雑録

【草稿】満洲国の観光 第3章「観光から見る満洲国奉天市」

  • 【学術的意義?】教授の御助言・指導を踏まえると・・・
    • 植民地都市の内実は明らかになっておらず、特に満人や露人社会と日本人は没交渉だったとされている。そのため日本人が満人や露人の区域にも観光しに行っていたことを明らかにすることは意義があるし、そこがどのような実態だったかを描く必要がある、とのこと。

【構成】

1.序論

1-1.問題意識

 帝国日本がアジアへ勢力圏を拡大していく過程で日本人もまた海外に進出していった。日本人は各地で居住地を形成するが、その内実がどのようになっていたのかは、議論の余地がある。海外における日本人の居住地の様相を知るには、どのような方法があるだろうか。ここで役に立つ視点が観光である。現在で観光と言うと物見遊山やレクリェーションなどの娯楽の一種というイメージが強いであろう。しかし当時は、観光の概念の一つととして国の光を観せることと捉えていた。それ故、各地に設立された観光協会は、観光資源を整備し、自らの土地の特徴や独自性を打ち出していったのである。また、移民地視察や商用、慰問や勤労奉仕で訪れた人々も、空いた時間や自由時間には市街地を見学する等していたのである。
 よってここでは、まだ充分に研究されていない満洲国における都市・移民地の様相を、観光客・旅行者の視点から描き出すことを試みる。

1-2.先行研究とその問題点 → ※これは序章に書き、2章新京、3章奉天、4章哈爾濱にする。

①大出尚子『「満洲国」博物館事業の研究』(汲古書院、2014)
  • 概要
    • 満洲国立中央博物館の新京本館と奉天分館に関する論考。人文系の奉天分館は、考古資料の発掘と展示により中国とは異なる満洲国の一貫した歴史像を提示しようとし、自然系を扱う新京本館は、民族協和の思想を具現化するため「原始民俗品」を展示し少数民族の生活に着目したと主張。
  • 【問題点】
    • 博物館訪問者が展示者の意図通りの反応を示したかどうかには言及されていない。
川村湊『異郷の昭和文学-「満州」と近代日本-』(岩波新書、1990)
  • 概要
    • 「多くの満州案内記、旅行記、見聞記が流布したのは、エキゾチックな満州」であるとし、「そこには政治、文化、言語の角逐と葛藤の場としての植民地という本質を見定めることがすっぽりと抜けている」と分析。
  • 【問題点】
    • 観光客・旅行者が記した満洲イメージはエキゾチックなイメージだけか?
貴志俊彦満洲国のビジュアル・メディア』(吉川弘文館、2010年)
  • 概要
    • 満洲国がみずからの存在をどのようなものとして国の内外に認知させようとしたのかについて、その企画と弘報政策に関わった日本人が描こうとした満洲国イメージから検証する。観光の弘報目的は、満洲国の住民に対しては宣伝あるいは宣撫、日本人に対しては満洲国に対する認識の向上、海外に対しては満洲国の承認であり、満洲国のイメージは作られた虚像であったと結論づけている。
  • 【問題点】
    • パンフレットやポスター、絵葉書などのビジュアル・メディアが提示した満洲国イメージは虚像であったとしても、観光客/旅行者は満洲国をどのように捉えたか。
④ケネス・ルオフ/木村剛久訳『紀元二千六百年 消費と観光のナショナリズム』(朝日新聞出版、2010年)
  • 概要
    • 満洲旅行の機能を4つに分類。一番重要な「戦跡」は「満洲で日本が特殊権益を有するのは、日本が戦場で大きな犠牲を払ったからだという考え方」を具現化。二番目は「近代化」、「後進地域に近代化をもたらした日本の役割」を強調。三つ目が「現地住民の後進性」であり、日本が満洲に恩恵をもたらした存在であったことを示す。四番目が「アジアの先導者」の機能であり、「日本人がアジア文明の保護者たらんとして、現地の歴史遺産の保護に努めてい」たとする。日本人は満洲の戦跡を聖地として創出したと述べ、「史跡観光は政治的な活動」であり、「満洲聖地観光が政治的な意味合いを含んでいたことは明らか」と結論づけている。
  • 【問題点】
    • 奉天における北陵や東陵、城内や博物館、哈爾濱におけるキタイスカヤの露西亜人街や正教寺院、傅家甸の支那人街など現地住民が形成した文化資源などをどのように位置づけるか。
⑤高媛「「楽土」を走る観光バス−1930年代の「満洲」都市と帝国のドラマトゥルギー−」(『岩波講座近代日本の文化史6』岩波書店、2002年、pp.215-253)
  • 概要
    • 満洲諸都市の日本語の観光バスを題材に、内地客/在満邦人/ネイティヴ三者が交錯する「接触領域」に注目。政治的・社会的ヘゲモニーとの重層的なかかわりあいのなかで、「楽土」的都市空間と帝国のファンタジーを考察。観光バスによって提示される満洲像として、戦跡、近代性、盛り場、歓楽郷を挙げ、観光そのものが権力関係の強化と権力構造の再生産を行う装置であると結論付ける。
    • 【問題点】
    • 諸都市には観光バスによる遊覧もあったが、支那人による人力車や馬車なども多数存在して居り、観光はバスだけとは言えない。
⑥高媛『観光の政治学 : 戦前・戦後における日本人の「満洲」観光 』(東京大学、2005、博士論文)
  • 概要
    • 新しい分析枠組み「代理ホスト」概念を導入し、「観光地としての満洲はどう表現されてきたか」を考察。「満洲観光を取り巻く政策、制度の変動を歴史的に跡付け」、「満洲ツーリストたちのまなざしを再現」する方法で、「観光を取り巻く政治」と「観光の生み出す政治」を明らかにしている。
  • 【問題点】
    • 満洲国建国後における満洲ツーリストのまなざしについては、早大学生の旅行記一事例のみであり、観光地としての満洲の表現についても観光バスによる満洲像の提示を中心とするものである。 
⑦バラク=クシュナー/井形彬訳『思想戦 大日本帝国プロパガンダ』(明石書店、2016)
  • 概要
    • 戦時下の日本社会が戦争目的を下支えしていたこと、日本の一般大衆が戦争の積極的な参加者であったことを主張。満洲観光も一種のプロパガンダであったと分析し、国内世論を形成するための効果があったことや、新京を未来都市として描くことで日本が東アジアにもたらす近代性を内外に示そうとしていたことを指摘。
  • 【問題点】
    • 新京の新築都市建設による近代性は妥当だが、旧満鉄附属地や城内など未来都市だけではない。
⑧米家泰作「近代日本における植民地旅行記の基礎的研究 : 鮮満旅行記にみるツーリズム空間」(京都大學文學部研究紀要、2014、53、319-364頁)
  • 概要
    • 鮮満ツーリズムのなかで日本人が残した旅行記に着目。175点の旅行記の分析を通して、旅行の目的や形態、訪問地など、ツーリズム空間の広がりを考察している
  • 【問題点】
    • 旅行記の内容には踏み込んでおらず、当時の日本人が満洲国の訪問地をどのように捉えていたかなどは分析の対象となっていない。
⑨ルイーズ・ヤング/加藤陽子ほか訳『総動員帝国-満洲と戦時帝国主義の文化-』(岩波書店、2001年)
  • 概要
    • 「日本人による観光旅行は、長期にわたって日本帝国主義の文化的側面を担った」ことを主張。文化人の活動がきわめて高い社会的評価を満洲国に与え、帝国の文化的優位性を示す記号となったと分析。満洲国は日本の国内消費向けにパッケージ化され、ユートピア都市満洲というイメージが普及したと結論づけている。
  • 【問題点】
    • 白系ロシア人の悲哀や現地の満人の様子などを観光客/旅行者は満洲国の都市を桃源郷としてのみ捉えているわけではない。

