- シベリア ハバロフスク裁判
- 731部隊をめぐるはなし。いわゆるハバロフスク裁判で、ソ連は山田乙三から731部隊の証言を吐かせようとした。731部隊の研究成果はアメリカが全て接収してしまったからである。アメリカは研究成果を得たため、731部隊は不問となっていた。だが、山田乙三は聞かれたことには明確に答えたが、731部隊についての詳細は知らなかったようであるとのこと。731部隊の医者たちは抑留される前に脱しており、戦後は出世して国立大学の医学部の教授となった。『赤い牢獄』では山田乙三の受け答えが扱われているとのこと。近年のNHKの特集ではソ連側に同情的だったとのこと。https://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2892014/index.html
そもそも山田乙三って誰やねん!?ということで国史大辞典。
『国史大辞典』より
- 山田乙三 やまだおとぞう (森松 俊夫)
- 一八八一 - 一九六五 明治から昭和時代前期にかけての陸軍軍人。明治十四年(一八八一)十一月六日、長野県に市川確の三男として生まれ、のち山田家を継ぐ。三十五年陸軍士官学校騎兵科卒業(第十四期生)。騎兵第三連隊付で日露戦争に参戦。四十五年陸軍大学校卒業後、諸学校の教官を歴任して、大正十三年(一九二四)騎兵第二十六連隊長、以後、朝鮮軍参謀・参謀本部通信課長。昭和五年(一九三〇)少将昇進後は騎兵学校教育部長・騎兵第四旅団長・通信学校校長・参謀本部第三部部長・参謀本部総務部長を各一年間ずつ勤め、十年十二月陸軍士官学校校長となる。第十二師団長を経て関東軍の最重要正面である第三軍司令官となり、十三年十二月から中支那派遣軍司令官として作戦軍を統率した。十四年十月以降は長く教育総監を勤め国軍の教育に功績があった。十五年八月陸軍大将。十九年七月関東軍総司令官となったが、翌年八月対日参戦したソ連軍に進攻され、三十一年までシベリアに抑留された。四十年七月十八日没。八十三歳。墓は東京都渋谷区神宮前二丁目の慈光寺にある。法名清規院釈大乗居士。
- [参考文献]
- 日本近代史料研究会編『日本陸海軍の制度・組織・人事』、棋本捨三『将軍の四季』、額田坦『陸軍省人事局長の回想』