
  • 内容
    • 随筆。新京を訪れた時の雑感が記されている。
  • 本文抜粋
    • 人の躍動
      • 「〔……〕長春と呼んだ満洲情緒の豊かな時代に比して、今日の新京は、当時想像も出来なかつた、人、人の躍動がある。」
    • 建設への興奮
      • 「〔……〕この人々の健やかな足に、建設への興奮の響きを微かに感じたものである」
    • 新京市街雑感
      • 「新京の市街は清楚で、健康的である。金魚の如き、毒々しさはないが、めだかの如き素朴さが鼻尖きに感じられる。それでゐて、市街を散歩すると、われわれが東京の密集した家屋の中に通じる道を歩いてゐる感じとは凡そ異なつた、ゆとりを感じることである。道が雄大である。」
    • 協和会服
      • 「〔……〕市民に感じたことは、質素な協和会服が、この街で恐ろしく羽振りを利かしてゐることである。」
    • 日本的建設
      • 「私が、新京を発つとき、「まるで満洲と云ふ感じよりも、日本の延長と云つた感じだ。」と云ふと、某要人は、「当たり前ぢやないか、日本的に建設したんぢやないか!」と云つた。私は自分のうかつさに呆気れた。」
    • 新京の女性観
      • 「新京の女性は、非常に印象に深い。それは街の性格そのものの如く、健康的であり、清楚であるからだ。派手さはなくとも聡明な理知を持つてゐる。ハルビンの女性が、妙に派手でありながら旅行者の脳裡には、暗い影を秘めた女と云ふ印象のそれと比較するとき、私達は、新京の女性の質実な生活に、淡い憧れを抱くのは、なんとしても旅の快味であらう。」

満洲鉄道巡り 奉天・新京線の巻」(106-107頁)/(『満洲グラフ』第8巻第4号(69号) 昭和15(1940)年4月1日発行)

  • 内容
    • 連京線のうち、奉天-新京間のスケッチ
      • 奉天新京間を一寸スケッチしてみよう。大連新京間を連京線と呼び、この線は南満平原の主要部分を通過する。その全程702粁の内、奉天新京間は304.8粁である。」
      • 「将来の新京中央駅設置が予定せられてゐる南新京を過ぎると間もなく国都新京に着く。疲れた客はここで旅塵を洗つて、ゆつくりと満洲国の発展、日満一徳一心の姿を印象づけるのある。」
  • キャプション
    • 「新京市街 空襲に備えて首都の建築法はすべて高層のものを避けしめてゐるが、流石にメインストリートはすつきりした近代建築美術を発揮して首都たるの貫禄を失はない。この東方の若き国の首都の上に栄光あれ。」

大沼珠子「新京に住みて」(164頁)/(『満洲グラフ』第8巻第6号(71号) 昭和15(1940)年6月1日発行)

  • 筆者について
    • 読者寄稿。渡満し新京の官庁で働いている女性。
  • 内容
    • 内地での劣った新京イメージと現実の威厳のある国都新京とのギャップ
      • 「さて渡満した当時の新京は実に私には意外と言ふより他はなかつた。何故なら私の想像し、又、郷土の人々からの聞かされた新京の観念を根底から覆へされたからだ。かつて満鉄線の終点であつた寒駅の長春もこの時には国都新京としての十分の威厳が備はつてゐたのである。」
    • コロニアルなまなざし
      • 「駅前の町車夫を見た時は聊か悲観もし一方気味悪くもありその上ニーヤの体臭が、街の臭気か訳の分からない臭いで窒息しそうであつた。〔……〕其のうへ物凄い容貌や薄汚い厚い異様な衣に圧迫されて彼等の言ふ通り示す通りにしか出来なかつた」
    • 満語を知らなかったが故の苦労話と青年学校における満語の習得
    • 新京名所紹介
      • 「始めは何処へも行く事を嫌つて居たが地理が明るくなるに従つて、街や郊外に進出して見たくなつたのである。と云ふよりも、新京の部分、部分が私の心を捉へ、誘惑し始めたと言つても過言ではないだらう。」
      • 「先づ中央大街の康徳会館、海上ビル、中央銀行、東拓ビルをはじめ、国務院、財政部、経済部、蒙政部、市公署等々の建築物の壮観に打たれた。中にも関東軍司令部の建物は巍然として、我が大阪城名古屋城にも劣らぬ位の堂々たる威容である。」
      • 「それに嬉しいのは児玉公園、大同公園其の他四ツ五ツある公園地で、一番大きい児玉公園など、面積にかけては内地でも珍しい位だと思ふ。夏はこれらの公園の中で色々の催し物があり、そんな時には民族協和の微笑ましい情景も目のあたりに見られるのである。冬は冬で一部分がスケート場に化し老いも若きも、はてはヨチヨチ歩きの幼児まで元気に滑走しているのを見かける。」
      • 「康徳会館の屋上から見通す中央大街と大道大街の壮観はまるでロンドンやパリーもかくやと思はれる許り壮麗である。また、この大道路を四條に走る街路樹は殊の外美しい、満洲事変の華々しい戦場として知られる南嶺は新京の外れに広漠として続いてゐる。ここは未だ未開の地、いはば新京の宝の持腐れとも云ふべき地だ。此処にも将来この広い郊外まで都市計画が拡大されやう。それが実現の日を思へば今にも興奮で胸が詰まりそだ。」

