内容は主に2つで①ポツダム宣言受諾から玉音放送録音までの鈴木内閣における攻防と②8月15日払暁に発生した近衛師団による宮城占拠クーデターが描かれる。
ポツダム宣言受諾編はいつまでも閣議不一致で結論が出ないまま膠着状態に陥ったところで聖断を仰ぐ展開となる。阿南陸相の頑なな抵抗の中、鈴木首相がいつ如何にして天皇カードを切るかが見どころとなっている。一方、近衛師団によるクーデターは、昭和天皇が玉音放送の録音を終えて寝てから発生した。だが結局陸軍全体の蜂起には結びつかず、天皇が起床してから間もなく鎮圧された。
以下、ポツダム宣言をめぐる攻防をまとめておくこととする。
ポツダム宣言編
7月27日
- 外務省の討議と検討
- 「外務次官松本俊一、条約局長渋沢信一、政務局長安東善良たちが東郷茂徳外務大臣をかこむ緊急幹部会で意見を交換した。そして外務省幹部は宣言を受諾すべしとの意志でかたまった。しかし、注目すべき点が残されている。ソ連であった。中立国ソ連政府がポツダムで日本の問題につき相談をうけたことはほぼ確実であろうが、宣言には関与しなかった。それはソ連がこのままずっと中立を維持することを意味するのではないか、という情報分析が生れたのである。宣言は受諾すべきである。しかし、すでに行われている和平の仲介依頼という対ソ工作を放置して即時受諾は好ましくない。しばらく様子をみることが日本にとっては賢明な策であろう、という結論にかれらは達したのである。」(11頁)
- 午前11時 東郷外相の天皇への報告
7月28日
- 新聞報道
- 鈴木首相の「黙殺」
- 「午後4時、鈴木首相はポツダム宣言についての見解を記者団より尋ねられた。表情に深いかげりをみせながら首相は答えた。あの共同声明はカイロ会談の焼き直しであると考えている。政府としてはなんら重大な価値があるとは考えない。ただ黙殺するだけである。われわれは戦争完遂に邁進するのみである」。」(12頁)
8月9日
- 午前3時、ソ連の対日参戦の報告が電話で迫水書記官長になされる。夜が明けると迫水は首相私邸に赴く。
- 午前5時、首相私邸に東郷外相もかけつける。
- 午前10時30分、最高戦争指導会議
- 「鈴木首相がいきなりこういった。「広島の原爆といいソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能であると思います。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結するほかはない。ついては各員のご意見をうけたまわりたい」。数分間重苦しい沈黙が議場を押しつつんだ。阿南惟幾陸軍大臣や梅津美治郎参謀総長らは、あくまで戦争をつづけるか否か、その根本問題を協議すると考えていたのである。米内光政海軍大臣が口火をきった。「黙っていてはわからないではないか。どしどし意見をのべたらどうだ。もしポツダム宣言受諾ということになれば、これを無条件で鵜呑みにするか、それともこちらから希望条件を提示するか、それを議論しなければならぬと思う」。この発言で、会議はなんとなくポツダム宣言を受諾するという前提のもとに、つけ加える希望条件の問題に入ってしまった」(18-19頁)
- 長崎に原爆投下
- 鈴木首相の策略 御前会議開催による聖断の利用
- 「午後10時、第1回からひきつづいてえんえん7時間に及んだ第2回閣議を、鈴木首相はいったん休憩することとした。もう一度、最高戦争指導会議をひらき、政戦略の統一をはかり、再度閣議決定をひらくことにする、と首相はいった。この最高戦争指導会議を御前会議とし、一挙に聖断によって事を決するというのが、首相の肚であった。御前での最高戦争指導会議開催の知らせに、より大きな危惧を感じたのが大本営であった。[……]御前会議開催には、法的に首相と参謀総長、軍令部総長の承認<花押>が必要であった。その花押をこの日の午前中に迫水書記官長はすでにもらってあった。「急な場合に、いちいち両総長を追いかけまわして花押をいただくのは、大変ですし、緊急に間にあわせなくてもいけません。この書類に花押をください。もちろん会議をひらくときは、これまでの手続きを守り、あらかしめの了解をえますから」と、そういわれて、両総長は深い魂胆が隠されているとも思わず、花押をした。御前会議の正規の手続きはそろっている。こうして8月9日午後11時50分、ポツダム宣言受諾をめぐる御前会議が、御文庫付属の地下防空壕でひらかれた。」(21-24頁)
