加藤聖文『「大日本帝国」崩壊』(中公新書、2009)

  • 本書の趣旨
    • 大日本帝国とは何だったのか、その本質はどこにあるのか、どういうかたちで滅亡していったのか、そのことが現在のわれわれにとってどう関わっているのか、これらを明らかにする。

以下 参考になった箇所抜き書き

  • 満洲国崩壊の意義
    • 満洲は朝鮮や台湾とは違って、文字通り混乱の極致のなかで崩壊していった。この満洲国の崩壊は、日本にとって、広島の原爆や沖縄戦よりも多い民間人犠牲者を生むという悲劇をもたらした。しかし、他方では、連合国の一員でありながら、米ソの駆け引きに翻弄された中国の苦悩の象徴でもあった。そして、日本降伏と同時に激化する国共内戦中華人民共和国の建国は、満洲国の崩壊を抜きにしても語ることはできない。」(iii頁)
  • トルーマンの独断専行
    • 「〔……〕原爆によってソ連参戦前に米軍単独で対日戦を終結できると確信したトルーマンにとって、依然として150万を超す日本軍が展開している満洲と中国本土に、そのまま軍隊を釘付けにし、米軍の日本本土攻略を容易にすることを目的としたソ連の参戦は、無用の助太刀でしかなくなったのである。そのため、ソ連側にはポツダム宣言への参加を呼びかけることも内容を知らせることもしなかった。さらに、天皇の地位についても日本側へ譲歩する必要もなくなったと判断、ポツダム宣言原案のうち天皇の地位について触れた条項を削除した修正案を決定し、7月24日に宣言案をチャーチルと蔣介石に回付、両者の同意を得たうえで公表へと一気にことを進めていった。〔……〕原爆開発の成功とソ連の共同声明参加を明らかにすれば、日本は降伏の意思を表明した可能性は高かった。にもかかわらず、トルーマンは日本の名誉ある降伏を認めず、米国単独で日本にとどめを刺すことに固執した。」(8-9頁)
  • ソ連の外交戦略の巧みさ
    • 「〔……〕ソ連にとって喫緊の課題として、独ソ戦で荒廃した国内復興のための産業資産と労働力を確保する必要があった。そのためには、いまなお無傷のまま残されている満洲国の産業設備の重要性が俄然高まっていった。スターリンは〔……〕米国の原爆使用によって日本が降伏してヤルタの密約が画餅に帰する前に、対日参戦を急がねばならなくなったのである。ソ連にとって幸運だったのは、この時期、日本が連合国との和平交渉の仲介をソ連に依頼していたことであった。日本はソ連を唯一の頼みの綱として和平実現の可能性に期待をつないでいた。むろんソ連は仲介する気などまったくなく、むしろ対日参戦の機会を狙っていた。ソ連の強かなところは、仲介を拒絶するわけではなく、かといって仲介の姿勢を示すわけでもない曖昧な態度を取り続ける日本側に淡い期待を持ち続けさせ、対日参戦まで戦争をできるだけ長引かせることにあった。すなわち、ソ連は日本の仲介依頼を逆手に取ったのである。」(13-14頁)
  • 日本の対ソ和平工作
    • 対ソ方針
      • 「鈴木内閣は戦争終結を模索しなければならなかった。対中和平工作が破綻した以上、最後の望みはソ連しかなくなっていた。5月11・12・14日の3日にわたって開催された最高戦争指導会議〔……〕で、対ソ方針として1対日参戦阻止、2好意的中立の獲得、3戦争終結への有利な仲介依頼、この3つが目標として定められた。」(19-20頁)
    • ソ連への見返り
      • 「さらに、これらの見返りとして、1南樺太の返還、2ソ連水域での漁業権の放棄、3津軽海峡の開放、4旧ロシアの勢力圏であった北満洲にある諸鉄道の譲渡、5内蒙古におけるソ連勢力範囲の容認、6旅順・大連の租借権の譲渡、さらに場合によっては千島列島の北半分の譲渡も認めるが、朝鮮の確保および南満洲の中立地帯化と満洲国の独立は維持することが合意された。」(20頁)
    • 広田マリク会談
      • 「日本としては劇的な大幅譲歩といえるものであって、これを受けて6月3日から元外相の広田弘毅と駐日ソ連大使ジャコブ・マリクとの間で交渉が開始された。しかし、その間の2月3日には沖縄戦が日本の完敗に終わり、交渉は捗らないまま29日には広田が日ソ不侵略を目的とした協定締結を提案し、満洲国の中立化、石油供給と引き換えにの漁業権放棄、さらにはソ連側が希望する条件を考慮することまで伝えたが、マリクは病気を理由にして応ぜず、交渉は頓挫した」(20頁)