満洲グラフ』復刻版第9巻

筒井俊一「新京と寒さ」(214頁)/(『満洲グラフ』第9巻第3号(80号) 昭和15年(1941)年3月1日発行)

  • 筆者について
    • 満洲日日新聞のジャーナリスト
  • 内容
    • 初めての新京の冬に向けて
      • 「新京の冬は初めてなので、実は秋口から毛皮外套を買つて貯へるやら、大連の妻にも毛皮の沓下を買つてをけと命ずるやら随分用意は周到だつた。〔……〕ヤマトホテルの玄関に寒暖計がある。12月中旬だつたが、零下26度である。どうも鼻の穴がムヅムヅすると思つたら、鼻毛が凍つてバリバリになる為らしい。〔……〕新京も冬の間は20度30度といふ日が多いと聞くけれど、未だ、顔のありやなしやを確めてみたくなるほどの寒さといふものはやつてこない。〔……〕新京ぐらゐの寒さなどはさう大仰に考へる必要はなささうである。」
    • 満洲の暖房事情について
      • 「そこへ行くと満洲はいい。スチーム、ペチカ、ストーヴ、何処の家だつて、一旦家へ入ればもう占めたものだ。廊下であらうが、便所であらうが、ぽかぽか暖かい。外へ出るのだつてそれだけの身支度をしてゐれば案外気楽である。」
    • 支那蕎麦屋
      • 「豊楽路の僕のアパートの下に支那そばやが出る。支那そばやは東京にも多いが、新京は街のいたるところに暖簾を張つてゐて、冬の夜の景物の一つである。〔……〕さて、その支那そばやだが、雪が降り出す頃から、寒雀を焼いて売り出した。1串18銭、2羽くつついてゐるから、焼芋より余程安い。東京の頃はどうもあの嘴を切つた髑髏みたいな雀の頭といふ奴が苦が手であつたが、新京へ来てからは鈍感になつたのか平気である。あの脳味噌が、東京の屋台などで食うと、冷いやりと舌端にふれて陰惨で無気味なのだが、ここの寒雀の頭蓋骨は、どういうわけか骨もやわらかだし、びつととび出す脳味噌も案外温かくて、舌に乗せると忽ちとけてしまうふ。本当はあの陰惨な冷感が却々乙なんだらうが、僕などには新京の方がありがたい。寒雀の脳味噌さへ暖かい―と、こんな風に内地の友人などには書いてやらうと考へてゐる。」

満洲グラフ』復刻版第10巻

「新京満鉄創業館成る」(『満洲グラフ』第9巻第9号(86号) 昭和16年(1941年)9月1日発行)

  • 内容
    • 所在地
      • 「新京で満鉄創業館を御存じない人が多い。日本橋通り旧附属地の東端、旧長春城内に差しかかるところにある東公園内に建つ黒煉瓦建の平屋がそれである。」
    • 要人の来歴
      • 「あれは、明治40年頃、佐藤安之助将軍らが附属地行政に活躍した根城で、その頃、寺内正毅元帥が満鉄会社創立委員長として一泊、英国大使から外相に赴任の途にあつた満鉄の恩人小村寿太郎伯も、当時の支那公使林権助男訪れた建物である。特に記憶さるべきは同42年伊藤博文公が哈爾濱駅頭で凶弾に倒れた前夜、此家で晩餐をとつたことである。これだけでも満鉄創業には切つても切れぬ関係があるばかりでなく、満洲建設史上に於ても貴重な史跡と言ふことが出来やふ。」
    • 写真博物館化
      • 「満鉄では多年満洲経営に盡くした満鉄の実績を汎く強く認識せしめるため、館内外を改装し、之を満鉄弘報課所蔵の歴史的写真、大陸開発の参考写真等の展示を主体とした写真博物館とするに決定、満洲事変十周年記念日たる来る9月18日を期して開館することとなつた。」
    • 館内展示
      • 「館内には歴史的国宝的写真をもつて満鉄否日本の対満経営史を一目瞭然たらしめる壁面資料や、満鉄の現状を示すモンタージュ資料やキャビネ判写真6百枚による展示台資料をもつて満洲国の産業・交通・経済・風俗等各般の資料を網羅し、逐次部分的に新資料との入換も試みる」
  • 各種キャプション
    • 「楡茂る創業館」
    • 「主材を満鉄の主要事業の現況にとつた一・五米と三・五米のモンダージュ写真」
    • 明治42年10月25日、伊藤博文公が支那側吉長道尹等と共に最後の晩餐をとつた時の写真で、左の奥に伊藤公が見える。」


満洲グラフ』復刻版第11巻

奉天・新京・哈爾濱・安東・大連・万里長城」(『満洲グラフ』第10巻第3号(92号) 昭和17(1942)年3月1日発行)