1-3.論点の整理とリサーチクエスチョンの設定

 満洲案内記、旅行記、見聞記を主体とする先行研究は上記②、⑥、⑧がある。このなかで⑧は旅行記の内容そのものに踏み込んでいるわけではないし、⑥も扱う旅行記早大生の未公開の日記のみである。②の研究では満洲案内記、旅行記、見聞記が流布したのはエキゾチックな満洲であると断定しているが、これは一面的な見方でありエキゾチックな面だけで満洲をとらえていたわけではない。④では満洲国の観光の機能を分類しているが、白系ロシア人による建築物や清朝時代の文化財など日本人以外が創出した観光資源の視点を欠いている。⑤については満洲国の観光は観光バスだけではない。⑦と⑨については観光客/旅行者は満洲諸都市を未来都市やユートピア都市としてのみ捉えてたのではない。
 これらのことから、案内記・旅行記・見聞記から観光客/旅行者の視点から満洲国の諸都市及び移民地の様相・実態を明らかにする。

2.本論

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奉天観光案内図」奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939

2-1.奉天市地域区分

 奉天市は大まかに分けて4つの地域に分れている。①奉天駅東部に形成された市街地である旧満鉄附属地東部、②清朝初代ヌルハチ、及び第2代ホンタイジが居住した宮殿を中心とする城内、③旧満鉄附属地と城内の中間に形成された旧商埠地、そして④奉天駅西部に形成された鉄西工業地区(旧満鉄附属地西部)である。1937年12月に治外法権が撤廃され、満鉄附属地行政権も移譲されたことから、①旧満鉄附属地と③旧商埠地は大和区、②城内は瀋陽区、④の鉄西工業地区は鉄西区に改編された 。ここではそれぞれの地域の特徴を確認する。

①市街地(満鉄附属地東部)【史料1】

 奉天駅を中心に形成され、駅を背にして垂直に伸びるのが千代田通、左に放射するのが浪速通、右側が平安通である。浪速通、千代田通は商業地区で、浪速通には日本人商店が多い。日露戦争以前は墓地であり荒涼としていたが、1908年から市街地形成が始まった。

②旧城内【史料2】【史料3】

 清朝初代ヌルハチ、第2代ホンタイジが居住した宮殿を中心に城壁で囲まれた地域。かつての奉天の中心部。城壁にそれぞれ2門、合計8門開いており、門をつなぐ大街は大いに栄えている。特に小西門と小東門を結ぶ四平街には大商店が立ち並んでおり、満人百貨店の吉順絲房は旅行記にかなりの頻度で登場する。この屋上から城内を眺めることが奉天市観光のパターンとなっており、日露戦争時に大山巌大将が奉天入城した際の門である大南門も見ることも観光資源の一つとなっている。

③旧商埠地【史料4】

 旧満鉄附属地と城内の中間にある地域である。日本総領事や英米独仏伊の領事館があったためかつては繁栄したが、1937年の治外法権撤廃もあり、旧満鉄附属地に勢力を奪われた。かつて湯玉麟の私邸であった満洲国立博物館がある。

④鉄西工業地区【史料5】

 旧満鉄附属地のうち奉天駅西部に出来た工業地域。商業都市奉天工業都市奉天として新にデヴイユーした満洲の心臓部として紹介されている。
 

2-2.奉天市観光資源

 奉天清朝から栄えた歴史と伝統のある都市であり、単なるエキゾチックさや後進的なまなざしで捉えられているのではない。ここでは満洲国が誇る文化として清朝時代の歴史が観光資源となっている。

清朝関係の文化財
  • a.奉天城・宮殿【史料6】
    • 奉天での主要な訪問箇所となっているのが、奉天城の宮殿である。これは上記でも度々述べたが、清朝初代ヌルハチと第2代ホンタイジの居城である。満州事変後、暫くは拝観が許されていたが、1936年5月以降一般参観は禁じられた。しかしながら、宮殿の外観は城内のラウンドマークとなっており、吉順絲房の屋上から眺める観光資源となっていた。奉天城の宮殿の外観を見るために城内に来て、それと共に満人街で買い物などをしている。
  • b.北陵【史料7】~【史料9】
    • 第2代ホンタイジの陵墓である。観光資源としては石で作られた動物を擬した石仏が有名であり、室生犀星の短文が観光案内に収録されているが、たいそうこの石獣を気に入った様子である。奉天市居住者にとっての行楽地となっていると共に、多くの観光客が訪れている。
  • c.東陵【史料10】
    • 清朝初代ヌルハチの陵墓である。北稜と並んで、清朝の歴史を伝える観光資源となっている。また東陵ならではの特徴としては、その自然が挙げられ渾河の右岸に佇む様子や、附近の天然風水が景勝地となっている。
②社会事業施設
  • a.同善堂【史料11】~【史料13】
    • 奉天の観光資源として多くの旅行記・紀行文で訪問対象となっているのが、同善堂である。同善堂は社会福祉施設であり、捨て子を初めとする社会的弱者の受け入れや社会復帰を支援する施設である。設立年代は光緒7年(1881)説か光緒11年(1885)で分れる。また、この施設は文化財としての歴史的価値だけでなく、当時実際に経営されていた施設として訪問場所となっていた。「観光奉天で欠くことの出来ない所」とされ、「世界各国にも類なきもの」と称えられていた。
ラマ教
  • a.黄寺
    • 清朝皇帝は、様々な諸部族の地位の継承者であり、中華帝国の皇帝であると共にモンゴルのハン位に就いていた。そのためチベット仏教の保護者であり、各地にチベット仏教の寺院があった。それらの寺院の総本山が奉天にあったこの黄寺である。建物の荘厳さが知られているとともに現地住民の信仰を集め、陰暦1月14日の祭典である打鬼祭には、近隣から観光客が集まった。満洲国の観光では現地住民たちもまた日本が整えた交通インフラを利用して祭礼などの行事の移動に利用していたのである。似たような祭礼として、現地住民たちが日本の交通を利用する事例に娘々祭りがある。
満洲国立博物館【史料15】【史料16】

 満洲国立博物館のうち歴史系博物館であったのが、奉天の博物館である。もう一つは新京にあり、こちらは自然系博物館となっている。奉天の博物館の特徴としては、北魏契丹、遼、金などの中国東北部に栄えた非漢民族国家を取り上げていることである。これらにより「満洲国」としての歴史を語ろうとしている。また収蔵物を「奉天の誇り」、「世界に誇るもの」であると捉えており、満洲国としての独自性を示そうとしている。
 

⑤観光資源から何が分かるか。

 先行研究では満洲国の観光をエキゾチックなものの消費として捉えており、日本が満洲国を支配するための根拠としたことや、日本の先進性と現地住民の後進性を強調して大東亜共栄圏の指導者としたことが指摘されている。しかし、本当に現地住民の文化が軽視されたかというとそうではなく、清朝時代の文化財である奉天城宮殿や北陵、南陵、社会事業施設である同善堂、チベット仏教の寺院の黄寺が奉天満洲国の誇るべきものとして捉えられている。また満洲国立博物館を見てもその収蔵品が同様に考えられている。このようにして、決して満洲国の観光は一面的に捉えられるものではない。
 もちろん、満洲国が清朝時代の歴史を誇りとするのにも理由がある。満洲国が、民族自決が認められない傀儡国家だったことにその背景にある。満洲国が自国を傀儡でない国家であることを示すためには、中華民国とは異なる独自の歴史を証明しなければならなかったのだ。そのように考えると、なぜ満洲奉天市の観光で北魏、遼、金、清の歴史資源が重要視されるかが見えてくると言えよう。北魏は孝文帝の時に漢化したので若干異なるが、遼、金、清は非漢民族が独自の文化を失わずに万里の長城以南の中国を支配した征服王朝だったのである。ここに満洲国の独自性と自立性を示すことに繋がり、中華民国とは違う独自の国家であることを示す根拠となしたのである。

