伊藤之雄『原敬』(講談社選書メチエ、2014年) 「原敬を考える意味−はじめに」および「第一部」(17-122頁)

原敬を考える意味−はじめに (17-28頁)

  • 本書の趣旨「原の第一次大戦後の新状況への対応」(18-19頁)
    • 「本書では、原の生涯をたどりながら、彼が第一次世界大戦後の新状況にどのように対応していったのかを見てみたい。そのことで、理想を持ちつつ現実的に対応する政治家原敬の実相がわかり、真の改革とはどういうことかを考えることができるであろう。」
  • 原敬の再評価 先行研究批判(21-22頁)
    • 「本書では、「公利」を重視した原の理念や政治活動をたどり、原に対する従来の評価も見直していきたい。原といえば一般に、普選即行に反対し、地方の鉄道支線の建設という公約を有権者に訴えること、すなわち地方利益誘導で選挙に勝利し、政友会の勢力を拡大した、と論じられることが多い。〔……〕三谷やナジタのように地方利益誘導を党勢拡大に利用したという論を立てる研究者は、原の理念や生涯の動向をすべてにわたって検討しようという姿勢が必ずしも十分でない。原が若き日の自由民権期以来、一貫して「公利」という概念を重視したことがとらえきれていない」
  • 第一の視点「鉄道政策・普選即行反対」(22頁)
    • 「本書では、「我田引鉄」とまで言われる原の鉄道政策の真の姿についても明らかにしていく。また、なぜ原が普選即行に反対したのかも、自由民権運動以来、原が人間や政治、運動をどう見てきたのかと関連づけて、考察していきたい。これら二つの問題を原の理念と統合させてとらえ直すことを、原を理解する第一の視点としたい」
  • 第二の視点「内政・外政」(24-25頁)
    • 「本書では、青年期からの原の外交観・内政観と、実際の行動を一貫して論じ、原が外交と内政のどちらを重視していたのかを、両者の関連も含めて考える。またそれを、原の理念と関連づけてとらえ直すことで、原を理解する第二の視点としたい。このことで原が外交を重視し、内政にも国際環境の変化を意識して対応するという姿勢であったことが明らかになるであろう。」
  • 第三の視点「原の人間性」(25頁)
    • a.「維新後の少年期の原が薩長藩閥に抱いた激しい怨念を、これまでと言われているのとは異なり、思想的には比較的早い時期に克服したことを明らかにしたい。」
    • b.「原が郷里の選挙区や盛岡市岩手県に対し、どのような政策や理念を発信し、鉄道建設などを実現していったのかについても、十分に検討したい。」
    • c.「原に絶大な支持を与え、彼の心の支えとなった盛岡市民・岩手県民の動向についても論じたい。」
    • d.「原を精神的に支え、くつろぎを与えた母リツ、二度目の妻の浅、姪の栄子、栄子の次男で原の嗣子となる貢ら、原と家族や親戚との関係について、離婚した最初の妻貞子も含め、目を向けたい。」
  • 本書の目的「原の理念と現実的手法」(25頁)
    • 「本書では、原敬について、青年期から晩年までできる限り多くの史料を読み、まず原を理解することを通して、原がどのような理念を持っていたのかを検討する。さらに、理念を実現するために、原はどのような現実的手法を取ったのかも関連づけて論じたい。」

第一章 維新後の没落−南部藩の少年の成長(30-50頁)

  • 南部藩「家老」の孫(30-32頁)
    • 第一章の趣旨
      • 「〔……〕原敬が生まれてから、明治4年(1871)に15歳で東京に遊学するまでの、少年期の原の成長を見ていく。〔……〕原の思想形成にとっても興味深い。」
    • 出生
      • 原敬安政3年(1756)2月9日に、南部藩側用人原直治・リツの次男として生まれた〔……〕原の家は本宮村(現在は盛岡市本営、盛岡市街から車で西へ十数分)にあった」。
      • 原敬は、南部藩のかなり裕福な上級武士の家の次男として生まれたのである。」
  • 太田代塾と父の死(33-36頁)
    • 太田代塾について
      • 「原は、5歳になるころの文久元年(1861)、2月ごろから約6年間、太田代清長の「寺子屋」の「手習い」に通った。太田代は本宮村に生まれ、寺子屋を始め、のち二度まで南部藩に下級役人として仕えたが、村人に求められて職を辞し寺子屋を再開した。」
      • 「太田代塾では午前中に手習いを、午後は読書を教えた。手習い本は千字文や消息往来で、武士の子弟には四書五経素読、農家の子弟には農業訓や商売往来など、女子には女大学や庭訓往来などを教えた。」
      • 「生徒は300人近くもあり、そのうち武士の子弟は14、5人、女子は6,7人で、その他は農民の子弟であった〔……〕本宮村に育った原は、幼いころから農家の子どもと学ぶことにより、武士以外の身分の人々に対して違和感をあまりもたなくなっていったようである」
    • 幼少期の原が気弱であったと評価することに対する異議
      • 「多くの人間は、青年や大人になって初めて物事の不安さや怖さを感じるようになり、臆病になる。少年原は普通の子どもより、感受性と理解力に優れていたため、早くから不安や恐怖を強く感じたのである。これは本当の大物政治家になる資質といえる。」
  • 小山田佐七郎塾で才能を示す(36-37頁)
    • 小山田佐七郎塾について
      • 「原は9歳になるころ(1865年)には、手習いの太田代塾に通うかたわら、小山田佐七郎の下で漢籍素読をはじめ、約6年間続けた。小山田は『春秋左氏伝』の講義で有名な儒者であったという。」
    • 母リツの影響
      • 「〔……〕父直治が亡くなった時、原は9歳、母リツは42歳であった。〔……〕リツは〔……〕子どもたちの教育にはきわめて厳格かつ細心であった。それを見て原は、母を悲しませてはならないと、常に努力し、また不正にかかわらないように努めた〔……〕原は同時代の大物政治家としては、きわめて質素な生活を送り、生涯を通じて金銭を不正な手段で蓄積しようとはしなかった。このような生き方には母の影響も大きかったと思われる。」
