鈴木多聞『「終戦」の政治史1943-1945』(東京大学出版会、2011) 第四章「ポツダム宣言の受諾」(151-214頁)

  • 本章の趣旨
    • 日本降伏の要因に、原爆要因やソ連要因だけではなく、本土決戦要因と条件要因を加えて考察する。
    • 本章の視覚(1)
      • 昭和天皇の決断に最も大きな影響を与えたのは、実は本土決戦要因であった。
      • 実際、8月10日の御前会議において、昭和天皇は、降伏理由として、原爆でもソ連参戦でもなく、九十九里浜の築城の遅れを理由に本土決戦不能論を述べていた。
    • 本章の視覚(2)
      • 降伏なり本土決戦なりは政治的手段であって目的ではない。
      • 当時の軍事・政治指導者の最大の関心事は、「降伏か、本土決戦か」ではなく、ある「条件」で降伏した場合、降伏後にどのような状況になるかという点。
      • その状況が戦争継続よりもより良いかどうか、あるいは戦争継続によってさらにより良い条件が得られるかどうか、という点において和戦の決断が行われる。
  • 原爆要因説
    • 1:昭和天皇は8月8日に「終戦」を指示していた。
    • 2:原爆投下は「和平派」の「終戦工作」を促進するという変化を生みだした。
    • 3:「継戦派」はソ連参戦の前も後も一貫して「継戦論」を主張したという点でほぼ変わりがない。
    • 4:原爆が陸軍の面子を掬い降伏の口実になった
  • ソ連要因説
    • 1:昭和天皇に「聖断」という切り札があれば、「継戦派」には陸相単独辞職・倒閣という切り札があった。
    • 2:「和平派」は原爆投下の前も後も一貫して「和平論」を主張したという点でほぼ変わりがない
    • 3:ソ連参戦は、長期継戦を不可能とし、「継戦派」の「継戦論」を後退させるという変化を生みだした
    • 4:陸軍は原爆に対して最後まで強気であった
  • ダブルショック説
    • 原爆要因説とソ連要因説を折衷させて、原爆投下もソ連参戦も同程度に重要であり、原爆投下もソ連参戦も必要であったとする説。