    • 特使近衛文麿
      • 「対ソ和平交渉が暗礁に乗り上げる一方、ポツダム会談開催のニュースが伝わり、焦る日本政府は、近衛文麿天皇の特使としてソ連へ派遣し、直接交渉にあたらせることを決定した。しかし、7月13日に行われた近衛特派の申し入れに対してソ連はすぐに回答せず、ポツダム会談がはじまっていた18日なって近衛特派の目的は不明瞭なため回答できないと伝えてくる。事実上の交渉拒否である。だが、明確に拒否の姿勢を示していないところがソ連のしたたかなところであった。」(20-21頁)
    • 滑稽な和平工作
      • 「すでに対日参戦の腹を固めていたスターリンは、ポツダムで米国から確実な合意を得て、連合国の一員という大義名分によって参戦することを狙っていた。ポツダム会談では日本側から和平仲介の依頼があったことを米英首脳に暴露し、自身は仲介するつもりはまったくないことを明言していた〔……〕このように、日本の対ソ和平工作は悲壮を通り越して滑稽にすらなっていた。」(21頁)
  • ポツダム宣言ソ連が(最初は)加わっていなかったから、陸軍はソ連の和平仲介に関し、まだ望みがあると思っちゃった
    • 「陸軍の目的はできるだけ参戦を遅らせることだけであり、時間稼ぎだけの不確実な目的は、米軍を迎え撃つ本土決戦にソ連は静観してほしいという期待感の蔓延へとつながっていった。軍事的破局に直面した現実とソ連参戦という不気味な予兆のなかで、陸軍のエリート幕僚たちから冷静な思考が完全に失われていったのである。他方で、ポツダム宣言の内容には陸軍も大きな関心を持っていた。とりわけ、ポツダム宣言ソ連が加わっているかが問題とされたが、宣言にはその名はなかった。トルーマンソ連を無視して作成したものであって、これがスターリンの焦りを生んでいたことなど予測だにもできず、むしろ、ソ連は仲介する意志をまだ持っているとまったく逆の判断ミスを犯してしまったのである。」(24頁)
  • 明治憲法における閣議システム
    • 「8月12日の午後3時から開催された臨時の閣議で、天皇の発言に意を強くした東郷はバーンズ回答の妥当性を述べて宣言受諾を主張した。〔……〕一刻も猶予がないにもかかわらず、堂々巡りの議論が行われたことに対し憤懣やるかたない東郷は、鈴木に対して宣言受諾の単独上奏をする覚悟であると強い口調で訴えた。しかし、内閣の方針に反する単独上奏は、内閣府統一となり内閣総辞職に直結してしまう。〔……〕閣内不統一を絶対に回避しなければいけない鈴木にとって、この臨時閣議は閣僚たちの考えを把握し強硬意見のガス抜きを図る場であった。」(40頁)
  • 聖断のメカニズム
    • 天皇の五大権
      • 天皇は、国家の元首としての統治大権(国務大権)と陸海軍の大元帥としての統帥大権(軍令大権)、さらに栄典の授与を行う栄典大権という三つの大権を持ち、さらに、憲法には規定されない大権として、天皇家の家長としての皇室大権と神道の祭主としての祭祀大権という二つの大権、併せて五つの大権を持っていた。」(48頁)
    • 輔弼 (理念は天皇親政だが実態は天皇超政)
      • 「しかし、大権といっても天皇が自由に行使できるものではなく、とくに天皇大権のなかで最重要な統治大権と統帥大権は、それぞれ国務大臣(内閣総理大臣および各省大臣)と軍令機関の長(参謀総長および軍令部総長)が責任を負って輔弼するかたちを踏まえて初めて行使されるように憲法上規定されていた。すなわち、統治大権と統帥大権は天皇が好き勝手に行使できるのではなく、輔弼責任者の意見に沿ったものであることが求められていたのである(それゆえに結果責任天皇ではなく輔弼者が負う)。皇室典範と皇室例に規定されて宮内大臣が輔弼者である皇室大権も同様であり、天皇の個人的意志を制度上、自由に行使できるのは祭祀大権のみであった。」(48頁)
    • 天皇は、閣議決定がなければ、何も出来ない 終戦も同様
      • 「日米開戦の際の宣戦詔書は、輔弼者による閣議決定を経たうえで天皇の裁可によって発布された。すなわち、対米開戦は明治憲法に基づいた正当な手続きによって実施されたのである。そうして開始された戦争を終結させるためには、正当な手続きが必要であった。すなわち、戦争終結閣議決定がなければ、天皇はどのような考えを持っていようと何の決定も下せないのである」(51頁)
    • 「聖断」を発動させるには!?