2-3.観光客から見た奉天市街

①満鉄附属地と城内は分断していたか

 満洲国の都市イメージとして、日本人と非日本人で居住地域が分断されており、各人種間は没交渉であったという社会像がある。しかしこれは外国人の旅行記により流布されたイメージであると考えられる【史料17】。奉天市における満人街は城内に形成されていたが、近代化されていない劣った地区だったのであろうか。確かに満人街は雑踏や苦力などが強調される場合もある【史料21-8】【史料21-9】。しかしながら井桁条に区画された城内には、近代的なデパートや百貨店も立ち並び、近代化されていたし、満人の富裕層も存在していたのである。後進的で遅れている満人社会という一面的な見方はここでは見受けられない。

奉天国立博物館を観光客はどのように見たか

 観光案内やパンフレットで満洲奉天の誇りとされている奉天国立博物館であるは、観光客はどのように博物館や展示物を眺めたのであろうか。メディア側の言う通りに満洲国の偉大さというイメージを抱いたのであろうか。
 まずは博物館の建物に言及されることが多く【史料18-2】【史料18-3】、熱河軍閥の湯玉麟の私邸を接収されたことが指摘されている。満洲国立図書館奉天軍閥の張学良の邸宅を接収して転用したものであるため、旧東北軍閥の権威の象徴が文化施設としてイメージを払拭していることが分かる。
 続いて展示内容に関してだが、注目したいのは【史料18-4】であり、ここでは陶器について明確に満洲支那で区分している。規格の正しい支那に比べれば幼稚とされているが、濁った黄色や変わった形状から想像力を読み取り、満洲色を感じている。満洲国は、中華民国とは異なる独自の国家であることを示すことが求められており、この博物館の展示により「満洲国の歴史」を現出している。

奉天駅の様子 満鉄を利用した現地住民たち

 満洲国における現地住民は自己の都市内部でのみ生活を完結させていたのではなく、満洲国内部を移動していた。では、その移動手段として何を使ったかというと、満鉄を利用したのである。満鉄は日本人だけを乗客としていたのではない。奉天満洲国第一の都市であっただけに、その駅の様子も各人種で雑踏するものであった。当然、非日本人も旅館を利用するわけであり、奉天駅にまで進出する客引きが多数いることが分かる【史料19-1】。また「純支那族の龍の刺繍」、「福々しい人品のある」【史料19-2】と表現されているように、日本人が経営する鉄道を利用して地域間を移動する非日本人の富裕階層の様子を読み取ることができる。

④城内のデパート・百貨店

 城内には満人街が形成されていたが、商業的には栄えており、日本人観光客は満人のデパートや百貨店を利用していた。特に観光客の行動パターンに組み込まれていたのが、吉順絲房という百貨店の屋上から奉天市内を一望するという行動である。吉順絲房は城内の宮殿の北側、四平街にあり、その屋上から奉天市の主要観光資源を見渡すことができるのである。
 吉順絲房からの眺望で特に述べておかねばらないのが、チベット仏教との関係である。城内から東西南北を見渡すと、喇嘛塔が東西南北にそれぞれ建てられている【史料20-3】。清朝皇帝がモンゴル人のハン位も兼ねていたため、各地に建てられていたが、満人が独自の信仰を持つことを示す機能も果たしていた。
 また百貨店における日本人の買い物だけでなく、現地住民たちの消費行動を垣間見ることができる【史料20-6】。勧工場である協大百貨店ではスフではなく綿製品が購入できることや、学生や労働者の様子、現地住民の慣行などが特徴的である。

⑤城内の満人街

 宮殿や吉順絲房なとの観光資源が奉天城内にあるため、自然と観光客は、満人街に立ち入ることとなる。ここでは労働者階級【史料21-9】から富裕階層【史料21-6】まで様々な現地住民の雑踏に満ちていた。満人街と言えば泥棒市場である。盗んできたものを即売する市場であるが、現地の日本人の間でもかなり知られていた。ここでの旅行記【史料21-9】では在満日本人が旅行者に泥棒市場を見せようとしたが、発見できなかったエピソードなどが見られる。また満人街は単なる現地住民の混沌とした街なのではなく、四平街の大通りは整備され満人大商店が並んでおり【史料21-5】【史料21-7】、欧風の近代的建築であった。

奉天市内における交通手段

 先行研究では観光に用いられた手段としてバスが強調されている。確かに満洲国諸都市では各観光協会が観光バスを整備し、主要施設や観光資源を遊覧できるようなルートを整えていた【史料24-1】。
 しかしながら全ての観光客が観光バスを利用したわけではない。観光バスには発着時間があり、搭乗人数も限られていたからである。ではその他交通手段には何があったかというと、主に人力車と馬車が利用されていた。奉天市内の場合、人力車は5銭であり【史料22】、日本人の足として頻繁に利用されていた。

支那風呂と満人妓楼

 奉天の場合、歓楽施設は主に満鉄附属地に集積した。この歓楽施設における労働を担ったのは日本人だけではなく、現地住民の女性たちもまた歓楽施設でサービスを提供した。そして、このサービスを得るために、日本人が居住する満鉄附属地に、現地住民たちもやってきていたのである。支那風呂では3等~1等に分れており、3等は共同浴場であり現地住民たちが利用している姿が描かれている【史料23-1】。また1等では入浴が娯楽の一形態となっており、満人富裕層の風習がうかがえる。
 続いて妓楼についてであるが、これは「書館」という文字から話題になることが多い【史料23-2】【史料23-3】。現地での妓楼は1等が「書館」、2等は「閣」、3等は「堂」と看板が出されている。日本人はこの「書館」を本屋と勘違いして入ってしまうという笑い話である。現地住民での享楽施設の慣行が分かり、入店後に女性が群がり各自の自己紹介を聞いたのち、そこから選択してサービスを受けるとい形式である。

⑧満人と映画

 宣撫工作として満鉄弘報課は映画を提供していたことはよく知られているが、実際に現地住民たちがどのように見ていたかは明らかさにされてこなかった。旅行記の中の一部分では、現地住民たちが日本映画を視聴していることが分かる。【史料25】で取り上げられているのは、東宝の『揚子江艦隊』 であり、ほぼ現地住民の客層で館内がいっぱいになっていることが分かる。

3.結論

 リサーチクエスチョンを再確認すると、「観光客/旅行者の視点から満洲国諸都市の社会の様相を明らかにする」ことである。それでは、奉天の場合、どのようなことが言えるであろうか。
日本人が新たに都市建設を行った新京、ロシア人が建設し満鉄附属地すら無い都市である哈爾濱に比べ、奉天清朝時代の特色が色濃く出ていると言える。主な観光資源としても、ヌルハチの陵墓である東陵、ホンタイジの陵墓である北陵、ヌルハチホンタイジが政務をとった奉天城宮殿及び城内、城内周辺に建設された喇嘛塔などが挙げられる。また奉天軍閥の張学良の私邸や熱河軍閥の湯玉麟の私邸は、文化施設として再利用された。旧張学良邸は国立図書館に、旧湯玉麟邸は国立博物館となったのである。
 特に城内には奉天城宮殿と奉天市を一望できる百貨店吉順絲房があったため、多くの日本人が満人街を訪れていた。城内は井桁状に区分されており、四平街などの表通には百貨店が立ち並ぶなど現地住民により近代化されていた。また満鉄を利用する多くの現地住民がおり、満鉄附属地にある奉天駅には多人種の人々の雑踏があった。その他附属地には、支那風呂や満人妓楼である書館等があり、附属地だからといって日本人のみで形成されるコロニーではなかったのである。
 以上のように、これまでは附属地と城内が分断され相互に人の行き来はなかったと考えられることが多かったのだが、城内の満人街にも日本人が滞在することがあったし、満鉄附属地内の施設を現地住民たちが利用することもあったのである。

