原敬日記について

次回から史料判読能力養成講座で読むらしいので概要をメモ。

国史大辞典より

  • 原敬日記 はらけいにっき (鳥海 靖)
    • 概要
      • 明治・大正時代の政治家原敬の日記。原敬は「はらたかし」と読むのが正しいが、日記は「はらけいにっき」と呼称されている。
    • 期間
      • 明治八年(一八七五)四―五月新潟から東京を経て盛岡へ帰郷する際の「帰省日記」に始まり、天津領事時代の「天津日記」(同十七―十八年)、パリ日本公使館在勤中の「巴里日記」(十八―二十一年)などから、官界時代・言論界時代を経て、明治三十三年立憲政友会結成に参画して以降の政党政治家時代に及んでいる。日記は、大正十年(一九二一)十月二十五日で終っているが、鉛筆のメモ書きは、原がテロに遭って不慮の死をとげる同年十一月四日の当日にまで至っている。
    • 内容
      • 内容は、明治二十年代までは比較的簡単であるが、政党政治家時代のもの、とりわけ立憲政友会総裁や内閣総理大臣時代のものは彼自身の日々の言動はもとより、公私の面談者との談話の内容や閣議その他の会議の様子など政界の最高機密にわたってきわめて克明に記されている。明治後期から大正期にかけての政情を解明するためのみならず、当時の政治家の思想や行動様式を理解する上でも第一級の貴重な史料といえよう。
    • 原本及び翻刻
      • 原本は和綴罫紙帳面八十二冊で、原の死後その遺言によって原家に保存されていたが、昭和二十五年(一九五〇)―二十六年原敬の子息原奎一郎の編により全十巻の『原敬日記』が刊行され(乾元社)、ついで、同四十―四十二年遺書・諸家来簡・索引など関係資料と併せて全六巻で再刊された(福村出版)。

日本大百科全書(ニッポニカ)より

  • 原敬日記 はらたかしにっき [金原左門]
    • 概要
      • 原敬の青年時代から首相時代に及ぶ日記。年代は20歳の1875年(明治8)から東京駅で刺殺された1921年(大正10)に及ぶ膨大なものである。遺書には数十年後はともかく当分の間は公開してはならないとあり、盛岡市原邸内の鉄筋コンクリート倉庫に29年間眠っていた。
    • 原本
      • 原本は和綴罫紙帖(わとじけいしちょう)82冊の量に上り、原の生前から樟(くすのき)製の木箱に納められ、幸いにも震災や戦災を免れ、第二次世界大戦後初めて『原敬日記』として公開された。
    • 刊行
      • 日記は二つの出版社から刊行されており、一つは乾元社(かんげんしゃ)版で、これは第一巻の青年時代から第九巻の首相時代(下)までの九巻構成で、1950年(昭和25)から翌年にかけての刊行である。
      • もう一つは、同じく原奎一郎(けいいちろう)編(六巻のみ林茂共編)で福村出版から65年より67年にかけて刊行された。五巻構成で、〔1〕官界・言論人、〔2〕政界進出、〔3〕内務大臣、〔4〕総裁就任、〔5〕首相時代、の区分である。さらに別巻の性格をもつ第六巻は、原の遺書・紀行文・句帖・思い出・西園寺公望(さいおんじきんもち)ほかの書簡・未発表写真等々の関係資料と、原敬年表・事件年表・人名年表、解説・総索引等々を収録しており、日記と比べて原敬の個人的側面を浮き彫りにしているところにその持ち味がある。
    • 内容
      • 原敬日記』は、ユニークな人生観をもつ原の青年時代から、言論人・官僚・外交官を歴任して中央政界に進出し、財界でも地歩をなしつつ政局内部で重鎮となっていく事情と実像を活写している。とくに政界で星亨(とおる)が斃(たお)れたのちに政友会の松田正久(まさひさ)・原敬時代をつくりだし、山県有朋(やまがたありとも)ら藩閥・元老を相手取って政党政治の舞台を築き上げ、大正時代に政友会の「黄金時代」を実現していく過程は、この日記を抜きにして語ることはできない。
      • また、「平民宰相」ともてはやされた原の政治力、「力の政治家」といわれた原のきめ細かい人間像なども知ることができる。さらに第六巻には私人としての原の人間味を彷彿(ほうふつ)させる興味深い資料が随所にみられる。
    • 評価
      • このようにこの日記は、原敬の剛腹さ・冷徹性・大胆さと細心さなど、政治の世界におけるその知性と性格・心情を余すところなく示すと同時に、明治から大正時代に至る政界の表裏の消息を伝え、その意味で日本の近代政治史を知るうえで比類のない資料である。

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