      • 終戦時、鈴木内閣では阿南陸相が反対を続ける以上、いつまでも閣議決定はできなかった。戦後の首相と異なり、大臣罷免権を持っていない首相は閣議を主導することはできない。閣僚の一人でも反対すれば閣内不一致によって内閣は総辞職に追い込まれるからである。和平派の最後の切り札でもある鈴木内閣の総辞職は、そのまま本土決戦に直結する。それを避ける唯一の方法は、閣議で否決されるのではなく、議論が真っ二つに割れて、決定ができない異常事態になることであった。それによって初めて閣議を主宰する首相が天皇の輔弼者としての権限−すなわち天皇の聖断を仰ぐこと−を行使することができる。〔……〕鈴木首相は、こうした天皇が持つ政治権力の矛盾のなかで本土決戦派を押さえて戦争終結の聖断を引き出さねばならなかったのである。」(52-54頁)
    • 終戦ができずいつまでも長引いた理由
      • 「聖断が下されるまでに無駄ともいえる時間を徒に費やし、原爆やソ連参戦を経なければ実現されなかったことは、近年の研究でいわれているような指導層の優柔不断や自己保身が原因といったレベルの問題ではない。最大の原因は、天皇大権を軸としつつ実は巧妙に天皇の政治介入を排除した明治憲法体制が、天皇を輔弼すべき者が国家運営の責任を放擲し、セクショナリズムのなかで利益代表者として振る舞った場合、制度的に機能的麻痺が起るという根本的な欠陥を抱えていたことにある。」(54頁)
  • 民間人の切り捨て
    • 「日本では、外務省がポツダム宣言受諾を伝える一方、東郷茂徳大東亜大臣(外相兼任)の名でアジア各地の在外公館宛に暗号電信が送られていた。当時、満洲国を含めた中国や東南アジアの占領地は大東亜省の管轄にあった。アジア太平洋地域での日本軍の武装解除と復員については大本営の指令によって行われるが、民間人の保護と引揚については大東亜省の出先公館に委ねられていたのである。一般にはポツダム宣言受諾の通告と玉音放送によって戦争は終結したと捉えられがちだが、具体的な敗戦処理はここからはじまる。」(56頁)
    • 「〔……〕大東亜省は、ポツダム宣言受諾を伝えた暗号第715号の別電として暗号716号(最高度の機密を意味する館長符号扱)によって具体的な指示を伝えた。そこには、「居留民はでき得る限り定着の方針を執る」とされていた。すなわち、大東亜省は現地定着方針による事実上の民間人の切り捨てを行ったのである。また、電信では同時に、朝鮮人と台湾人について「何等の指示があるまでは従来通りとし虐待等の処置無き様留意す」とされていたが、「追て何等の指示」は結局この後も出されないまま彼等に対する保護責任は連合国側へ丸投げされた(三ヶ国宣言条項受諾に関する在外現地機関に対する訓令)」。(57頁)
    • 「〔……〕19日に内務省で、朝鮮・台湾・樺太に在住する民間人は、「出来る限り現地に於て共存親和の実を挙ぐべく忍苦努力する」との方針が決定されていた。〔……〕14日に大東亜大臣が発した通牒は、大東亜省管轄地域(満洲国・関東州および日本軍占領地域)の在留日本人が対象であったが、朝鮮・台湾・樺太を管轄する内務省もこれに倣ったのである(「朝鮮、台湾及樺太二関スル善後指導措置要領」)」(75-76頁)
  • 帝国日本崩壊後の朝鮮半島
    • 「日本の敗戦によって朝鮮の植民地支配は終わったが、朝鮮半島がこれからどうなるのかまったく見通しが立たない状況は変わらなかった。そうしたなか「解放」から3ヵ月も経った12月、モスクワで米英ソ三国外相会議が開かれ、暫定政府を樹立して最長五年間の信託統治の実施などからなるモスクワ協定が締結された。朝鮮の統一国家樹立は先延ばしとなったのである。」(96頁)
    • 朝鮮半島の「8月15日」−つまりは日本の敗戦と植民地支配の終焉は、朝鮮総督府が降伏文書に調印した「9月9日」である。しかしこの日は、日本の朝鮮支配の終わりであっても朝鮮解放の日ではなく、日本に代わって米国による支配が始まった日でしかなかった」(99頁)