  • 寺田直助塾の「温順」で「怜悧」な少年(37-40頁)
    • 寺田塾について
      • 「11歳ごろになると、原は10歳以下の幼年生が多い太田塾をやめ、仙北組町(現・盛岡市)の寺田直助塾に移った。〔……〕寺田宿の売り物は、直助が前南部藩の御用筆で、玉置流(御家流から分かれた流派)の達筆であったことである。」
    • 小山田の下での漢籍素読の効果
      • 「寺田塾にかようかたわら、原は同町の工藤祐方に算術を約二年間学び、小山田の下で漢籍素読も続けた〔……〕小山田の下で約6年間の漢籍素読を習ったことは、その後の藩校「作人館」での学びや、那珂通高(戊辰戦争で休校する前の「作人館」教授の江幡五郎)の下での漢籍学習の基礎となり、原が歴史や思想を学ぶ土台を育成したのだろう」
    • 原の思想の源流
      • 「〔……〕原は19歳で分家する際に、属籍を士族とせず、あえて「商」を選んだ。また後に詳しく述べるように、20歳代前半の新聞記者時には、鷲山樵夫のペンネームで、中江兆民にフランス啓蒙思想を学ぶよりずっと前の、盛岡での少年期のエピソード(喧嘩に参加しない、集団暴行を行なおうとする下級武士に対し刀を引き抜いて躍りこむなど-引用者)からも、感情にまかせた非合理なものを拒絶する、という原の思想の源流を垣間見ることができる。」
      • 「正当な理由がないにもかかわらず、、集団の力を借りて暴行を働こうとする非合理なものに対しては、敢然と戦うという気魄が、10代前半のころに現れていることも注目される。原が将来気弱などではなかったことばかりでなく、理屈が合わないことには決して屈しない、という青年期以降の原の精神的弱さが確認される。」
  • 維新による南部藩の苦難(40-44頁)
    • 戊辰戦争後の南部藩の状況
      • 「〔……〕20万石を13万石に削減されて、白石(現・宮城県白石市)へ転封を命じられた。〔……〕原家は白石に相当の家を割り当てられたが、当主の兄恭(平太郎)はまだ16歳で、出発できずにいた。明治2年(1869)6月17日には版籍奉還が行われ〔……〕各藩主は旧藩の知事に任命された。〔……〕藩主南部利恭は、旧領の内、13万石の盛岡(南部)藩知事として、盛岡への復帰を許された。」
    • 原家の経済的苦難
      • 「同年(明治2年−引用者)12月には、士族の禄制が改正され、全国の士族は旧高の平均10分の1に禄(俸給)を減額された。原家は当主の恭(平太郎)がまだ若年で近習にすぎなかったので、中士に編入され、22石2斗を支給されるにすぎなくなった。開墾地の小作米も入らなくなった〔……〕高地格であった原家も、維新の変動で他の士族同様に経済的にかなり苦しい状況に追い込まれた。」
    • 薩長への怨念に関する解釈
      • 「維新の苦難に対して原が見せた感情は、同じ境遇にある者への同情や連帯意識と、この苦難を克服して再興しようという強い決意であった。薩長への強い怨念といった感情はあまり見られない。あとに述べるように、母リツの影響で原少年には大人顔負けの思慮分別が育まれていた。このため、人間の成長にとって後ろ向き志向になりがちな怨みの感情に、とらわれることが少なかったのであろう。」
  • 藩校「作人館」入校(44-45頁)
    • 作人館について
      • 「〔……〕明治2年(1869)8月1日から藩校「作人館」は再開の準備を始め、明治3年1月21日から本格的に再開した。原はこの時、「作人館」修文所に入校する。〔……〕原が「作人館」の生徒であったのは明治3年から4年までである〔……〕」
  • 「作人館」で歴史・思想を深める(45-47頁)
    • 作人館での学びがもたらした効果
      • 「〔……〕「作人館」時代の10代前半の原は、漢文の文章能力を磨くとともに、時代の大きな流れの中で諸事は変化していくという感覚を学んだはずである。文章能力は司法省学校などの入試科目に関連する。歴史的感覚は、のちに外務省に入り、フランスの公使館に派遣された時に、欧州諸国を理解するために、それらの国の歴史やそれと深く関連する西欧哲学を学ぶ土台となった。原は日本や中国の歴史や思想、西欧のそれを学び考えたことで、政治家となった際に、政治・外交の流れの変化を先取りして判断する特異な才能を開花させることができた。」
  • 「腕白」な「神童」の論戦相手の阿部浩(47-48頁)
    • 原の人格の変化
      • 「〔……〕原は「作人館」時代に寮に入ったことも加わり、11、2歳ごろまでの威厳があり落ちついているがおとなしい性格を脱却した。知的に自信を持ち、健康で、堂々と議論し、少し年長の人も含めた同年代のいろいろな人々との交流が苦にならなくなったといえる。」
  • 元服して敬と名乗る(48-50頁)
    • 元服期の原の評価
      • 明治4年(1871)〔……〕7月には元服し、幼名の健次郎をやめて敬とした〔……〕少年の原が円熟した大人のような思慮分別を持っていることと、士・農・工・商という近世の身分制下での意識を越える感覚を見せていることが分かる〔……〕原の分別は母リツの教えを深く受け止めて形成されたものといえよう。後年の原の性格の原型が見えてきた。この性格は、のちに外交官から政治家となるうえで、原の大きな財産となる。」

第二章 学成らざれば死すとも還らず−苦学・キリスト教・司法省学校(51-75頁)

  • 「作人館」から盛岡県洋学校へ(51-52頁)
    • 学校の制度的変化
      • 「明治3年(1870)7月10日、南部利恭は盛岡(南部)藩知事の職を辞任したので、新たに盛岡県が置かれた。このため明治3年閏10月に、「作人館」は「盛岡県学校」と改称され、〔……〕明治4年9月になると、盛岡県学校は和漢学を休業し、もっぱら洋学教育を行うことになり、盛岡県学校は盛岡県洋学校に編成を変えた。」
    • 原の進路
      • 「このまま盛岡県洋学校に留まり、普通科を卒業し、大学南校への進学を目指すか。盛岡県洋学校を退学し、東京で学ぶのか。」
  • 東京への旅立ち(52-54頁)
