雑録

【レポート】満洲国の観光について 第三章 「観光から見る奉天」

はじめに

 奉天は新京と異なり、満洲国成立を契機に新たな都市建設が進んだ都市ではない。清朝ゆかりの地であり、初代ヌルハチと第二代ホンタイジの居城であった奉天城を中心に城内と呼ばれる市街地を形成していた。また清朝崩壊後には軍閥の拠点が置かれ、奉天軍閥張作霖の私邸や熱河軍閥湯玉麟の別荘など置かれていた。このように現地住民特有の文化が色濃く残ったのが奉天だったのである。

第一節 奉天の観光資源 歴史的文化財

 奉天は歴史ある伝統的な都市であったため、歴史的文化財が観光資源となった。具体的には奉天城、ヌルハチの陵墓東陵及びホンタイジの陵墓北陵、そして国立博物館である。
 まず奉天観光のランドマークとなっていたのが、奉天城である。観光バスのルートにも組み込まれており【注1】 、日露戦争満洲事変の戦跡と共に必ず訪れる対象になっていたのである。

  〔……〕城内に至れば奉天城は美しい往時の宮殿を中心として、方形の内城とそれを囲む辺城からなつてゐる満洲第一の平城である。内城は、甎築で周囲六粁、高さ一一米、厚さ五・四米、八門を開き中心には宮殿を始め奉天の首脳をなす諸官衙が蝟集し城門に通ずる大道は商業極めて殷賑、小西門から小東門間の四平街は大商店が櫛比して居る。【注2】

 奉天城はその美しさを称えられ、それだけで観光資源となると共に、その周辺に形成された諸施設が人を引きつけていたのである。
 次に陵墓である東陵と北陵について見ていく。東陵はヌルハチの陵墓で北陵よりも奉天駅から離れているため、アクセスは若干悪い。しかしながら東陵よりも自然的景観が優れているとされ、「陵境たる天柱山は周囲四邦里余、四囲鬱蒼たる松林に囲まれ、剰へ渾河の清流を臨み、山を環つて流るる山紫水明の景観は北陵にも優るものである。【注3】 」と紹介されている。他方で、北陵はホンタイジの陵墓であり奉天駅の北方六キロで距離的にも近いため「奉天人士の行楽地」となっており、観光バスのルートに組み込まれている。【注4】 この北陵は単にホンタイジの墓だけが観光資源となっているのではなく、様々な重層性を含んでいる。北陵周辺は公園で周囲には競馬場がある【注5】 こと、獣をモチーフにした石仏で良く知られていた【注6】 こと、日露戦争乃木希典が率いた第三軍が苦戦した【注7】 ことなど、北陵一ヵ所が様々な意味を持っていたのである。
 奉天の観光資源となっていた歴史的文化財に関する施設の三つ目が、国立博物館である。国立博物館は新京と奉天に置かれたが、新京は主に自然史系であり、奉天は人文系であった。そのため、満洲国の歴史的文化財奉天に収集されたのである。故に観光バスのモデルコースでも訪問地となっており、観光案内書でもその誇りが謳われている。

  古代支那文化を一堂に集め聚めた此の国立博物館満洲国文化の歴史を語るに相応しく世界に誇るものである。贅美を尽くした白聖の三層楼は、もと熱河の阿片王と謳はれた旧東北軍閥の巨頭湯玉麟華やかなりしと当時の私邸であつたものを事変後の康徳二年五月に改修、博物館として再生したもの、館内の室数は二二に及び、陳列せる珍宝三千五百余点の中には遠く千六百年前の土器もあり、刻絲一枚に二〇万円の評価を下されてゐる等、一片の土瓦にも古を偲ぶ文化の跡が想像されて、終日飽くことを知らざる名宝が収められている。【注8】

 このようにして、満洲国立博物館には、貴重な満洲国の文化財が収集され、体系的に展示され、観光者に満洲国の誇りを感じさせている。
 以上、奉天城、陵墓(東陵及び北陵)、満洲国立博物館を見てきたが、これらの観光資源からどのようなことが言えるだろうか。これらからは、清朝の継続性、中華民国からの独立性、伝統的文化財の保護の三点を挙げることができる。
まず、清朝との継続性について。満洲国は早々に帝国となり溥儀は執政から皇帝となったが、その支配の根拠の一つとして清朝との繋がりがあった。奉天城や陵墓を整備し、ヌルハチホンタイジの記憶を喚起させたのは、清朝の起源が後金であり満洲族の国家であることを知らしめるためでもあった。
そしてこのことは、中華民国からの独立性にも繋がる。中華民国孫文三民主義を唱えて形成した国だが、その際の四大綱領の二つに「駆除韃虜」と「恢復中華」というものがあった。清朝支配を倒して、漢民族の統治を回復させようというものである。即ち、中華民国漢民族民族自決した独立国家であり周辺民族とは決別しているのである。それ故、満洲国は中華民国とは異なる別の国家であることを示すという意味で、清朝との継続性は中華民国からの独立性に繋がるのである。
最後は、伝統的文化財の保護である。博物館は満洲国の文化財の発掘・収集・保存・展示に努めたが、これは満洲国としての一貫した歴史を創出することを意味していた。渤海、遼、金など中国とは異なる国家の歴史を連ねることで、満洲国としての歴史を提示しようとしていたのだ。