    • 大日本帝国の崩壊後に朝鮮半島に生まれた二つの国家は、自らの力によってではなく、米ソ両国の思惑によって作られた。しかし、朝鮮民族を代表する国家としての正統性を自他共に認めさせるためには、互いの国家が、日本の敗戦と同時に自らの力によって独立を勝ち取って、35年にわたる植民地支配の屈辱を晴らしたとしなければならなかった。すなわち、韓国も北朝鮮も生まれながらに「建国の神話」を背負わなければならなかったのである。」(99−100頁)
  • 台湾(1) 近代的国民国家としての継承性
    • 澎湖諸島を除いた台湾本島が大陸の中華王朝の版図に組み込まれるのは、17世紀後半の清国時代になってからであった。その歴史はそれほど古くはない。〔……〕実質的には、日本の植民地となる以前の台湾人は清国による前近代的統治のみを体験してきたといえる。その清国は1911年に起きた孫文らによる辛亥革命によって崩壊し、大陸では中華民国が誕生した。〔……〕このような歴史的経験を経て台湾は、中華民国へ「復帰」する。だが、辛亥革命という歴史的大事件と、それ以降に中国本土で進んだ近代化を経験していない台湾人にとって「中華民国」は、何のつながりもない異国のようなものであった。一世代を超える50年という長い年月のなかで、多くの台湾人は日本経由の近代化を経験してきたのである。このことは、近代化によって形成される政治・経済・文化のあらゆる部分に関わる社会の仕組みや生活スタイル個人の思考様式が、日本と中国で異なる以上、台湾人の内面に大きな混乱を生じさせる結果につながった。また、国民政府側にとってみれば、三民主義すら知らない台湾人は政治的に未熟であって、彼らを大陸と同等の中華民国として扱うことは考えられないことであった。戦後になって台湾人のアイデンティティをめぐる悲劇は、まさにこの近代化経験の相違にあったといえよう。」(121-122頁)
  • 台湾(2) 台湾人意識の形成
    • 「1947年2月28日に「2.28事件」と呼ばれる台湾全島に及ぶ本省人による政治暴動が発生した。行政長官公署は事態の収拾に失敗。大陸からの軍隊増援によって1万8000〜2万8000人に及ぶ台湾人が無差別に虐殺され、とりわけ日本時代からのエリート知識層が大打撃を受けた。この事件を機に、本省人外省人の対立は構造化され、政治的弾圧のなかで本省人のなかに、大陸の中国人に対峙する「台湾人」意識が芽生えていく。」(131頁)
    • 大日本帝国の解体によって、台湾人は政治的主体性を獲得できると期待したが、大陸の国民政府は台湾の統治権をタ湾人には渡さなかった。結局、台湾人にとって「光復」は、支配者の交替でしかなく、台湾総督府台湾省行政長官と名を改めただけであったといえる。〔…〕台湾人のなかには、同胞と信じていた大陸の中国人に対する幻滅が広がっていくのと反比例して、日本人に対する親近感が高まっていった。〔……〕台湾人のあいだでいわれている「犬が去ったら豚が来た」(箸の上げ下げまで犬のようにうるさく監視する日本人が去ったら、今度は豚のようになんでも貪る中国人が来た。犬のほうが他人のものを盗らない分、豚よりまし)という言葉は、光復という美名の下に隠された台湾人の失望と日本に対する複雑な心情をよく表しているといえよう。」(132-134頁)
  • 満洲放棄(満洲の四分の三放棄 居留民退避させない)