    • 原が上京を選んだ理由
      • 「原の決断を促進したのが、旧南部藩主南部利恭が明治4年(1871)8月に東京に移住し、共慣義塾という英語学校を設立したことであろう。原は、旧藩主南部利恭ら旧藩関係者が運営する、東京の英語学校で未来を拓くことに決めた。」
  • 苦学の中でキリスト教の洗礼を受ける(54-57頁)
    • 学費がなく塾を辞め、海軍兵学寮にも落ちる
      • 「原が東京にやってきたのは明治4年(1871)12月24日、25日ごろであろう。原はひとまず、那珂通高の塾に厄介になった。翌明治5年に洋学を学ぼうとして共慣義塾に入り、次いで斗南県(旧会津藩)人の岸俊雄家塾に入るが、いずれも長くいないでやめた。これは学費が続かなかったためである。〔……〕窮した原は、同年秋に、海軍将校養成の学校で官費で学問ができる海軍兵学寮(後海軍兵学校)を受験したが、不合格であった」
    • 原敬キリスト教
      • 「そこで原は同年(1872年-引用者)冬に、番町にあったフランス人マラン神父の神学校に学僕として住みこんだ。〔……〕1873年(明治6)4月に横浜に行き、4月12日に16人の日本人と共にフランス人フェリクス・エヴラール宣教師によって洗礼を受け(洗礼名はダビデ・ハラ)、同年冬にはエヴラールに従って摂津に行った。〔……〕最も大きな問題は、原は苦し紛れに屈辱を感じながらがもフランス人宣教師の学僕となり、洗礼をしたのか、積極的にキリスト教を信仰するようになったのか、などとのキリスト教との関係である。〔……〕原はエヴラールの人格に敬意を払っていたが、キリスト教は原にとって、生涯続く信仰になるものではなかった」
  • 新潟での原とエヴラール宣教師(57-59頁)
    • 原がつかんだ西欧文明を理解する本質
      • 「〔……〕1874年(明治7)4月21日、原はエヴラールに従って、新潟へ行った。〔……〕原は新潟の新聞に評論を投稿したが、文章に勝手に手を入れられたので、原稿を引き上げた。原は文明開化に関し、「半開の人民〔十分に深く物ごとをとらえられない人々〕は、外国の物や法・制度の「形体」を利用する「華色」のみを強く望んで、「精神開明」が在ることを知らない(『原敬関係文書』第四巻、20頁)と論じた。西欧文明の表面のみ導入しても仕方がなく、西欧の物や法・制度の根本方精神を理解しなければ、本当の文明開化はできない、論じたのである。この論は、異なった文明を理解する際に、今日でも当てはまる正当なものである。原はエヴラールの学僕として彼との交流を通して、キリスト教などを学び、18歳にして西欧文明を理解する本質的なものをつかんだのである。この原の主張は、数年後、フランス語を身につけた原が中江兆民からフランス語で西欧思想を集中的に学んだ後、『郵便報知新聞』の記者となり、さらに自分で西欧のことを幅広く学ぶ中で、原の思想として本格的に登場するようになる」
  • 外交・政治への強い関心(59-61頁)
    • 1875年に書いた原の文章の論点
      • 「1875年(明治8)になると、原は国防や国家のあり方、教育に関して、様々な文章を書くようになったようで、現在七点が残っている(『原敬関係文書』第四巻、21〜28頁)。」
      • 「原の主張として第一に、国防に関し、ロシアの南下策に伴う日本への侵略を警戒していることが目立つ。1875年5月7日に、日本はロシアと樺太・千島交換条約を結び、樺太をあきらめる代わりに千島列島を日本領として確保した。原はその3ヵ月前に、樺太を捨てることを提案している。それどころか、千島を欧米に売却して禍の因を減らし、北海道開拓の費用に充てることすら主張した(原敬「辺境論」上・下〔1875年2月・3月、同「北門論」〕)」
      • 「第二に原は、清国が国土も広く人口も多く、産物も不足していないのに、諸列強からしばしば辱めを受けていることを問題にし、国のあり方について論じた。清国がこうなった理由は、君主専制であり、君主が賢くなく、統治ができず、愛国者がいないからである、と主張した。原は開明の国〔日本〕が隣にあると論じているので、日本の維新後の改革をある程度評価しているといえる(原敬「送人游于支那序」1875年1月)」
      • 「第三に原は、天下の人材を養うには、まず父母が子や孫に及ぼす教育が大切であることを主張した。そこをおろそかにすると、どれほど可能性がある人材でも育たない、と原は論じた。〔……〕また教育に関し、父優先ではなく、父母両方を重んじていることが注目される。この姿勢は、その後も原の教育論を貫いている。原の女性観の原点に、母リツという賢くてしっかりした女性があり、原は当時の男尊女卑の風潮に流されていなかったのである。」
  • 外交官・海軍将校への道に失敗(62-64頁)
    • 原、分家の費用として学資を得、再び上京するも、これまた受験に失敗
      • 「1875年(明治8)、5月21日にエヴラールとともに盛岡に帰省して後、原は本宮村の家に滞在し続けた。〔……〕原は6月27日に分家し「商」と登記して平民となった。19歳2ヵ月の時のことである(原敬「浮沈録」。原誠「原敬追想」15、『新岩手人』10-4、1940年4月25日)。〔……〕原が「商」として平民を選んだのは、自分の中の士族意識と決別するための、意図的な行動であるといえる。原は分家する用事が済み、また学資の都合が兄の恭の「恵与」によってできたので、東京に行くことを決心した(「上京日記」冒頭、『原敬日記』1巻、6頁)。原は、10月18日に箕作秋坪塾(三叉学舎、英・仏学校教授)に入り、官費で学べる学校の受験準備を始めた。〔……〕その後、原は外務省の交際官養成のための生徒の試験や、海軍兵学校(四年前に不合格になった海軍兵学寮を改称)の試験を受けたが、いずれも不合格であったという(前田蓮山『原敬伝』上巻、167頁)。原は、外務省や海軍兵学校という、自分の興味に合った志望先の受験に失敗した」
  • 司法省法学校に入学する(64-65頁)
    • 原、ついに合格する。
