原敬論(004) 桂園時代〜山本権兵衛内閣における原敬

  • 桂園時代と原敬
    • ポーツマス条約後の日比谷焼打ち事件で第一次桂内閣が倒れ、第一次西園寺内閣が成立。この時、原敬は入閣して内相となる。原敬は郡制廃止問題で山県と争うが成立せず。1908年5月の選挙で政友会は過半数を占めるが、西園寺が政権を投げ出したことから総辞職。第二次桂内閣を経て第二次西園寺内閣でも原は内相。この時、1911年に中国では辛亥革命が発生、1912年には清朝が滅び、明治天皇崩御した。中国に干渉するため、山県は二個師団増設を要求。増師が認められなかったので、上原陸相は辞任し、後任の陸相を得られず第二次西園寺内閣は倒閣された(軍部大臣現役武官制の倒閣機能)。その後、桂に組閣命令が下るが、憲政擁護・閥族打破の護憲運動が展開される。大正天皇から西園寺に護憲運動沈静化の詔勅が出されるが尾崎行雄ら政友会幹部を止めることはできず、桂は総辞職した。
  • 山本権兵衛内閣と原敬
    • 長州閥の桂に代わって薩摩の山本に組閣命令が下る。閥族打破を唱えて桂内閣を倒したのに、藩閥の一人である山本内閣に内相として原ほか政友会員が入閣したことに批判が高まる。しかし山本内閣では、軍部大臣現役武官制の改正、二個師団増設の凍結、行財政整理を推進。原内相は文官任用令を改正した。
    • 原が山本内閣で内相だった時、政友会有力者の松田正久が死亡。桂も死亡。西園寺は病気。原の権力が相対的に高まる。
    • ところがジーメンス事件発生。政友会と山本首相ら薩摩閥に追い詰められていた元老山県と山県系官僚は権力回復のチャンスであり、貴族院における反対で1914年3月に予算案が不成立となり、山本内閣は総辞職した。
    • この後、桂新党の同志会を与党とする第二次大隈重信内閣が成立し、原は対決していく。
  • 1907年 原敬2度目の北海道視察
    • 1906年、北海道長官に政友会系の河島醇の赴任。河島は「北海道第一期拓殖計画」を立案(1910年から実行に移される)。北海タイムスの8月6日の論説「河島を訪ふ」では、河島の原への期待が紹介されている。原が視察で留萌・増毛などの港湾を実地に訪れれば計画が進展するであろうと紹介されている。