    • 「米軍との沖縄戦が熾烈を極め、本土決戦も現実化しつつあった5月30日になって、大本営関東軍に対して「大陸命第1338号」によって戦闘序列を下命、あわせて「大陸命第1339号」によって朝鮮の第17方面軍とともに作戦任務を与えた。さらに、参謀総長梅津美治郎自らが大連に来着、関東軍総司令官山田乙三と支那派遣軍総司令官岡村寧次とのあいだで大陸命の趣旨徹底が図られ、本土決戦準備と和平工作についての現況も伝えられた。これ以後、関東軍は完全に戦時態勢へ切り替わり、当初の持久作戦計画に基づき全満洲の四分の三を放棄し、朝鮮北部を含めた満洲東部山岳地帯(京図線≪新京〔現在の長春〕−図們≫と連京線≪新京−大連≫の内側)における対ソ持久戦の準備が開始される一方、対ソ静謐方針に基づきソ満国境周辺のソ連軍に対して無用の刺激をしないよう細心の注意が払われるようになった。〔……〕関東軍内部では〔……〕「関東軍在満居留民処理計画」を策定、ソ満国境周辺の老幼婦女子の退避と青壮年男子の招集が方針とされていた。そして、戦時態勢へ移行した5月以降、この計画の実施が検討されたが、大本営からこの計画に対して、現地民の動揺を招きソ連軍の侵入を誘発する恐れがあると反対され、計画は頓挫していた。(「満州国内在留邦人の引揚について」)。」
  • 満洲国滅亡
    • 「17日21時頃から〔……〕張景恵(国務総理)・臧式毅(参議府議長)・橋本虎之助(祭祀府総裁兼参議府副議長)・武部六蔵(総務長官)・煕洽(宮内府大臣)ら各部大臣・各参議の他、吉岡安直(帝室御用掛)・前野茂(文教部次長)・荒井静雄(宮内府次長)ら満洲国政府首脳らによる重臣会議が開かれた。〔……〕若干の修正を経て可決された満洲解散詔書を持って、張景恵・臧式毅・橋本虎之助・武部六蔵・煕洽が〔……〕溥儀に謁見、重臣会議の結果を奏上した。溥儀は会議によって決定された退位を承認、ただちに簡素ながらも厳粛に執り行われた。皇帝退位と満洲国解散を告げる詔書を読み上げた溥儀は、張景恵以下列席者の一人ひとりと握手し別離の言葉をかけていった。なお、このときの詔書は、満洲国政府消滅により発表機関も失ったため、一般に公表されることもなく終わった。〔……〕8月18日午前1時過ぎ、大栗子満洲帝国皇帝溥儀は退位し、ここに満洲国はわずか13年5カ月で滅亡した。」(156-158頁)
  • 満洲における停戦
    • 玉音放送によって日本が負けたことは明らかになったが、大本営からの停戦命令がないため、関東軍ソ連軍との戦闘は依然として続いていた。〔……〕人間同士が直接対峙する地上戦は簡単には終わらない。関東軍は、参謀副長松村智勝を大本営に派遣し、停戦命令を強く要請、翌16日午後4時に大本営から即時停戦と局地停戦交渉および武器引渡を認める命令が届いた。これを受けて、午後8時から関東軍幕僚会議が開催され、即時停戦でまとまり、各部隊に停戦命令が下された。〔……〕このように16日には、ソ連軍と対峙していた前線の部隊に対して、総司令部から停戦命令が伝えられていた。だが、それぞれの部隊が命令を受領した日付はまちまちであり、戦闘は依然として続いていた。東部国境にあった虎頭要塞には民間人を含めた1900名が立て籠って抵抗を続け、戦闘が全員玉砕により終結したのは26日であった。」(162−163頁)
  • 満洲国と国籍・民籍
    • 「〔……〕満洲国は国家でありながら、国籍法が施行されなかったために、厳格にいうと国民は存在しなかった。満洲国にいる関東軍軍人や満洲国官吏から開拓団員にいたるすべての日本人は、日本国籍を持つ日本国民であり、満洲国民ではなかった。その代わり、満洲国は、1937年に制定された満洲国民籍法(日本の戸籍法)によって、在満日本人は日本国民であると同時に満洲国の民籍を持ち、満洲国の法規に従って満洲国政府の保護を受けることになっていた。そのため、通常は外国に居住する邦人保護を担当する各領事館は、満洲国政府の補助機関にとどまっていた。」(169-170頁)
  • ハバロフスク裁判と対日参戦の正統化
    • 「〔……〕関東軍首脳と幕僚をシベリアへ連行したソ連は、米国主導の東京裁判に反発、東京裁判の判決が下った後の1949年、独自に「ハバロフスク裁判」と呼ばれる戦犯裁判を行い、関東軍の侵略性を暴き立てた。ソ連としては、軍事的脅威も受けていなかった満洲へ中立条約に違反してまで侵攻した大義名分をポツダム宣言に求めても、米英中の諒解もない押しかけ参戦である事実は隠しようがなかった。満洲国を支配していた関東軍がいかに計画的にソ連に対する侵略意図を持っていたかを国際的に明らかにする必要があったからである。」(183-184頁)