      • 「〔……〕1876年(明治9)」7月3日に、官費でフランス語を通して司法官を養成する司法省法学校の筆記試験を受け、今度は合格した。その後、体格検査を経て、7月29日に最終合格者となった。〔……〕司法省法学校は〔……〕予科4年、本科4年の8年制になった。予科では、フランス書によって法学通論・歴史・地理・物理・経済学・数学・作文・フランス語会話を教え、本科ではフランス法を教える規定になっていた。」
  • 厳しい学業と政治・外交への満たされない思い(65-68頁)
    • 「〔……〕官費で学費はいらず、衣食住を保証されているのであるから、勝手に退学せず、また卒業後は15年間司法官を務めよ、ということである。原は入学時に20歳であったので、28歳で卒業し、43歳まで司法官を続けなければいけいない。〔……〕司法官にほとんど一生を捧げることになってしまう。〔……〕外交や政治に関心がある原にとって、それは望ましい人生ではなかった。〔……〕入校後5ヵ月経ったころ、原は「学業督責」はなはだ厳しく日々「課業に追い立てられ」、世の中のことに追いつく暇がなく、ついに「時務」〔当世の急務〕は8年間投げ棄てざるを得ず、心残りながら束縛された身なので、やむを得ないことである、と親友に描いている〔……〕原は勉強を続け、〔……〕少なくとも最初の1年間は好成績であった」
  • 司法省法学校の青春(68-69頁)
    • 「原は司法省法学校で、友人から人望と才能・知識のいずれの面でも優れていると認められた。また、「天下の形勢」など、時事問題にも相変わらず強い関心を持っていた」
  • 嫌気が差していた司法省法学校を退学となる(69-72頁)
    • 「〔……〕3年目の前期の成績は、65名中で40番(上から約62パーセント)に落ちてしまった。外交や政治に関心のあった原は、法学校での司法官になるための厳しい予備訓練を受けることに嫌気が差してきたためであろう。こうした状況下で「賄征伐」の事件が起きた。〔……〕法学校の学生たちは湯呑み所で連夜集会し、結局、大木喬任(佐賀藩出身)司法卿と面会することになった。委員を選挙し、原と河村譲三郎(滋賀県出身)・吉田義静(熊本県出身)の三人を選んだ。〔……〕結局、大木司法卿は「賄征伐」の首謀者たちを穏便に処置するという訓示を出したという。ところが、面目をつぶされた校長は、春期大試験後に原ら16名に突然退学を命じた〔……〕「賄征伐」の中心的人物として大木司法卿に面会した三人の中で、河村hは学校に残り、原と吉田が退学することになった理由は、成績の違いであろう。河村が65名中1番(253点)の成績だったのに対し、原は40番(162点)、吉田にいたっては63番(75点)である。〔……〕いずれにしても1879年(明治12)2月6日に、原は司法省法学制の免職(退学)を命じられ、それが東京府より原籍の本宮村役所に通達され、2月24日付で同村役所が公示した」
  • 退学への後悔はない(72-75頁)
    • 「法学校の退学からわずか2週間で、原は中江兆民の塾に入り、「フランス学」を学び始めた。〔……〕23歳を目前にした原は、自分を築こうと必死であった。司法省法学校を退学になったことについて、まったく後悔はなかった。後ろを振り返っている余裕などなく、目標に向けて前進あるのみだ。」

第三章 自己確立への模索−中江兆民塾から『郵便報知新聞』記者時代へ(76-102頁)

  • 中江兆民との出会い(76-79頁)
    • 約半年間の中江塾
      • 「1879年(明治12)2月6日、原敬は23歳になる直前に、「賄征伐」に関連して司法省法学校を退学させられると、同月20日中江兆民(篤介)の私塾に入った。原は中江塾に7月まで在籍し、フランス学を学んだ(原敬「浮沈録」『原敬関係文書』第4巻、47頁)。」
    • 中江兆民の思想との類似点
      • 「国民に権利を与える前に国民の成熟が必要であるという見解は〔……〕兆民の塾を経た後、原敬山梨県の新聞『峡中新報』や『郵便報知新聞』で、1879年8月から1881年にかけて展開する考えと同じ」
      • 「〔……〕『郵便報知新聞』時代に、原も「改憲主義」を主張しながらも、「旧制遺法」を破壊しようとだけするのは「改憲主義」の誤用であると論じている」
      • 「「公利」や「公衆の利益」追求という考えも、新聞記者時代以降、原敬の生涯に一貫して見られ、この時期から原自身が「公利」等という用語を用いた」
    • フランス啓蒙思想
      • 「原は〔……〕フランス語だけでなくフランス啓蒙主義の根本精神を学んだと思われる。それは、あるべき国家は、法や制度の整備のみならず、「公利」を追求する成熟して自立した国民によって支えられることが必要だ、という考えである。〔……〕こうした考えは、1879年8月から、『峡中新報』や『郵便報知新聞』で展開される原の主張の核となったのみならず、この後、原の生涯を貫く考え方となった。」
      • 「〔……〕各地樹の鉄道や道路建設などの「公益」を追求する潮流は、より広い地域レベルでは、各地域の「公益」としての地方利益を奪い合う、地域ごとの対立になりがちである。原は国家全体を考慮し、より広い「公利」を実現するという観点から、地域ごとの「公利」(地方利益)を抑制ながら調整した。」
  • 『峡中新報』への寄稿から郵便報知新聞社に入社(79-81頁)
    • 中江塾を辞めた原
      • 「〔……〕1879年(明治12)8月ごろより、『峡中新報』に鷲山樵夫のペンネームで寄稿するようになった。『峡中新報』は、山梨県甲府を中心とする峡中で、同年3月から発行された新聞である。〔……〕『峡中新報』に寄稿する一方で、1879年11月16日、原は郵便報知新聞社に入社した。この新聞は、東京で発行されていた有力紙で、のちに改進党に入党する大隈重信系の藤田茂吉が中心であった。〔……〕原が『郵便報知新聞』に署名入りの社説を初めて載せるのは、入社後約9ヶ月経った1880年8月3日である。」
    • 原が中江塾を辞めた頃の日本
