雑録

白鳥士郎『りゅうおうのおしごと!』(1)〜(7)(SBクリエイティブ株式会社)の感想・レビュー

ネット依存プロ棋士エゴサしてすぐ精神崩壊するけど少女を弟子にすることで将棋への情熱を取り戻すの。
挫折しては立ち上がる登場人物たちがステキ。
下ネタギャグが飛び交う軽いノリのコミカルなコメディの一方で、将棋を通して重厚な人生観や挫折経験を描き出すことに成功している。
負けて叩き潰されておしっこをもらすほど悔しかったりゲロを吐くほど追い込まれても、それでも何度も立ち上がっていく姿に励まされる。
人間が抱える負の側面に苛まされたり、闇堕ちしたりしながらも、懊悩や煩悶の底にある燻った火が燃え上がるような熱い展開がステキ。
ギャグパートの中に散りばめられたシリアスへの布石が絶妙。あとやっぱりジジイやオッサン、オバサンが大活躍してカッコイイね。
将棋に情熱をかける主人公くんを周囲の登場人物たちがどのように接して攻略していくのかが見所です。

1巻;あい担当回「石川県の温泉旅館の娘が大阪にやってきて主人公くんに弟子入りするはなし」

  • ネット依存系エゴサ厨主人公くんのメンタルクラッシュと復活
    • 主人公くんは中学時代にプロとなり早々に高位タイトルを獲得した将棋の棋士です。しかし最近はスランプ気味であり負けが込んでしまっていました。それには主人公くんが打ち筋を研究されてしまったことに加え、周囲からのプレッシャーもあったのです。主人公くんは高位タイトルの重さに押しつぶされ、その地位に恥じぬような将棋を打とうと自意識過剰になってしまっていました。そしてネット依存エゴサ中毒であることから、自分の対局がどう評価されるのか気になってしまうのです。今までは諦めない粘り強い泥にまみれる戦法がウリだったのですが、試合後に残る棋譜を意識して、奇麗に負けることばかりにとらわれるようになっていったのです。
    • そんな主人公くんのもとにやってくるのがヤンデレ少女:あいちゃんなのです。主人公くんが高位タイトルを獲得した時の対局が行われた場所だった温泉旅館の娘さんだそうです。主人公くんの対局をみてその将棋に憧れ単身大阪へ乗り込んできたとのこと。その余りある将棋センスに触れた主人公くんはかつての将棋に対する熱情を取り戻していきます。同世代ライバルとの戦いにおいても、いつものようにアッサリと奇麗に負けようとしたのですが、そんな姿をあいに見られてしまいます。弟子に情けない姿は見せられぬわい。あいが必死になって主人公くんが勝利する道筋を読み抜こうとしている姿を見て奮起した主人公くんは泥仕合に持ち込んで見事勝利し、連敗を止めたのでした。
  • こちらからスカウト大作戦
    • 将棋を愛する一人の少女の熱意に感化された主人公くんは華麗に復活を決め、あいを弟子にすることに前向きになるのですが、ここであいの両親が立ちはだかります。なんとあいは両親に無断で石川県から大阪府までやってきていたのです。あいの母親は老舗の旅館を娘に継がせたくてたまりません。それ故、将棋なんてしている暇はないのよ!と連れ戻そうとします。そんな母親を納得させる条件が、あいが研修会に入るための試験で3連勝すること。ここであいに試練が襲いかかります。なんと主人公くんのことを愛してやまない年下の姉弟子であるハイパーツンドラ少女銀子と戦うことになってしまうのです。ここであいは力戦するのですが、銀子によって完膚なきまでに叩きのめされてしまいます。なんと自分の駒をすべて取られてしまうほど!!敗北するあいを見てママンは帰るわよ!というのですが、ここで主人公くんが男を魅せます。なんとジャパニーズ土下座を決め、こちらからスカウト展開!!さっきまではあいが弟子入りを望んでいたけど、今度はこっちからスカウトするぜ!!!とママンを堕としにかかります。ついでにあいも土下座。あいのパパも土下座。こうして主人公くん&娘の熱意に絆されたママンは主人公くんの家族構成と年収を聞き出します。そして、もしあいが大成できなかったら婿入りして旅館を継ぐように告げ、弟子入りを許可したのでした。
個人的名場面集

あいと俺の視線が合わない理由は単純だ。俺はずっと自分の玉だけを見ていた。攻める事など考えもしないで。俯いて、亀みたいに縮こまって、ただひたすら守ってばかりいた。竜王としてのプライドや体面を守る事ばかりを考えていた。重すぎる地位に押し潰されて下を向いて後悔ばかりしていた。けれどあいは違った。顔を上げ、真っ直ぐに歩夢の玉だけを見ている。守るんじゃなくて攻める手順を考えている。勝ちがあると信じて。師匠(おれ)が勝つと信じて。(p.163)

「将棋はほとんどの場合が『投了』、つまり自ら敗北を認めることで終わります。難しい局面でも投げ出さず、自分を信じて戦い続けるには、何よりも心が強くないといけない……でも本当に大切なのは、負けた時にまた立ち上がる事のできる心の強さです……将棋を指せば負けます。自分より強い人と当たれば必ず負ける。けれど、強い人と戦わなければ強くはなれません」研修会に入るという事は、そして女流棋士への道を目指すという事は、これから何千、何万と負け続けることを意味する。敗北に押し潰された時、もうこれ以上強くなれないと諦めた時、その道は閉ざされる。「本当の敗北は心が折れた時に訪れる。心が折れなければ負けじゃないんです。だから本当に必要なのは将棋の強さではなく心の強さで、それは何よりも得がたい才能なんです」(p.249)

2巻;天衣担当回「弟子(ヤンデレ)の伸び悩みと二人目の弟子(ツンデレ)」

  • 弟子の伸び悩み
    • 正妻系メインヒロインはそのキャラクター造形を深めるために嫉妬深いヤンデレ要素を付与されることが多いのですが、まさにそれに該当します。あいちゃんのヤンデレっぽい妄執を楽しみましょう。第1巻では比類なき才能を見せたあいでしたが、弟子になった途端現状に甘んじぬるま湯に浸ってしまいます。そう、それはキャプテン翼日向小次郎が私立中学にサッカー特待でスカウトされハングリー精神を失ってしまったかのようでした。あいは大好きな将棋を反対されることなく好きな時に打てる環境と、尊敬できる大好きな師匠と、将棋仲間の友達をゲットし、意気揚々となってしまうのです。玉磨かざれば光なし。真剣に修行をしなくなったあいを一瞥した主人公の姉弟子の銀子は、弱くなっているとなじるのでした。これを見た主人公くんはあいにライバルをつくってあげようと二人目の弟子を取ることを検討するのですが、コソコソと画策する主人公くんを見てあいは浮気をされたと思い込みヤンデレを炸裂させまくります。ちなみにあいは天衣にフルボッコにされ、自分が色恋に夢中になり将棋の修行を真摯にしていなかったことを思い知らされ大いに悔し泣きすることになります。成長。
  • 二人目の弟子
    • あいが正妻系ヤンデレだとすると二人目の弟子の天衣はテンプレな高慢系お嬢ツンデレです。ちょいとばかし将棋ができるからといって天狗になっていたところを、主人公くんに叩き潰されます。こうして天衣は、研修会に入れるようになるまで主人公くんに指導を請うことになったのです。この高慢ちきツンデレの天衣は既にある程度は将棋が強いため、真剣勝負の経験を積ませることになります。その方法とは賭け将棋。大阪の商店街に連れていき、揉んでもらうこととなったのです。じつはこの高慢ちきなツンデレの天衣は、不憫なことに両親を亡くしており、寂しい生活を強いられてきていました。そして天衣は両親に将棋を仕込まれていたため、将棋の中に亡き両親を見出していたのです。将棋を指していれば思いは死なない!ということでどことなく『ヒカルの碁』サイ=フジワラはここにいたんだ!を彷彿とさせます。神の一手。
    • そして天衣は明確に主人公くんに対して好意を持っており、最初から主人公くんに師匠になって欲しいと願っていました。その理由は、死んだ天衣の父が主人公くんのファンだったから。天衣の父はアマチュアで将棋をブイブイ言わせていたのですが、生活があるのでプロにはなりませんでした。そんな天衣の父が会長(永世名人)と対局した時のことです。天衣の父は負けたのですが、当時対局の記録係をしていた少年時代の主人公くんが、対局終了後に天衣の父が素晴らしい手を打っていたことを解説したのです。それに感動した天衣の父は、娘がプロになりたいと言ったら師匠は主人公くんになってくれと!!と願い、以来、主人公くんに一目置くようになったのです。こうして主人公くんのおっかけになった父の影響により、天衣は主人公くんを熟知していったのです。
    • この過去を知った主人公くんは是が非でも天衣を弟子にすることを願います。主人公くんは天衣を弟子にするために、会長(永世名人)に将棋で挑むことになります。ここで「一手損角換わり」が炸裂し、主人公くんは勝利を収めました。そしてその対局現場には天衣の姿がありました。ここで真実が明らかになり、物心つく前から、天衣は主人公くんの弟子になるように育てられてきたのに、主人公くんはすっかりそれを忘れていたことが判明。・・・最初っから天衣が素直に言えばカタついたんじゃない?という展開ですが、そこはホレ、ツンデレの天衣ちゃんの可愛いところなんですよ。こうしてこの期に及んでまでツンツンする天衣に対して、主人公くんは「俺と、かぞく(師弟)になってくれないか?」とか「俺の籍に入ってくれ。きっと……幸せにするから」などど天衣を完全攻略してしまうのでした。重婚。
個人的名場面集