8月10日
- ついに聖断くだる(1回目)
- 「[……]時刻は10日午前2時をすぎた。いぜんとして議論はまとまらなかった。[……]人々の注意が自然と首相に集まった。そのときである。首相がそろそろと身を起こして立ちあがった。「[……]まことに異例で畏れ多いことでございまするが、ご聖断をもちまして、聖慮をもって本会議の結論としたいと存じます。」一瞬、緊張のざわめきが起こった。陸海軍首脳には不意打ちであった。首相に乞われて、天皇は身体を前に乗り出すような恰好で、静かに語りだした。[……]降伏は決定された。8月10日午前2時30分を過ぎていた。[……]御前会議ののち、ただちに閣議が再開された。細かい議論はあったが、閣議は御前会議の決定をそのまま採択した[……]午前4時近く、全閣僚は必要な文書に花押して閣議は散会した。」(25頁)
- 受諾通告
- 連合国の対応
- 「同盟通信は短波で午後7時(ワシントン時間午前5時)すぎポツダム宣言受諾の報を流した。[……]ワシントン時間で朝の7時すぎにはトルーマン大統領が同盟の報道を手にした。[……]午前9時からトルーマンは日本への回答を審議するため緊急会議をひらいた。スチムソン陸軍長官、バーンズ国務長官、それにフォレスタル海軍長官とリーヒ大統領付幕僚長の4人が参集した。[……]対日回答案を作成してみたいからと、1時間の余裕を請うた。トルーマンは承認した。起草は国務省極東課の課員によって進められ、正午前には完成した。それは、日本の提案に対して明確に答える形をとらず、天皇制は否定しないが、はっきりと保証はせず、ポツダム宣言に変更がないことを改めて主張したものとなった。午後になって5人は再び参集し、この案を承認した。」(28頁)
8月11日
- 連合国の対応 バーンズ回答を巡る米ソの対立
- 「[……]回答案は連合国の承認を得るためにロンドン、モスクワ、重慶に送られた。重慶からはすぐ承認の返事がきた。ロンドンは慎重に検討しこの案を承認した。モスクワは返答を翌日にのばすと強硬な態度をとった。しかし、これは急を要するもので、今夜のうちにワシントンに返事を送らねばならないと、駐ソ米国大使ハリマンは必死の形相で催促した。やがてソ連の返答がきた。ソビエト政府としては日本占領は、米国から1名、ソ連から1名のふたりの最高司令官による、それを条件に承認するという。早くもドイツ同様に、戦後の日本分割の意図を明らかにした。ハリマンは「まったく受け入れる余地はない。」と突っぱねた。こうした複雑なやりとりがいくつかあって、結局ソビエト政府は折れて、条件なしでバーンズ回答書を承認したが、これがモスクワ時間午前二時。そしてワシントンが連合諸国の返事をすべてそろえたときには、8月11日になっていた。」(29-30頁)
8月12日
- subject to 問題
- 「8月12日は日曜日であった。その午前零時半過ぎ、迫水書記官長は同盟通信外信部長から、サンフランシスコ放送が回答を流しはじめたことを知らされた。[……]行動を起こしたのは大本営の方が早かった。午前8時すぎには早くも梅津参謀総長と豊田軍令部総長とが参内、軍は回答文中に絶対に反対である旨を奏上した。回答文中にある subject to を軍はずばり「隷属する」と訳した。こう訳せば「天皇および日本国政府の国家統治の権限は……連合軍最高司令官に隷属するものとす」となるのである。[……]外務省幹部は、この subject to を[……]傑出した名訳を案出していた。「制限の下におかる」である」(30-31頁)