      • 西南戦争の翌年、1878年自由民権運動が再興し、79年11月には大阪で全国的民権政社の愛国者第三回大会が開かれ、国会開設の署名を集めることが決議された。このように、民権運動が少しずつ高まってくる時期である。1880年4月9日には、大阪での愛国者第4回大会で、社名が国会期成同盟と改称され、国会開設に向けての運動がさらに強まっていった。」
  • 藩閥政府と日本の近代化(81-83頁)
    • 維新後10年の藩閥政府の状況と問題点
      • 「維新後10年ほどの間の藩閥政府は、近代化を進めて日本が列強の植民地にならないように安全保障をはかるという問題を抱えていた。また、列強なみの国として列強に認められ、欧米との不平等条約(関税自主権がない、領事裁判権があり、日本にいる外国人の裁判を日本の裁判所で行えない)を改正することは、安全保障との関連でも必要であった。問題は、近代化のための財源が不足していることと、議会運営なども含め、近代的な国家を運営する人材が不足していることであった。また、経験もないのに、欧米で200年以上かけて発達させてきた議会政治などの立憲政治を簡単に実現できる、と考えている知識人が少なくないことであった」
  • 藩閥政府の政策も評価(83頁)
    • 評価と批判
      • 「〔……〕明治維新後に藩閥政府が行ってきたことに対して一定の評価をした。〔……〕維新後、政府が中央集権の政策を取り、大改革を行ってきたのは、やむを得ない処置であった、と政府を評価した。〔……〕しかし原は、政府・府県の合理性のない政策に対しては、批判した。」
  • 旧武士の特権等を否定する(84-85頁)
    • 国民の自立と実業の重視
      • 「原は国民が自立心を持ち、国家的問題についての知識を得る一方で、実業に従事するような着実な生き方をすべきだと主張した。したがって原は、旧有力武士や華族豪農、官吏の特権意識や専横を批判した。原は貧富の差が拡大することも好ましいとは見ていなかった。」
      • 「〔……〕原は、商工業や地主・自作農などの農民が自立することを求めた。実業をよく知った彼らが政府と積極的に意見を交換し、彼らが中心となって政府を支える近代化を理想とし、武士が専横な旧体制を批判したのである。自分の出身である士族を否定したところに、近代国家形成にかける原の強い意志がわかる。原が平民となったのは、このためである。また、これから20年から20数年後に、原が大阪毎日新聞社長・古河鉱山副社長(実質的社長)として、実業にも情熱を傾ける背景もわかる。」
  • イギリスを理想とする(85-86頁)
    • 農産か工産か
      • 「1879年(明治12)11月になると、原は、イギリスを日本の工業化の将来の理想としてみるようになっていた。〔……〕イギリスは全ヨーロッパの中でも「農産」に乏しいが、「富国」という意味では欧州第一であり、それは「工産」に富むからである、と論じる。したがって、「工産」のほうが重要である、と原は断言した。」
    • 政党政治
      • 「〔……〕英・仏ともに政党があって国に利益を与えていることは明らかである、と原は結論づけた〔……〕政党について当時の日本の状況を、未だ「真正なる政党」はなく、国会論者が全国に興起するのを見れば政党があるようにも見えるが、それは互いに主義を持って争っているのではないことからも、政党とはいえないと考え〔……〕日本がイギリスのような政党政治を実現するのには、かなり時間がかかると確信するようになったのである。」
  • 国会開設論に転換(86-89頁)
    • 当初は国会開設に慎重
      • 1880年(明治13)4月9日に国会期成同盟ができたように、1880年初頭にかけて、国会開設を求める運動を中心に、自由民権運動が急速に盛り上がっていた。〔……〕原は、自立した国民がいないなら、国会を開けないし、開いてもうまく運用できず、予想外の害毒が生じる可能性がある、とも論じ〔……〕早期の国会開設に否定的であった。〔……〕11月になっても、原は国会開設を請願するなど、民権運動を行っている人々を、おおむね「無学無術」で、国会を利用して名利を得ようとしているだけで、天下の大事を託せる人たちではないと、批判的に見ていた」
    • 国会開設に転換
      • 「〔……〕1881年の3月10日前後になると、原は、政府は国会開設の方針を決めるべきだ、とはっきり主張するようになった。〔……〕原は、日本を欧米列強に対抗できる国家にするためにも、自由民権を推進し、国会を開設すべきだと考えたのだった」
  • 国会開設の準備としての府県会の役割(89-90頁)
    • 自立したブルジョワジー
      • 「原は、国会開設論にふみきる以前においても、自立した国民の意思形成の障害となるものとして、官吏の専横を挙げ、それを助長するものとして、官吏が「勲等位階」などをもって平民を蔑視することを指摘した。〔……〕自立した商工業者や農民が日本の近代化を支える中心となるべき〔……〕1879年(明治12)に府県会が始まると、原は各町村や各府県の意思を形成するには、その地域の自立した人々による自由な意見の交換が必要で、そのために「民権自由」が必要だとみなした。」
    • 藩閥政府への批判と評価
      • 「〔……〕藩閥政府による言論や社会・経済活動への不当な「圧制束縛」は、国民の自立した意思形成を抑圧する、と批判したのである。他方原は、藩閥政府が府県会や町村会を設ける方針を出し、それが少しずつ実現していることを評価した」
    • 府県会と地方自治
      • 「原は、日本が憲法を制定し、国会を開設して立憲国家となる一つの段階として、府県会が理性的で合理的な議論と議決を行い、府県民の民意を反映した方向が決まるようになるべきだと主張した。国会開設の準備として、府県会の活動や地方分権を重視していたのである。」
  • 維新後の天皇の権力と役割(91-92頁)
    • 著者(伊藤之雄)の明治天皇の捉え方