史料

史料は適宜改めた。下線部は引用者によるものである。

【史料1】

「旧満鉄附属地は総面積約409万坪、大体に於て長方形をなし鉄道の東を市街地、鉄道の西を工業地として分つ。市街は秩序正しい直角形式をなし駅前より千代田通、浪速通、平安通の三大道路を放射せしめ、浪速通の中間に大広場、平安通の中間に平安広場がある。浪速通、千代田通は商業地区にして浪速通には邦人の商店多し。附属地東南部は医科大学其他諸学校立ち並び学校街を形成してゐる。現在大市街をなす附属地も30年前には荒涼たる原野で然もその大部分は墓地であり、日露戦役の狼穿、塹壕等があり血腥き戦場に駅と守備隊があるばかりで日本居留民は商埠地10間房方面に居を構へてゐるに過ぎなかつた。かくて今日の如き発達の緒に就いたには明治41年満鉄が市街計画に着手してからの事で当時全人口は日支人を合して二千名に過ぎなかつた。」
『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、昭和14(1939)、74頁

【史料2】

奉天の旧市区を囲む一区域が奉天城である。満洲及び支那では城内に民戸を包容すること日本の築城とは異なる所で、日本では境界を濠を以てするが満支では瓦磚を築いて以てする。城壁の四面に各二門を開いて居るが、西南部には商埠地、それから鉄道附属地が接して居るので、自ら大、小西門の筋が繁華になつて居る。城壁は高さ約二丈、副は壁上に於て約一丈、砲車が運行出来る。城区の中央に前清の宮殿、その東南部に諸官衙があり北部は住宅地。繁華の中心は小西門と大北門路と交叉する四平街で、それから大西門迄の間である。」
満洲事情案内所 編『まんしう事情』満洲事情案内所、昭11(1936)、89頁

【史料3】

「市内交通機関には電車、バス、自動車の外、露治時代の馬車、人力車があり、奉天駅前から電車、乗合自動車を利用して城内に至れば奉天城は美しい往時の宮殿を中心として、方形の内城とそれを囲む辺城からなつてゐる満洲第一の平城である。内城は、甎築で周囲6粁、高さ11米、厚さ5.4米、8門を開き中心には宮殿を始め奉天の首脳をなす諸官衙が蝟集し城門に通ずる大道は商業極めて殷賑、小西門から小東門間の四平街は大商店が櫛比して居る。満洲事変まで中国陸、海、空軍の各福司令、東北辺防軍総司令としてときめいた張学良の公館は国立図書館となり、日露戦役に大山大将奉天入城の大南門も吉順絲房(百貨店)から望見される」
『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、昭和14(1939)、75頁

【史料4】

「城内と旧附属地との中間に介在する一帯を曾ては商埠地と称し各国民の居留地で我が総領事館を首め英、米、独、仏、伊の各領事館があり各国の商売が集り特殊の雰囲気を作つてゐる。然しこの地域も昭和12年12月1日より実施されたる満洲治外法権撤廃で商埠地の名称は無くなつた。この地域は昔日頗る繁栄せるも漸次旧附属地にその殷賑を奪はれて、今ではその面影もないが満洲国立博物館瀋陽公園、喇嘛の黄寺、西塔等がある」
『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、昭和14(1939)、74頁 

【史料5】

「鉄路の西部にある鉄西工業地区は、商業都市奉天工業都市奉天として新にデヴイユーした満洲の心臓部である」
『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、昭和14(1939)、75頁 

【史料6】

奉天城内に在り、清の太祖及太宗の宮居として有名である、天命10年太宗高皇帝が遼陽から遷都して以来北平に遷都するまでの19年間の皇城で、宮城は金鑾殿と称される、太祖の時工を起し太宗の天聰6年完成したが後ち乾隆帝が増築した、東西100米、南北269米の甎壁で囲まれ、大内宮闕、大政殿、文遡閣があり、正面の崇政殿に玉座が設けられ又歴代の宸筆扁額などあり、殿後にある日華楼は皇子、霞綺楼は皇女の勧学所である。又、永總、關雎、衍慶、麟趾の各宮があり、その後方に清寧宮がある、また図書には有名な四庫全書6千752函を蔵してゐる、満洲事変後暫く拝観を許されてゐたが今日では禁止されてゐる。」
鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、12コマ

【史料7】

奉天駅の北方6粁、陵は清朝第2代太宗文皇帝の陵墓で隆業山昭陵とも称されてゐる、270余年前崇徳8年の築造にかかり翌順治元年太宗皇帝の霊枢を祀り、越へて順治8年陵の完成を俟るて孝瑞文皇后を合祀した、境城の周囲約8粁、外壁1.7粁、内壁の高さ6米余、境内には昭陵聖徳神功の碑、隆恩殿、寝陵があり、老松鬱蒼として四季緑をたたへてゐる、北稜の周囲は公園で又国立競馬場もある、春夏の季節には遊覧バスを運転し、奉天に来る観光客の誰しもが杖をひいている。」
鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、10コマ)

【史料8】

「陵は清朝第二代太宗文皇帝の陵墓で、境域の周囲約8粁、外壁1.7粁、内壁の高さ6米余で入口には一大牌楼が立ち前三門(正門)を潜って進めば碑楼がありこの間は両側に獅子、走獣(白澤)麒麟等の石獣が並び、内二頭の馬の石獣は太宗の乗馬を形どつたものとして著名である。更に三層楼を為す陸恩門を潜れば廟の拝殿である隆恩殿がある。拝殿の後方には明楼と寝陵があり、半円形の壁に囲まれた寝陵は太宗文皇帝の霊枢が葬られてゐる。寂静の奥津城に競ふ結構の荘と配合の妙は清朝の全盛期を偲ばすものがあり奉天人士の行楽地となつて居る」『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、76-77頁

【史料9】

室生犀星「北陵の石仏」
「石仏と云つても奉天の北陵にある石獣のやうなものを見ると石仏の本格的なものであつて燦然として見惚れ、驚きと讃嘆を深くするばかりである。私はああいふ立派な石獣を見たことがない、獅子、走獣、麒麟、馬、駱駝、像、などの石獣は本物よりも大きく丸彫りにされ、石質は腐食しないでこのごろ作つたばかりのやうに見え、壮麗といふよりも、厳めしい美しさである。そのうちの二頭の石馬は太守の乗馬を形どつたものに稱はれてゐる。永年の風雨に石の肌が一さう滑らかになり、各々の石獣の首や手足の円みは製作当時よりも一層円く、柔しくなごやかに見える―私はもつと永い間、これらの石獣を見て居れば宜かつたと思ふくらゐであつた。帰来、どういふ石仏を見ても、これらの石獣を見たときのやうに美しさを感じたことがないからである」
奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、9コマ

【史料10】

「奉吉線の東陵駅に下車するが便利である。別に奉天駅前から総局経営の奉撫線乗合バスによれば約1時間で往ける。東陵は天桂山福陵と称し、清の太祖高皇帝を葬つたもので渾河の右岸に臨み老松の中に、朱壁縁瓦聳え附近の天然風水の勝は又特別である。」
『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、77頁
【史料11】
「本堂は光緒7年(1881年)左忠荘公の設立に係る社会救済事業の一施設で貧民、医務、孤苦、工芸の四部に分れ相当整備された方法で経営されて居る。私生児の捨子を受取る救生所、逓入した娼婦を収容する済良所、乞食を収容する棲流所等は珍しい施設である。」(『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、1939、76頁)