将棋は人と人とを繋げる最上のツール。将棋を深く理解すれば、対局者同士は盤上で会話する事ができる。それ故に将棋や囲碁は『指談』とも称される。たとえば俺が江戸時代の棋譜を読んだとしよう。そうすれば、当時の人々がどんな思考をし、何を狙っていたのかはかなり精確に読み取ることができる。消費時間をも知ることができれば、感情の揺らぎだって感知できるだろう。残された棋譜を辿れば、死者と会話する事すら可能となるのだ。(p.72)

天衣の背後に立って、包み込むように右手を重ねる。びくん! と小さな肩が跳ねた。そして、俺もハッと気付いた。手……小さいな。大人びた物言いをするし、強い将棋を指すからつい忘れちまうけど、天衣はまだ小学生だ。しかもご両親を事故で亡くし、身内は祖父しかいない、とても悲しい女の子……。「手を……どうするのよ……?」「うん。いや、だから……こう、ね?こんな感じで……」ぱちん! 何かの実が弾けたような、そんな音がした。「……わかったか?」「う、うん……」 俺は後ろに回っているから天衣の顔は見えない。長い黒髪に遮られて耳も首も見えないけど……重ねた手は少し、熱くなっていた。(pp.155-156)

弟子の……気持ち……。「その時、ハッと気がついたんや。わしは弟子のことを考えてるつもりで、結局、自分が逃げたかっただけなんやないかと。いや、それどころか……自分にはないものを持っとるこの子に嫉妬して、遠ざけようとしとったんやないかと」師匠の言葉を聞きながら、俺は自分の事を振り返る。俺はあいのためを思って行動していた。その気持ちに偽りはない。けれど俺は、あいの気持ちを考えていただろうか?……手取り足取り、全てを教えてあげる事が指導の全てじゃない。盤の前に座れば一人だ。誰の弟子であろうと一人で戦うしかない。一人で強くなるしかない。だとしたら、師匠にできる事とは――……戦う姿勢を見せる事。強くなっていく姿を見せる事。それこそが最高の指導なのかもしれない。少なくとも俺と姉弟子にとっては、それは最高の指導だった。(p.175)

3巻;桂香さん担当回「年齢とか挫折とか才能とか努力とか敗北とかの懊悩」

  • 自分のやりたいことに自分の人生を捧げるということ(「年齢」と「才能限界」)
    • 私は挫折系物語が大好きです。まさに桂香さんの物語は挫折系物語のテンプレ的な展開なのですが、分かっていても、こう、感情を突き動かされるものがあります。1巻から伏線は貼られていたのですが、「年齢」と「才能限界」がテーマになっています。桂香さんだけでなく、銭湯道場の娘にもこの属性が付与されています。
    • 桂香さんは主人公くんの師匠の娘であり、幼少期に厳しい修行を受けたため挫折してしまいます。しかし銀子や主人公くんが弟子入りし、その面倒を見ているうちに、もう一度将棋に取り組むようになります。しかし道は険しく、安易に考えていた桂香さんを叩き潰すのでした。桂香さんは25歳になってもまだ研修会レベルでウダウダしていたのです。桂香さんはいつも周囲と自分を比較し、見比べて、焦ってみたり、苛立ったり。まるで将棋のことを忘れてしまっていました。そうなんです。桂香さんは、弟子をとる前の主人公くんと同じ状態に陥ってしまっていたのです。将棋への情熱を失っていたのです。それではいくら頑張っても勝てるわけありません。さらに、そんな焦燥に駆られる桂香さんの前に、突如現れた燦然と輝く才能のカタマリであるあいの存在は、心情を激しく搔き乱させるのでした。こうして桂香さんは負けが込むようになり、打ちひしがれます。なんとかして、この現状を打破しなければ・・・。桂香さんは、自らラストの勝負と自分を追い込んでいきます。
    • 一方主人公くんは研究不足であることを指摘されたことにより本来は居飛車党なのですが、中飛車を学びに銭湯将棋道場に修行に出ます。そこには主人公くんと同じ年の少女がいたのですがプロ棋士の父親から才能を見限られ、将棋を断念せざるを得なくなっていたのです。さらにあいが将棋友達を駒落ちで粉砕して泣かれてしまった話から挫折経験が描かれていきます。しかし、ここで銭湯娘は開眼します。自分は、ただ、将棋が好きだから、指したいんだと、強くなりたいんだと。あいはこの銭湯少女に敗北します。
    • さぁ、銭湯少女を通して、自分のやりたいことに自分の人生を捧げる決意が描かれましたが、桂香さんはどうでしょうか。一大決心をした桂香さんは、今日負けたらやめる宣言をして、気合一千で研修会に挑みます。そして天衣を粉砕し、あいとの戦いへ。序盤優位に進めた桂香さんでしたが、覚醒したあいが形成を逆転していきます。そんなあいに対峙した桂香さんは、忘れていた将棋への情熱を思い出し、いかに自分が周囲を気にして自滅していたかをまざまざと知るのでした。こうして敗北したものの、将棋愛を取り戻した桂香さんは、一生将棋と付き合っていく覚悟ができたのです。家に帰るなり、かつて自分を厳しく指導してくれた父である師匠に、やめることをやめたと言い、どんな形でも将棋と関わりたいと述べるのでした。ちなみにライターさま自身も、桂香さんに自己投影しており、あとがきで自己陶酔しておられるのですが、「自分のやりたいこと」に自分の人生を捧げることに対する苦悩を描いており、とても共感してしまうのでした。年齢なんて関係ないぜ!!やりたいこと見つけてそれに殉じましょう。
個人的名場面集

「……さっき、才能と努力の話をしたな。憶えてるか?」「もちろん。奨励会員は誰もが極限まで努力しているから、結局は才能がプロになれるかどうかをわける……って話でしたよね?」「そうだ。奨励会を抜けてプロになる人間は誰もが極限まで努力してる。だがプロになってからも同じだけ努力できる人間は少ない」「山刀伐さんは奨励会時代と同じ努力を続けていると?」「違うな。奨励会時代以上に努力してるんだ」(p.176)