  • 一般住民の戦闘参加 国民義勇隊
    • 「〔……〕樺太戦の特徴は、一般住民からなる国民義勇隊が実戦に参加したことである。国民義勇隊は、本土決戦を控え一億玉砕が叫ばれるなか、一般住民を地域・職域・学校などの単位で編成して、作戦の後方業務・警防補助・戦災復旧・重要物資輸送などに当らせることを目的として結成された。〔……〕6月23日に公布された義勇兵役法によって、15〜60歳の男子と17〜40歳の女子を対象として敗戦間際に編成が行われた。現実に本土決戦となった場合、否応なくほとんどの民間人は戦闘要員として戦闘に巻き込まれることになった〔……〕樺太では、ソ連軍の侵入によって「本土決戦」が現実にはじまり、樺太の一般住民で編成された国民義勇隊は、14日に軍の指揮下に入って国民義勇隊へと転移し、住民の一部は、日本刀や猟銃、竹槍などを武器として実際の戦闘支援に従事していたのである。」(206−207頁)
  • ソ連占領地域経済圏 樺太北朝鮮満洲
    • 「〔……〕樺太は戦前から米を生産できなかったため、主食を内地からの移入に頼っていた。残留した日本人にとって、日本と切り離されてしまったために移入が途絶した米の確保が大きな問題となっていた。その解決策として、ソ連満洲から大豆、北朝鮮から米を移入し、日本人への配給に充てたが、北朝鮮からは、漁業や林業、土木に従事する朝鮮人労働者も送られてくるようになった。敗戦からほどなくして、ソ連が占領した満洲北朝鮮樺太では、人やモノを通じた一つの経済圏が早くも生まれていたのである。」(214-215頁)
  • サハリン先住民
    • 樺太からの引揚船には、日本人に混ざってサハリン少数民族もいた。さまざまな理由から彼らは故郷を後にし、「祖国」日本へ「引揚」ていった。そのなかに、戦時中に対ソ諜報戦闘要員として敷香に近いオタスの杜と呼ばれるところに集住させられ、「土人教育所」で日本語による教育を受けていた。彼もそのなかで「帝国臣民」の自覚を持ち、同じ少数民族とともに対ソ戦にも参加、シベリア抑留からそのまま故郷へ戻らずに当然のようにナホトカから舞鶴へ引揚てきたが、迎え入れた「祖国」は、彼を「日本人」として扱わなかった。ゲンダーヌは、軍人恩給の認定を政府へ訴え続けたが最後まで認められず、網走に小さな少数民族の資料館と慰霊碑を建ててこの世を去る。」(216頁)
  • 植民地帝国である日本が欧米植民地支配を批判するために使ったロジックとは!?
    • 「〔……〕植民地帝国である大日本帝国が「東亜の解放」を唱える矛盾、その帰結は矛盾の根本にある朝鮮や台湾に自主独立の道を与えるのではなく、逆に「日本」にしてしまうことにつながっていった。朝鮮人や台湾人という独自の民族は存在しない。彼らは同化してすでに日本人になったという「皇民化」の論理はそこに求められる。大東亜共栄圏皇民化は表裏一体の関係にあったといえる。すなわち、朝鮮や台湾の植民地支配という自己矛盾を抱える日本にとって、大東亜共栄圏との整合性を維持するためには、朝鮮人や台湾人といった存在を消さなければならなかった。日本人を「内地人」、朝鮮人を「半島人」、台湾人を「本島人」と表面上、呼び名を変えて、彼らすべてを「帝国臣民」としたのである。〔……〕結局、大日本帝国の誕生から崩壊まで、ほとんどの日本人は日本人による日本人だけの帝国という意識を捨てきれなかったのである。」(222頁)
  • タイの曲芸外交 米英に宣戦布告したのに取り消しに成功する
    • 「〔……〕1942年1月には米英に対して宣戦布告をした。〔……〕日本の敗戦が決まった直後の8月16日に宣戦布告無効宣言を行った。一度は枢軸国に立って連合国と戦った国が、宣戦布告は強制されたものであって憲法上無効であると宣言をしたのは、タイだけであったが、米国はこれを受け入れた。」(229-230頁)