以下 抜き書き

  • ソ連参戦直前の8月8日の状況
    • 「8日正午、モスクワの佐藤尚武大使から本省に対し、緊急の電報が届いた。佐藤大使は、数度にわたり、日本側の和平仲介の申し入れに対するソ連側回答を督促し、モロトフ外相に会見を申し入れていたが、やっとモロトフ外相から8日の午後5時(日本時間午後11時)に会見するという回答があったのである。」(163頁)
    • 「8日の陸海軍は、ソ連の対日回答を待ち続けていた。米内海相は高木少将に対し、「昨日外相二会ツタガ、未ダ電報ハ来ナイラシイ。尤モ5日二「スターリン」ガ「ポツダム」カラ帰ッタカラ、電報二二、三日カカルシ、今日明日何トカ言ツテ来ルダラウ。明日会フカラ聞イトク。或ハロシアカラ何モ返事シテ来ナイ場合モ考ヘテ置カネバナラヌ」と語っている。同日、陸軍省軍務課も「「ソ」連ノ対日最後通牒二対シ採ルベキ措置ノ研究」という文書を作成している。軍事課は「米英「ソ」ヲ敵トスル戦争ハ帝国国力ノ推移ヨリ判断スレバ殆ド勝利ノ見込ナク帝国ヲ滅亡二陥ラシムル虞大ナルモノアリ」として米英ソを敵としては戦争に勝ち目がないことを率直に認め、ソ連をして「我二援助ヲ与ヘントスル方向二彼ヲ利導」することを希望していた。そして「「ソ」連ノ大陸撤兵要求ナル対日最後通牒二対シ帝国ハ之ヲ受諾」することを主張していた。つまり、ソ連側要求を全面的に受け容れることを覚悟していたのである」(164頁)
  • ソ連の対日参戦
    • 「8月8日午後5時(日本時間午後11時)、モスクワの佐藤大使は、ソ連モロトフ外相と面会した。だが、その回答は日本側の期待を裏切るものであった。モロトフ外相は、佐藤大使に対して対日参戦宣言を手交し、ソ連はいまだ有効であった日ソ中立条約を破棄してポツダム宣言に加入した。翌9日零時頃、ソ連軍は国境を越えて怒濤の如く満州に攻め入った。近代化されたソ連軍は総兵力80万(130万)、戦車4千、飛行機5千を誇ると考えられたのに対し、武器すら行き届いていない関東軍は兵力50万、戦車1旅団、第一線飛行機150という貧弱なものであり、関東軍の参謀長の秦彦三郎は「全然戦いにならぬ」と感じ、作戦班長の草地貞吾は「来るべきものがきた」と暗澹とし、作戦参謀の瀬島龍三は家族に遺書を送った。」(165頁)
  • ソ連の対日参戦は予想できた。できなかったのはソ連参戦の時期。
    • 「一般的に、日本はソ連参戦を予想できなかったといわれるが、これは正しい歴史理解ではない。日本の予想が外れたのは、ソ連参戦の有無ではなく、ソ連参戦の時期に関する予想であった。関東軍は、ソ連参戦を「一日も遅かれと祈り」、作戦課は、ソ連参戦防止を希望し、いわゆる、「起きると困ることは起きない」という集団心理に陥っていた。それだけに、ソ連参戦が陸軍に与えた衝撃は大きかった。参謀次長の河辺虎四郎は、「嗚呼、遂二「ソ」ハ起チタルカ、余ノ判断ハ外レタリ」と顔色を失った。ソ連参戦によって、陸軍の主張してきた「戦勝の確算」は崩れ去った。ソ連ポツダム宣言に加入したことは、対ソ外交に期待をかけていた海軍の淡い期待を完全に打ち砕いた。」(165-166頁)
  • ソ連参戦の報を受けて動く政局
    • ソ連参戦の報を受けて、日本の政局は一気に動いた。すなわち、最高戦争指導会議(10時30分-13時30分),第1回閣議(14時30分-17時30分)、第二回閣議(18時30分-22時20分)を経て、第1回御前会議(23時50分)へと流れ込んだのである。昭和天皇は、午前9時55分、木戸内大臣に対し、「戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思ふ故、首相と充分懇談する様に」と指示を出した。」(166頁)
  • ソ連参戦による本土決戦論の消滅
    • 「〔……〕ソ連参戦により本土決戦の意義も急速に色あせたものとなった。「本土決戦→一撃和平」という構想を実現するためには、「一撃」だけではなく、ソ連の仲介が必要であった。なぜなら、仮に「一撃」に成功したにしろ、日本側から和平を提唱することは日本側の弱みを見せることになる。形式的ではあっても、ソ連の和平提唱に日本が応ずる形をとる必要があった。おそらく、当事者は、日露戦争における日本海海戦ポーツマス会議を念頭においていたと思われる。だが、ソ連が参戦し、その交渉ルートも同時に断ち切られたため、陸軍の「本土決戦→一撃和平」という構想は再検討せざるを得なかった。本土水際決戦で米軍に「一撃」を与え得たにしろ、和平と結びつかない決戦は無意味である。この臨時閣議で、豊田軍需相は「日露の時には英米が我を助けた。今は皆敵となった。原子爆弾の事は知らぬが所信ある対処方法ない以上戒心を要する。一撃は加へ得るがあとはどうなる」と率直な意見を述べている。「一撃」を加え得たとしても、ソ連の仲介なくして米国が譲歩するとは考えにくい。こうして「本土決戦でアメリカ軍に大打撃を与えてソ連を介して終戦する考えが駄目になった」のである。」(170頁)
  • 昭和天皇が原爆を降伏理由にかかげた可能性は低い
    • 昭和天皇は軍事的賞賛の有無に対して、踏み込んだ発言をした。九十九里浜の築城の遅れを理由としているところに注目したい。現在までのところ、御前会議出席者の一次史料の中に、昭和天皇が原爆について発言した記録は見当たらず、全ての記録が九十九里浜の築城問題で一致する。これらの記録が正しければ、昭和天皇は「勝算ノ見込ミナシ」の理由を、原爆投下でもソ連参戦でもなく、本土決戦不能論に求めたことにある。これには二つの理由が考えられる。第一に、昭和天皇は、明治憲法を「立憲」的に運用するため、正規のルートを通じた報告を基にして、政治決定を行おうとしていたことである。昭和天皇は、陸軍や侍従武官から九十九里浜の築城の遅れを報告されており、陸軍がこの点に反論することは難しかった。要するに、発言の根拠があったのである。他方、昭和天皇は、不確定な事実を基礎に発言を行うことは避けたと考えられる。昭和天皇は、この段階では、「新型爆弾」を原子爆弾であると認めた正式な調査報告書に接していなかった。したがって、未だ調査中の原爆を降伏理由にかかげた可能性は低いと判定できる。」(172-173頁)
  • 原爆天祐論
    • 「ここで、本書が注目したいのは、米内海相の主張する「時局収拾」の理由である。それは、原爆でもソ連参戦でもなく、「国内情勢ノ憂慮スベキ事態」であることがわかる。そして、この「国内情勢ヲ如何二看ラルルカ」とは、〔……〕「物心両面二於テ戦争遂行能力アリヤ」という米内の閣議発言と同義である。換言すれば、米内海相にとってみれば、物心両面からみて戦争継続は不可能とみえた。実際、航空揮発油は9月頃まで、食糧は「未曾有ノ食糧難」が予想されていた。陸軍の作戦当事者もどうように、米軍が万が一本土上陸作戦を延期した場合、「食糧、燃料等の諸問題は窮迫し生産逓減して戦争遂行が頗る困難化」することを懸念していたのである。だが、物資や民心を理由に政策の転換を主張することは当時の精神主義的な風潮からは難しく、ガソリン不足の理由になりづらかった。米国が残虐な原子爆弾を使用し、ソ連が日ソ中立条約を破って参戦したことは、日本の軍事指導者にとって、敵軍を非難し、自軍の降伏を正当化する恰好の材料となったと考えられる。」(174-175頁)
  • ソ連参戦の影響
    • 第一に、ソ連を仲介とした対米交渉が不可能となったことである。これはそれまでの日本の外交方針を破綻させるものであった。陸軍ですらも、南九州沿岸で米軍の第一波を撃退し、ソ連の仲介による名誉ある講和を考えていた。
    • 第二に、陸軍は、対米戦には自信があっても、対ソ戦には自信がなく、軍事的勝算を主張できなくなった。陸軍の精鋭は満洲から本土に転用されていたため、関東軍の軍備はきわめて貧弱なものであった。
    • 第三に、軍事的勝算がなくなったことで、陸上総部の主張が、条件さえ満たされれば降伏しても良いという条件論へと後退したことである。そして、この条件論への後退により、その降伏の最低条件ラインは、「聖断」により、なし崩し的に低下した。(188頁)