いつだって目の前には高い壁があった。将棋を始めたときは親父と兄貴にずっと勝てなかった。初めて行った道場では二ヵ月間負け続けた。二歳年下の姉弟子にも最初は全く勝てず、飛車落ちで師匠に勝てたのは入門して二年後だった。奨励会でBに叩き落され、プロになった初めての対局でもボロ負けし、竜王になってからも十一連敗した。子供の頃の俺が「プロになる」と言ったら、誰もが不可能だと笑っただろう。けれど俺は竜王になった。負けるたびに挑み。挑むたびに負け。心に痛みを刻みつけ。それでも挑み続けることが、不可能を可能にする唯一の方法だと知った。そして。いくつもの壁を乗り越えた先に現れた、最強の壁。いくつもの不可能を乗り越えて突き当たった、最強の不可能。明日からでも、次の対局からでもない。今、この瞬間から――俺は『最強』に挑む!(p.203)

「才能より、努力より、もっと大切なものがある。それを見つけられたから今日、俺は勝てたんだと思います」「ほう、そりゃ何だ?」「『憧れ』」……「才能は大事です。でもその才能を最大限に発揮するためにも必要なものが『夢』や『憧れ』なんじゃないかなって。それがあるからこそ努力できるし、子供ってどんどん伸びていくんじゃないかって」(p.223)

山刀伐さんとの将棋は、それを俺に教えてくれた。大切なのは研究結果じゃない。何かを目指して研究を続けるというその行為自体が最強の武器なんだ。挑み続けるということが。(p.224)

「将棋を仕事にできるなんて思ってない!女流棋士になりたいなんて思ってない!わ、私は……私は…………将棋が好きなだけなんだ!!」熱い指し回しであいを圧倒しながら、飛鳥ちゃんは感情を爆発させる。「だからお父さんとも将棋を指したい!お客さんとも将棋を指したい!強くなれなくたって、小さな女の子に追い抜かれたって、そんなことは関係ないよ!だって……だって私は、将棋が好きなんだから!!」(p.234)

私は将棋を指しながら、いつも他人の目を気にしていた。自分が他人からどう評価されるかばかりを気にして、本当に将棋と向き合ってこなかった。将棋を指しながら、将来のことや、お金のことや、地位や名誉のことばかりを考えていた。でも、あいちゃんは違う。あいちゃんは本当に将棋が好きだから女流棋士を目指している。いや、多分あいちゃんは女流棋士なんて資格に興味はない。そもそも女流棋士という資格の存在すら知らなかったんだから。八一くんに憧れて、そして将棋に魅入られて、何の打算も迷いもなくこの世界に飛び込んできた。信じられる?たった九歳の女の子が、たった一人で、将棋が好きっていう気持ちだけを抱いて、家出してまで内弟子になったんだよ?自分の家を飛び出して、自分が憧れる棋士の胸に飛び込んだんだよ?無敗の白雪姫――銀子ちゃんのように。「………敵わないなぁ……」既に私の玉には必至がかかっていた。これは解けない。弱い私にもそれくらいはわかる。女流棋士には、なれないかもしれない。その可能性は今、ここでまた小さくなった。でも私は、もっと大きなものを手に入れたと思う。この子と……あいちゃんと戦ったことで、気付けたことがある。将棋が好き、という気持ちに。ずっと将棋を指し続けたい、という気持ちに。十歳の頃の私が抱いていた純粋な気持ちを、あいちゃんが思い出させてくれた。才能は全然違うけど……この子はもしかしたら、将棋の神様が遣わしてくれた、幼い頃の私なのかもしれない。あの手紙をくれた私がニ十歳の頃の私を見たら、きっとガッカリするだろう。でもそれは、私が夢を叶えられなかったからじゃない。夢を見失ってしまったからだ。だから――居住まいを正し、駒台に手を翳して頭を下げ、私ははっきりした声でその言葉を口にする。  「負けました」  今まで何万回と繰り返してきた言葉を。そしてこれから何百万回だって繰り返す言葉を。 十歳の私へ。 二五歳の私は、今でも夢を追いかけているよ。(pp.297-298)

4巻;「弟子に誕生日を祝福された主人公くんが名人との戦いに闘志を燃やす話」

  • 主人公くんの誕生日は八一なので八月一日
    • 第4巻はマイナビが主催するという女性の将棋大会のはなしです。主人公くんは桂香さん・あい・天衣を引率して東京まで向かいます。いつもは如何なくヤンデレ正妻を発動するあいでしたが、今回はなにやら真剣な様子。主人公くんは弟子の成長を実感するとともに一抹の寂しさを抱くのでした。結論をあらかじめ述べれば、弟子たちは主人公くんの誕生日プレゼントに自分たちの成長・勝利を選んだのです。物語の途中では、予選を突破した弟子たちがインタビューを受けた際、主人公くんへのラブラブお誕生日おめでとうメッセージが読み上げられ、涙腺が緩んだ主人公くんが銀子ちゃんに蹴りだされ二人を抱擁する感動シーンも用意されています。そんなわけであいと天衣の二人は主人公くんに勝利を捧げるため、並み居る棋士たちを薙ぎ払っていきます。主人公くんがきょぬーお姉さん系棋士に色仕掛けを食らえば天衣が屠り、主人公くんにべた惚れの発狂系女性最強ヒャッハー棋士(祭神雷)が立ち塞がればあいが才能で勝利するのです。主人公くんは今後のスケジュールに名人との対戦があるのでこれから弟子たちに時間を割けなくなることを後ろめたく思っていたのですが、弟子たち二人は主人公くんが戦いに専念できるようにと自分たちの勝利を捧げようとしたのですね。あいのスピーチだけでなく、天衣のツンデレも炸裂。「「……私は自分のために将棋を指す。他の誰のためでもなく、自分のためだけに。今までも、そしてこれからも」ぶっきらぼうな調子でそう言ってから、俺の方をチラッと見て――こう続けた。「でも、今日は………………あなたのためだけに指したわ」……「きょ、今日だけなんですからね!?」」こうして弟子に祝福を受けた主人公くんは名人との戦いに向けて一層闘志を燃やすのでした。
  • 銀子ちゃん快進撃の巻 姉弟子(かわいい)
    • 主人公くんがヒロインを攻略するのではなく、ヒロインたちから攻略される話はよくある展開ですが、第4巻では主人公くんを攻略せんとする二人のキャラが登場します。といっても、一人目はお馴染みの銀子ちゃん。この巻の銀子は女流名跡釈迦堂里奈さんから着せられたかわいいおべべを着て快進撃を果たします。いや実に銀子はいじらしい人物像の掘り下げがなされておりまして、当初は主人公くんよりも2歳年下ながら姉弟子として入門しその溢れ出る才能を知らしめていたのですが、いつの間にか主人公くんに追い抜かれ、絶対に越えられない生物学上の違いを知ることになってしまうのです。作中では「将棋星人」と評されていますが、銀子は自分が地球人の身ながら、将棋星人である主人公くんに追いつくため、全ての人間関係を犠牲にして将棋に打ち込んできたのですね。そんな銀子はツンドラ属性のため主人公くんに自分の気持ちなど微塵も出せないのですが、かわいいおべべを着て主人公くんとお手てを繋いだことにより、二人の絆を見せつけるのです。そうそれは幼少の頃、主人公くんと銀子は同門の内弟子同士という関係上、どこに行くにもお手てを繋いで、武者修行に臨んでいたのです。一人では弱くて泣き虫でも、二人でならどこまででも行けると夏休み中に全国行脚したエピソードを提示されるともう銀子エンドでいいじゃん!!と思うことしきりです。さらに、東京から大阪へと帰るまで手を握りしめながら目隠し将棋をして幼少期の想い出を噛みしめるところでは全俺がステンディングオベーションをかましておりました。銀子エンドォォォォォォォォ。
  • 狂デレヒロイン:祭神雷
    • そしてもう一人、主人公くんに対して好感度マックスであり、尚且つアグレッシブに攻略を仕掛けてくるのが初顔見せキャラ;祭神雷です。彼女も将棋星人にあたり、将棋の為なら全てをなげうっても構わない系の狂った少女です。東北地方で過ごし強い将棋の相手に恵まれなかったため、ネットで主人公くんと対局することが生き甲斐となり、主人公くんの為なら死ねる系少女へと発展していきます。主人公くんがネット将棋から遠ざかっていた間に主人公くんを求める飢えは肥大化し、直接会うようになると個室で対局するようになります。そしてとうとう祭神雷は主人公くんに告白するのですが、主人公くんがいれば何もいらないことを証明するために新宿御苑の池に身につけているものを投げ捨て始めるのです。そしてとうとう主人公くんの自宅アパートに不法侵入した挙句将棋盤の前で全裸待機まで行きつきます。まさに狂気!!主人公くんは悲鳴をあげながら師匠の家に逃げ込み理事会に助けを求めたのでした。拒否し続けても主人公くんを求める祭神雷に対し、あいは盤上で決着をつけると宣言し、勝利するのですが、これがまた祭神雷に火をつけるのです。主人公くんと暮らすとこんなにも強くなれる・・・そう確信した祭神雷は主人公くんを奪うためにあいへのリベンジを決意するのでした。
  • お涙頂戴担当;桂香さん
    • 第3巻に続いて、シリアス担当となっている桂香さん。今回は同じように瀬戸際で燻ってる同世代友人と対決します。散りゆくものへの子守歌対決。お互い後のない立場で、地獄のような現実を味わいながら、それでも修羅の道を生きようとするおはなし。年をとると涙腺が緩み、『栄光の架け橋』エピソードでは思わず涙がでてしまいます。そんな二人の対決ですが、桂香さんの相手は日和って自分の得意な戦法から逃げてしまいます。桂香さん大勝利。しかしその勝利の味はほろ苦い物でありました。それでも桂香さんは全ての苦難を受け入れた上で、女流棋士になりたいと宣言し、負かした相手も女流棋士を目指したことに後悔はなかったと述べるのでした。
個人的名場面集