【史料12】

奉天で最も完備し且つ古い歴史を持つ社会事業であると共に観光奉天で欠くことの出来ない所である、小西關高豪廟に在り光緒11年の設立で貧民、医務、孤苦、工芸の4部に分れ貧困児老衰者の救済、孤児の養育、授産場等も完備し、殊に私生児の捨場である救生所、遁入せる娼婦を収容する済良所、乞食を収容する楼流所などは特に珍風景である。」
鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、12コマ

【史料13】

「光緒7年当時天然痘が流行を極めた際、後に日清戦役の猛将、左宝貴氏が私財数万円を以つて、天然痘予防、育児、保護、貧民救済のため、開設したに始まり、現在では満洲唯一の慈善事業として堂内の収容人員も一千名を超えてゐるが、特筆すべきは救生門(捨児を受取る窓)済良所(逃避し来れる娼婦を収容する所)等で、世界各国にも類なきものと謂われてゐる。」
奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、17コマ

【史料14】

「本名は宝勝寺と云ひ、皇寺とも謂はれてゐる黄喇嘛教の寺である為にこの名があるが、満洲に数多くある勅建喇嘛教寺中の総本山とも称すべき名寺として知られ建物の結構荘厳なことは随一で、毎年陰暦1月14日の祭典には近郊在から、此処の有名な打鬼祭(喇嘛踊り)をみに来る人達で、さしも広大な寺内も埋め尽くされて了ふ程である。この打鬼祭は日本に於ける節分の豆撒きに匹敵する催しで、奇妙な面を被つて悪魔払いを面白く踊るものである。(小西辺門外)」
奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、19コマ

【史料15】

「古代文化、支那文化を一堂に集めた国立博物館奉天の持つ誇りである。旧三経路十緯路にある、その白亜の三層楼は旧東北軍閥の巨頭湯玉麟の私邸であつたもので壮麗を極めてゐる、陳列品は遼、宋、金時代の陶磁器を初め宋元以来の名所画、北魏以後墓誌契丹文字、哀冊その他刻絲、刺繍等珍宝三千五百点に及んでゐる(拝観料大人10銭、学生5銭、軍人学生3銭、子供1銭である。)」
鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、1939.4 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、12コマ

【史料16】

「古代支那文化を一堂に集め聚めた此の国立博物館満洲国文化の歴史を語るに相応しく世界に誇るものである。贅美を尽くした白聖の三層楼は、もと熱河の阿片王と謳はれた旧東北軍閥の巨頭湯玉麟華やかなりしと当時の私邸であつたものを事変後の康徳2年5月に改修、博物館として再生したもの、館内の室数は22に及び、陳列せる珍宝3千5百余点の中には遠く千六百年前の土器もあり、刻絲1枚に20万円の評価を下されてゐる等、一片の土瓦にも古を偲ぶ文化の跡が想像されて、終日飽くことを知らざる名宝が収められている。」
奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳6年度』奉天交通、1939、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、8コマ

【史料17】奉天 附属地と城内は分断していたか?

「古くから城内と満鉄附属地とは、別々の生態系を持つてゐて、両者がまるで交渉なく〔……〕という風に描いた旅行記が多く、外国人のものは大概さうなつてゐる。〔……〕多分に外国人の古い伝統的な観方に捉はれたものである。これは外国人が、今日でも東京には吉原とゲイシャ・ガールだけしか存在してゐないかの如く書くのが、一つの伝統となつてゐるのに似てゐる。城内の四平街には五階建の吉順洪(老號)、吉順隆、吉順絲房といふ3つの高層建築の百貨店が並んでゐる。〔……〕これらの店には例の裸のエレベーターがあり、商品も相当に揃つてゐる。〔……〕城壁外の満鉄附属地だけが近代化して、城内は近代化してゐないといふやうな印象記を書くのは誤りである。」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、42-43頁

【史料18】満洲国立博物館・旧跡

【史料18-1】博物館が示す支那の文化の跡・遼の唐三彩

「古い都としての奉天に於いて特に印象の深かつたのは、国立博物館と北陵であつた。戦跡としての北大営の忠霊塔を拝したことも忘れられない。博物館が示す支那の文化の跡は豪華なものであつた。遼の唐三彩焼のごときは、驚嘆すべきものであつた。北稜の石像、石馬のごときは張り切るごとき精彩があつた。この二頭の石馬は太宗の乗馬を形どつたもので、一日百里をゆくと称せられて野戦に偉勲あつた愛馬であつたのだ。私には南京の孝陵の彫刻は、これなどよりはよほど劣つてゐるやうに思へた。北稜は清朝第二代太宗文皇帝の陵墓で、奉天駅の北方6粁のところに在る。境域の周囲約8粁ある。廟の拝殿には燕夥しく巣くつて、数千となく飛び交つてゐる。甍は黄に美しい草が生えてゐる。屋根はともかくなぜ境内の雑草を刈らぬかと不思議に思つたが、これを生やして置いて適当な時期に刈ると相当な金高になるといふ。」
白鳥省吾『誌と随筆の旅:満支戦線』、地平社、1943年、71-72頁

【史料18-2】湯玉麟私邸・白亜三層楼・陳列品

「〔……〕観光バスに乗り、ビューロー氏の案内で一行は市内見学に出かけた。〔……〕先づ忠霊塔に参拝して英霊に敬意を表し、続いて訪れたのが国立博物館である。この博物館の在る所は三径路十緯路と云ふのださうだ。附属地の方が日本流の町名だから判りよいが此処の様に商埠地の内は名称がややこしくて判り憎い。此の建物は熱河の阿片王と謳れた旧東北軍閥の驍将湯玉麟の私邸跡で、支那式の広大な門を入ると広くて立派な洋式庭園を有し、その奥にある贅美を尽くした白亜三層楼がそれである。陳列品の主なるものは周漢時代の銅器、天下稀に見る刻絲、刺繍をはじめ、遼、宋、金時代の陶磁器、宋、元以来の名書画、北魏以後の墓誌契丹文字、哀冊類、その他熱河離宮に秘蔵されてゐた世界の珍宝等三千五百点を収めてゐる。」
森田福市『満鮮視察記』、自費、1938 、133頁

【史料18-3】国立博物館で目が引かれたもの等

国立博物館は三階建の白い洋館で、三階の窓からは近くのアメリカ領事館の星条旗が見える。博物館の表に骨董店があるのをみて門をくぐると、玄関で写真機を預かりますといふ、この博物館はむしろ美術館と呼んだ方がよく、仏像、服飾、仏画、銅器、陶器、郎世寧の「平定伊犁回部全図」清、明、宋、各時代の書画、順治、康熙、乾隆帝の御筆、刺繍、刻絲などが陳列され、屋外の納屋風の建物に墓誌が置かれている。〔……〕ここにも古い時代の支那陶器と、青花、五彩、粉彩等の磁器が若干ある。専門家の見る価値を別にして、「三彩劃花盤」、「三彩碗」などの美しさに惹きつけられる。前者はグリーンとイエロ・オーカーが基調となつてゐる。「黄釉長頭瓶」などといふのも目につく。古い時代の陶器といふものは、研究資料として大切なものであらうが、古いことだけで直ちに美術品といふ資格に合致するかは疑問だ。「景泰藍氷箱」といふ乾隆帝時代の大きな氷をいれる箱がある。「避暑山荘、銅版と木版画の対照」と手帳に書いてあるが、どういふつもりで覚書をとつたか、いまはわからない。勿論、支那ではじめてつくられた清朝の銅版画をみた時の感想である。動物土器のなかに、周、漢、唐各時代の鶏がある。魚、犬、豚もある。この博物館は、かつて湯玉麟の私邸だつたといふが、湯は往年の熱河軍閥で、満洲建国後叛旗をひるがえし、熱河から追ひだされ男である。」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、432頁