- 午前10時半 東郷外相の参内 天皇の降伏の意志は変わらず
- 「外相が鈴木首相に会い、首相の意見も受諾案であることを確認し、参内したのは午前10時半をやや回っている。軍に遅れること2時間である。しかし、天皇の意志はもう一つに固まっていた。「議論するとなれば際限はない。それが気に入らないからとて戦争を継続することはもうできないではないか。自分はこれで満足であるから、すぐ所要の外交手続きをとるがよい。なお、鈴木総理にも自分の意志をよく伝えてくれ」」(32頁)
8月13日
- 阿南陸相の抵抗に対する鈴木首相の聖断の利用(2回目)
- 「[……]午前9時よりひらかれた最高戦争指導会議は、再三再四にわたって紛糾した[……]外交ルートをへた正式の回答を前に、6人の男たちは最後の闘志を燃やして論じ合った。陸相、参謀総長、軍令部総長の3人は、回答にたいし再照会し、神聖な天皇の地位は交渉の対象になるものではなく、確実に保証されねばならない、そのために武装解除は自主的であるべきだ、と論じた。[……]長い時間、じっと黙って議論に耳を傾けていた鈴木首相が、このとき坐り直すようにして、口をさしはさんだ。「軍部はどうも、回答の言語解釈を際限なく議論することで、政府のせっかくの和平への努力をひっくり返そうとしているように、私は思います。なぜ回答を、外務省の専門家の考えているように解釈できないのですか。」(34-35頁)
- 「[……]午後3時、ふたたび閣議がひらかれた[……]議をつくし閣僚たちが疲れきって黙りこんでしまったとき、首相は立ち上がるといつになく力強い声で、自分の意見をのべはじめた[……]私は先方の回答に受諾しがたい条件もあるように思い、背水の陣を決心しましたが、再三再四この回答を読むうちに、米国は悪意あって書いたものではない、国情はたがいに違う、思想も違う、実質において天皇の位置を変更するものではない、と感じたのでありまして、文句の上について異議をいうべきでないと思う。このさい、辞句を直せというても、先方にはわかりますまい」首相の言葉は諄々としていた。「問題は国体護持であります。もちろん危険を感じておりますが、さればとていまどこまでも戦争を継続するかといえば、畏れ多いが、大御心はこのさい和平停戦せよとの御諚であります。もしこのまま戦えば、背水の陣を張っても、原子爆弾のできた今日、あまりにも手遅れであるし、それでは国体護持は絶対にできませぬ。死中に活もあるでしょう、まったく絶望ではなかろうが、国体護持の上から、あまりにも危険なりといわなければなりませぬ」。阿南陸相はきっと顔をあげ、胸を張って首相の言葉を追っていた。「われわれ万民のために、赤子をいたわる広大な思召しを拝察いたさなければなりませぬ。また臣下の忠誠を致す側からみれば、戦いぬくということも考えられるが、自分たちの心持だけは満足できても、日本の国はどうなるのか、まことに危険千万であります。かかる危険をもご承知にて聖断を下されたからは、われらはその下にご奉公するほかなしと信ずるのであります。」この長い発言には8月6日いらい、首相として鈴木貫太郎が考えに考えてきたすべてのことがある。政治性ゼロの宰相の真情だけがあった。「したがって、私はこの意味において、本日の閣議のありのままを申し上げ、明日午後に重ねて聖断を仰ぎ奉る所存であります」。これが閣議の結論となった。6時半をすぎていた。」(36-38頁)
8月14日
- 2回目の聖断に至るまで
- 「8月14日午前5時にいつものように目覚めた鈴木首相は、窓外のまばゆいばかりの朝陽をいっぱいに浴びながら、とつおいつ考えていた。昨日の閣議で「重ねて聖断を仰ぐ」ことを結論としたが、その御前会議をどうやってひらくことができるか、その方法に苦慮していたのである。こんどは、陸海の両統帥部長は事前に連絡のない御前会議にはかたく反対している。といって、通常の手続きによれば、奏請書類に署名、花押をしるすことを拒むことは容易に予想された。[……]「天皇のお召しによる御前会議という方法がありました。これが最後の、とっておきの術です」(41-42頁)