「晒し者にされ、嬲られ……それでも強く在りたいと、強くなりたいと思い続け、不断の努力を行う者。たとえ才能がなくとも足掻くことを止めない者。余は女流棋士とはそんな存在であるべきだと思う。将棋はプロよりも弱くとも、心は誰よりも強く在らねばならないと」(p.146)

「弱さは人を強くする。劣等感は心の翼だ。仮に余が男で、普通の脚を持って生まれていたら……今より将棋は弱かったかもしれぬ」(p.148)

――……本当に、もう俺は必要ないな。幼いとばかり思ってた弟子達は、いつの間にか、勝ちにこだわる手堅い将棋を指すようになっていた。これなら自分達だけで強くなっていけるし……それに将棋界での地位も急速に確立しつつある。ここでの挨拶もしっかりとこなすだろう。腕の中の雛が巣立っていくような寂しさを感じていると――(p.262)

第5巻「竜王戦で主人公くんが名人の挑戦を退けタイトルを防衛するはなし」(第一部<完>的なノリ)

  • 他者からの悪評に踊らされて勝手に自滅して精神崩壊して弟子に当たり散らして自己嫌悪するシーンがみどころ!
    • 私は精神崩壊モノが大好きです。今回もまた主人公くんが精神崩壊します。主人公くんは竜王のタイトルを防衛するために名人からの挑戦を受けるのですが、マスコミのほぼ全てが名人の味方であり、主人公くんは完全にアウェー状態です。それでも主人公くんは名人相手に善戦し良い将棋を指すのですが結局は三連敗してしまいます。主人公くんは自信をもってのぞめば何ら問題はなかったのですが、揺らいでしまうのです。ただでさえメンタル面が脆いところに、三縦くらって焦ってしまい、そこへマスコミ陣が辛辣な陰口を叩くという連続コンボが決まります。精☆神☆崩☆壊!!!主人公くんはメンタルクラッシュして自滅してしまうのでした。
    • そんな主人公くんを励まそうと好感度マックス状態のヒロインたちが頑張るのです。そう、この物語は将棋に生涯をささげた男を、複数ヒロインが攻略するというお話なんです。勝負ごとに身を焼かれる男とどのように接するのかが関係性の在り方として問われるのです。
    • まず主人公くんの一番弟子であったあいはなんとかして師匠を支えようとアレコレ尽くすのですが、主人公くんの不興を買ってしまいます。精神状態が不安定な主人公くんは健気な内弟子の一挙手一投足が気に食わなくなってしまい分けもなくブチ切れてしまうのです。普段は優しい師匠の豹変にあいちゃんは愕然としトイレで啜り泣きます。主人公くんはそんな自分の行為に自己嫌悪することとなり、あいちゃんを自分の師匠の家に預けるのでした。
    • 主人公くんの師匠の家でむせび泣くあいちゃんの姿を見て、今度は銀子ちゃんが主人公くんにアタックをかけます。しかしこれもまた逆効果。タイトル失陥のプレッシャーに悩む主人公くんに対し、銀子ちゃんはありのままの主人公くんを受け入れる作戦にでます。タイトルなんてなくても八一は八一だからありのままの八一が好きだからタイトルなんてなくても一緒に強くなろうよと励まそうとするのです。しかしこれは竜王というタイトルを支えにしてきた主人公くんの神経を逆撫でするものでした。こうしてまたもやブチ切れた主人公くんは銀子ちゃんに言ってはいけないセリフを吐いてしまうのです。銀子ちゃんは主人公くんと将棋をするために全てを賭けてきたのですが、思春期を経て一般人と同じように主人公くんとイチャラブしたくなってしまいます。そのため恋愛ごとに現を抜かしたため、主人公くんに棋力で莫大な差がついてしまったのでした。その状態をなんとかするために銀子ちゃんは主人公くんと同じステージに立つために頑張ってきていたのです。そんな銀子ちゃんに対し、「………姉弟子がいたって、それでどうなるんですか?…たがが奨励会員に何ができるってんだよ…三段リーグも経験していないような温い将棋とは何から何まで違うんです。姉弟子と一緒に研究なんてしたら、それこそ勘が鈍っちまう…」はい、痛恨の一撃が銀子ちゃんに突き刺さりました。
    • 精神崩壊して勝手にファビョっている主人公くんには間接的に悟らせるしかありません。主人公くんの二番弟子の天衣は、主人公くん一門がファッションではなく本当の実力で強いことを知らしめるために、マイナビ本選で強豪に勝利することで支援します。そして主人公くんを奮い立たせることになるのが、我らが桂香さんなのです。主人公くんが幼少の頃から接してきた桂香さんは、いつだって主人公くんの努力する姿を見てきました。そのセカイで生きている限り努力をし続けなければ生き残れない最悪の箱庭を間近で見てきていたのです。桂香さんは主人公くんが積み重ねてきた努力を、そしてその努力は承認されているのだということを伝えたかったのです。主人公くんの過去を振り返りながら「胸の中に灯った熱い何かを感じながら」と評されるところは好感度マックスじゃねーかと。そして桂香さんは自分のマイナビ本選での戦いっぷりを見てくれと主人公くんに伝え、その将棋で「決して砕けない勝利への意思」を示すのです。桂香さんの将棋に感化された主人公くんは自分の殻を打ち破ったのでした!!感動。
  • 日本人を感動させずにはいられないシナリオ構造「社会関係資本で絆の力を示し力を合わせて大団円!」
    • 桂香さんの将棋を見て覚醒した主人公くんはあいとも仲直り。自分がいじけて目を閉ざしていただけで、応援してくれている人達、支えてくれている人達はたくさんいたんだということを改めて知るのです。こうして主人公くんは4戦目に勝利し、その後も3連勝してタイトル防衛に成功します。本編では第4戦を中心に描かれていき、5戦〜7戦は観戦記録からの振り返りで勝利したことが読者に提示されます。では作中で描かれたこの4戦目の戦いの見どころはどこにあるでしょうか?それはやっぱり社会関係資本なんですなぁ。みんな主人公くんのこと好きすぎだろ!!!私も好きです。がんばぇー
    • 主人公くんは最後の最後で踏ん張りがきかず、諦めて投げ出そうとしてしまうのですが、攻略ヒロインズたちの声が脳裏によぎり、不死鳥のように復活します。桂香さんが、天衣が、銀子が、あいが、そしてみんなが応援してくれる!!イベント挿絵でこれまで主人公くんを支えてきた登場人物たちが一斉に描かれるイラストは破壊力抜群です。そして攻略ヒロインズだけでなく、ライバルの貴族;歩夢きゅんからの声援もグッとくるものがありますね(個人的に釈迦堂さんと歩夢きゅんのババショタ?師弟が一番好きだったりします)。絆の力で大勝利。やー将棋モノだけに感動させる定跡分かってるぅ!シナリオ構造的に来るぞ来るぞと予感させておいて感動させるためのお約束がキレーにバチっと嵌った感じ。勿論私もそれに釣られて感動しましたとも。感動。絶対に諦めない!!泥臭く粘り強い、関西将棋!!!!そして最後は第1巻と第5巻が円環の理構造になるようになってて、1回目に主人公くんが竜王タイトルを獲得した時の「お水指し出しエピソード」の再現がなされるところも憎いですな!!ハラショー!
個人的名場面集