【史料18-4】遼時代の陶器は満洲色・支那の陶器の区別

〔豊田〕「〔……〕洋車にのり、もと湯玉麟の邸宅だつた博物館をみに行つた。遼時代の陶器にはいかにも満洲色があつた。濁つた黄色、変つた形状。規格の正しい支那の陶器からみると幼稚な形をなさない想像力があつた。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房 1942 、73頁

【史料19】奉天

【史料19-1】駅前の異民族混交の様子

「7時半奉天駅に下車、ホームで次の列車を待つ、待合室に「小心小倫」の掲示がある。小泥棒に注意しろといふのだ。山海関奉天間を往復する傷病兵収容の軍用列車も着く。支那人を満載した錦州発の汽車も着く、ホームは日支人で忽ち一杯になる、支那人の赤帽は赤い布でへりを取つたチヨツキを着けて右往左往、支那旅館の客引きどもは胸と背に館名を大きく書きあらはしただぶだぶの服を着て、大きな声で呼んでいる。」
石倉惣吉 『満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933 、34-35頁

【史料19-2】富裕階層 国際都市

「午前8時列車は奉天駅に滑り込んだ。〔……〕広大な駅を出た。赤煉瓦の立派な大建築、流石は旧満州首都の玄関口である。古き都……、この国の貴族でもあらうか、純支那族の龍の刺繍した紳士や淑女の幾組かが下車し、之れを迎ふる黒塗馬車。そのほか福々しい、人品のある貴顕貴婦人も数多く散見した。白衣の鮮人、長袖をだらりと着流した満人、色とりどりの服装、流石は国際都市の面目躍如として描かれてゐる。」
新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938、70-71頁

【史料20】デパート・百貨店

【史料20-1】吉順絲房① 四平街・店舗の壮麗・看板・満人たちの様子

「〔……〕奉天市街を一巡する事になつた〔……〕外城壁はとうにこわれて、今では見る事が出来ない、内城の大西門、高さが三丈五尺、厚さが一丈八尺、瓦を積みあげた城壁の門をくぐると、ここは四平街といつて奉天の銀座通りである。店舗の壮麗も去る事ながら、我々お目を奪ふのは看板のデコレーションである。金色燦爛たる文字入りの装飾看板が店前一ぱいに展開され、そこには満洲人がうようよと往復している。ここでの第一の大商店は吉順絲房綢緞布荘である〔……〕エレベーターで5階の屋上に登ると、ここからは奉天全市を眺めることが出来る、内城の旧宮殿も足もとに見える、城壁も四角につらなつてゐる、軍用機が雲間に飛行してゐる〔……〕」
石倉惣吉 『満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、1933 、85頁

【史料20-2-1】吉順絲房②A 屋上での食事・展望 旧張学良邸(国立図書館)・大南門・北陵・北大営・喇嘛塔・附属地

「〔……〕城内唯一の展望地点たる四平街の百貨店吉順絲房の五層楼上に登つて、食事をなしつつ城の内外を展望した。石造や煉瓦造の建物、泥造の旧式家屋が雑然と立並び、車馬の砂塵は濛々と立ち籠めて争乱の巷に似ず殷賑の市街である。時めいた張学良の洋風公館は図書館となり、かの日露の役大山大将の入城に名高い大南門裡に高くそれと指すことが出来る。【稍々彼方壁外小南関路の辺りに立つ2つの尖塔は天主教会堂、小北門外の白塔の影、更に眸を遠く放てば西北郊外の野に這へる長き緑は北陵、更に右を見渡せば北大営、兵工廠煙突の彼方に立てるは喇嘛の東塔、南塔の彼方は渾河の平原、西塔空に浮き立つ涯には附属地の連】りが視野に入る。約1時間これ等の展望をほしいままにして〔……〕」
杉山佐七『観て来た満鮮』東京市立小石川工業学校校友会、1935 、101頁

【史料20-2-2】吉順絲房②B 上記②Aと吉順絲房からの眺めの描写が全て同じ。パンフレットか案内記かの剽窃か?

「我々は最後に城内に於て唯一の満人大百貨店たる吉順絲房の露台に立つて大奉天の全市街を見渡す事が出来た。ここに立てば城内の様子は総べて眼科に指呼することが出来る。〔……〕城郭は尚厳かに城の固を示し、清朝の昔を語る宮殿の甍と共に今尚都城の匂ひを高めてゐる。南方に当つて高くそびゆる城門は今見て来たばかりの大南門で、その少し手前には張学良の洋風公館、今の国立図書館を指す事が出来る。【稍々彼方壁外小南関路の辺りに立つ二つの尖塔は天主教会堂、小北門外の白塔の影、更に眸を遠く放てば西北郊外の野に這へる長き緑は北陵である。それより視野を右に移せば、無電台の北は事変に名高き北大営、兵工廠の煙突の彼方に立てる喇嘛の東塔、南塔の彼方は渾河の平原、西塔に浮き立つ涯には附属地の連り】が見える。附属地一帯は大広場附近を中心として大厦高楼並び立ち大都市の威容を示してゐる。」
森田福市『満鮮視察記』、自費、1938 、139-140頁

【史料20-3】吉順絲房③ 喇嘛塔とラマ教を深く信じる満人について

「城内の展望は四平街にある満人経営のデパート「吉順絲房」の屋上が最も好適とされていゐる。我々もこれに昇つて城内を展望するのである。〔……〕同所より北方を望む景である中央の塔は城の東西南北に各一座ずつ建てられた「喇嘛塔」の中「北塔」と称す一座である。喇嘛教を深く信仰する満人は、都城鎮護の為に建立したものと云ふが、此の塔は独り奉天のみでなく、他の城至る処にあり、往時支那に於ける喇嘛の強大なる勢力の程が偲ばれて興味深い。更に眼を南方に転ずれば、眼下に此城の中枢たる宮殿の豪壮なる甍が展開する〔……〕」
志村勲『満洲燕旅記』、志村勲、1938 、46-47頁

【史料20-4】吉順絲房④ 美しい様子

「城内は全くの満人街で回教徒の飲食店や瓜を食べつつ歩いてゐる支那の男の人等珍しい風景だ〔……〕吉順絲房という百貨店は実に素晴らしかつた」
大陸視察旅行団 『大陸視察旅行所感集 昭和14年』、大陸視察旅行団 1940 、52-53頁

【史料20-5】吉順絲房⑤ 「奉天三十年」クリステイー博士の病院

〔新田〕「城内の繁華街四平街の吉順絲房(百貨店)の屋上から、奉天市街を眺める。実に大きな、人家密集した大都会の感じだ。遠くに北陵の森も見え、また別の所に立つと、小河沿の水も見える。ふと、あの「奉天三十年」の著書クリステイー博士の病院はどの辺だらうなどと思つて眺める。もう夕暮れ近い。水北門を出ようとする所にある余り綺麗でない料理店の店先で、包子がいかにも食欲を唆るやうな湯気を立ててゐる。そこに入つてその包子とタンを注文する。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房 1942 、102-103頁

