第6回は「終戦工作」のおはなしでした。
(1)ドイツ降伏後の終戦工作
(1)-1.終戦工作の定義
- 国内の意見調整
- ※終戦が難しかった 負けてる戦争を敗戦国日本の側から終わらせることは難しかった
- 日本にしてみれば、蘇連が唯一の救世主だった!
- 1946年5月7日 ドイツの降伏
- 最高戦争指導会議構成員会議 → これが終戦を決めていく。
- 注意すべきこと
- 同じ人物が、強硬論と和平論を局面によって使い分けており、その人物の主義主張ではないこともある。
- たとえば鈴木貫太郎。和平派だが、強硬論を唱えることもあり、ポーズとして使い分けている。
- 同じ人物が、強硬論と和平論を局面によって使い分けており、その人物の主義主張ではないこともある。
(1)-2.継戦論
(2)
(2)-1.特使派遣の挫折
- 日本政府の目論見と連合国の意向の食い違い
- 電報でトウゴウヒデノリが出先機関で交渉は難しいだろうかやってくれといっている
- だが佐藤はそれに対して反論。東郷・佐藤論争。二人は同い年。佐藤は特使派遣は難しいという。
- 8.8宣戦布告(ソ連の対日参戦)
- 受けた側はお返しに宣戦布告返しを返すはずなのに、この時日本は作っていない。
(2)-2.8月9日の閣議
- 戦争中は最高戦争指導会議
- 国務と統帥が集まる会議を作る
- 最後の決定の時にだけ閣議でやっている
- 下村宏 情報局総裁 朝日新聞社 情報統制を取り仕切る
- 8月9日の会議でほぼポツダム宣言受諾となる
- →深夜の御前会議 8月10日、受諾
- ほぼ方向は決まったのだが・・・
- 最終的に受諾を決めるのは、8/14ポツダム宣言受諾
- 原爆を落したから、日本がポツダム宣言を受諾した説について
- 原爆の効力は過小評価。原爆が堕ちたので戦争の負けを認めたのではない。
- ここまでもってくるまでに 和平派の人達が和平工作を続けてきた
- トップは建前上 議会とか御前会議で和平を言えない 国民の目を気にしている
- 丸山真男が意識構造を論じている→軍人官僚の決定がなぜ遅いのか 「無責任の体系」