第二節 奉天における観光者の旅行行動

 奉天における特筆すべき観光者の旅行行動として、城内の百貨店吉順絲房の屋上から奉天市内を眺めるという行為がある。吉順絲房は現地住民が経営する近代的な百貨店である。

  城内唯一の展望地点たる四平街の百貨店吉順絲房の五層楼上に登つて、食事をなしつつ城の内外を展望した。石造や煉瓦造の建物、泥造の旧式家屋が雑然と立並び、車馬の砂塵は濛々と立ち籠めて争乱の巷に似ず殷賑の市街である。時めいた張学良の洋風公館は図書館となり、かの日露の役大山大将の入城に名高い大南門裡に高くそれと指すことが出来る。稍々彼方壁外小南関路の辺りに立つ二つの尖塔は天主教会堂、小北門外の白塔の影、更に眸を遠く放てば西北郊外の野に這へる長き緑は北陵、更に右を見渡せば北大営、兵工廠煙突の彼方に立てるは喇嘛の東塔、南塔の彼方は渾河の平原、西塔空に浮き立つ涯には附属地の連りが視野に入る。【注9】

 このようにして城内にある吉順絲房からは奉天一円を眺めることが出来、観光者はこの展望を求めて吉順絲房を訪れたのである。観光者の視線から、日本人が現地住民の百貨店を利用していたことが分かるのである。
 また、奉天城と吉順絲房が観光資源となっていたので、日本人観光者は必然的に城内に足を運ぶこととなる。城内はどのように観光者の視線に映ったのだろうか。「此城壁に囲まれた市街は、四平街、鐘楼南大関、鐘楼北大関等が井桁に交叉し、表通りには満人大商店が並び、横町には青楼、妓楼、其他の娯楽機関があり、それ等を廻つて有閑満人が三々五々漫歩している。洵に殷盛を極めた光景である。【注10】 」といった描写や「商業極めて殷賑、特に小西門から小東門に通ずる四平街は欧風の大商店櫛比し、人馬織るが如き繁華振りを見せてゐる。城内の大商店は欧風の建物でこそあれ、店舗の構へ、装飾は所謂支那式を発揮して赤、黄、青の原色華やかに如何にも満人街らしい賑やかさを失はない。【注11】 」という描写があり、城内の満人街が栄えている様子が分かる。欧風的な建築である満人の大商店が軒を連ね、有閑満人の豊かさを垣間見ることができる。ここには後進的で劣った現地住民の様子などは見られない。
城内で日本人観光者が現地住民経営の店で買い物をすることもあり、満洲における物資の豊かさが分かる。「協大百貨店といふ勸工場にはいつてゆく。木綿の粗末な靴下やシャツ類がたくさんある。とに角スフでなくて木綿である。スフの靴下が見本に置いてあつて、満人がとんでもないスフ的日本語で、木綿品をよく見よといふ。【注12】 」とあり、粗末ではあるが、代用品のスフではなく、木綿品をたくさん並べる余裕が一九四〇年の時点にあったことが分かる。
 

第三節 奉天における現地住民の都市生活

 第二節では、日本人観光者が満人街を訪問しており、そこに住まう現地住民の繁栄ぶりを見て来た。この節では逆に、現地住民が奉天とどのように関わっているかを見ていくこととする。
 まず奉天駅の様子からこの駅が多様な民族に使われていたことが分かる。「この国の貴族でもあらうか、純支那族の龍の刺繍した紳士や淑女の幾組かが下車し、之れを迎ふる黒塗馬車。そのほか福々しい、人品のある貴顕貴婦人も数多く散見した。白衣の鮮人、長袖をだらりと着流した満人、色とりどりの服装〔……〕【注13】 」とあり、満洲駅の賑わいが分かる。満鉄は多種多様な人々が利用していたわけだが、これが現地の旅客業の需要を創出していた。「ホームは日支人で忽ち一杯になる、支那人の赤帽は赤い布でへりを取つたチヨツキを着けて右往左往、支那旅館の客引きどもは胸と背に館名を大きく書きあらはしただぶだぶの服を着て、大きな声で呼んでいる。【注14】 」とあるように、現地住民も満鉄従業員として働き、旅館に斡旋するために奉天駅まで進出していたのである。
 続いて、奉天の歓楽街についてだが、奉天では附属地などの日本人居住地域に歓楽施設が作られた。そこには現地住民が経営する施設もあり、そのサービスを受けるために現地住民もまた日本人居住地域にやってきていたのである。