【史料20-6】協大百貨店 満人百貨店における満人の買い物の様子

「協大百貨店といふ勸工場にはいつてゆく。木綿の粗末な靴下やシャツ類がたくさんある。とに角スフでなくて木綿である。スフの靴下が見本に置いてあつて、満人がとんでもないスフ的日本語で、木綿品をよく見よといふ。一番奥に文房具店があり、万年筆に「自来水筆」と書いてある。ハーモニカが並んでゐて、満人の中学生が満洲美人の人形ブロマイドを手にとつて熱心に眺めてゐる。〔……〕普通の満人の用品店には店員がたくさんゐて、1人の客に必ず1人の店員がつく。〔……〕「Taltarin 五淋断根」といふ花柳薬の広告は、ヴエイルをまとつた裸体のダンサーが踊つてゐる切抜きを写真立てのやうに立てたもので、これを四五人の満人労働者がキヤツキヤツと笑ひながらのぞきこんでゐる。」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、438-439頁

【史料21】奉天城内

【史料21-1】城内① 支那街・看板・雑踏・文字の国

「再び馬車を雇ひて市中を見学仕候、今日は方面をかへて奉天城内へと向ひ候、城門を潜れば全く支那街にて支那色を帯びたる金看板の商舗の間に、銀行、会社、貿易商等の横文字の点在し、商埠地の大通りは日に歳に美観の増し行くを覚え候〔……〕流石満洲国第一の都市だけありて、〔……〕城内は殊更の雑踏を極め自動車馬車の往来激しく、身動きの出来ぬ有様にてあの太文字の大きな横掛けの看板のみ目立ち居り候、支那は文字の国にて、看板の意味の深長なる、文字の使ひ方の古代的なる思はず失笑禁ずる能はざるもの有之候、一例を申せば、サービス百パーセントと云ふ処ならん、旗亭の軒下に「恋人的犠牲」と云ふものさへ見受け申候、意味深長の最たるものならんと愚考仕候。車は宮城、学良邸を経て転向場末の感あれ共工業地帯を一巡仕候、木材公司、製麻所、製糖所、航空所等々誠に満洲シカゴの名に恥ぢざる工業地帯にして伸び行く当市の発達は、満洲国教育のバロメーターに有之候。」
橋本隆吉『満蒙の旅』堀新聞書籍店、1933、40-41頁

【史料21-2】 賑やかな風景・格別の人だかり

奉天城内は格別賑やかに候、まして物見高い彼等殊更夕景は一層甚だしきを覚え候、男と云ふ男、娘も子供も、左住去来、雑然と大声を上げ居り申候、支那警察官はかひがひしく交通整理をいたし居り候。大声で量り売る縁日行商、売る人も品買う人も汗だくだく、又之を見んとする閑人、田舎のお百姓まで交へて格別の人だかりに候、元来満州国人は声は高く強く、一寸見には喧嘩としか見え申さず候、まだ言語の通ぜざるがましかと愚考仕候、涼みの人まで交へてとても動けぬ人だかりに候。」
橋本隆吉『満蒙の旅』堀新聞書籍店、1933、47頁

【史料21-3】城内③ 支那街 商埠地と城内を往復

支那街では濃厚な色彩、緻密な彫刻的店飾も、目も綾な金看板、赤い布い金文字で浮き出された旗、或るは縦に或いは横に雄坤なる筆勢に躍つてゐる文字、扠ては満洲独特の騒音を漲らせて往来する男女の群、何だか全満洲の繁栄が、殷賑が、悉く茲に集められたかと云ふ気がした。商埠地から城内を堺ひする小西辺門の、龍の躍つた門の下をも数回往復して、万丈の黄塵を浴びつつ車馬の絡駅たる活況をも見た。厳めしき城門と、万里の長城を連想させる厚い、高い城壁と、その付近の夥しい人の流れとにも充分満洲都市の気分を味わふことを得たのである。」
渡辺房吉『満洲から朝鮮へ』、自費、1933、91頁

【史料21-4】城内④ 市場の様子

「〔……〕城内市場を見に行つた。内城の外側、城壁に沿ふて大西門から大東門に至るまで狭長な市場が出来てゐる。〔……〕即ち大西門より小南門迄は、古着屋・鍛冶金具屋、小南門から大南門迄は雑貨店・骨董品店・大南門から東南角迄は、野菜屋・獣肉屋・東南角から大南門迄は家具屋が多い。支那人が雑閙して縁日の様だ」
杉山佐七『観て来た満鮮』東京市立小石川工業学校校友会、1935 、101頁

【史料21-5】.城内⑤ 満人町 四平街・満人大商店・有閑満人の漫歩・大南門

「附属地を東に通り抜け、商埠地を越へると、街は一転して純然たる満人町となる〔……〕此城壁に囲まれた市街は、四平街、鐘楼南大関、鐘楼北大関等が井桁に交叉し、表通りには満人大商店が並び、横町には青楼、妓楼、其他の娯楽機関があり、それ等を廻つて有閑満人が三々五々漫歩している。洵に殷盛を極めた光景である。そして城内と城外の連絡は、東西南北に各大小二つの門によりてなされてゐる。就中大南門は、奉天落城の直後、大山司令官が晴の入場を行つた門であり、馬上悠々たる将軍の英姿と共に、我々が常に画上で印象の深い史蹟である。」
志村勲『満洲燕旅記』、志村勲、1938 、46頁

【史料21-6】城内⑥ 城内の繁昌・裕福らしい生活振り

「城内は画然として整うてゐる。相当に大な洋行、公司、官銀号など金看板が軒を埋めてある様子を見ると、相当に繁昌して居り、活気もあり、服装から見ても裕福らしい生活振りである。〔……〕看板が道路の両側にずらりと掲げられ、支那式ではあるが、相当に窓飾りもしてある。」
新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、1938、80頁

【史料21-7】城内⑦ 四平街の大商店櫛比・店舗の構えと装飾

「城内は美しい宮殿を中心にして、方形の内城とそれを囲む不整楕円形の辺城とからなる満洲第一の平城である。〔……〕城門に通ずる大道は、いづれも最近市区改正を終り、実に整然たるもので商業極めて殷賑、特に小西門から小東門に通ずる四平街は欧風の大商店櫛比し、人馬織るが如き繁華振りを見せてゐる。城内の大商店は欧風の建物でこそあれ、店舗の構へ、装飾は所謂支那式を発揮して赤、黄、青の原色華やかに如何にも満人街らしい賑やかさを失はない。〔……〕八辺門を開き辺城と内城との間は、民家稠密し幾多の胡同(横町)を成してゐる。」
森田福市『満鮮視察記』、自費、1938 、137頁

【史料21-8】城内⑧ 満人町・様々な満人・ひっくり返したお玩具箱

「〔……〕奉天城内に入つた。此処は満人町で、狭い道に、ごてごてと小さい歪んだペンキ塗りの家が建ち並んでゐる。様々な満人が往来し、「アララーラー」と叫んで行く馬車や、荷馬車や、まくは売の前にしやがんで、まくはを食いながら蔕を其処ら辺にまき散らしてゐる人や、姑娘やら、小児やら—。まるで塵と埃の中に、お玩具箱を引つくり返した様な光景だつた。」
松井秀子『大陸奉仕行』、興亜保育協会、1941 、101頁

【史料21-9】城内⑨ 屋台に群がる苦力、見つからない泥棒市

〔新田〕「城内に入つた。崩れかけた城壁は、見上げる夕空にくつきりした線を画して立っており、そこの広場の所では、あらゆる食物の屋台店に苦力らしい風体の薄汚い満人がわいわい群がつてゐる。武田女史は、ここにあるといふ泥棒市を私達に見せようとして交番で訊ねたり、通りかかつた満人に訊いたりして、教えられた通りに行つてみるが、どこにもない。つい少し前、女史もそれを見たばかりだと云ふ。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房 1942 、79頁

【史料21-10】城内⑩ 富裕層の満人の着衣・城内での食事

〔井上〕「旧城内の商店街は、さすが大廈高楼が軒を並べて行き交ふ満人の着衣まで立派である。某百貨店で、うどんを食ひ、更に町はづれの薄汚い料理屋で、天津包子といふものを食ふ。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房 1942 、94頁