      • 明治天皇は、父孝明天皇が病気で崩御すると、慶応三年(1867)1月に14歳で践祚〔事実上の即位〕し、翌年15歳で明治維新を迎えた。維新政府の建て前としては、政治は天皇が「親政」「万機親政〔すべてを自ら決裁〕」すると公言されていたが、〔……〕少年天皇は、日本の統合の象徴としての役割を果たしただけであった。〔……〕天皇家や宮中に直接関わる奥の問題には、25歳前後から影響力を持ってくる。〔……〕天皇が表の政治に影響力を及ぼせるようになるのは、憲法発布の二年ほど前、天皇が34歳になった1887年頃からであった。それも、日常は表の政治への関与を抑制し、藩閥内等で政治対立が激しくなった場合に調停する、といった消極的な権利行使であった。」
  • 原の天皇・皇室論(92-94頁)
    • 1880年(明治13)5月 皇室についての「時論」を執筆す
      • 「〔…〕日本は「一系万世」の皇室で、「君臣の大義上下の名分一定して動か」ない〔……〕すでに「二千五百余年」の歴史があり、これを「万億年の悠久」に伝えるのみ、とも述べて、天皇・皇室が永遠であることも主張〔……〕皇室については深く心にかけておかなくてはいけない、とした。〔……〕もっとも原は、来るべき立憲国家の中に、天皇の政治的役割をどのように位置づけるかについては、はっきりとした考えを持っていなかった。」
  • 知識人の西欧思想の受け売りを批判(94-95頁)
    • 「精神独立せざれば自由に思考する」ことができず
      • 「原は民権派も含め、当時の知識人のあり方についても批判的だった。〔……〕西欧の受け売りだけでは、「精神の奴隷」であり、日本の現状に合わないのみならず、独自の思想を発達させている西欧と対等になることができない、と原は欧米に学ぶ際に注意すべき根本的なものをつかんでいた。」
  • 女子教育論(96-97頁)
    • 社会的性差(ジェンダー)
      • 「原は、男女は平等であるが、社会での役割分担での面では、〔将来はともかく〕まだ同権ということはできないと、主張した。それは、男子は政治・軍務などの「社会の公務」に従事し、女子は常に「一家の私務」に従事して、各々その本分を同じくしないのは、古来いずれの国においても「自然の法則」のようである、と考えていたからである。そこで、男子と女子の教育目的や内容は異なる、と論じる。女性は一家を調和し、児童を養育することが「婦人の美徳」であるので、女性の教育は急務だが、いたずらに「高尚の学課」を女子教育に取り入れることは、「女子をして婦人の性格を失はしめ」る恐れがある、と見ていた(『峡中新報』1881年4月8日、26日、27日)。」
  • 東北・北海道周遊(97-98頁)
    • 渡辺洪基に随伴
      • 1881年(明治14)、原は、元・外務省の官僚で、のちに東京府知事となる渡辺洪基に随伴して、東北・北海道を周遊する機会を得た。」
    • 原の問題意識
      • 「原が関心のあった、この時期の「地方の実況」とは、とりわけ、(1)国会開設を求める自由民権運動の実情を、それが立憲国家を作るためにどこまで着実なものかも含めて知る、(2)地方官と府県会の関係、(3)各地の産業の実情、(4)産業や思想の発達の基礎として重要な各地の交通事情と交通が開けない原因、等を探ることであったといえる。」
  • 東北・北海道周遊で確認したこと(98-100頁)
    • 原の地方民権家観
      • 「原の見解では、農商に志す財産がある者が政治思想を発達させない限り、「真の民権家」は生まれないのである。〔……〕原は地方人民のみならず、地方「民権家」の政治思想を未熟ととらえたが、県会や郡長公選を行い、不完全でも国会を開くことで、国民の政治思想を充実させていこうとしたのである。」
    • 原の北海道観
      • 「原は北海道の開拓に強い関心を示し、開拓地を見学した。そして、「北海道は浮遊の源なり、富を欲する者は北海道に行け」とまで、北海道開拓を推奨した。原は開発との関係で、交通に目を向けた。たとえば、札幌から室蘭に鉄道を建設すれば、室蘭から小樽港を経て、内地の各府県と函館を経由せずに物産の輸送ができる、と提言した。」
    • 原とインフラ整備
      • 「原は、船舶の発達が不十分で天候に左右されやすい条件の下では、将来は海運よりも陸運を発達させることに力を注ぐべきだと考え、そのうえで、鉄道と港の連絡にも目を配った。また交通が発達する利益について、産業面からのみならず、封建的旧慣を破り近代化を進める精神を育成することや、さらには安全保障の面からもとらえた」
  • 盛岡人・奥州人への思い(100-102頁)
    • 奥州人の誇り
      • 「事業については、「関西の人は政府に縁故多くして恒に資本より販売に至るまで政府の手を借り」るので、とても都合が良いが、奥州人はそれと異なり、ただ「自己の脳力」によって行う、と論じた。そこで、「実着の事業は奥州人の手に成るべし」と評価し、東北人の誇りを示した。その根拠の一つは、伊達氏が北海道の紋鼈(現・伊達市)開墾を政府に頼らずに行って、苦難の末に成功させつつあることだった」
    • 盛岡よりも仙台を重視したことから分かること
      • 「原は盛岡や東北に愛着と誇りを持ち、とりわけ盛岡に対しては、実業を着実に成長させ、堅実で自立した精神を持ってほしいと期待していた。しかし、東北の中心としては、郷里の盛岡ではなく、仙台がその役割を果たすべきと自然に受け止めて期待した。晩年の首相時代も含め、原は政治や社会の大きな流れを見極め、それに逆行せず、その流れに対応する最も良い政策を選ぶ手法を取った。その原の政治・社会観は、20歳代半ばには原型ができていたといえる」
  • アイヌ民族の可能性を見る(102頁)
    • 「〔……〕アイヌ民族の可能性を信じ、教育の重要性を説き、それも長期にわたって続ける必要があるとしたことは、大きな特色である〔……〕原はすべての人々に可能性があり、それは教育により生まれる、との信条を持っており、女性についても同様であったことは、すでに見た。当時の日本において最も劣ると見られていたアイヌ民族も例外ではなかった」

第四章 外交を深く考える−『大東日報』主筆(103-122頁)