  • 内容
    • 満洲国の各都市の写真の掲載。
    • キャプション
      • 「新京・むかし長春と云つたこの町は、名も新京と改まり、満洲国の首府となりました。広々とした街の造りは国都の名にふさはしく、それぞれの官衙の豪壮華麗なことは内地でも見られぬ立派さです。これは大同大街と云ふ、新京の中心を走つて居る幅60米もある立派な道路です。自動車の中から写したところです。」

満洲グラフ』復刻版第12巻

藤山一雄「生ける国立中央博物館」(92-93頁)/(『満洲グラフ』第10巻第5号(94号) 昭和17(1942)年5月1日)

  • 筆者について
    • 満洲国国立中央博物館副館長
  • 内容
    • 満洲国立博物館の始まり
      • 満洲国に於ける博物館工作は大同二年、奉天博物館の創設の議に始まり、それが康徳元年6月1日「国立博物館」なる名称下に一般に公開された。が、主として満蒙支の歴史、考古、美術及び工芸等に関する参考品の展示、その蒐集及び保存に偏じ、本来の博物館活動は未だ起こらなかった。〔……〕康徳5年1月に至り、国立中央博物館筹備処を奉天に開設、約半ヶ年余の設立準備後、翌年1月1日「満洲国国立中央博物館官制」の公布と共にその実現を見るに至つた。」
    • 新京と奉天
      • 「その構成は自然科学及び人文科学よりなるが〔……〕新京の自然科学部展示場を取り敢えず創設し、既設奉天博物館は分館として、人文科学部の一翼となし、同年三月学芸館の陣容なると共に早急その活動を開始した。」
    • 新京大経路展示場
      • 「〔……〕城内大経路に満人某の貸ビルを得たので康徳7年7月15日即ち国本奠定詔書発布の吉日を卜し、「国立中央博物館大経路展示場」の名称下にやつと蒐集品約6万点中の一小部分の展示を開始するに至つた。本展示場は長春大街と大経路交叉点の南西角の聳ゆる貸ビルの一階全部、約690平方メーターに足らざる小さな自然科学博物館といふよりも、一路傍博物館の過ぎないのであるが、その実現は首都新京に於ける博物館の嚆矢を承はり、小なりと雖も文化施設の貧困な此の都市としては、相当大きな意義を持つてゐる。」
    • 地理部と先住民族展示
      • 「地理部にては民俗の一部、即ち先住民族たるオロチヨン、ゴルド、及び蒙古族の民芸品、衣服、調度、及び日用品を初めとし、満洲の資源を一見理解鳥瞰し得る満洲大地貌模型及び、白露エミグラントの丸太小屋断面を休憩室兼用に陳列してある。」
    • 本館建設予定地と民俗展示場
      • 「本館建設予定地は既に建国広場東方の一角四筆、約6万5千坪が決定せられた。〔……〕本館の特殊な企画の一つである人文科学部の一翼たる民俗展示場創設を先きにすることにし、既にその第一号館たる「北満農民の家」を南湖南畔中30万平方メーター余の広大な地域の一角に実現せしめた。これは逐次、国内に先住せるツングース族の名に総括され満州族ゴルド族、オロチヨン族や蒙古ツングース族なるダホール族及び日本族、朝鮮族、蒙古ブリヤート族、トルコ族或は漢民族などの生活生活生態旧慣、民間古俗等をその住宅に盛り地域的に順次建てならべ満洲現民族の文化程度をありのままに展開し、一は以つて日に月に失はれ行く古俗習慣の保存にあたり、二には現住民族の生活様式及び内容の研究に供し、後に来るものの参考として、その文化水準の高揚に資せんとする目的を有する。」
      • 「要するに此の企は素朴にして原始的且つ健康なる自然的生活様式を都市生活者に今一度ふり向かしめ、その知性を駆りて、正しき判断のもとに人間生活の真の幸福が奈辺にあるやを発見させたいのである。〔……〕本館は更にその「生活」を展示し、民族生活を抱擁する環境を一定の地域に模造、実現し如上の生ける博物館の具顯に邁進するつもりである。」

満洲グラフ』復刻版第13巻

平尾和俊「新京の思出」63頁/(『満洲グラフ』第10巻第11号(100号) 昭和17(1942)年11月1日発行)

  • 筆者について
    • 満鉄が招聘した慶祝綴方使節の児童
  • 内容
    • 忠霊塔、恩賜病院、南嶺、関東軍司令官梅津大将訪問を賛美する調子で美辞麗句を並べて描いている。
      • 「忠霊塔に行つた。玉砂利をふんで静かに目を閉じると、護国の神々が私達にほほえみかけて下さつてゐるやうな気がした。」
      • 「〔……〕恩賜病院に行つた。治療にいそしまれる兵隊さんのお元気な顔を拝見して僕等はとても嬉しかつた。僕も大きくなつたらきつと、軍人にならうといふ希望をここでいだいた。」
      • 「〔……〕南嶺に行つた。尊い戦跡、私達は花束を上げてお祈りした。其の時には自然に涙がこみあげてきました。」
      • 「〔……〕中でも関東軍司令官梅津大将におめにかかれたことが僕には忘れることの出来ない嬉しさであつた。」