(1)シベリア抑留とは何か
(1)-1.抑留の概要
- 主要参考文献
- 富田武『シベリア抑留者たちの戦後』
- 長勢了治『シベリア抑留全史』
- なぜ研究がなかったのか?
- 1.資料的な問題 ロシア側の文書 そもそも公開されていなかった ロシア語が読めてロシアに行けても無理だった ペレストロイカ以降資料公開が進み研究が促進
- 2.90年代以降もロシア語ができる人がロシアにいって研究することはなかった。日本史研究者はロシア語ができない。研究テーマになりにくかった。抑留されたのは日本人ばかりなので体験談が2000冊以上、雑誌掲載はそれ以上。これは思想的な問題であり、抑留関係者の体験記、抑留者の運動には注目しない。日本史研究者はソ連がやった悪いことをテーマにすることじたいが、歴史のテーマとして好ましくないという風潮があった。日本史研究者の側で研究が進まず。抑留体験者のなかで名簿を作ったりした。
- 上記長勢氏は歴史研究者ではないので、著作物の内容も検討が必要である。
- 抑留を決定したソ連側の経緯
- ソ連がやったことは悪いし、間違っている。
- 当該教授の不満
- 捕虜は兵士 会社員は捕虜になれない シベリア抑留では連れていかれた人のなかに兵士以外の民間人が含まれる。
- 用語説明
- 暁に祈る
- → 日本人の将校が幅を利かせて一般兵を働かせていた 罰を与えることも 将校が兵を縛り付けて外に放置 朝になったら祈るようなかたちで死んでいた。
- 吊るし上げ
- → 民衆運動でのパターンは、吊るし上げられるのは将校 一般兵士から糾弾されて吊るし上げられ地位を失う さらに民主運動の側からみて思想が正しくない人は吊るし上げられる 社会主義に目覚めるか目覚めないか はじめと後半では様相が変わる 最終的にはまた逆転が起こり 民主運動で弾圧されていた人々が帰りの船の中で逆に吊るし上げられる
- 暁に祈る
- 大部分は関東軍兵士、一部は民間人(官僚、社員)、女子を含む。
- 50年4月までに短期抑留者が帰還、56.12(日ソ共同宣言/日ソ国交が回復)までに長期抑留者が、帰還
- 抑留者の人数