〔……〕支那風呂に出かけた、〔……〕堂々たる風呂だ、旅館か料理屋かにしか見えぬ。〔……〕ずんずんと奥の方に通される「やあ居るぞ」支那人が、五、六人共同風呂に入つてゐる。一目見て直ぐ引き返し今度は二階に上がるとボツクスが幾つも並んで居る、中に陶磁製の風呂桶がある、之が二等らしい。その少し先に案内のボーイが鍵を開けた部屋を見たら、風呂桶の外に寝台が二つ並んでゐる。差しあたり日本の家族風呂である、之が一等だ。【注15】

 日本人居住地域に現地住民が支那風呂を経営し、そこにわざわざ現地住民も訪れるという様子が描かれている。
 最後は現地住民の娯楽として日本映画が消費されていたことを挙げる。満洲国でプロパガンダの一つとして日本人作成の映画が放映されていたことはよく知られているが、現地住民たちはどのように受け入れていたのであろうか。観光者の視点からはその一端を読み取ることができる。「光陸電影院といふ映画館では、東宝の「揚子江艦隊」を上映してゐる。〔……〕揚子江の波をけたてて進む軍艦が見え、大砲のはげしい録音がきこえる。〔……〕顧客は全部満人らしく、文字通り満員である。【注16】 」と記されており、日本軍のプロパガンダ映画が放映されていること、それにも関わらず現地住民は視聴していること、さらに映画館が満員になるほどであった。
 以上のように、奉天は国際社会であり多様な民族が混在していた。奉天駅は国際色に溢れそれが旅客業の需要を生み出し、現地住民の赤帽や客引きなどが見られた。また日本人居住地に作られた歓楽街には現地住民が経営する支那風呂も作られ現地住民もそれを利用するために日本人居住地域を訪れていた。そして日本作製のプロパガンダ映画が放映され現地住民で満員になる程であった。
 

第四節 本章のまとめ

 本章では観光から奉天市を見て来た。観光事業者側は奉天の観光資源として、その伝統的な文化財を利用しようとしていた。奉天城や陵墓を整備することで清朝との継続性を示し、さらに博物館では渤海・遼・金などの発掘物や文化財を体系的に示すことで、満洲国の一貫した歴史を創り出そうとしていた。独自の歴史がある中華民国とは異なる国家、そしてそれを整備したのは日本であるという関係性を示そうとしていたのである。
 一方で観光者は現地住民が日本と関係なく作り上げた城内を見学に訪れていた。現地住民が経営する吉順絲房では屋上に登って満洲国の景観を一望し、欧風の大商店が櫛比する様子を体験していたのだ。そして現地住民も城内だけにとどまっていたのではなく、日本人居住地域に進出して旅客業に携わっていたのである。
 ここに、観光事業者側が伝統ある清朝の文化とそれを保護する日本という構図を現出しようとする一方で、日本の保護とは関係なしに満洲国と関わり利益を享受する現地住民の現実主義が浮き彫りになるのである。

【注1】奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳六年度』奉天交通、一九三九、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、一三-一四コマ
【注2】『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、一九三九、七五頁
【注3】前掲書一八コマ
【注4】『鮮満支旅の栞』南満洲鉄道東京支社、一九三九、七六-七七頁
【注5】鵜木常次『最新大奉天市街案内圖』滿洲日日新聞専賣所、一九三九、 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122585、一〇コマ
【注6】奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳六年度』奉天交通、一九三九、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、九コマ
【注7】 前掲書一九コマ
【注8】奉天交通株式会社 編『奉天観光案内. 康徳六年度』奉天交通、一九三九、http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1122553、八コマ
【注9】杉山佐七『観て来た満鮮』東京市立小石川工業学校校友会、一九三五 、一〇一頁
【注10】志村勲『満洲燕旅記』、志村勲、一九三八 、四六頁
【注11】森田福市『満鮮視察記』、自費、一九三八 、一三七頁
【注12】春山行夫満洲風物誌』生活社、一九四〇、四三八-四三九頁
【注13】新里貫一『事変下の満鮮を歩む : 盲聾者の観察』新報社、一九三八、七〇-七一頁
【注14】石倉惣吉 『満鮮視察旅行記』、米沢新聞社、一九三三 、三四-三五頁
【注15】早坂義雄『我等の滿鮮』北光社、一九三四 、九一-九二頁
【注16】春山行夫満洲風物誌』生活社、一九四〇、四四〇-四四一頁