【史料21-11】城内⑪ 混雑・衣服・焼き餃子

〔豊田〕「満人街の混雑といつたらない。誰ひとりのんびりしてゐない。みないそがしそうに動いてゐる。桶のなかの泥鰌のやうだ。紺の綿入服が雑踏する情景はへんに量感があつて象徴的だ。地についた民族姿といはうか。子供たちもわめいて煙草を売つてゐる。みな定価よりも高い。山査子の赤い実を串にさして売る。これはいかにも満洲らしい風物である。四平街のデパアト吉順絲房の屋上にのぼる。奉天市街が一望のうちにある。教会のゴシック建築、旧王城、張作霖の旧邸宅、すぐうしろは城壁で、くづれかかつた遼塔がたつてゐる。日が暮れかかる。焼餃子をくふ。大蒜臭くてこいつはうまいともいへない。影絵芝居に案内してくれる筈だつたが飯河君も濱野君もあまり興味はないらしく、いつの間にかお流れにされてしまつた。僕はあんなものが妙に好きでたまらないのだが。奉天満洲の大阪らしい。その商業的旺盛さはおどろくべきものだ。」
井上友一郎, 豊田三郎, 新田潤『満洲旅日記 : 文学紀行』、明石書房 1942 、98頁

【史料22】市内5銭の人力車

「駅に着いて誰もが驚くのは人力車、馬車の多い事だ、自動車も多いがそれは敢えて驚くに足らぬ。日本人と見れば乞食然とした半裸体の車夫が長い梶棒を引いて前後左右にやつて来る「乗れ」といふのだ。斯うなるとどれに乗つてらよいか分からぬ、成る可く人相のよい綺麗なのに乗らうと見廻はしてもそれらしいのがない、兎や角してゐる中にトランクの一つは甲の車に乗る「成る程これはうまい商畧だ」満洲といはず支那といはず車銭の安いのは我々旅行者には何よりも嬉しい。どこ迄いつても先づ大抵拾銭やればよい、それに奉天では市内5銭だから彼等の汗の値段も泣きたくなる程安い〔……〕安いから従つて需要も多い、時間の余裕さへあつたら見物は洋車(人力車)に限る。然し馬車も幌があつて乗り心地が良よく二人づれなら尚更よい。私は奉天を洋車の街、馬車の都といひたい。」
早坂義雄『我等の滿鮮』北光社、1934 、90頁

【史料23】歓楽施設

【史料23-1】支那風呂

「〔……〕支那風呂に出かけた、〔……〕堂々たる風呂だ、旅館か料理屋かにしか見えぬ。〔……〕ずんずんと奥の方に通される「やあ居るぞ」支那人が、5、6人共同風呂に入つてゐる。一目見て直ぐ引き返し今度は2階に上がるとボツクスが幾つも並んで居る、中に陶磁製の風呂桶がある、之が2等らしい。その少し先に案内のボーイが鍵を開けた部屋を見たら、風呂桶の外に寝台が2つ並んでゐる。差しあたり日本の家族風呂である、之が1等だ、入浴しては茶を飲み、唄を唄ひ、昼寝をしては又入る、床屋も居る、爪切りも居る、料理も食えば酒も飲める、支那人の享楽生活の半面がよく現はれてゐる。之で1日70銭とは高くない。」
早坂義雄『我等の滿鮮』北光社、1934 、91-92頁

【史料23-2】春日通① 平康里 書館・閣・堂、打茶園

「〔……〕尋常5年の満洲子さんと春日通の方面を散歩した。大道には瓜や桃を売つてゐる程暑い晩であつた。足はいつの間にかネオンサインのまなゆき人込みの多い街に出た「叔父さん、ここ平康里よ」〔……〕左右には多くの脂粉をこらした厚化粧の支那美人が門前に出てゐるではないか。〔……〕私は思ふた「料理屋としても変だ」「廓か」「然し奉天市街の真中だ、いや本屋があるぞ」看板にはたしかに何々書館と書いてあつた。然し本は勿論陳列されていない、では図書館か、中に入れば本は1冊もなく、支那美人がそこかしこに居るではないか流石に私も驚いた〔……〕2、3軒漁つて見た、中庭に入ると、太った大入道が何やら云ふと、呼び子に応じて奈良公園の鹿が集まるやうに色取り取りの女が集まつて来る、一々芸名をいふ、其の中から好きなものを選べといふのだ。嫌ひなら左様なら、といつて出て行く、出て行く者も、中に居る女も平気だ大陸的であつさりしている。〔……〕書館の外に「閣」「堂」と名のある家もある。書館は一流で、閣は二流、堂になると等外のインチキである。又満洲支那には打茶園といふ事があつて1弗出せば妓女の部屋で夜12時頃迄茶を呑み漫談をし唄を唄ひ、うたた寝をして帰れる仕組みもある。」
早坂義雄『我等の滿鮮』北光社、1934 、93-94頁

【史料23-3】春日通② 書館=妓楼

「「私は図書館も経営して居るから、珍本を売る書店へ行き度いですが」「よし、よし、天下無類の珍本屋へ案内しやう」と○○氏はぐんぐん先に立つて奉天銀座の称ある春日町通を行かれる。看板には「艶楽書館」とある。艶物本屋かと思つて店内に入るとドツトばかり女群が押寄せ、口々に「私を呼んでくれ」と連呼する。「なんだ!」其は妓楼だつたのである。妓楼の事を満洲では書館と云ふのである。」
村松益造『黄塵紀行』南塘文庫、1938 、21頁

【史料24】観光案内

【史料24-1】満洲観光連盟

満洲国には奉天の満鉄鉄道総局内に満洲観光連盟があり各地に支部をつくつて業務の研究と連絡をはかつてゐて、重要な都市には大概観光バスがある。雑誌には『満洲観光連盟報』が当事者の連絡雑誌として観光され、日本国際観光局満洲支部の『観光東亜』が一般の観光雑誌となつてゐる。私は旅行から帰つてそれらの観光雑誌にそれぞれ一文を徴せられたが、同時に日本観光連盟の『観光連盟情報』からも「満洲・北支のホテル」といふ一文を求められた。観光バスが乗客の記念写真をとるのは、京城でもそうであつたが、バスの切符が三色刷名所絵葉書の一端についてゐるのなどは、大同のやうな天井の破れたボロバスでも、ちやんと同じやうな絵葉書切符をくれるから微笑させられる。ミシンのはいつた切符をちぎると、絵葉書が記念として乗客の手に残るわけである、満鉄の機構のなかにも旅客課が観光事業を受け持つてゐて観光叢書をだしてゐる〔…・〕」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、422-423頁

【史料24-2】満鉄旅客課

「鉄道局は昭和8年(大同2年)3月満洲国の国有鉄道の経営を委託された際設置され、当時は鉄路総局と呼ばれてゐたが、昭和11年10月全満鉄道機構の改革に伴ひ、国有鉄道と満鉄会社線の一元的運営が行はれることになつて鉄道総局と改称された。〔……〕ここで我々のやうな視察者が訪ねてゆくのは旅客課であるが、映画宣伝などは弘報課で取り扱つてゐる。旅客課からは多数の宣伝用パンフレットが刊行されてゐる〔……〕」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、428頁

【史料25】『揚子江艦隊』東宝、1939

「光陸電影院といふ映画館では、東宝の「揚子江艦隊」を上映してゐる。〔……〕揚子江の波をけたてて進む軍艦が見え、大砲のはげしい録音がきこえる。〔……〕顧客は全部満人らしく、文字通り満員である。」
春山行夫満洲風物誌』生活社、1940、440-441頁