「ま、あんなやつ失陥して当然だよ」…「小学生の女の子を二人も弟子にして、おまけに一人を内弟子にしてるんだろ?」「おままごとして将棋が強くなるとでも思ってるのかね?」「あの名人ですら未だに弟子を取らず将棋に打ち込んでるとうのになぁ?まだ人に将棋を教えられるほど強くないだろ」「タイトルを獲って、急に世間からちやほやされるようになって調子に乗ってるんでしょ。若いから仕方ありませんよ」「タイトルといえば≪浪速の白雪姫≫の女流玉座戦、また三連勝の防衛で決まりそうだな。無敗記録はどこまで伸びるかね?ま、名人と同じで将棋の化け物だな」「あの子は商品価値がありますから。九頭竜と付き合ってるって噂もありますけど、さっさと別れて欲しいですよ」「確かに。銀子ちゃんにはもっと話題性のある彼氏を見つけて欲しいね。芸能人とかだと話題になっていいんだがねぇ」「将棋界も名人だけで持ってるところあるから」「九頭竜の弟子の小学生もなかなかのルックスだから、女流デビューしたら人気出そうですよ。二人とも十歳でマイナビ本戦に出るくらい才能がありますし、ちゃんとした師匠につけるべきでしょ。そのほうがみんなのためですって」「何にせよ、早く名人に永世七冠になっていただきたいよ。それをみんな望んでる。誰かあいつに教えてやってくれ」「空気を読んで三連敗したじゃないですか」「はは!じゃあアレも棋界に貢献してくれてるってわけだ」言い返してもよかっただろう。むしろ勝負師として、言い返すべき局面だったろう。……だが、言い返せなかった。自分が弱いことも事実。幼いで弟子と楽しく暮らしているのも事実。『人に将棋を教えられるほど強くない』その言葉が胸に突き刺さった。図星を突かれたかと思った。俺は何のためにあの子を内弟子にしたのか?自分よりも劣る存在を身近に置いて心の安定を得ようとしているだけなんじゃないか?かわいいペットみたいにあの子を扱ってるんじゃ?そんな疑問を否定することが、どうしてもできなかった。(pp.94-95)

だが――そこからが強かった。折れなかった。何度も最善手を逃し、失敗し、泥だらけになって。それでも諦めず、自分を叱咤して、常に前進し続ける。そんな将棋だった。圧倒的な実績と実力を誇る相手に一手たりとも怯んだ手を指さず、逆に相手が微かに震えたその瞬間に、何の迷いもなく、たった一筋の光に向かって飛び込んだ。輝くような好手も、目の醒めるような手筋も無い。才能があって、口が悪い奨励会員なら「こんな手を指すくらいなら死ぬ」とでも言いそうな、泥臭い将棋……。だから桂香さんに勝利をもたらしたのは将棋の技能じゃない。それは――――決して砕けない勝利への意思だった。勝利を信じて真っ直ぐ突き進む勇気だった。誰にも砕けない、絶対に折れない、何よりも固く美しい……そんな将棋を見た。(p.162)

あいを守るためなんて、都合のいい言い訳だ。俺は俺を守ろうとしていただけなんだ。自分で勝手にいじけてただけなんだ。敗北の理由をあいに押しつけていただけなんだ。この子が俺を救ってくれた。負け続け、心が俺かけていた俺を。竜王というタイトルの重みに潰されかけていた俺を。だから俺はこの子を自分で育てると誓ったんだ。それを……(pp.175-176)

負けることは怖くない。悔しいけど……すごく悔しいけど、怖くはない。自分が否定されるのは耐えられる。だけど、自分を支えてくれる人のことは否定されたくない。俺のことを、こんなにダメな俺のことを信じてくれる人の気持ちは裏切りたくない。だったら自分が頑張るしかない。自分の力を、才能を信じることはできなくても。最後の最後まで勝つことを諦めず、俺のことを信じてくれている人達の言葉を信じて戦い抜く。棋譜汚しと罵られようとも、信じたその手を指し続ける。「それが――――努力するってことだろうがよッッッ!!」『ここまでやったら負けても栄誉』なんて情けねェことを考えてた数分前の自分をブン殴ってやるかのように、俺は大きく振りかぶって盤に駒を叩きつける!(pp.262)

…「東京では既に関係者が首相官邸に集められ、発表の準備がされていました。それが後日の指し直しとなれば今後の式典の日程なども全て変わってきます。そういうわけで今夜のうちに全てを決めて欲しいと、内々の要請があったのです」「なるほどね…で?俺に負けろと?」「滅相もない。男鹿は事実を伝えたまでです…そして個人的には、そういう小賢しい大人の思惑をブッ壊すくらいの気概を持つ男性が好みではあります」(pp.294-295)

天衣はあいのように八一と暮らしているわけではない。だが天衣は、誰よりも八一の将棋を並べてきた。将棋を見れば、八一がどんな状態なのかわかった。だから今は、自分のことで八一を煩わせたくなかった。じっと耐え続け、誰も見ていない場所で、天衣はただひたすら待った。八一が快心の将棋を指して、彼女の師匠になってくれる、その時を。そして今も天衣は待っている。ずっとポケットに忍ばせ続け、何度も広げたり折ったりして、とっくに角のよれてしまった申請用紙を、天衣は今も肌身離さず持ち続けて……八一が名人に勝つ、その瞬間を。(p.307)

「八一………また、遠くに行っちゃった………」ぽつりと、言った。幼子のように。駄々っ子のように。「……嘘つき。八一の嘘つき。『置いていかないで』って言ったのに。『置いてかないよ』って、言ってくれたのに」「がんばって追いかけなきゃね。銀子ちゃん」銀子の両肩に後ろから手を置いてそう励ましながら、桂香は思う。――八一くんが名人と一緒に起こしている奇跡は、私なんかが起こしたニセモノの奇跡とはわけが違う。それはきっと、将棋というゲームがこの世に生まれたのと同じくらいの、ホンモノの奇跡。だから銀子が追いつこうと思ったら、奇跡を超える奇跡を起こさないといけない。その可能性は限りなく低いだろう。けれど。努力すればきっと追いつくことができる。彼女の想いはきっと彼に届く。桂香はそれを確信していた。以前は無責任にそう言っていたけれど、今は自信を持って断言できる。寒そうに震える年下の姉を後ろからぎゅっと抱きしめて。そして桂香は、耳元で優しく囁いた。「一緒にがんばろ? ね?」  報われない努力(こい)はないのだから。(pp.316-317)

第6巻 銀子回その1 (恋する乙女の銀子ちゃんがメンタルクラッシュして死亡フラグまで立てます)