- 「[……]8時40分、天皇は鈴木首相および木戸内大臣と謁見し、「お召による御前会議」の奏上を聞くと、即座に、明快に同意した。この結果、昭和16年12月1日の開戦決定の御前会議いらい、たえて行われなかった最高戦争指導会議の構成員と閣僚全員の合同の御前会議がひらかれることとなった。しかも、正式の御前会議ではなく、天皇のお召しによる、という……。」(42-43頁)
- 「10時15分、御前会議はひらかれた。天皇を前にして、出席者は横に二列にならんでいた。あくまで天皇のお召しという形式に合わせていた。会議の劈頭、鈴木首相は、天皇に13日の最高戦争指導会議の模様を詳細に申しのべ、意見はついに不一致に終わったので、この上は反対意見を聴取のうえ、御聖断をくださるように、とお願いした。」(44頁)
- 2回目の聖断のお言葉
- 「天皇のお言葉は、左近司、太田、米内各大臣らの手記を参照し、鈴木総理にもたしかめて、下村宏氏が記述した左のものがいちばん忠実に写しとっているとされている。」(63頁)
- 「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは、この前いったことに変わりはない。私は、国内の事情と世界の現状をじゅうぶん考えて、これ以上戦争を継続することは無理と考える。国体問題についていろいろ危惧もあるということであるが、先方の回答文は悪意をもって書かれたものとは思えないし、要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、この際先方の回答を、そのまま、受諾してよろしいと考える。陸海軍の将兵にとって、武装解除や保障占領ということは堪えがたいことであることもよくわかる。国民が玉砕して君国に殉ぜんとする心持もよくわかるが、しかし、わたし自身はいかになろうとも、わたしは国民の生命を助けたいと思う。この上戦争をつづけては、結局、わが国が全く焦土となり、国民にこれ以上苦痛をなめさせることは、わたしとして忍びない。この際和平の手段にでても、もとより先方のやり方に全幅の信頼をおきがたいことは当然であるが、日本がまったくなくなるという結果にくらべて、少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる。わたしは、明治天皇が三国干渉のときの苦しいお心持をしのび、堪えがたきを堪え、忍びがたきを忍び、将来の回復に期待したいと思う。これからは日本は平和な国として再建するのであるが、これはむずかしいことであり、また時も長くかかることと思うが、国民が心をあわせ、協力一致して努力すれば、かならずできると思う。わたしも国民とともに努力する。今日まで戦場にあって、戦死し、あるいは、内地にいて非命にたおれたものやその遺族のことを思えば、悲嘆に堪えないし、戦傷を負い、戦災を蒙り、家業を失ったものの今後の生活については、わたしは心配に堪えない。この際、わたしのできることはなんでもする。国民はいまなにも知らないでいるのだから定めて動揺すると思うが、わたしが国民に呼びかけることがよければいつでもマイクの前に立つ。陸海軍将兵はとくに動揺も大きく、陸海軍大臣は、その心持をなだめるのに、相当困難を感ずるであろうが、必要があれば、わたしはどこへでも出かけて親しく説きさとしてもよい。内閣では、至急に終戦に関する詔書を用意してほしい」(63-65頁)
- 午後8時半 終戦の詔書の完成
