【用語メモ】植民地

国史大辞典より 
「植民地」 しょくみんち(浅田 喬二)

  • 概要
    • 他民族の居住している国土を軍事的、政治的に支配して自国の領土とした土地。第二次世界大戦敗戦前における日本の主要な植民地は、台湾、朝鮮、「満洲」(中国東北地区)、中国、東南アジアの各地であった。
      • 台湾は、明治二十八年(一八九五)四月、日清講和条約の調印によって日本の領有するところとなった。
      • 朝鮮は、明治四十三年八月、「日韓併合ニ関スル条約」の締結によって日本の植民地となった。
      • 満洲は、昭和六年(一九三一)九月十八日の柳条湖事件の勃発を直接的契機にして日本軍の全面的な軍事占領地となり、植民地となったものである。
      • 中国は、昭和十二年七月七日の盧溝橋事件の発生を出発点にして日本軍の軍事占領が行われ、植民地とされたものである。
      • 東南アジアは、昭和十六年十二月八日の太平洋戦争の開始を起点にして、日本軍による全面的な軍事占領の行われたところである。
    • 台湾と朝鮮は、日本の直轄植民地であり、満洲と中国は間接植民地であり、東南アジアは、日本の軍政実施地であった。
  • 支配体制
    • 台湾と朝鮮は、日本の植民地支配権力=総督府が植民地の最高権力者として設置され、この総督府の支配のもとに、植民地統治が実行された。台湾総督は、台湾の最高権力者であった。明治二十八年から大正八年(一九一九)までの二十四年間は、武官総督であった。大正八年から昭和十五年までの二十一年間は文官総督であった。昭和十五年から昭和二十年までの五年間は、再び武官総督であった。朝鮮総督は、朝鮮の最高権力者であった。この朝鮮総督は、日本が朝鮮を植民地として支配した三十六年間を通じて武官であった。つまり、朝鮮は台湾とちがって文官総督政治の時代がなく、終始、武官総督政治の時代がつづいたのである。
    • 満洲には、昭和七年三月、「満洲国政府」という日本の傀儡(かいらい)政権が樹立され、この政府が満洲を統治した。「満洲国」の最高権力者は、国務総理(中国人、日本の内閣総理大臣にあたる)ではなく、総務庁長官(日本人)であった。総務庁は、「満洲国政府」の人事・財政・行政に対して強力な統制力を有していた。「満洲国」の行政は、この総務庁を中心に展開された。「満洲国政府」の各部(日本の各省にあたる)の総長・大臣は中国人であったが、次長は日本人であった。この次長である日本人が各部の実権を掌握していた。
    • 中国には、昭和十五年三月、傀儡政権である「国民政府」(汪兆銘政府)が樹立された。この「国民政府」が日本の中国占領地の統治を行なった。ここでも特徴的なことは、汪兆銘が中国占領地支配の最高権力者ではなく、これを補佐するという名目で「国民政府」に派遣された日本人顧問が最高の行政権力者であった、ということである。
    • 東南アジアは、戦場であったがために、日本陸海軍人による軍政が実施された。ここでは、軍人が最高権力者であった。
  • 時期区分
    • 日本の植民地支配政策を時期別に特徴づけると、つぎのようなことがいえる。
      • 一九二〇年代における日本の植民地支配政策の重点は、台湾・朝鮮での産米増殖計画にあった。これは、日本の食糧(米)不足を解消するために、台湾と朝鮮を食糧(米)供給基地にしようとするものであった。また、台湾は、砂糖の供給基地としても、日本にとって重要な位置を占めていた。
      • 一九三〇年代には、植民地工業化政策が重点的に実行された。これは、植民地工業の軍事工業化を推進するためのものであった。この時期には、「日満ブロック経済」とか、「日満支ブロック経済」ということが高唱された。
      • 一九四〇年代は、日本の各植民地が軍事基地として重要な意味をもつ時期であった。台湾は、日本の南方進出の軍事基地として、朝鮮は、大陸兵站基地として、満洲は、日本の中国進出の基地として、また、ソ連向けの軍事基地として重要な役割を担った。中国と東南アジアは、戦場として、「大東亜共栄圏」確立のために重要な意味をもった。
  • 特色
    • 日本の植民地支配政策の特色は、「官治的内地延長主義」「同化主義的植民政策」といわれるものであった。これは、植民地社会の法制・言語・慣習・宗教などの「内地化」をめざすものであった。つまり、植民地の民族性の完全な抹殺政策であった。この同化政策の代表的なものとしては、朝鮮で強行された創氏改名皇民化政策がある。前者は、朝鮮人の姓名を強権的に日本式姓名にかえさせたものであり、後者は、朝鮮人を日本の天皇の「忠良ナル臣民」となす政策であった。