  • 相互に抱く劣等意識!お互いが相手に対して釣り合わないと思っちゃうすれ違いがみどころ
    • 主人公くんと姉弟子の銀子ちゃんはすでに好感度マックス状態です。ではなぜフラグが成立しないのでしょうか?いやいやフラグは成立しており、二人とも気づいていないだけなのです。二人をしてフラグに気づかせない理由はお互いが相手に劣等意識を抱いて、引け目に感じてしまっているからなのでした。まず主人公くん側の心情描写。主人公くんは、容姿端麗な姉弟子がマスコミにチヤホヤされていることから、自分とは釣り合わないと信じ込んでしまっています。またそれ故、素直になれない銀子ちゃんの照れ隠しに対して、本当に自分のことを嫌っているのだと思い込んでしまうのですね。御洒落をした銀子に連れ込み茶屋に引きずり込まれ、ご休憩!という展開になっても主人公くんは銀子の好意をスルーしてしまうのです。主人公くんが銀子への劣等意識をどのように克服するのかが気になりますね。
    • 他方で銀子ちゃんは銀子ちゃんで主人公くんに劣等意識を抱いています。主人公くんの方が遥かに将棋のレベルが上であり、同じ将棋というボードゲームをプレイしていても、見ている世界が違うことに気づいてしまっているのです。銀子ちゃんはフツーに主人公くんにすきすきーと言えばフツーにフラグが成立して一般的な幸せを手に入れられるでしょう。しかし銀子にとってそれは自分の生存理由を自ら否定することになってしまいます。銀子は自分が将棋以外に何も取り柄がないと信じ込んでしまってします。そのため将棋で主人公くんを振り向かせなければ自分のことなど見てくれないと視野狭隘に陥ってしまっています。しかし恋心を抑えて全てを将棋につぎ込んでも主人公くんに遠く及ばないというわけ。主人公くんは銀子から嫌いと言われたことを額面通りに受け取りショックを受けてしまうため、恋心よりも将棋と言ってしまうのですが、銀子は銀子でそれを信じてしまうという面倒くさい関係に拗れてしまい容易には解けません。主人公くんが銀子を肯定してやれば丸く収まるのですが、物語は終わってしまいます。そんなわけで、銀子は自分の存在理由を将棋に依存してしまっており、さらに将棋を男を振り向かせる手段としてしまっているので、すごく危うい状況なのです。
  • メンタルクラッシュからの死亡フラグ
    • 一昔前の泣きゲーブームの時代なら銀子死ぬと思います。
    • 第6巻は銀子の弱い所がクローズアップされていくわけですが、ついに銀子は新しい時代の将棋の在り方にすら疑問を感じるようになってしまいます。銀子の前に立ち塞がったのがコンピュータ系小学生男子ショタ。頭の中に将棋盤を思い浮かべるという主人公くんにすら劣等感を抱いていた銀子でしたが、新しく出てきたショタは符号で将棋を思考していたのです。そしてソフトの影響を受けている次元ではなくコンピュータそのものだ!!と愕然とするのです。ついでに主人公くんもこの傾向を見せてきているので、姉弟子は恐怖に震えるようになります。
    • 将棋しか取り柄がないのに将棋は怖い。そんな感情を抱く銀子ちゃんはメンタルクラッシュ!!!主人公くんに助けを求めて命からがら師匠の家を目指します。そんな銀子の前に颯爽と主人公くんが現れ、銀子はその胸に飛び込み、咽び泣くのです。そして銀子はここで死亡フラグを立てることになります。プロの将棋戦で戦うことでしか主人公くんは自分のことを見てくれない、だから、一度でいいから、死んだって構わないから、プロとして将棋を主人公くんと指したいと願ってしまうのでした。わーい、超不健全展開だぜ!!この銀子の妄執がどのように銀子を追いつめ、銀子を苦しめるのかが今から気になって仕方がない。
    • しかし第7巻は銀子回ではなくジジイ回なのである。銀子回はいつになるのかしらん?ちなみに後書きで作者が自分の祖父についてお涙頂戴系の小話を挿入しており、そこで高齢者が既存の価値観を変えて新たな物事に取り組む姿勢が描かれているのですが、それがまさか第7巻の伏線となるとは誰が予想していたことでしょうか?フツーに銀子回その2になるのだと思ってました。
個人的名場面集

「処女膜も破れなくて才能の壁が破れるか!!銀子、おまえはなぁ、そうやって目の前に美味しそうなおちんちんが我慢汁を垂らして待ってるのに咥えないから、いつまでたってもプロという壁を破れないんだよッ!!」(p.54)

つまり― ―処女を失えば将棋が強くなると思ったんだ。この人は……。だとしたら想像を絶する将棋バカだ。「姉弟子……焦る気持ちは分かります」横たわる姉弟子を見下ろしながら、俺はできる限り優しい声で語り掛ける。「ただでさえ将棋に負けた後は、それまでの自分を否定してしまう。だって、負けた自分を否定しないと、何かを変えないと……強くなれないから……」名人に負け続けた時、俺は俺自身が崩壊していく音を聞いた。だから強くなるために自分の全てをリセットしようとした。それまでの自分を、自分を形作る全てを否定した。弟子を取ったこと、内弟子時代の温かい思い出。そして……姉弟の絆を。そうすれば強くなれると思ったから。「でも、一気にかわることなんてできるわけがない。変わることより、変わらずに努力し続けることが重要なんです」何かを捨てるだけで何かを得るなんて、そんなお手軽な方法で現実を変えられるのhであれば誰も努力なんてしない。「俺はそのことに、竜王戦の途中で気付きました」潤み始めた姉弟子の青い瞳を優しく見詰めながら。言えなかったお礼の言葉をようやく口にする。「……気付かせて、くれたんです。あいや桂香さんや……姉弟子が」(pp.173-174)

姉弟子はすごく奇麗で、≪浪速の白雪姫≫なんていう異名も付くくらいで有名で、俺には将棋しかないけど姉弟子には他にも色々すごいところがあって……俺なんか師匠が同じってだけで一緒に暮らしてただけの、本当なら姉弟子みたいな奇麗な女の子とは知り合うことすらできないような男で。だから――」……「だからこんなことはもうやめてください。こんな…………好きでもないような相手と、そういことをしようだなんて……」……もしかしたら姉弟子が、俺のことを…………将棋以外のことでも繋がっていたいとおもってくれてるんじゃないかって。……そりゃあ、わかっていたさ。姉弟子の態度を見てれば、俺に対して好意を抱いているなんてことは万に一つもないってことくらい。俺達の間には将棋しかないってことくらい。姉弟だから親しくしてるけど、それ以上の感情じゃない。……姉弟だからこそ、そういう関係にはならない……姉弟子が俺を好きなんて、そんなことあるはずがないと知っている…だから俺が姉弟子とそういうことをしなかったのは正解なんだ。ズキンズキンと胸は痛んでいるけど、正解なんだ(pp.176-177)

まだズキズキと痛む心の傷を自分で深くしながら、俺はこの傷がそもそもどんな種類のものなのかを考えていた。これが失恋の痛みってやつなんだろうか……?「たまに考えるんです。もし仮に俺に恋人ができたとしても、今はやっぱり将棋のことの方が大事に思えちゃうんじゃないかって。将棋よりも大切なものなんてなかったし、将棋以外のことに心を奪われることもなかった。姉弟子もそうでしょ?」「……」「大げさじゃなく、本当に将棋が恋人なんです。だからその恋人が人間になるなんて想像もできない。負けた時とか、確かに誰かに慰めてほしくなったりもするけど……やっぱり今は将棋のことだけを考えていたい」「……」「こんな話、他の人に言っても信じてもらえないかもしれないけど……誰よりも長く俺と一緒にいた姉弟子ならわかってくれると思うんです。だから――」「じゃあどうして勝てないのッ!!」姉弟子はいきなり叫んだ。俺の肌に食い込むほど爪を立てて。それは魂からの叫び声だった。ずっと心の底に溜めていたものを吐き出すような、悲痛な叫び声。「どうして私は八一みたいに勝てないの!?ずっと一緒だったのに!ずっと同じことをしてきたはずなのに!なのにどうして八一みたいになれないのッ!?」どうして!?どうして!?幼い頃に戻ったかのようにそう繰り返す姉弟子。爪が食い込むほど強く俺の背中を抱いて、泣き顔を見られないように胸におしつけながら……銀子ちゃんはなおも叫び続ける。「ねえどうして!?八一ならわかるでしょ!?どうしてなの!?」(pp.183-184)