  • 突然の明治14年政変(103-105頁)
    • 伊藤之雄が推測する原敬大隈重信に対する態度
      • 「原は『郵便報知新聞』の若手記者にすぎず、東北・北海道周遊に出かけていなくとも、政府中枢の限られた者しか知らない大隈の建言を知ることはないだろう。しかし、これまで述べてきた原の国会開設論など、立憲国家形成の構想や自由民権派への認識を考慮すると、大隈建言を原が知った場合、伊藤同様に現実味の無いものとして反発したはずである〔……〕原は中央政府が「最も急進なる民情」によって法令を作ることを戒め、地方の実情に合った政策を行うように主張した。またそれとともに、言外に、汽船・汽車・電信・郵便などの運輸・通信手段を発達させれば、中央と地方の「隔絶」の問題が緩和されると提言した〔……〕原の論は、大隈の建言の方向を言外に否定している」
  • 政変と原の国会開設論(105-107頁)
    • 伊藤之雄による、原が『峡中新報』で論じた明治14年政変に対する見解の解釈
    • 「原が初めて明治14年政変について具体的に論じるのは、政変が公表されてから6日後、10月18日の『峡中新報』社説においてである〔……〕原は東北・北海道周遊で、国民の政治思想は発達しつつあるが、未熟であると改めて感じ、大隈のように二年後に国会を開設し、政党内閣を作るといった極端な意見には賛同しなかった。しかし、民権派を中心とした開拓使官有物払い下げ批判の「輿論」の盛り上がりを評価し、国民が9年も待たずとも、政治思想を発達させることを見越し、準備ができれば少しでも早く国会を開設させることを望んだのである。続いて原は、『峡中新報』で10月24日から26日にかけて、政党について論じ、政党を組織すべきだと主張した。」
  • 郵便報知新聞社を退社(107-109頁)
    • 郵便報知新聞の転換
      • 1881年(明治14)12月27日、明治14年政変で大隈を追って下野した矢野文雄(前統計院幹事兼太政官大書記官)が、以前から遊便報知新聞社にいた藤田茂吉と共同で、小西義敬・行岡庄兵衛から同社を買収した。〔……〕矢野が『郵便報知新聞』を引き受ける前から、原には退社の意思があったが申し出る機会がなく、藤田らも懇切に接してくれたので、退社を引き延ばしていた。矢野による同社の「改革」が行われたので、それが退社の動機となった、という〔……〕矢野による郵便報知新聞社の「改革」とは、上局院と下局院という制度を作り、原が非幹部である下局に入れられたことだけではない。大隈直系の矢野社長一派が同社の主導権を握ることによって、それまでの幅のある論調が大きく変わったのである。〔……〕原は、日本の現状を考え、9年後の国会開設を歓迎し、その準備に官民一致して全力で取り組もう、と主張している。矢野一派により統一された社論は、原にとって受け入れられるところではない」
  • 大東日報社に入社する(109-110頁)
    • 大東日報社は立憲帝政党系であり、報知新聞社とは対立するが、原の主張は一貫的
      • 「原が1882年(明治15)4月の大阪で発刊することになる立憲帝政党系の新聞、大東日報社に入った〔……〕大東日報社は藩閥政府系新聞社である〔……〕『大東日報』の発刊号に、原は大東日報「入社の理由」を掲載した。それによると〔……〕原が対立する新聞に移ることになっても、かつての自分の言説に責任を持つ、誠実な人間であることがわかる。また、原は「自由民権〔国会開設〕」を願うようになったが、常に「過激の論、急躁の説」を嫌い、藩閥政府にも「進歩」「開進」性を認めていたことなどから、原の主張には一貫性があった」
  • 原の主張と類似した基調(110-112頁)
    • 『大東日報』社説の特徴
      • 「『大東日報』の社説等の論説記事には、原則として執筆者の署名がない。原の署名記事が初めて掲載されるのは、入社後約4ヶ月半経った1882年(明治15)8月18日の社説「朝鮮論(第一)」である。〔……〕同紙の社説の内容を検討すると、原の主張と類似したものと、それと異なるものとの、二つの基調があることがわかる。」
    • 原の主張と類似した社説
      • 「〔……〕国民の政治参加要求として、国会開設を求める「自由民権」を達成すべき目標とし、政党(「自由民権」派)と藩閥の間や、政党相互で合理的な議論を行って政策を決めていくこと」
      • 「〔……〕民権運動側の「過激の論」や「急躁」「軽躁」の論や行動を批判し、かつ藩閥政府側が合理性のない政策を専制的に行うことを批判するものであった。」
      • 「〔……〕原は維新以来、藩閥政府が改革的政策を専制的に行うことを批判するものであった。同時に、原は維新以来、藩閥政府が改革的政策を行ってきたことを評価した。民権運動側(国民)も藩閥政府も、現実に根差した改革的姿勢を維持し、合理的な相互批判を行いつつ連携し、秩序を持って漸進的に日本の近代化を進めていくことを、主張するものであった」
      • 「〔……〕「公利」という用語を使い、「公利」が「私利」より重要である強調する」
      • 「〔……〕キリスト教を信じることと、愛国心を持ち「国体」を信じることは両立できる」
    • 原の主張と異なる社説
      • 「〔……〕原の考えよりも保守的なもので、イギリスの政党政治を理想とし将来の目標とするというより、それに否定的なものである。イギリスと日本との差異を強調するものであった」
  • 外交観と条約改正論(112-114頁)
    • 『峡中新報』における外交論
      • 「まず原は、政府が琉球沖縄県を置き、近世以来、清国との間で帰属が確定していなかった琉球が、日本の所属であることをはっきりと示したことについて、日清関係のような外交上の機密に関することの判断は、基本的に政府に任せるべきだ、と論じた。帝国主義時代の国家の外交政策の決定は、万一の戦争をも覚悟したものでなければならない、と原は論じる。(『峡中新報』1879年9月2日)。しかし、それに対し外国から異議が来たといっても、すぐに戦争云々を論じるのは軽率で意味のないことだ、とする冷静なものでもあった。」