結論(215-221頁)

  • 本書のまとめ
    • 「本書は、戦争末期の政治史を、和戦をめぐる「終戦派」と「継戦派」の対立といった図式ではなく、むしろ逆に、いわゆる「終戦派」がなぜ継戦を支持し、「継戦派」がなぜ終戦に同意したのか、その論理と変化の諸要因を明らかにした。終戦論から継戦論が生まれ、継戦論から終戦論が生まれるところに、戦争の複雑さと機微がある。終戦にしろ、継戦にしろ、当事者にとっては苦渋の決断であった。また、戦局は絶望的だが無条件降伏は回避したいという矛盾した要求は、まず国内経済を崩壊させ、次で国内政治に波及して東条内閣を総辞職に追い込み、転じて、外交・軍事面において起死回生の危険な賭けを選択させ、最後に選択肢がなくなると、日米間の降伏条件の解釈の狭間と明治憲法体制の制度の隙間の中に解体・解消されていった。」(215頁)
  • 本書で明らかになったこと
    • 第一に、日本がポツダム宣言を受諾した理由を関係に言い表す必要があるとするならば、時間が敵にまわったからと表現したい。
    • 第二に、戦争末期に限っていえば、昭和天皇の意向は、陸海軍が分裂した場合に政治の流れを左右し、かつ、陸海軍の内部に上下の対立を引き起こすことがあった。四巨頭(陸相海相参謀総長軍令部総長)の間で対立が生じた場合、この対立を解決できるのは昭和天皇だけであり、望む、望まないにかかわらず、昭和天皇の意向はこのバランスに影響を与えた。
    • 第三に、日本降伏に果たした軍事的圧力には、沖縄陥落(米軍の本土上陸作戦準備)、ソ連参戦、原爆投下があり、降伏の条件や時期の問題に影響を与えた。
      • なお、ソ連を仲介として外交交渉を行うという点については、陸海軍は一致しており、昭和天皇近衛文麿もこの路線に同意していた。