「まあでも一緒に寝るなんてこれで最後だろうしな」姉弟子は俺のことをはっきり『嫌い』と言った。俺をホテルに連れ込んだ…のも、それで将棋が強くなると思ったからに過ぎない。「結局、俺達には将棋だけか……」将棋を抜きにしてしまえば、俺と姉弟子の間には何も無い。そりゃそうだ。性格もまるっきり反対だし、好きなものや生まれた場所も違う。映画とか一緒に観ても感想はまるで噛み合わない。それどころか喧嘩になる。そしてだいたい俺が負ける。将棋以外の共通点がまるで無いのだ。そうである以上、将棋に関すること以外でお互いの中に何らかの感情が生まれることなんてあるわけがなくて……。――…少なくとも、姉弟子の中には何もなかったってわけだ。(p.196)

将棋のことなら私の頭の中なんて全部お見通しのくせに、その他のことでは私の心なんて読もうとすらしてくれないから。私は八一がきらい。私のことを見てくれないから。私は八一がきらい。私のことを……好きになってくれないから。けど、それも仕方ない。雛鶴あいのように、かわいげがあるわけじゃない。夜叉神天衣のように、才能ある親の子供として生まれたわけでもない。桂香さんのように胸も大きくないし、優しさで八一を包み込むこともできない。不器用で性格の悪い私には、何もできない。八一に何かしてあげられるわけじゃない。八一に何かを与えてあげることもできない。日光にあたるだけで壊れてしまうような出来損ないの身体と、将棋盤をくっきり思い浮かべることすらできないポンコツの脳。それが私の全て。だから私には、将棋しかない。八一を振り向かせられるものは、将棋しかない。今はそれも不十分だけど。プロ棋士になれば……公式戦なら、本気で将棋を指してもらえる。本気で私のことを見てもらえる。たとえ将棋を指している間だけとはいえ、私だけを見てくれる。もし。もし……将棋の神様が本当にいるのなら。どうか私を四段にしてください。どうか私に力をください。才能をくださいとは言いません。将棋の力を上げてくれとも言いません。一期だけ。次の三段リーグ……半年間だけ、全力で戦えるだけの力をください。私の根性についてこられる強い身体をください。 私の好きになった男の子は、将棋の星の王子様だった。私はその星を地球から見上げて憧れている、ただの地球人。こうして彼の胸の中にいても、何千光年という隔たりを感じる。将棋星人が棲む星はすごく遠くて、その星の空気は地球人にとって毒。行けばきっと、死んでしまう。けれど……私はそこに行きたい。今、胸が張り裂けそうなほどそう思う。 どうか神様。私を八一と同じ場所に立たせてください。そして一度だけでいいから、将棋を指させてください。    そのためなら――――――――――死んだって構わない。(pp.336-338)

第7巻 ジジイ回「努力をしなくなった老害が事実を指摘されてファビョるも覚醒して再び自己研鑽するようになるはなし」

  • ファビョった老害の絶望が実によく描けていて良い。そしてそこからの覚醒も。
    • ジジイには大まかに分けて二つのパターンがあります。第一は数多の修羅場を潜り抜けて苦渋を舐めながら成熟し年輪を重ねて老成していく、そんなジジイです。第二は自分の経験に固執し、その価値観が全てであり、それ以外は受け入れられず、傲慢で高慢である、そんなジジイです。主人公くんの師匠である清滝鋼介氏もいったんは後者のパターンに陥りそうになっていました。清滝氏は自ら教えを請うことができず、傲慢で高慢に接してしまうのです。そんな清滝氏に対して痛烈な現実が襲いかかります。清滝氏は教えを請おうとするにかかわらず「教えてやる」と上から目線で接したことを咎められるのです。俺たちは命を懸けて研究してんのに、研究をサボって負けたからといって横から掠めとろうとしているのに「教えてやる」とは何様だと、教わることは何もないと。こうして「長年将棋を指してきただけ」という経験に胡坐をかいていた清滝氏は事実を指摘されファビョってしまうのです。前半の清滝氏はそのピエロっぷりが何とも痛々しく克明に描写されており共感してしまことこの上ありません。しかし一回こけさせておいてから復活させるのがお約束というものでして。ここからの清滝氏の巻き上げっぷりがスゴイ!!ファビョった後に自省して覚醒し、自分の不甲斐なさを改善することができるのですね!「教えてやる」とエラソーにしていた清滝氏が「教えてください」と頭を下げるところは7巻の一番の見せ場といっても過言ではありません。ぜひ読んで欲しいところです。こうして清滝氏は心機一転し、新しい技術を進んで取り入れ、自己研鑽に励むようになるのでした。清滝氏の道場が若者チックに改装されていくところが楽しいです。そしてその清滝氏と対比的に今度は主人公くんが驕り高ぶる様子が描かれていきます。
  • 天狗になり驕り高ぶる主人公くんも叩き潰されて自省する。
    • 古来より古典作品では驕った人間が修行をサボるようになりしっぺ返しを食らい改心するパターンのシナリオ構造がよく登場します。慢心を戒める系説教パターンですね。本作でも主人公くんが傲慢になっていく様子が描かれていくのですが、その主人公くんが悔い改めることになる流れが実に秀逸なのです。いやこれホントシナリオが巧みであり、最初に高慢であった清滝氏(主人公くんの師匠)が悔い改める姿を見せながら、今度は主人公くんを驕り高ぶらせていき、そして撃破された主人公くんが悔い改めた師匠の姿を見てこれまた改心するという二重構造になってるんですね!!!ヒャッハー!こいつはスゲーや。
    • で、主人公くんが驕り高ぶっていくところと、撃破されて衝撃を受ける所に、我らが姉弟子:銀子ちゃんを配置してくれるのも憎い演出となっております。第6巻を契機に恒常的に連れ込み茶屋に通うようになった主人公くんと銀子ちゃんなのですが、そのピロートークにおいて主人公くんはAIを使ったコンピュータ将棋に傾倒し驕り高ぶるセリフを吐くのです。「現時点での俺の演算力を使えば、他のどのプロ棋士よりソフト発の戦法を上手に指しこなすことはできる」と。このセリフを聞いた銀子ちゃんはコンピュータを賛美して驕っている主人公くんに戦慄するのですね。しかしお約束通り傲慢になった主人公くんは敗北して改心するパターンが決まります。主人公くんは蔵王先生に敗北。ここ一番の勝負に敗北して悔し泣きをする主人公くんを慰めるのも銀子ちゃんの役割というわけさ。銀子ちゃんのお膝で主人公くんが啜り泣き「よしよし」してもらう描写はとてもグッときます。
    • ここで語られているのが現代将棋についての在り方。現代将棋についてプレ現代将棋とポスト現代将棋が出てきます。現代将棋はみんなで研究会開いて定跡見出して絆の力で大勝利する系統。主人公くんは本来ならばポスト現代将棋の立場にいたのですが、蔵王先生との戦いでは現代将棋の戦法を選択します。しかし蔵王先生は現代将棋以前のプレ現代将棋による「消えた戦法」によって主人公くんを撃破するのです。こうして主人公くんは将棋はコンピュータとの対決ではなく人間同士の対決であることを諭されます。しかしこの主人公くんの敗北に対して、天才ショタと銀子ちゃんで評価が分かれるのです。ショタは、主人公くんがポスト現代将棋ではなく現代将棋をやったから敗北したのだと批評し、過学習であったと論じるのです。一方で、銀子ちゃんは咽び泣く主人公くんを抱擁しながら人間としての現代将棋に夢を馳せるのです。
  • 結局は人間同士が戦うってことでしょ的なオチ
    • 終局部は主人公くんのマブダチである歩夢きゅんと主人公くんの師匠である清滝氏の対決。ここで清滝氏はオッサン戦法を駆使し、相手の心理状態による戦術の変化を見せつけるのです。作中で語られている「京の持ち味、浪速の食い味」が炸裂します。要は、京都では料理において形式が重視されるが、大阪の場合はその時々の変化に対応することが大事だということ。少し長いですが、あいのパパによる解説を引用しておきます。「大阪は商人の街です。料理屋も接待で使われることが多く、商談相手の心をいかに楽しませるかが料理に求められます。味覚というのは人によって違いますし、さらにいえば、同じ人でも体調によって微妙に求める味は変わります。そこに、料理人の力が求められます。お客様の舌に合う料理を作る技術が必要なのは大前提として、そもそもお客様がどんな味を求めておられるのか?それを探り出し、とっさの判断で味付けや献立を変える力が…お客様がどんな味を求めておられるのか。それを感じ取る唯一の方法は『相手の身になって考えること』。これに尽きます。つまり人生経験の深さが求められると、私は思っております。」とのこと。主人公くんは蔵王先生に敗北したことと清滝師匠の戦う姿から、この「浪速の食い味」の真髄を感じ取るのです。そして、ポスト現代将棋を唱えソフトの価値観を振りかざしてキーキー喚くショタにこう言い放ちます。「創多。お前はまだ将棋のことを何もわかってないな」「え?」「歩夢は受けたくて受けてるんじゃない。師匠が受けさせているのさ。気迫でな」「気迫……ですか?そんな、オカルトみたいなもので――」「わからないか?だからお前は俺より弱いんだよ」云々。主人公くんが新たな将棋スタイルを見出そうとする瞬間が生まれたのでした。ちなみにこのやりとりでなぜか主人公くんへの創多の好感度がうなぎ上り。ついに主人公くんはショタにまで攻略対象にされるようになります。
個人的名場面集

