【シベリア】 ダークツーリズム シベリア抑留の墓参りツーリズム

  • ダークツーリズムとは何か?
    • ダークツーリズムとは戦跡や墓地などのような死と関連付けらる場所への旅を指します。そこに死を認識できるかという旅行者の主観性に左右されることもあり、墓参りや慰霊もダークツーリズムとして位置づけられるかという議論もありますが、人々が移動するプル要因となっていることもまた事実かと思います。今回の報告では冷戦体制崩壊後に行われたシベリア抑留経験者による現地訪問が扱われました。そのため長勢了治『シベリア抑留』(新潮選書、2015)におけるシベリアの墓参に関連する箇所をまとめておくこととします。

長勢了治『シベリア抑留』(新潮選書、2015)におけるシベリアの墓参に関連する箇所

ソ連/ロシアへの墓参
  • 冷戦期における墓参状況
    • ソ連から昭和34(1959)年11月〜昭和49(1971)年7月まで5回にわたって通知されたのは、わずか26ヵ所の墓地と3957名の埋葬者であった……日本政府が把握していた埋葬地約330ヵ所、死者5万3000人からしてまるで少ない数字だった。昭和36(1961)年4月以降、これらの墓地への墓参が遺族に許されるようになったが、26ヵ所すべての墓参が実現したのは28年後の平成元(1989)年である。(p.289)
  • ゴルバチョフと「捕虜収容所に収容されていた者に関する日本政府とソ連政府との間の協定」
    • ソ連……に変化が現れたのは、ミハイル・ゴルバチョフが昭和60年にソ連共産党書記長に就任してペレストロイカとグラスノースチを進めてからである。ソ連大統領ゴルバチョフが来日し、平成3(1991)年4月18日に「捕虜収容所に収容されていた者に関する日本政府とソ連政府との間の協定」が締結された。この協定により、抑留中死亡者の資料、墓参、墓地調査、遺骨収容などに関する基本的な枠組みが定められ、ソ連地域での遺骨収容と新たな埋葬地への墓参、慰霊碑の建立が可能となった。このとき約3万8000人の死亡者名簿(ゴルバチョフ名簿)と549枚の埋葬地資料が提供され、日本国内できわめて大きな反響を呼んだ。……このあと政府、抑留者団体、個人によるソ連各地の墓地への墓参が、毎年のように行われるようになった。(pp.289-290)
モンゴルへの墓参
  • 1966年から漸進的に始まる
    • 未帰還者問題協議会の努力で昭和41(1966)年に初めて遺族がウランバートルとスフバートルに墓参した。昭和47(1972)年にも墓参が行われ、昭和57(1982)年にはダンバルダルジャに墓標を建てた。日本政府が平成3(1991)年2月に埋葬地資料の提供、遺骨収容、墓参の実施について申し入れたのに対して、モンゴル政府からは同年3月、墓地16ヵ所、1597人の死亡者名簿が提供された。この名簿は死亡者のかなりの部分をカバーしていた。平成5(1993)年からは、モンゴルの新たな墓参が実現した。(p.290)
鮮満への墓参
  • 北朝鮮
    • 平成24(2012)年になって北朝鮮側の政治的思惑もあり、一部の墓参が許されるようになった。(p.290)