- 「佐藤課長から閣議中の鈴木首相に詔書がとどけられた[……]閣議をいったん休憩、さらに9時半再会ということにして、至急天皇に拝謁することにした。書き上がったばかりの詔書を奉呈、天皇の允裁を受けるためである。いそいそと宮内省にやってきて、こっちでも、録音のさいに天皇が読まれるという、書き込みあり、貼り紙のしてある異例中の異例の詔書をみせられたとき、鈴木首相は茫洋とした老顔をくしゃくしゃとさせた。おかしくて笑ったのか、悲しくて泣いたのか、傍についてきている秘書の一にもさすがにわからなかった。つぎはぎだらけの二つの詔書が、なぜか、敗北の祖国を象徴するかのようにひどくふさわしかった。8時半、木戸内府侍立のもとに、鈴木首相より差出された詔書は、天皇の允裁をうけた。終戦の詔書は完成した。」(136頁)
- 午後9時 玉音放送の事前予告
- 「午後9時、ラジオはその最後の報道の時間にとつぜん聞くものをおどろかせるような予告放送を流した。明日15日正午に重大なラジオ放送があるから国民はみな謹聴すべしという意味のものであった。重大放送とだけいい、その内容についてはふれなかったから、聞くものはそこからいろいろの連想をはせた。」(141頁)
- 午後9時半閣議再開 終戦の詔書の副署と連合国への通告
- 「[……]鈴木首相は詔書を机の上にひろげ、一刻を急ぐかのように全閣僚の参集を待っていた。すでに用意されていたすずり箱に新しい毛筆がおかれた。各大臣が署名し、印刷局に回付し、官報号外として公布する、それで手続きが完了する。この完了の瞬間を誰よりも待っているものに外務省当局があった。内閣の佐藤総務課長よりまもなく副署、公布の運びとなるであろうとの連絡があり、松本俊一次官を中心に、連合国に対する最終的の回答を発信するための万全の準備が、課員たちによってととのえられていた。スイスの加瀬俊一公使は米国と中国へ、スウェーデンの岡本季正公使がソ連と英国への通告をうけもっている。東京からはこの二人に打電するのである。その中心となる文章は、His Majesty the Emperor has issued an Imperial Rescript regarding Japan's acceptance of the provisions of the Potsdam Declaration(天皇陛下におかせられては「ポツダム宣言」の条項受諾に関する詔書を発布せられたり)ということであった。また、このとき外務省は、12日いらい陸相と両総長が強硬に主張した武装解除・保障占領などにかんする諸条件を、日本政府の希望条項として、スイス政府をとおして連合国に申し入れた[……]こうして対外的ならびに法制的に降伏の準備はすべてととのえられた。昭和6年の満州事変より14年もつづいてきた戦争は終わるのである」(146-147頁)
- 午後10時55分 警戒警報のサイレン
- 午後11時25分~55分 天皇の録音
- 「閣議は終わり、天皇の録音はこれからはじまろうとしていた[……]11時25分、陸軍大元帥の軍服姿の天皇は、入江侍従をしたがえて御文庫を自動車で出発、御政務室へ入られた。[……]建物の窓という窓には鎧戸がぴたりとおりていて、内部の光は洩れなかったから、部屋に電灯は煌々とともされていた。明るい御政務室のほぼ中央にスタンドのマイクがすえられてあり、刺繍獅子図二曲の金屏風をまわし、窓ぎわに宮内大臣石渡荘太郎、藤田侍従長、廊下側に下村総裁らが立って天皇を迎えた[……]一歩、下村総裁が天皇の前に進みでて、うやうやしく白手袋の手を前に差出しながら一礼した。その白手袋が合図で、ただちに荒川局長は技術陣にめくばせした。録音が始まった。[……]5分ほどで録音を終わった[……]天皇も自分から下村総裁へ向かい、いまの声が低く、うまくいかなかったようだから、もう一度読むと言った。同じような合図でふたたび録音gがはじめられた[……]天皇はまたいった。「もういちど朗読してもよいが」[……]しかし、下村総裁をはじめ、石渡宮相、藤田侍従長も三回目の録音をとめた[……]11時55分である。こうして降伏への準備の第一歩は無事終了した。天皇はふたたび入江侍従をしたがえて御文庫に戻った。」(166-169頁)