「自分達よりも強い若手が次々に出てくるのが、子供達に追い抜かれていくのが、自分達が衰えていくのが…堪らなく不安なんや。そんな不安を紛らわすために、対局中に仲間で喋る。喋らんと平静を保てんくなるくらいに不安なんや……」少しでも自分を大きく見せようと声を張り上げる。将棋で勝てないから先輩としての権威に縋り、それを必要以上に振りかざす。今ならわかる。先輩達の不安が。恐怖が………「勝てんくなれば、将棋を指しても面白くない。面白くないから勉強もせんし、対局にも身が入らんくなる……せやけど勝負師としての興奮が忘れられず、株やギャンブルに依存する……わしはスマホゲームやけどな」……もう将棋で味わえなくなってしまったあの感覚を、スマホの画面から手っ取り早く得ようとする。以前はパチスロやったが、いつでもどこでも手軽にできるスマホゲームはそれ以上の快感や。中毒かもわからん。指先一つでこれほど手軽に楽しめるものがあったら、勝てもせん将棋なんて誰が指す?将棋をさすためだけに使い続けてきた指先で、手軽な快感を得る高段の棋士。九段という最高位にまで上り詰めて得たものが……恐怖と、そしてそれを紛らわせるためのスマホゲーム。冷静になってしまえば、余りにも惨めや。将棋を冒涜しているとすら感じる。(pp.106-107)

「……時代遅れの戦法を自慢気に語るなんて……聞いてて痛々しかったわ。昔はあんなに強かった師匠が……」「……アムロになった心境だなぁ……」「なにそれ?」「知りませんか?アムロのお父さんはガンダムを作った天才技術者だったんですけど、宇宙空間で酸素欠乏症になって、アムロと再会した時には時代遅れの装置をガンダムに取り付けろって勧めてくるようになっちゃってて」(pp.127-128)

清滝はそう言うと、隣の感想戦にも口を出す。果ては序盤の研究についても質問し始めた。みな一様に口も手も重いのは、清滝が自分の意見や研究を見せず、一方的に相手の研究成果を求めるだけだから……「敢えてお伺いします。小銭を賭けて指してた頃のチンケな将棋とは違う。俺達は命を削って将棋を指しています。先生は俺達の命の対価として何を払えますか?……先生はこう仰ったんです。『将棋を教えてやると』……けれど今の清滝先生に教わるものは何一つありません。修行の邪魔です。どうぞお引き取りください」(pp.148-150)

老害』。若い頃、死んでもなりたくないと思っていた、理不尽な先輩棋士達の姿に今の自分が重なって見えた。いつからそうなってしまっていたのだろう?十代や二十代の頃は、将棋に負けた日は家に帰ってからも寝ずに敗局を盤に並べる気力があった。むしろ悔しさを将棋盤に叩きつけなければ眠ることすらできなかった。三十代になった頃は、悔しさを酒で紛らわすようになっていた。四十代になると対局の後はどっと疲れが押し寄せて、休息を取らなければ再び将棋盤に向かうことができなくなっていた……一日休めば戻っていた将棋への気持ちは、二日休まねば戻らなくなっていた。研究時間は必然的に半分になり、それは衰えを加速させた。下に向かって傾いた坂を再び上がろうとすれば若い頃の何倍もの気力と努力を必要とする。それでもまだ四十代の頃は『何とかしなければ』という気持ちがあった。腐っていく自分への苦しみが、罪悪感があった。しかしいつしかそんな気持ちは磨り減り……いつのまにか気持ちは切れていた。歳を重ねれば衰えるのは当然だと、弱くなる自分を受け容れてしまっていた。気持ちが切れてしまってからは、以前のような苦しみに悩まされることはなかった。それが精神的に成熟することだと思っていた。………あの日、八一の姿を見るまでは……スポットライトを浴びた弟子を見て、清滝は気づいてしまった。自分が心の支えにしてきた『名人に挑戦した』という実績。それは最後の最後で負けたという敗北者のレッテルに他ならない、ということに。弟子に超えられたことが悔しいのではない。自分が敗者だという事実を突きつけられ、それを受け容れることができなかった。だから弟子に八つ当たりをしてわめき散らしたのだ(pp.152-153)

将棋盤の上で最後まで戦うのは棋士として当然。そんなことはアマチュアでもできる。しかし……将棋盤を離れた所でも戦い続けることができる者は少ない。対局が無い日、自分は何をしていた?人生そのものを捧げる覚悟を持った者こそがプロなのではないのか?『俺達は命を削って将棋を指しています』昼間に聞いた言葉が甦る。その言葉は強い風となって、清滝を棋士室から押し返した。だが――「……熱い」暗闇の中で清滝は呟いた。それは、燃え尽きたはずの炭の奥で燻っていた、小さな小さな熾火。鏡洲のあの言葉は、清滝の心の火を吹き消すのではなく……その心に残っていた小さな火に、本人も忘れてしまっていた火に、新鮮な空気を送り込んでくれた。新しい風を。その小さな火に向かって、清滝はさらに風を送り込む……「鏡洲君。わしに将棋を教えてください……今のわしに、君たちに教えられるような最新の研究は無い。それどころか、いつのまにか将棋に向かう姿勢すら君達に遠く及ばんようになっとった……下働きでも何でもする。修行時代に戻ったつもりで、わしも君達と一緒に将棋を一から学び直したい。君達から研究を盗みたいから言ってるんやない。弛んでしまった根性を叩き直したいんや。負けたままで終わりたくないんや…・昨日、鏡洲君に言われて、やっと目が醒めた。それからは全身が熱くて、将棋が指したくて、いてもたってもいられんくなったんや。こんな気持ちになったのは久しぶりでな……君に相手をしてもらわんと、もう収まりそうにない」(pp.153-156)

「大阪は商人の街です。料理屋も接待で使われることが多く、商談相手の心をいかに楽しませるかが料理に求められます。味覚というのは人によって違いますし、さらにいえば、同じ人でも体調によって微妙に求める味は変わります。そこに、料理人の力が求められます。お客様の舌に合う料理を作る技術が必要なのは大前提として、そもそもお客様がどんな味を求めておられるのか?それを探り出し、とっさの判断で味付けや献立を変える力が…お客様がどんな味を求めておられるのか。それを感じ取る唯一の方法は『相手の身になって考えること』。これに尽きます。つまり人生経験の深さが求められると、私は思っております。」(pp.205-206)

積み上げてきた信用や自信は消えた。自分がどんな将棋を指せばいいかは、またわからなくなってしまった。けど――「どんな棋士になりたいかは、まだこの目に焼き付いている」俺は筆を取り、叩きつけるように文字を記し始めた。そこに込めたのは後悔と、驕り高ぶっていた自分への反省と叱責。まだ血の流れる傷の痛みにのたうち回る己の姿。喜びの声など一文字も刻まない。叫ぶのは若者らしい大言壮語と、子供の頃から抱き続ける宝石のような夢。そして師匠への憧れと感謝だった(pp.315)