    • 伊藤之雄氏は、原が失敗したとしても、他の勢力の失敗事例を挙げて、原を擁護する叙述が多い
      • 「1879年(明治12)12月段階で、原は条約改正に関し、改正の期限は過ぎており、また法の準備も十分であるので、改正実施の時期が来ていると見て、地方の人々に条約改正の意味をよく理解させる必要がある、と論じた。この原の見通しは、他の自由民権派の人々と同様に甘かった。しかし〔……〕日本国内で対外情報が最も入る藩閥政府ですら、条約改正の困難さを十分に理解していなかった。原の現状認識が日本の中で特に甘かったわけではない。」
    • またしても原擁護
      • 「〔……〕このころ原には、不平等条約は、条約を結ぶ際に日本に十分な軍事力と、それを支える国力や知識がなかった結果であり、日本が軍事力も含めて国力をつけ、何か列強に利益を与えないと、関税自主権を回復することは困難である、との洞察はない。また、治外法権の撤廃の問題は、日本に西欧のような法律を整備しないと難しい、との見通しもない。これらは、その後の条約改正交渉の中で、日本政府がはっきりと認識していくものである。外交官として条約改正に関与したわけでも、訪欧経験があるわけでもない原には、この段階で条約改正への的確な見通しを得ることは無理であった。〔……〕それでも、原のすぐれたところは、条約改正という列強のとの交渉を伴う専門性の強い問題について、少し後に自由民権派が主唱するように、国民の力を結集して政府を突き上げて完全な改正を実施すべきだ、というような煽動的発言をしていないことである。原自身は、自分が条約改正について十分掌握していないことや、国内の論理だけで改正ができないことを感覚的には理解していたといえよう。」
  • 朝鮮国についての原の署名記事(114-115頁)
    • 壬午軍乱と原
      • 「原は、『大東日報』入社後約4ヵ月半経った1882年(明治15)8月8日から9月6日にかけて、朝鮮国関係の記事を集中的に書いている。これは新聞記者になって国際関係や外交の勉強を積んで、自信がついてきたと思われる7月23日に、漢城(現・ソウル)で壬午事変が起こったことによる」
  • 壬午事変への対応についての原の原則(115-117頁)
    • 原による壬午軍乱の分析
      • 「原は、8月上旬までの『大東日報』の社説で、壬午事変に関し強硬論を求める黒田清隆らの潮流を、これまで日本が採ってきた征韓論を否定した朝鮮国への外交路線から外れる、と批判した〔……〕原は朝鮮国を植民地化しようとするのではなく、近代化しようという姿勢であり、列強との関係も重視していた」
    • 原による政府への4つの要望
      • 「朝鮮国に向け若干の軍艦を派遣し、日本公使を保護して「充分に平和なる談判」を試みるべき」
      • 「日本公使を襲撃したのが「乱民」の行為であり、朝鮮国政府が関知していないなら、その乱民を「誅戮〔罪に処して殺す〕」させるべき」
      • 「「乱民」がもし「暴威」をふるってすでに朝鮮国政府を倒して、政権を取ったのなら、「平和の談判」を行うことをやめるべき」
      • 「日本公使の襲撃に「乱民」のみならず朝鮮国政府も関与していたなら、「平和の交際」はすでに断絶したと考えて、これへの対応をすべき」
  • 井上外務卿と下関に同行した後の朝鮮論(117-119頁)
    • 基本的には政府主流派と同調しているという評価
      • 「井上外務卿が馬関(下関)に行く際、8月6日から15日まで原は同行した。〔……〕原は8月18日から3日間、『大東日報』に社説「朝鮮論」を掲載した。〔……〕原は井上外務卿に同行したことで、日本政府の方針を十分に理解し、外交についての自分の見識と融合させて記事を書いている」
    • 原擁護
      • 「23日から、原は社説「続朝鮮論」を4日間連続で連載し、朝鮮国政府の内情について考察した。〔……〕朝鮮国内の閔氏と大院君の政争は権力争いだ、と原はその一面を正確にとらえているが、漢城における反日の空気に影響されて大院君が日本に対決的になっていることまでは、見通せていない。これは、当時の日本政府においても同様であり、日本と朝鮮国の間に電信すらない当時において、刻々と変わる漢城や朝鮮国政府の状勢をとらえることは困難であった。」
  • 大東日報社を退社し外務省に入る(120-122頁)
    • 大東日報社の内部の紛議
      • 「〔……〕大東日報社中には、国内政治に関しては、原のようにイギリスの政党政治を理想とし、将来の目標とする論調と、それに否定的な論調があった。一方、朝鮮政策に関しては、清国や李鴻章の実力を評価し、列強の動向にも配慮したうえで、列強から見られていることも意識して慎重に朝鮮国の近代化を促進していくべきだという、原のような立場が主に報じられた。これは井上馨外務卿ら藩閥政府主流の外交政策であった。しかし他方で、清国の力を軽んじ、二つの独立国である日朝間の交渉に清国は関与すべきでない、との原則的立場を強く主張する論調もあった。この主張は、将来的に日清戦争が起きてもやむをえないとのニュアンスを含んでいた。」
    • 伊藤之雄氏は原の外務省入りを積極的なものだとして高評価している
      • 「〔……〕10月31日に原は東京に出発し、11月21日に外務省御用掛(准奏任、月俸80円、公信局勤務)を命じられた。交際費こそないが、大東日報社時代と同額の月俸を受け、悪い待遇ではない〔……〕この任用について〔……〕原が大東日報通信員として、〔壬午事変の際、〕井上外務卿・斎藤修一郎(福井藩士の子、外務少書記官)・中田敬義(公信局)らに同伴し、まもなく斎藤の周旋によって外務省御用掛となった〔……〕すなわち原は、大東日報社が思ったほど居心地の良い場所ではないとわかり、外交に強い関心がでてきたこともあり、たまたま知り合った斎藤をつてと頼って、外務省入りをしたのであった。〔……〕外務省に入った原は、本来あるべきコースに乗ったと考え、精神的な余裕も出てきたのであろう。26歳の原は、ようやく書生的な下宿生活を脱却したのであった。」